世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

直弧文

2022-02-28 08:46:23 | 古代日本

過日、橿原考古学研究所付属博物館を訪れた際、是非見てみたいものの2つ目は、弧文円板であった。写真の弧文円板の断片は3世紀の纏向石塚古墳出土品の複製品である。

これを円板状に復元したのが次の写真で、数条の帯状の線が弧を描き直線と交わり途切れたりしている。これを直弧文と呼ぶ。

3世紀と云えば弥生時代末期、古墳時代初期前葉となる。古くは弥生時代後期から見られると思うが、適当な遺物が思い浮かばない。或いは弥生時代後期には存在しないかも?・・・但し、その祖型と思われる弧帯文は倉敷・楯突墳丘墓に弧帯石なる遺物に表現されている。

話しが飛んだが、この直弧文は何なのか・・・と云うことだが、これは辟邪文と考えられる。古墳時代に至ると、到るところに顔をだす。北部九州の古墳の石棺の文様、靫形(ゆぎがた)埴輪の文様や青銅鏡の文様など多々存在する。

(素文縁直弧文鏡 東京国立博物館 出典・Wikipedia)

纏向石塚古墳出土の弧文円板の文様とどことなく異なるが、弧と直線で文様が描かれ規則性を持つ。

この辟邪(魔除け)を意味する文様が日本独特のものか、それとも朝鮮半島や中国に由来するものか、中国・雲南から東南アジア北部の少数民族は縁がないものか・・・等々については調べ切れていない。

辟邪を意味する文様とのことだが、弧と直線の組み合わせが何故、辟邪に繋がるのか?まだまだ未解明の点がありそうだ。

<了>


コゲラのドラミングは1000サイクル

2022-02-27 07:52:11 | 日記

昨日は天気も良くなったので墓参り。出雲市内を流れる高瀬川の近くの町中に寺院が在りそこに墓がある。近づくとカンカンと甲高い声というか音が聞こえる。その方向を見るとキツツキのドラミングだ。帰宅後しらべてみるとコゲラのようだ。

スマホ、安いやつなので望遠がきかない。拡大してみるとコゲラのようだが、雌雄どちらか判然としない。

嘴で桜の木を強く連続して叩いて音が出ている。その速度は1mmsec(1/1000秒)、つまり1000サイクルとのこと。よくも脳震盪を起こさないものだ。近づいても逃げようとしない。カラスやトビが近づけば、即逃げるであろうが。

<了>


関裕二氏の邪馬台国・卑弥呼論

2022-02-25 08:36:57 | 古代日本

古代史好きには、関裕二氏の著作は何度か目を通されたと思う。小生も数冊は保有し、図書館などで目にすれば読んでいる。過日、『消えた出雲と継体天皇の謎』なる著作を数年振りに読み返した。中味は既に忘却の彼方にあったが、首記タイトルの一文に目がとまった。

そう長くは無いので概要を示す。

”纏向に出現した纏向型前方後円墳は、北部九州の沿岸地帯にすばやく広まっているが、筑後川の南岸には届いていない。山門県(やまとのあがた)は、邪馬台国北部九州説の有力候補地であるが、このヤマトの最新埋葬文化を拒否した地域である。

そこで考えられることは、急速に出雲と吉備が発展し、ヤマトに纏向遺跡が完成したことによって、それまで鉄器を独占していた北部九州の諸勢力は、ヤマトになびくものと、ヒミコを仰いでヤマトに対抗すうるものに分かれた。そして高良山①という天然の要害に守られた筑後川の南岸の山門県の人々は、魏に朝貢し親魏倭王の金印を受け取り、虎の威を借りようとしたことだろう。これが魏志倭人伝に云う邪馬台国である。

(卑弥呼像・大阪府立弥生文化博物館にて)

ところが、ヒミコの目論見は、裏目に出たようだ。というのも、畿内のヤマトから遣わされた女傑の活躍によって、ヒミコは滅ぼされていた可能性が高いからだ。その女傑こそ日本書紀に登場する神功皇后であり、魏志倭人伝にいうところの、『卑弥呼の宗女・台与(とよ)』ではないかと考えられる。”・・・以上である。

ここで時代がハッキリしているのは、卑弥呼が景初三年に魏に遣使したことが魏志倭人伝に記されている。景初三年は西暦239年に相当する。神功皇后は第14代・仲哀天皇の后である。仲哀天皇は実在が云々されているが、実在するとして4世紀後半とするのが一般的である。宗女・台与は卑弥呼から女王を引き継いだので、時代的には3世紀半ばに相当し、台与と神功皇后の時代には100年以上のギャップが存在する。

時に、卑弥呼は神功皇后との説も垣間見るが、神功皇后は台与でその台与に卑弥呼は殺されたとの説は、よく言えば関氏のクリエーティブな論説ともとれるが、如何せん時期的に合致しない。尚、邪馬台国山門県説には賛成である。

注)①高良山:福岡県久留米市 山中に高良大社が鎮座している

<了>


渦巻き文は古代のオリエンタル・スタンダードだった

2022-02-24 08:42:12 | 古代と中世

過去、『サマキー村のマナウ柱』(ココ参照)として、カチン族の祭壇について一文を掲載した。その写真を再掲する。

垂直に立つ柱が6本存在するが、左から1本目、4本目、6本目の文様は渦巻き文である。渦巻き文の意味合いは、悪霊を避ける辟邪文と云われている。

東洋の東の果て日本列島でも縄文の古くから、この手の文様が存在する。先ずは縄文土器文様である。

(注口土器 茨城県椎塚貝塚出土 縄文後期 渦巻き文が

視認できる)

(島根県雲南市加茂岩倉銅鐸 弥生時代 銅鐸中央に四頭渦巻き文をみる)

縄文時代・弥生時代の人々は、万物に霊が宿る考え自然と共に生活してきた。悪霊を避けるには、精霊信仰が欠かせなかった。当時の人々は、身の回りの品々に辟邪文を描いたのである。それは、古墳時代を経て奈良時代まで継続していた痕跡がある。

(平城宮跡出土の隼人の盾・8世紀前半・復元品)

隼人の盾は双頭渦巻き文である。戦闘の場において、敵の槍や刀で死傷しないように辟邪の文様を描いたものと思われる。勝手な想像乍らこの種のことが転じて『呪い(まじない)』になったものと思われる。

古代日本の渦巻き文は、カチン族のそれと同様に、辟邪文であったことがわかる。漢族がどうであったのか調べていないが、漢族の周辺が渦巻き文を辟邪文様としているからには、古代の漢族もそうであったろうと想像できる。

西欧や中東はどうであったか知る由もないが、少なくとも東洋では、渦巻き文は辟邪の意味をもつ標準文様であったと思われる。驚くべきことは貴州・雲南や東南アジア北部には、今日も辟邪の文様として現実世界にいきていることである。日本の古代は、彼の地の山岳民族・少数民族の現実世界である。若き研究者のフィールドワークに期待したい。

<了>


昨2月22日は竹島の日

2022-02-23 08:00:43 | 日記

昨2月22日は、島根県条例で定めた『竹島の日』。県主催の記念式典が開催されたが、国は一政務官を派遣するのみ。何をかんがえているのか。

北方四島、プーチンは日本に返還する意図は皆無。何故、三島返還に応じなかったのか。今となれば、四島どころか三島も帰ってこない。

国は、口では竹島問題を口にするが、李明博が竹島上陸したときは、厳重抗議と口先だけ。何故、行動に移さないのか。

以下のニュースが過日駆け巡った。江戸後期に長崎奉行が作成したとみられる航路図に、現在の竹島の記述が見つかった。現在の竹島を「松嶋」、韓国・鬱陵島を「竹嶋」と記し、長崎へ向かう昆布船が波風を避けるため、両島近辺の航路を使うようになったと記されていると云う。

浜田藩の御用商人・会津屋八右衛門は、江戸時代、各藩が私的に外国と貿易することは国法により禁止されていたが、借金に苦しむ藩財政を建て直すために密貿易を提案。 藩は地の利を生かして鬱陵島(当時の日本では「竹島」と呼称)に渡り、李氏朝鮮と密交易を行った事実も存在する。

現在の竹島には、韓国軍が配置されている。竹島は、日本固有の領土と云うからには、巡視船や護衛艦を何故派遣しいないのか。日本国政府の弱腰は、韓国政府に見透かされている。いつまで弱腰外交を続けるのか。

<了>