世界の街角

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北タイ陶磁の源流考・#48<轆轤回転方向>

2017-03-31 09:10:27 | 北タイ陶磁
<続き>
 
今回は東南アジア諸窯の轆轤の回転方向を検討したい。ドン・ハイン氏によれば、窯様式(形状)の伝播には熟練陶工(伝播元の陶工であれ、そこで訓練を受けた伝播先からの派遣陶工であれ)の存在が欠かせないと指摘している。
そうであれば、伝播元の轆轤の回転方向が伝播先でも踏襲されてしかるべきであるが、一部の例外を除いて、そうなっていない。窯の形は真似るが、轆轤の使い方(回転方向)は真似ない・・・このようなことが起こるのであろうか?
一部の例外は、ドゥオンサー窯である。創業の初期段階は広東系の陶磁を真似ており、轆轤の回転は中国と同じ左回転であるが、やがて右回転に変化する。なぜ左から右に変化するのか、是認できる要因は解明できていないようである。ドゥオンサー窯以外のベトナム諸窯は右回転である。
いきなり左右の回転方向の考察らしきことを記述したが、その回転方向がどのような分布になっているのかをまとめた表と分布図を下に示しておく。

中国の影響を最も受けたであろう、ベトナムはドゥオンサー窯以外は何故か右回りである。ドゥオンサー同様左右混在は北タイのパーン、カロン、サンカンペーンである。ベトナム経由で楕円形(卵型)横焔単室窯が伝播したと感じさせているが、その経路にはベトナムの右回転がラオスとシーサッチャナーライの初期(MON窯)で認められる。
それとは別に左回転の窯場がクメール陶焼成窯とタイ、ミャンマーに認められる。これらをどのように解釈すればよいであろうか。近世のチャムロン親王が集大成した、タイ年代記集成にはスコータイ王が中國に派遣した朝貢使が帰国する際、中国人陶工を伴ったとの記載がある。当該ブロガーは、400-500年前の伝承の信憑性を多少疑問視しているが、あるいはこの影響により中国の左回りが、タイの左回りに
影響を与えたと考えられなくもない。
それにしても平面プランが長方形の地上式窯を北・中部ベトナムとともにブリラムやカンボジアのタニに存在するが、北・中部ベトナムの轆轤は右回転であり、ブリラムやタニに移ると中国と同じ左回転である。この複雑なパズルをどのように解けばよいであろうか。
このパズルは容易に解けそうもないが、幾つかのヒントは存在する。次回は謎解きのヒントを紹介したい。
 
                                                                                       <続く>

                                       

北タイ陶磁の源流考・#47<東南アジアの窯様式>

2017-03-30 09:34:00 | 北タイ陶磁
<続き>
 
前回まで論述してきた東南アジア各地の窯様式を一覧表にまとめた。それが下表である。窯様式の伝播やその順序の考察には、位置情報と共に年代情報も欠かせない。従って創業の年代順にソートする方法もあるが、分かり辛くなる恐れがあるため北から南・西に向かっての地域別にソートした。
注1)サンカンペーンの開窯時期については、サーヤン教授はC-14年代法による測定の結果、13世紀前期としている。これは測定結果の問題が考えられ、ここではほぼ定説化している13世紀末ー14世紀初期とした。
注2)現段階で当該ブロガーが集めきれていない情報や不明点は、表中(-)印で表示した。
 
先に記した創業の年代が伝播順や伝播ルートを判断するには重要であるが、木を見て林や森を見ない例えに嵌る可能性もあるので、ここでは2番目の判断材料にすることとし、先ず窯タイプの分布をみることにする。
 
ここで薄青と薄黄のゾーニングは地上式、半地下式、地下式であれ平面プランが長方形及び長楕円を薄青、平面プランが楕円形(卵型)を薄黄で示した。
ドン・ハイン氏は薄青を沿海域、薄黄を内陸域の窯形式と呼んだ。そして長方形の地上式窯は中国南部の沿海域から紀元2世紀に、北ベトナムに伝播したと云う。楕円形の地下式窯も先と同様に中国南部の沿海域から、紀元10世紀に伝播したと説く。これについて、故ベトナム在住考古学者・西村昌也氏は、ドゥオンサーの地下窯を9世紀としている。
内陸域の楕円形については、初期の地下式から半地下式・地上式へと辿ることができ、西方ではなく、北ベトナムを経由して北タイに伝播したと思わざるを得ない・・・とここまでは、ドン・ハイン氏の論述を追認した格好である。それでは窯様式以外の生産技術、とくに窯詰め方法と轆轤の回転方向は、上記論述を支えるであろか? ・・・ 次回検討してみたい。
 
                            <続く>


                                                                      


北タイ陶磁の源流考・#46<ドン・ハインの「東南アジアの窯業系統・21」>

2017-03-29 06:41:43 | 北タイ陶磁

<続く>

13.エピローグ

キルンの研究は、歴史的・理論的原理(窯の進化と利用、燃料の燃焼、胎土の物理的および化学的特性を含む)、および考古学の特殊な側面である、築窯とその操作の経験が必要であろう。公表された解釈は間違いがあり、真実をあいまいにする傾向を見かける。窯の様式は誤解され、間違って分類されることがあり、窯および関連するインフラストラクチャーは不十分に発掘され、不十分に記録されることが多く、東南アジアのキルンの場合、通常は間違っているケースがある。一例として、窯は粘土でできていたか、または作られていた。事前焼成された材料(煉瓦)への変更は大きな概念的な変化を示し、不正確なデータは本来の姿を失わせる可能性がある。

中国が東南アジアにおける横焔式窯の影響力の源泉であることは間違いなく、東南アジアで独自に創造されたという証拠はない。中国の陶工による中国技術の広範囲かつ直接的な注入の推論は、公表された調査報告や資料から可能性が高いが、確固たる証拠は欠けているキルンと関連して発見される中国の文化的属性はほとんど存在しない。中国の居住地で通常見られる墓地、貨幣、家財道具などの生活の痕跡などはなく、さらには陶器と直接関連している漢字の墨書や文字の碑文は見当たらない。

上に説明した技術移転の前提の下で、12世紀または13世紀の直接的な中国の影響は、当時の様式と技術のものに過ぎなかった。しかし、少なくとも内陸部に関しては、最初の窯と生産方法は最も原始的なものである。本質的には、中国陶磁器技術の内陸地帯への導入は、人々の移動により伝播したであろうと考えられる。

中国・広西からの影響がベトナム北部の窯業の確立につながったと、スコット(Scott 1995)は示唆したが、広西チワン族自治区の""窯はタインホア省のものとは技術的関係がない。また、シーサッチャナーライ窯が、景徳鎮(Jingdezhen)に最初に現れた卵型窯のモデルを提供しているかもしれないという論文が存在する。中国で、これに関し説得力のある見解はないが、景徳鎮には後期のシーサッチャナーライ窯やメナム・ノイ窯に似た窯が存在する

東南アジアの様々な歴史上の窯が、中国の陶工による直接的かつ重層的な導入の結果であるという主張は、現在の考古学的または歴史的証拠によって支持されていない。陶器の形態と装飾に及ぼす交易の影響は明らかであるが、両方の区域における築窯技術の基礎以外の生産技術の移転の例はない当該ブロガー注:断言朝であるが、このような噺は在り得るのか)。その後の発展は、地域のイノベーションと商業的な要請によって説明することができる東南アジアの陶磁生産に及ぼす中国の定期的な影響については、中国で遥かに効率的な手段と方法論が実践されていないことから否定されるであろう

考古学的所見を要約すると、東南アジアには2つの特定の窯種が存在し、それぞれ固有の地理的ゾーンに限定されている。このような状態は、異なる時間と場所でランダムに発生する一連の技術的導入ではなく、増分的かつ順次的な変化のプロセスから生じる可能性が高い。この点を踏まえ、中国の交易停止時(明の海禁策)に輸出貿易に参加する拠点が増加した偶然性は、中国の陶磁生産の移転ではなく、東南アジア各地の商業機会獲得の対応と一致する。

以上がドン・ハイン氏の主張である。窯様式以外の生産技術については、窯の伝播とは別物の如く、比較対象にすらなり得ておらず、偏った暴論とも思われるが、何故か正鵠を射ているようにも思われる。次回から窯様式と轆轤の回転方向、窯詰め方法を比較検討したい。


                                          <続く>

 

北タイ陶磁の源流考・#45<ドン・ハインの「東南アジアの窯業系統・20」>

2017-03-28 06:51:30 | 北タイ陶磁

<続き>

12.2つのゾーニング・その2
内陸部に関しては、キルンは地下式として始まり、その後のすべてのキルンの開発はその概念上の制約内にとどまった。内陸部の窯は、地面に掘られたものであろうと、地上に築窯されたものであろうと、僅かな差異はあるものの、単一の形態であり卵形である。その元の形は一定のままであり、本質的にすべての変更は単純にそのパラダイムのより大きなサイズとより焼成効率を追求したものに向かっていた。
沿岸地域での横焔窯技術の起源に関する相対的な確実性と比較して、内陸部における横焔窯の根源の推測は信頼度をもっていると考える。この技術は、中国南西部の雲南省のどこかの窯場から得られた可能性があるが(これは必ずしも信頼性が高いとは云えない。なぜなら雲南で中世の地下式横焔窯は発見されていないことによる)、タイ人がベトナム北部の山岳地域からラオス、タイ、および北東ビルマに移動したという論述が正しいならば、源泉はまた広西チワン族自治区でもあり得る。沿海部・ベトナムの状況とは異なり、内陸部へのキルンの導入について、中国の覇権のもとでの伝播とはことなり、その影響はおそらく非公式な人々の移動によるものである
内陸部でのさらなる普及に関しては、陶工が西側と南側に移住する人々とともに移動し、漸進的に拡大したと仮定することは妥当と思われる。しかし、その地域での初期の陶磁器生産は、時にはプローム(Prome)やタイの北部、ビルマの下層部を占めていたモン族と結びついているため、横焔式窯の知識が最初に手に渡ったのはモン族であったろう北部タイのMON施釉陶と特定の初期(10世紀頃)の中国陶磁の形と装飾の間には、魅力的な類似点がある。横焔式の導入が10〜11世紀に行われたので、製作された焼物は五代(907-960)と北宋(960-1127)の期間に似ている。しかし、その影響がより古いアイデアを保持している地方の窯からもたらされる可能性については、許容されるべきである。
(当該ブロガー注:何を云いたいのか理解し辛い点もあるが、地下式横焔窯も中国からの伝播としている。しかしながら場所は特定できないが、どこかの地方窯が発祥の根源である可能性を否定していない。当該ブロガーもそのように思いたいが、これについては根拠がなく、ドン・ハイン氏の推測にすぎない。)

                                                  <続く>
 
 
 

北タイ陶磁の源流考・#44<ドン・ハインの「東南アジアの窯業系統・19」>

2017-03-27 07:31:44 | 北タイ陶磁
<続き>
 
 
12.2つのゾーニング・その1
中国の2つの異なる場所から、少なくとも2つの窯業技術(生産技術)が沿岸と内陸に別々に導入されたとすることは、東南アジア全域での高温焼成窯技術の伝播に関する仮説である。沿岸域と内陸域の間に別々の影響があることを強く示しているのは、地下式窯が出現するずっと前に、地上式窯がベトナムに導入されたことである当該ブロガー注釈:この見解については不明な点が多く、断言する資料が不足していると考えるが専門家の見解はどうであろうか)。2つのタイプのキルンの地域間相違は、ゾーン間に何らかの影響が生じた可能性があるという考えを排除できない。
沿岸地域では、沿岸北部と中部ベトナムとカンボジア(ブリラム窯を含むタイ北東部)の窯は、広範に単一の伝統に属するようである。すべては、多かれ少なかれ矩形の平面プランと少なくとも次の属性のうちの幾つかを併せ持つ地上式窯である:複数の焚口、複数の燃焼室、天井の支柱、煙突の代わりの通気孔、粘土構造、および搬入搬出用の扉。発達段階はまだ考察されていないが、キルンは時間とともに大きくなる。
タインホア省タム・トーでの漢窯の導入痕跡はあるが、それが地上式で矩形であると断言できるほどの痕跡はないと考えられるが・・・は、中国の新しい植民地領にサテライト拠点を設立するため、中国・南東部の海岸沿いの窯場が、導入の根源とみなすことができる。それはカンボジアに、そしておそらくは南部のラオスに広がっている間に変化を受けたが、それは特定の地上式窯の技術である。それらは沿岸地域で独自に開発されたとする見解は示されていない。沿岸域に導入された窯の管状の形状は、隣接する中国の龍窯への形態移行の初期段階と合致している(図37)。
タム・トーの窯を築窯したのは中国人であろうが、おそらくベトナム人もそれに関わり、他に展開するための知識とスキルを得たと思われる。
アンコール王国へのキルンの導入は、陶工がベトナムからクレーン山に行って始めるか、あるいは何らかの形でカンボジア人が技能を習得したか、または中国から直接もたらされたかのいずれかであった。中国が一連の窯業技術移転に関し、それが中國の窯業産業に損害を与える可能性は低いと思われる。

                             <続く>