世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

装飾古墳は語る(10)・清戸迫横穴墓

2023-03-05 08:16:04 | 装飾古墳

不定期連載として掲載した過去9回分をレビューしておく。

 第1回目 装飾古墳は語る(1)・装飾古墳概論

 第2回目 装飾古墳は語る(2)・竹原古墳

 第3回目 装飾古墳は語る(3)・王塚古墳

 第4回目 装飾古墳は語る(4)・梶山古墳

 第5回目 装飾古墳は語る(5)・穴神1号横穴墓

 第6回目 装飾古墳は語る(6)・五郎山古墳

 第7回目 装飾古墳は語る(7)・日ノ岡古墳

 第8回目 装飾古墳は語る(8)・弁慶ヶ穴古墳

 第9回目 装飾古墳は語る(9)・千金甲1号墳

今回は、清戸迫76号横穴墓をとりあげる。

<彩色系壁画古墳>清戸迫横穴墓 福島県双葉町 7世紀前半

清戸迫76号横穴墓は、300基以上ある横穴墓群の一つ。1967(昭和47)年11月発掘調査した際に76号横穴墓から玄室奥壁に保存状態のよいベンガラによって描かれた壁画が発見された。当該壁画横穴墓は、現在判明している彩色壁画のうちの北限にあたるとされている。

(福島県立博物館公式Twitterより転載)

この壁画で注目すべきは、大きな渦巻き文である。この渦巻き文に何某らの意味があるのか、ないのか、文様は何でも良く、たまたま渦巻きを描いた・・・との見方も出来なくもないが、やや無理筋の見解であろう。やはり何某かの意味なり、願いを込めて描いたものと思われる。

以下、Wikipediaからの転載である。同横穴墓は、南東を開口部とし、残存の全長約2.6m、入口から奥壁まで3.15m、高さは1.56m、奥壁の横幅は2.34~2.8mの平面が隅丸方形である。

壁画に描かれているものは、正面左側の人物は冠帽や美豆良(みずら)が見られ、袴を着用し靴を履いている。 正面中央には7重の右回り渦巻文が描かれているが、これが何を象徴しているのかは、不詳との見方もある。渦巻文右側の人物は冑(かぶと)をかぶって左手を挙げており、その左側に馬を従えている。その他、弓矢を射ている人物をはじめ、猪、鹿、犬などが描かれている。

以上、Wikipediaから転載したものであるが、右回り渦巻文の意味するところは不詳であると記す。

渦巻文の先端は男性像の肩にとりつく、この男性が被葬者であろう。この渦巻文は、永遠の命を象徴しているものと考えられる。それは7世紀の古墳時代からのものでなく、縄文時代からの生命観であったかと思われる。

次の写真を御覧願いたい。山梨県北杜市の縄文遺跡である金生遺跡から出土した土偶である。女性土偶の腹は膨らんでいるのが定番で、妊娠している姿が現されている。その腹の中央に渦巻文が刻まれている。人の魂は生まれてくる子供に引き継がれる。魂は永遠に再生を繰り返すことを渦巻文は表しているであろう。

(山梨県北斗市HPより転載)

このように大きな渦巻き文は、すでに縄文時代から登場しており、その文様は古墳時代に至ってもポピュラーな存在であったかと思われる。もしかしたら、清戸迫の被葬者は縄文人の末裔であろうか。

ここで、弓矢を射ている人物の矢は、雌鹿にむかっている。その雌鹿の対面には猟犬が描かれている。まさに狩猟の場面が描かれており、被葬者の生前の姿かと思われる。実はこのような場面は、古墳の墳丘に並べられた埴輪でも再現されている。群馬県高崎市の保渡田Ⅶ遺跡出土の埴輪で、弓を引く人物像、背に矢を受け血をながす猪埴輪、猟犬であろう犬埴輪が一緒に出土している。それらを想定復元して並べたのが、猪狩りの場面である。

清戸迫横穴墓群からは、頭椎大刀、挂甲小札、鉄斧、勾. 玉、土師器片などが出土したようだが、埴輪は出土しておらず、保渡田Ⅶ遺跡で見るような埴輪による狩猟儀礼が、壁画で表現されていることになる。このような狩猟ができるのは豪族であり、当該横穴墓の被葬者は、当地の有力者または技能集団の長であろうと、双葉町教育委員会は見解を示している。

<不定期連載にて次回へ続く>

 


装飾古墳は語る(9)・千金甲1号墳

2023-02-17 08:05:40 | 装飾古墳

<浮彫・彩色系壁画古墳>千金甲1号(甲号)墳 円墳 熊本市 5世紀末―6世紀初頭

不定期連載として掲載した過去8回分をレビューしておく。

 第1回目 装飾古墳は語る(1)・装飾古墳概論

 第2回目 装飾古墳は語る(2)・竹原古墳

 第3回目 装飾古墳は語る(3)・王塚古墳

 第4回目 装飾古墳は語る(4)・梶山古墳

 第5回目 装飾古墳は語る(5)・穴神1号横穴墓

 第6回目 装飾古墳は語る(6)・五郎山古墳

 第7回目 装飾古墳は語る(7)・日ノ岡古墳

 第8回目 装飾古墳は語る(8)・弁慶ヶ穴古墳

今回は第9回目として熊本市の千金甲(せごんこう)1号墳をとりあげる。

<浮彫・彩色系壁画古墳>千金甲1号(甲号)墳 円墳 熊本市 5世紀末―6世紀初頭

千金甲1号墳は、阿蘇凝灰岩の板石6枚を使って石障(せきしょう)が巡らされており、その内側に靫(ゆぎ)、同心円文、対角線文(向い鱗文)などが刻まれ、赤・緑・黄で彩色されている。

凝灰岩は宇土半島基部から運ばれていることが明らかとなっている。石室内に3区画の屍床(ししょう)を設け、奥壁に4個の靫を浮彫りにし、その上に2段に並ぶ10個の対角線を重ねた図形(向い鱗文)と、2段に並ぶ同心円文を交互に浮彫りにし、赤・緑・黄で塗分けている。両側壁にも2段に並ぶ同心円と向い鱗文を交互に浮彫りにし、赤・緑・黄で塗分けている。向い鱗文の上には、3本の矢を納めた靫が刻まれている。被葬者は特定されておらず、当該地域の有力者であったと思われる。

文様の解釈は、種々存在するようだが、同心円と向い鱗文は、直弧文を分解したものだとの説が存在するが、その当否についてコメントする知識を持ち合わせていない。また同心円文を太陽(日輪)とみる解釈も存在し、いやいやそれは銅鏡とみる解釈も存在している。

写真をご覧願いたい。屍床は、多くの向い鱗文と同心円文に囲まれている。過去の当該ブログを御覧の方は、お気付きであろうと思われるが、この様子は奈良・黒塚古墳に似ている。それは木棺を安置する粘土棺床に大量の銅鏡が、鏡面を内側に置かれていた。この解釈は、被葬者の霊魂に悪霊が侵入するのを防ぐものとされている。

(上の写真は黒塚古墳の様子である。黒塚古墳は大量の銅鏡に取り囲まれていた。千金甲1号墳の屍床を取り囲む同心円文は銅鏡の代替をなすものと思われる)

向い鱗文が辟邪文であることは、過去から何度も述べてきた。千金甲1号墳の被葬者は、2重の辟邪文により、悪霊の侵入から護られていたことになる。

<不定期連載にて次回へ続く>

 


装飾古墳は語る(8)・弁慶ヶ穴古墳

2023-01-02 08:11:58 | 装飾古墳

不定期連載として掲載した過去7回分をレビューしておく。

 第1回目 装飾古墳は語る(1)・装飾古墳概論

 第2回目 装飾古墳は語る(2)・竹原古墳

 第3回目 装飾古墳は語る(3)・王塚古墳

 第4回目 装飾古墳は語る(4)・梶山古墳

 第5回目 装飾古墳は語る(5)・穴神1号横穴墓

 第6回目 装飾古墳は語る(6)・五郎山古墳

 第7回目 装飾古墳は語る(7)・日ノ岡古墳

今回は第8回目として熊本県山鹿市の弁慶ヶ穴古墳をとりあげる。

<壁画系装飾古墳>弁慶ヶ穴古墳 熊本県山鹿市 6世紀後半

山鹿市中心部より北へ約1.2kmに位置する古墳時代後期の装飾古墳。直径約15m、高さ約5.7mの円墳であるが、もとは前方後円墳であったとする説もある。石室の全長は約11.5m、後室の天井の高さは約3.6m。

埋葬施設は南西方向に入口をもつ横穴式石室で、全長約9.8m、後室・前室・羨道からなる複室構造で、奥壁には石屋形、後室・前室には屍床が設けられている。出土遺物は鍔、雲珠、鉄鏃、金環など。

描かれている文様は同心円、三角文、菱形文、人物、船、馬、鳥を赤、灰(青と表記されている事例があるが、装飾古墳に青色は存在せず灰色である)、白で彩色されている。

Wikipediaは、描かれている壁画について以下の如く記している。巨大な凝灰岩を用いた前室・後室の複数の横穴式石室を設け、 西向きに開口している。石室入口に人物の彫刻があるほか、前室右壁には赤色でゴンドラ型の船を上下に二艘描き、そのひとつには馬を、もうひとつには荷物とその上に鳥が乗っている様子を描いている。この荷物を棺と見ることにより、舟葬思想(死後の世界を海の彼方にあると考え、遺体を船に乗せて葬るという考え)を裏付けるものとして注目されている。他にも大小5頭の馬と鞭らしき物を持った人物像、同心円、三角文などを主に赤色の彩色を用いて描く。

おそらくもとは後室にも壁画があったのであろう。1955年(昭和30)の調査時に須恵器や馬具、刀装具、装身具などの残欠が出土し、それらは6世紀後半のものであった。

ここで舟葬思想についてである。過去にもこのことについて触れているが、舟葬とは遺体を舟に載せて、海や川に放つことであるが、それは考古学的に立証されていない。しかし、描かれている船には箱が描かれており、これは棺と思われ、被葬者の魂を海の彼方の常世(ニライカナイ)へ運ぶものであろう。合わせて棺の上には鳥がとまっており、被葬者の魂をのせた船の水先案内をしている。また船にのる馬とその上方に同心円文をみるが、これは銅鏡ではなく太陽を表しているであろう。つまり太陽の船であり、馬もまた被葬者の魂を運ぶものとして観念されていたであろう。

熊本県立装飾古墳館が掲げるパネルを紹介しておく。パネルも含めて、これらの壁画をみていて特に物語性と云うか、当該古墳の独自性は見受けられず、多くの装飾古墳が語る世界観が示されているように思われる。壁画の内容と出土品から云えることは、武を具備した豪族であったことは間違いなく、磐井一族と何らかの繫がりがあったと想定してはどうであろうか。

<不定期連載にて次回へ続く>

 


装飾古墳は語る(7)・日ノ岡古墳

2022-11-30 08:41:36 | 装飾古墳

不定期連載として掲載した過去6回分をレビューしておく。

 第1回目 装飾古墳は語る(1)・装飾古墳概論

 第2回目 装飾古墳は語る(2)・竹原古墳

 第3回目 装飾古墳は語る(3)・王塚古墳

 第4回目 装飾古墳は語る(4)・梶山古墳

 第5回目 装飾古墳は語る(5)・穴神1号横穴墓

 第6回目 装飾古墳は語る(6)・五郎山古墳

今回は、第7回目として福岡県うきは市の日ノ岡古墳をとりあげる。

<壁画系装飾古墳>日ノ岡(ひのおか)古墳 うきは市 6世紀前半

うきは市吉井町に所在する墳丘長74mとも80m(中には95m)とも云う前方後円墳で、墳丘高さは5mで若宮八幡宮境内の東に位置する。

北部・中部九州を巡る中で、うきは市の吉井歴史民俗資料館を訪れたが、時間の関係で日ノ岡古墳そのものを訪れるのをあきらめた。従って確認し用いる資料は、うきは市HPと吉井歴史民俗資料館で頂いた、古墳石室の縮尺絵図である。

後円部には横穴式石室があり、奥壁には赤・白・緑の3色で同心円文、蕨手文、三角文(鋸歯文)などの文様が描かれ、周囲の壁には武具、魚、船、動物などが描かれている。

白の丸枠内にゴンドラ風の船

右上白丸枠・魚 左下白丸枠・動物

特徴的な文様は、余りにも多い同心円文である。前後左右を合わせれば40個以上にもなる。特に奥壁の一枚岩に描かれた6個の同心円は、大きく描かれ主文様に受け取れる。これをどのように捉えるのか?

熊本県立装飾古墳館掲示の模写図

装飾古墳の文様については、多くの解釈が存在すると云うか百家争鳴である。その中で同心円文は、太陽を表す見解と銅鏡との見解がある。これらの見解は概ね、壁画の内容によって使い分けされているようだ。

日ノ岡古墳の同心円文は、太陽とは異なるであろう。古代中国では射日神話(十日神話)が存在する。十個の太陽がいっぺんに現れ、地上は灼熱地獄となり、作物が全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天から神の一人である羿(げい)が遣わされた。その羿が9個の太陽を射落とすのであるが、日岡古墳では10個どころか40個以上の同心円文が描かれており、これが太陽文であると指摘するに当たらないであろう。

やはり、邪悪な悪霊の侵入を監視したり、撃退する意味合いをもつ銅鏡と理解したい。被葬者は主文様と思われる6個と合計40個以上の銅鏡により護られたことになる。

左の同心円文の右に盾を描く

白丸枠内に靫と大刀

描かれた武具は靫(ゆぎ)と盾であるが、その数は多くは無い。この靫と盾は、他の装飾古墳にも描かれている。靫と盾は辟邪文との解釈もあり、当該古墳でもそのように捉えられなくもないが、数も多くないことから被葬者が、生前身に着けていたものを描いたと解釈したい。

縮尺絵図に白丸で示した動物文様であるが、これをどう捉えるのか。馬にも見えるし、他の四つ足動物にも見える。縮尺絵図を注視しているが、この手の動物文様を他に見ないので、やはり被葬者が生前に騎乗した馬と理解したい。更に白丸で示したゴンドラ風の船も描かれている。これも他の装飾古墳同様に、被葬者の魂を海の彼方の常世(ニライカナイ)へ運ぶものであろう。

このように描かれた文様の意味するところは、他の装飾古墳とおなじであるが、当該古墳が装飾古墳の先駆けである点が重要である。被葬者が誰であるのか、当地を治めていた的臣(いくはのおみ)であろうとの見解がある。当該日ノ岡古墳と隣接する月岡古墳からは立派な馬具・金銅装眉庇付鉄兜・金銅製帯金具・銅鏡6枚も出土しており、日ノ岡古墳と月岡古墳の関係がハッキリしないが、的臣は相当な権力を有した先進気鋭の豪族であったであろう。日ノ岡古墳にも同心円文(銅鏡)よろしく銅鏡も副葬されていたであろうと思われる。

月岡古墳出土・金銅装眉庇付鉄兜(まびさしつきてつかぶと)

月岡古墳出土・金銅装帯金具

ところで西谷正・元九州大学教授は、日ノ岡古墳の奥壁全面を飾る同心円文の多用は、高句麗と係わりがあるかもしれないと指摘しておられる。どこの何をもっての指摘か、それらしき痕跡を探すが良好な事例が見当たらない。それらしき事例があるにはある。それは、高句麗・安岳1号墳(4世紀末)玄室天井に同心円文をみるが、どうみても従文様で、それもその他大勢の文様にしかみえない。この同心円文と日ノ岡古墳の同心円文を結びつけるのは、やや無理筋のように思われる。

高句麗・安岳1号墳の同心円文 出典・全浩天著 高句麗壁画古墳の旅

しかし、先にも触れた隣接する古墳の月岡古墳から、龍文・草葉文透彫帯金具が出土している。この帯金具は遼寧→高句麗→新羅→倭国とルートが辿れることから、西谷正・元教授の指摘は妥当かもしれないが、もうひとつピンとこない・・・と、云うことで装飾古墳壁画の解釈について記してきたが、最後は的外れの話しになった感無きにしも非ずである。

<不定期連載にて次回へ続く>


装飾古墳は語る(6)

2022-11-10 08:39:37 | 装飾古墳

不定期連載として掲載した過去5回分をレビューしておく。

 第1回目 装飾古墳は語る(1)・装飾古墳概論

 第2回目 装飾古墳は語る(2)・竹原古墳

 第3回目 装飾古墳は語る(3)・王塚古墳

 第4回目 装飾古墳は語る(4)・梶山古墳

 第5回目 装飾古墳は語る(5)・穴神1号横穴墓

今回は装飾古墳として著名な福岡県筑紫野市の五郎山古墳を取り上げる。赤枠で囲った五郎山古墳が今回のテーマである。

それは閑静な住宅街の一角に在った。壁画保存のため内部の見学はできないが、古墳の丘陵の麓に『五郎山古墳館』なる資料館が存在し、そこに復元された古墳・石室が展示されている。その復元された壁画について種種考察したものである。

(住宅街の一角に存在。右側が五郎山古墳、左に五郎山古墳館)

(御覧のように五郎山古墳は円墳である)

(古墳の丘陵麓の五郎山古墳館)

<壁画系装飾古墳>五郎山古墳 筑紫野市 古墳時代後期の6世紀

墳丘径32m、高さ5mの円墳。副葬品は盗掘、但し金環、管玉、勾玉、刀子、須恵器が出土している。

後室奥壁の壁画は黒・赤・緑の3色。描かれている題材は弓、靫、鞆(弓の弦から手を守る防具)、盾、弓を射る人、巫女、騎馬人物、力士、犬、猪、舟、馬に旗、家(居館)、同心円文と思われる。

後室右壁には、上下に二つの舟が描かれているが、上の舟の中央には長方形の箱状のものが積まれている。船体が二重構造になっているのは、準構造船のように思われる。

ここで装飾古墳の画題を埴輪に見ることが出来るとして弓、靫、盾、船、馬などを過去紹介してきたが、ここでは未紹介の鞆、力士、馬に旗の埴輪も存在することを示しておく。

(鳥取・長瀬高浜遺跡出土:鞆埴輪)

(向かって左の人物が力士、右に旗を掲げる馬)

(大阪・今城塚古墳出土:力士埴輪)

(群馬・酒巻14号墳出土:旗を掲げる馬埴輪)

以下、五郎山古墳に関する種々の見解を箇条書きで示す。

  • 的に弓を射る人が描かれているように見える図があるが、あれは月ではないか。月の中にはいろいろな動物がいるとされているが、我が国では莵とともにヒキガエルもいるとされている。そのような動物を弓で射ろうとした図ではなかろうか。(上掲写真の旗を掲げる馬に乗る騎馬人物が矢を射ろうとしているが、それは左の同心円状の的か、それとも月か?)
  • 馬や舟に乗って狩りに出かけたのであろうか。犬や馬を家畜として飼育していたようだ。同心円の外が赤く縁どられたのが太陽で、黒く縁どられたのが月であろう。靫(ゆぎ)と船が多く、当時威力を発揮したのは弓矢であったろう。船も二艘描かれているが載っている箱のようなものは木棺ないしは古墳用の石材か。
  • 玄室奥壁最下段の腰石には、右端に鞆や靫、弓などの武具、中央部には上から緑色の鳥、同心円文、靫、船が描かれ、右端と中央の絵の間には、冠を被った人物や矢が刺さった動物、スカート状の着物を着た人物などが見られる。この冠の形状は、下の写真の熊本県にあるチブサン古墳の壁画と同じ三本の角がある冠で、朝鮮半島南部の冠と同じ形である。

(五郎山古墳)

(チブサン古墳)

(大伽耶金銅冠・高霊池山洞32号墳出土 5世紀中頃)

(出雲上塩冶古墳出土の金銅冠を被る出雲王)

  • 壁画に描かれた緑色の線状の形は、この棺を乗せた船を他界へ導く「鳥」を表現していると言われている。鳥の左には動物が描かれ、この動物を狙うように右下に矢を構えた人物が描かれている。その下には甲冑を身につけ、大刀を持った騎馬人物、その左上に動物が上下に描かれている。祈るようなポーズの人物、さらにその左下には両手両足を広げた人物が、最下段には、はしご状の旗か盾を持った騎馬人物が見られる。左端には、切妻造りの屋根を持つ家(居館)、動物が上下に描かれていることがわかる。腰石の上に置かれた方形の石には同心円文、その右側に左手を腰にあて、右手を上げたポーズをとる力士と思われる人物、その下には動物と人物が描かれている。右側には旗をなびかせ、矢をつがえた騎馬人物があり、その右上の石には円文を見る。玄室側壁では西側奥の腰石に、船と16個の小さな丸、東側奥の腰石とその上の石にそれぞれ船が描かれている。船の中央にある四角い物体は、遺体を安置した棺を表現しており、16個の小さな丸は、星を表現していると思われる。
  • 奥壁に向かって左側に一艘、右側に二艘の船が描かれている。それらの船には、長方形のモノが載せられている。これは死者を収める柩であろうと考えられる。そしてその周りには黒の珠文が幾つか描かれており、星の輝く夜の世界を被葬者をのせた船が航行していると解釈される。この船の絵は二重構造になっており、準構造船と考えられ、来世というものを海の彼方と認識し、海上他界の観念が存在していたであろう。

  • 被葬者の一代記を描いたであろう。狩りの場面があったり、居館があったり、大型の船を描いている。近くには式内社・筑紫神社があり、筑紫君の本拠地であった。

『日本書紀・欽明天皇条』によれば、十七年(556)春一月、百済王子の恵が帰国を願い出た。よって多くの武器・良馬のほかいろいろの物を賜り、多くの人びとがそれを感歎した。阿部臣・佐伯連・播磨直を遣わして、筑紫国の軍船を率い、護衛して国に送りとどけさせた。別に筑紫火君を遣わし、勇士一千を率いて、弥弖(みて)に送らせ・・・と記す。

つまり、阿部臣・佐伯連・播磨直と共に北部九州の地場豪族・筑紫火君が配下の勇士・千人を率いて、王子・恵を百済に送ったという。五郎山古墳の被葬者と関連する出来事のように考えられる。

この筑紫神社であるが、祭神は『筑紫国魂つまり筑紫の神』ほか二柱で筑紫君(筑紫国造)が祀ったとされている。それは渡来者集団が祀ったであろうと想定されており、半島南部との強い繫がりを感じさせる。

  • Wikipediaは、以下のように記している。舟を死者の魂の担い手とするのが、弥生時代以来の伝統的な観念であった。本古墳の奥室左右壁に描かれた舟は、棺と思われる箱状の物を乗せている。弓、靫、鞆などの武具は、辟邪(へきじゃ)、すなわち悪霊を寄せ付けない機能をもつものである。また、同心円文は日月星辰をあらわし、他界を象徴するものである。

古墳壁画には馬が描かれているが、考古学者の白石太一郎氏は馬も舟同様に魂の乗り物であると指摘した。甲元眞之氏は、装飾古墳において、葬送儀礼との関連で馬が描かれるのは6世紀後半のごく限られた時期であることを指摘し、「馬は魂の乗り物」という、中国北方地域にみられる葬送観念が日本に持ち込まれたものだとする。甲元氏は、霊屋(居館)に祈る人物の存在も合わせ、本古墳壁画は一種の葬送儀礼を表したものだとしている。

  • 筑紫野市五郎山古墳館の展示パネルは、以下のように壁画の解釈をしている。この壁画に古代人が何を描きたかったのは、謎につつまれているが、魂を黄泉の国へ運ぶと考えられた『船』や、魂を守護するための『靫』や『弓』などの武具が、人物などよりも大きく描かれていることから、これらの壁画が“死者への鎮魂”を願っていたものと思われる。人物系や動物系などの壁画は“死者の生前の姿”を描いたものと考えられる。
  • 辰巳和広氏は、以下のように記しておられる。壁画は玄室の奥壁に黒・赤・緑の3色で所狭しと描かれている。馬に乗って矢を射る人物や祈りを捧げる人物は女性であろうか、船、靫などの武具、太陽とみられる同心円、猪らしい矢が刺さった動物などをみる。これをもって『王の狩猟儀礼』と『他界へと被葬者の霊魂を運ぶ船』を描いたと指摘し、支配の永続と繁栄を願ったと解釈しておられる。

種々の見解を敢えてまとめる必要もないかと覚えるが、当該ブロガーは以下のように考える。五郎山古墳の被葬者は筑紫君に繋がる人物で、渡来者集団のボスの末裔かと思われる。それは半島南部の王冠に似た冠を被る、被葬者かとおもわれる人物壁画から云えることである。船は合わせて四艘描かれているが、奥壁腰石に描かれる船は半島南部から渡り来たったことを表しているであろう。その他の三艘は被葬者が海上他界へ赴くためのもので、奥壁の一連の絵画は被葬者の一代記を物語っているであろう。

(白丸枠の船にのり半島南部から渡海してきたのか?)

尚、筑紫野市五郎山古墳館展示パネルは、“魂を黄泉の国へ運ぶ・・・”と記すが、『黄泉の国』とは地下世界(つまり、古墳の石室は地中にあり、これを地下として『黄泉の国』と呼ぶなら理解できるが・・・)を表す言葉であり、適切な表現ではない。魂を船によって海上他界へ運ぶ様子を描いた・・・と理解すべきであろう。

<第6回了:次回掲載未定>