世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

如何なものか・#2:ネットオークション出品の怪しげなタイ古陶磁

2017-07-31 07:19:17 | 東南アジア陶磁

東南アジア、中でも中世のタイ古陶磁についての当該ブログは、それなりの方々の目に触れているのではないかと自負していたが、そうでもなさそうである。

過日、ネットオークションを見ていると、怪しげなタイ古陶磁が出品されており、それなりの価格で入札されている。締め切り時間直前の価格は、阿保くさくて見ていないが、途中の経過は確認している。その期間中に当該記事をUP DATEすれば、参考になっったであろうが、商売の邪魔をしてもと思い、締め切りが終了した今般敢て記事にした。今後、このような被害者を出さないよう祈りたい。尚、当該ブロガーの指摘が外れている場合も考えられるので、怪しいとの表現にとどめている。

先ずサンカンペーン鉄絵双魚文盤である。この盤は真贋判定が非常に難しい事例として取り上げた。

一見すると何の矛盾もなく、本歌のように見える。鉄絵には濃淡や染付でダミとよぶ焦げ付きのような発色も見え、少なくとも低温の化学顔料ではなさそうである。また赤土の土銹もみられ、発掘品であることを伺わせている。外側面は無釉で、高台幅は極端に狭い。この特徴はサンカンペーンそのもので、何ら矛盾はない。この盤を見て、多少疑問に思うのは、中と外の際立つコントラストである。外側面が無釉の盤は多くはないものの、ときどき見かける。その外側面に対し、内面の釉薬の肌荒れが少ないように感ずる。

サンカンペーンに限らず北タイ陶磁は、日本渡来の伝世品は別として、全てが発掘品である。タイ王国の多くは赤土地帯であり、発掘された陶磁は多かれ少なかれ、必ず土銹をみる。それが一つの真贋判定ポイントとなるが、土銹があるからといって本歌とは限らない。何となれば狡猾な贋作者は焼成後10年山中に埋めて土銹をつけることを厭わない。そのような高度な技術をもつ贋作者の手と思われなくもない。しかし器胎は本物である。つまり後絵のように見える点が引っかかる。最終的には実物を見なければ、判断できない一つの事例である。この盤の話はこれで終わりにしておく。

これは、上のサンカンペーン鉄絵双魚文盤と同じ出品者である。これは土銹や肌荒れ云々の前の段階である。魚文や水草の描線が整いすぎて一気呵成に描き上げた、数物の筆致ではなく、鉄彩に濃淡もない。それ以外の指摘は必要なかろう。限りなく怪しい盤である。

タイ・サンカンペーン褐釉魚花刻文碗14-15世紀として出品されており、締め切り前13時間の時点で10,584円の入札額となっていた。サンカンペーンの碗は少ない、高台が高く畳付き幅が写真のように広いものは、サンカンペーンには存在しない。サンカンペーンに刻文は存在するが、その数は極めて少なく、しかも魚文の刻文を見た経験はない。限りなく怪しい。

写真の掲載は控えるが、同じ出品者から・・・

〇タイ・サワカローク鉄絵魚文鉢14-15世紀 締め切り残14時間の時点で入札額9,990円

〇タイ・カロン鉄絵平碗15-16世紀 締め切り残14時間の時点で入札額9,990円

いずれも今できで描線に濃淡のない、黒々とした化学顔料の鉄絵に見え、限りなく怪しい品である。このような品に約1万円を投ずるのは、どうかと?感ずる次第である。落札者の方々、一度当該ブログを見て頂くことを念じたい。

 


須弥山ワールドと北タイ陶磁文様・#3

2017-07-31 07:01:02 | 北タイ陶磁
<続き>
 

三界経(Traiphum トライプーム)とは上座部仏教の伝統的な教理書である。タイでは『トライプーム・プラルアン』がスコータイ朝の第5代・リタイ王(1354-1376)によって、1345年あるいは1359年に約30種の経典類を資料に編纂されたとされる。

歴代王は、トライプーム・プラルアンに見られる、仏教的宇宙観に従って国王=須弥山というイメージを使用し、タイ国民の支配と統合のイデオロギーとして使用したと、『タイの仏教寺院壁画における景観とコスモロジー表現』という論文のなかで山野正彦氏は説明しておられる。この山野正彦氏の説明がランナー朝に適用できるかどうか、については前回までの記述通り、同時代資料がないだけに断言はできないが・・・。

ランナー領域であるチェンマイ県メーチェム郡にワット・パーデート(Wat Pa Daet)なる寺院が存在する。その布薩堂は1888年の建立という。

イメージ 1
(ワット・パーデート布薩堂  出典:グーグルアース)
その布薩堂入り口を入った、すぐ左手の側壁に壁画が描かれている。それは須弥山世界図の全景で、釈迦の忉利天からの降臨を表したものである。その中央部にはインドラ神(帝釈天)より下層に住む神々(天)が、左側下部には地獄の釜に入れられた亡者の姿が描かれ、右側は釈迦の降臨場面が、須弥山の基底部は大海で大きな魚が描かれている。
イメージ 2
(出典:山野正彦氏前述論文)
山野正彦氏によると、ワット・パーデートの壁画のインドラ神、須弥山、大海などは、王が背後に宇宙を背負い、コスモロジカルな権力を付与されることを象徴しているとし、忉利天(須弥山の頂上)から下界に降臨してくる仏陀の姿は、王に化身して現世を治めているというイメージを強く沸き立たせるとしている。

これらの事柄がランナー朝建国当時の宮殿なり、守護寺院の壁画に描かれていたかどうかは不明である。しかし、牽強付会のような気がしないでもないが、中世ランナー世界もこのようであったかと、考えている。

一度は、このワット・パーデートへ行ってみたいと思っているが、所在するメーチェム郡はオムコイ郡と並び山奥の山奥である。チェンマイから南下しチョムトーン市街の手前を右折し道なりに進むと、チェンマイから約90km走行地点で、ドイ・インターノンとメーチェム分岐に至る。ワット・パデートはその分岐から更に20km以上、山中を走行することになる。片道3時間以上は覚悟する必要があり、未だ訪れることができずにいる。

イメージ 3
横道に噺がずれて恐縮である。須弥山世界を感じさせるものに仏足跡がある。それは仏足石であったり涅槃仏の足裏文様で、108に区画された吉祥文を升目仏足石とか升目仏足跡と呼んでいる。それの最古はビルマのタイエキッタラ時代(5-9世紀)のものといわれるが、既にピュー(驃)王国時代に出現していたとのことである。タイでの升目仏足石は、シーサッチャナラーイのワット・マハータートが古いと考えられ、時代はスコータイ朝の14世紀初めであるとされている。しかし、文様は表面の磨滅で判然としない。
イメージ 4
写真はランパーンのワット・ポンサヌックヌーア涅槃仏の足裏文様で、補修中の文様を写真に写したものである。中央の円内には法輪が描かれ、白丸は須弥山上の善見城の殊勝殿で帝釈天が住まうといわれているが、それが描かれている。但しこれは後世のもので中世のものではない。
イメージ 5
もう1点は、プレーのワット・プラノーンの涅槃仏の足裏文様で、これは中央円圏内に大海上の須弥山を描いている。これもまた近代のものである。

上に掲げた2つの事例は新しく、中世もそうであったとは断言できないが数々の事例より、ランナーの中世は須弥山ワールドであり、それは陶磁器文様を含めてあらゆるものに、反映されていたと考えられる。


                         <続く>

須弥山ワールドと北タイ陶磁文様・#2

2017-07-30 09:54:12 | 北タイ陶磁
<続き>
 
序論が長すぎた点容赦願いたい。本題は北タイ陶磁に表現されている須弥山ワールド、別の表現をすればコスモロジー文様の土壌である。どのような背景の基にコスモロジー文様が表現されたのであろうか、それが本題である。
タイの領域が歴史に現れるのは、タイ中部地域でのモン(Mon)語の碑文により明らかとなった。モン族による部族社会が7世紀以降に形成され、ナコンパトム、ロッブリー等に中心があったと云われ、これをドバラバティー(Dovaravati:タワーラワディーとも云う)と呼び、スリランカより南伝した上座部仏教文化の影響を受け、その独自の文化により繁栄したと云われている。
ランナー王朝前期の北タイでは、モン族国家といわれるハリプンチャイ王国が、ランナー王朝に先立つ7世紀に建国された。建国の統治者チャーマテーウィーはドバラバティーの部族国家であるロッブリーから招かれたとされており、ランナー王朝までの600年間繁栄した。
イメージ 1
(写真はタイ字でワット・チャーマテーウィと読みランプーン所在の寺院である。その後ろにチェディーの一部が写っていいるが、これをラトナ・チェディーと呼び当時の遺物である)
一方タイ族である。13世紀に至り大理王国は、モンゴル軍の侵攻を受け占領され、西双版納周辺のタイ族は、その圧力により南下することになるが、同時期にメンライ王がタイ北部に『ランナータイ』を建国した。チェンマイ旧市街を取り囲む堀と城壁は、1296年ランナー王朝の初代メンライ王により、約2km四方の正方形に近い形で建設された。
イメージ 2
メンライ王が正方形にした理由は、仏教の宇宙観に答えを見出すと云うことである。その宇宙観とは”スメール山(須弥山)が宇宙の中心にあり、9つの惑星がその周りを回っている”と云うもので、北タイの人々はその現象を『タクサムアング』と名付けた。
ランナー朝の人々は、都城の9つの方角全てに固有の惑星があると考えていた。その惑星とは太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星、海王星、天王星の9星で、海王星を真ん中にして、その他の8惑星がその周りを回り、その現象が国や人々に影響を及ぼすというものである。
それは人々の暮らしや運不運を左右し、疫病を引き起こす原因になると信じられていた。もし都に伝染病が蔓延したり、戦争が起こった場合は、都は悪い星に左右されているとみなされた。そのため、全ての国民が1年に1度、都の安泰を祈って国の柱『インターキンの御柱』に布施をする行事、『スーブチャダー(通称:カオインターキン)』を行っている。スープチャダーは、翌年の国の趨勢を占うためのものであった。
イメージ 3
 
イメージ 4
スーブチャダーは都の中心部にあるサデウ・ムワング寺かその周辺のインターキンの御柱が置かれた寺(現在はチェディールアン寺)で行われると同時に東西南北に設けられた城門付近を含む八方位の方角にある寺でも行われている。
(写真は2015年5月20日のチェディールアン寺のインターキン祭りの様子である。上写真の左の祠というか廟に「インターキンの御柱」が、下写真のように鎮座している。祭りの期間中は夥しい奉納の品々で御柱は埋め尽くされ、真ん中より上の部分が顔をだしている)
イメージ 5
各方角と方角ごとの国の現象及びその方角に置かれた寺は以下の通りである。
北  国の勢力  チャンコン寺
北東 国の栄光  チャイスリポム寺
東  国の基礎  ブッパラーム寺
南東 国の挑戦  プアックチャン寺
南  国の統治  ナンタラーム寺
南西 国の不運  タポタラム寺
西  国の民   スアンドーク寺
西北 国の存続  ジェットヨット寺
中央       サデウムワング寺(後 チェディールアン寺)
 
タクサムアングでいう9星とは、日本の星辰信仰での九曜に相当するものかと思われる。以上の寺院をグーグルアース・市街図に示して俯瞰すると、以下のようになりそれぞれ白丸で表示した。
注目すべきは中央のチェディルアン寺を除き、それらの寺院は城壁の外側に位置していることである。京都でいえば御所の東北にある比叡山延暦寺のように。つまり都城の外側にあって、それを守護するための役割を担っていたと云うことができる。
チェンマイ王都の建設について、『タクサムアング』ということで説明したが、前回(#1)の須弥山世界、九山八海を思い出していただきたい。中央に建立した国の御柱とサデウムワング寺(現在はチェディールアン寺)のチェディーを須弥山にみたて、須弥山を囲む七つの山と金輪上の最外周の鉄囲山を見立てた寺を八方位に配置したことになる。

以上、ランナー王都が仏教の宇宙観、すなわち須弥山思想で建設されたことを説明してきたが、ランナー王の権威付けや正統性を証明するための、宇宙観でもあったと考えている。メンライ王当時の古文書は現存しておらず、金石文もこれらのことを述べていないことから、はっきりしないが、後世のトンブリ王朝やバンコク王朝は、上座部仏教的宇宙観を王統や国民支配の正当性証明に用いたことから、ランナー朝のそれを類推できるのではないかと考える。


                            <続く>
 

須弥山ワールドと北タイ陶磁文様・#1

2017-07-29 06:46:37 | 北タイ陶磁
北タイ陶磁文様については、仏教関連文様の多さに気付く。なかでも須弥山世界を表した壮大な文様も存在すると云う。今般はそれに関する噺である。
 
仏教の教義については知識も興味も無いが、形而下的なものには興味津々である。先ず日本での須弥山に関することについて眺めてみたい。
日本への仏教伝来は『日本書紀』によると、飛鳥時代552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王より、もたらされたとあるが、『元興寺伽藍縁起』によると538年(宣化天皇3年)に伝えられたとする。この時伝来した仏教経典には、どのようなものがあったのであろうか?
時はやや下り、厩戸皇子(聖徳太子:574-622年)は『法華経』、『維摩経』、『勝鬘教』の解説書『三経羲疏』をあらわしたとある。この三経典に須弥山思想が述べられているかどうか、勉強不足で分からない。
仏教を巡っては、物部・蘇我両氏で争いがあり、用明天皇(在位:585-587年)の後継者を巡る争いで、物部守屋が滅亡するまで続いた。この戦で厩戸皇子が馬子側で参戦し、四天王に戦勝を祈願した。その願いが叶ったことから、摂津に四天王寺を建立したと云われている。
この四天王は須弥山の第四層に住まいしていることから、当時既に須弥山思想は伝来していたと考えても良さそうである。
 
(どうでもよい噺を挟んで恐縮である。写真は仏師の指導を受けて刻んだ北方の守護神・多聞天である。残る東西南に挑んでいるが、時間が掛りにかかっている)
『日本書紀』推古天皇二十年(612年)の項が、須弥山の初出だと云われている。それには・・・是の歳、百済国より化来る者有り、・・・略・・・仍りて須弥山の形及び呉橋を南庭に構らしむ・・・と記載されており、更に斉明天皇五年(659年)に・・・吐火羅の人、妻舎衛婦人と共に来けり。甲午、甘樫丘の東の川上に須弥山を造りて、陸奥と越との蝦夷に饗たまふ・・・と、この一文は我が国最初の庭園が、仏教的世界観を象徴したものであったと述べている。
(出典:グーグルアース)
その須弥山石が明日香村字石神より出土した。それは上・中・下と三つに分かれた石が出土したが、復元すると本来4分割されていたとのことである。各々の石の内部は刳りぬかれ、底から水を引き上げて、四方の小孔から水が噴き出せるようになっていたとのことである。 
俱舎論によれば、無熱悩地(Anotatta湖)から四方に大河が流れ出しているが、この須弥山石の四方の小孔から水が噴き出る仕組みは、それを具現化したものであろう。
イメージ 1
(写真はバンコクのワット・サケット布薩堂の壁画でアノータタ湖が描かれ四方に大河が流れ出ている)
後世、須弥山式とか九山八海(くさんはっかい)とか呼ばれる築庭様式がある。須弥山石を中心に内側の持双山から最外辺の鉄囲山(てっちせん)までの八山(須弥山を含めて九山)と、間の八海を石と苔で表現する様式である。写真は島根県益田市万福寺の伝雪舟庭園で、前述の須弥山式で作庭されている。中央最も高い位置にあるのが須弥山石である。
(現地にて撮影) 
話は飛鳥時代に戻る。我国で最も著名な須弥山と云えば、法隆寺の玉虫厨子の須弥座背面に描かれた、須弥山世界である。須弥山頂上の宮殿は善見城で帝釈天が住むと云われ、その左に烏が住まう太陽を右には兎の月を描いている。それが良くわかるのは復元された玉虫厨子で、それはhttp://www.nakada-net.jp/chanoyu/tamamushi/pictures.htmlに詳しいので、一度御覧願いたい。
 
このように日本では飛鳥時代以降連綿として、須弥山世界という仏教的世界観が存在したのである。

                             <続く>


石見銀山展・#2

2017-07-28 07:20:08 | 石見国

今回は石見銀山資料館が会場の展示物について紹介する。会場は徳川幕府直轄の代官所跡である。

 

展示内容は、

〇第5章 鉱山王国

〇第6章 外国船の来航

〇第7章 和洋混交

〇第8章 徳川の平和ー大江戸博覧会ー

で構成されている。

第5章は、石見銀山の銀鉱石や絵巻、測量器具の展示で、その測量精度は現代のそれに引けを取らないと云う。

第6章の展示は、そのほとんどが平戸・松浦史料博物館の蔵品展示である。今回の展示には出品されていなかったが、下の暹羅船図が名高い。

下の帆船模型も今回の展示には無いが、松浦資料博物館に展示されている交易船模型である。1550年、平戸に初めてポルトガル船が入港した。合わせてザビエルが上陸したのである。

オランダ船の来航とともに、下のデルフト焼きももたらされた。これと同じものが今回展示されているが、これは松浦史料博物館で撮影したものである。

デルフト陶器の画題は受胎告知で、天使ガブリエル(左)が聖母マリア(右)にイエスを身ごもることを告げる場面が描かれている。このような文物が銀の交易と共に将来されたのである。

第7章は、西洋から伝来した測量具の和製や、望遠鏡の和製、更には解体新書の展示。新井白石は銀の輸出が過度であると批判している。・・・この指摘はするどく、日本の富が年ごとに失われることになった。

第8章は、モノつくりの原点は江戸にあるとしてエレキテル、望遠鏡、顕微鏡、空気砲、和時計などが展示されていた。

当該会場の直近に豪商・熊谷家住宅がある。外面だけでもよいので、当該展覧会のあとに寄ってみられることをお薦めする。

 

                             <了>