世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

伽耶展(8)

2023-08-31 09:08:31 | 日本文化の源流

<続き>

今回は先ず、韓国国宝に指定されている大伽耶王墓・高霊池山洞32号墳(5世紀中頃)から出土した金銅冠から紹介する。

写真の高霊池山洞32号墳(5世紀中頃)から出土した金銅冠は、6世紀の倭の王冠(首長冠)に少なからぬ影響を与えたと考えられる。それは三又、みようによっては山形に見える立飾りである。下の金銅冠は継体大王の故郷である福井県の二本松山古墳(5世紀後半)出土の金銅冠である。

細部で形はやや異なるが、高霊池山洞32号墳出土冠の影響が考えられる。ここで金銅冠の編年を記すつもりはないが、以下のように変遷したと考えられる。

三又の立飾りは、香川・王墓山古墳(6世紀前半)の金銅冠である。二本松山古墳の立飾りが進化したであろう。6世紀後半になるとさらに簡略化された。それが我が田舎の出雲・上塩冶築山古墳(6世紀後半)金銅冠である。

やや横道に反れたが、大伽耶の金銅冠は倭国の冠に少なからぬ影響を与えたものと考えられる。

今回はココまでとする。

<続く>


伽耶展(7)

2023-08-27 07:46:20 | 日本文化の源流

<続き>

大伽耶と倭:5世紀後半から倭と最も活発に交渉を重ねたのが大伽耶である。この時期の倭では大伽耶系のアクセサリー、装飾馬具、武器などの大伽耶系の文物が古墳に副葬された。

5世紀後半に大伽耶は、洛東江より西側の地域を統合するほど力をつけた。479年には伽耶で唯一、中国南斉へ遣使を遣わす。481年には高句麗の新羅侵攻に際し、百済とともに援軍を送るほどになる。

大伽耶の中心地、高霊(こうれい・こりょ)や陜川(きょうせん)には倭系の甲冑や須恵器がもたらされた。5世紀中頃の王陵級古墳である高霊池山洞(チサンドン)32号墳では倭系甲冑が副葬されていた。また30号墳付属の小さな石槨から、倭系の冑や須恵器が出土している。陜川玉田28号墳でも倭系甲冑が副葬されていた。このように5世紀後半の大伽耶による対倭交渉は、新羅や百済と同様に、高句麗の南下対応策であつた。

以下、その大伽耶からの出土した展示品である。

今回はココまでとする。

<続く>


伽耶展(6)

2023-08-24 08:55:12 | 日本文化の源流

<続き>

前回に続き、弁韓出土遺物の紹介であるが、今回は2世紀中頃から3世紀後半の金官伽耶時代のモノである。

朝鮮半島の鉄素材、つまり始発原料は磁鉄鉱と砂鉄の双方が確認されているが、上掲の素材は砂鉄と思われる。朝鮮半島南部は砂鉄の宝庫であった。

以下、3世紀後半の金官伽耶の出土品である。最後に掲げる銅鍑(どうふく:オルドス型ケットル・出品番号83)を注目願いたい。

金海・大成洞古墳の発掘調査で明らかになったことは、北方系遊牧民族の習俗と文物、すなわち人と馬の殉葬、武器を折り曲げて墳墓に副葬する習俗、蒙古鉢形冑や挂甲といった騎馬民族用甲冑、馬冑、北方式銅鍑(出品No,83)、青銅製帯鉤(たいこう)などの文物をもった北方系木槨墓が3世紀末に金海地方に突然出現し、首長墓をはじめとするそれ以前の墳墓を意図的に破壊して登場する。このような習俗や文物は騎馬民族のモノである。

金海大成洞古墳群は、その出土品から扶余系の騎馬民族王朝”辰王朝”の陵墓と推定される。出土品のオルドス型ケットル(No,83)、これは北方ユーラシアの古代騎馬民族にとって、天神をはじめ神々を祀るときに犠牲をいれて煮て献納するための神聖な祭器で、王権のシンボルでもある。

オルドス型ケットル

<続く>


伽耶展(5)

2023-08-21 08:49:19 | 日本文化の源流

第一部 伽耶の興亡

第2章 伽耶への道

前回は『伽耶展(4)』で中断していたが再開する。今回は第2章・伽耶への道・・・とのテーマで展示されていた品々の紹介である。それは「伽耶」の前代・弁韓の出土品の数々である。

伽耶は、東アジアの様々な社会を結びつける役割を果たしながら、多彩な墳墓文化をはぐくんだ。おそらく古代東アジアの中でも、墳墓にその歴史が良く反映されている社会の一つであろう。

紀元前1世紀の弁韓時代、昌源茶戸里1号墓より『筆』が出土している。後の邪馬台国の時代に帯方郡使は処々の書を卑弥呼に届け、また卑弥呼も返書を差し出した。邪馬台国の時代に筆も硯も用いられていた。硯については考古学的に存在が証明されている。今回はここまでとする。

<次回へ続く>


後編・両面人物埴輪は方相氏か

2023-08-18 06:17:06 | 日本文化の源流

<中編の続き>

先に藤ノ木古墳(6世紀後半)出土の馬具に方相氏が、憤怒で鬼にみえる形相で刻まれていることを記した。

橿原考古学研究所付属博物館にて

(鞍の把手の下に方相氏が刻まれているが、それと判断できないのが残念)

小林太市郎氏①は、ソルボンヌ大学留学中に、頭の両面に顔のある漢代の方相氏の明器俑を見たと云う。それは、盾や弓などの武器をもち、片面は憤怒の表情で反対面は笑いの異形の表情を浮かべ、頭に武器あるいは装飾の突起を持っていると云う。その俑の実物を見た訳でもなく、これ以上の説明はできないが、盾と武器を持つ点は、『周礼』が示す通り、方相氏の特徴である。しかし、一顔四目ではない。

両面の俑で思い出すのが、和歌山市大日山35号墳(6世紀前半)出土の両面人物埴輪である。片面は目がつりあがり、上唇が異形で怒りの情のように見える。反対面は無表情のようにみえるが、薄ら笑いにみえなくもない。この埴輪は首から下の部分が存在しておらず、両手に何を持っていたかは不明である。

この両面人物埴輪は、現在まで大日山35号墳出土の当該埴輪一点のみで、極めて稀である。これを小林太市郎氏が指摘される両面をもつ方相氏の俑と同じように、方相氏と捉えるかどうか。

権現坂埴輪製作遺跡出土 盾持ち人埴輪 熊谷市文化財センターHPより

両面人物埴輪とは異なるが、埼玉県熊谷市の権現坂埴輪製作遺跡から、盾の表面に戟を貼り付け、頭に異形のものをのせる盾持人埴輪が出土している。盾と武器と云えば、方相氏の持ち物である。盾持人埴輪は古墳の墳頂に並べられ、被葬者の霊魂を邪悪なものから護る辟邪の役割をもつ。方相氏もまた疾鬼や魍魎など邪悪な霊的存在を撃退する辟邪の役割を担っていた・・・と、云うことで、大日山35号墳の両面人物埴輪は方相氏の可能性が考えられるという話であった。

尚、飛騨地方に『両面宿儺・りょうめんすくな』なる一胴体二顔の怪物伝説があるというが、方相氏や両面人物埴輪との関係は不明である。

<追記>

(顔の考古学 設楽博巳著より転載)

中国山東省武梁祠の石室における画像石の絵画には、明らかに熊の姿をとった方相氏が手だけではなく足にまで武器をつけて巨人に立ち向かっている。巨人は人を食っているので方相であろう。注目すべきは方相氏の頭にも弩が取り付けられている。左右の手に武器を持ち足を踏ん張った方相氏である。画像石に表現された頭に武器を載せる方相氏の特徴は、上掲盾持ち埴輪に見る表現との類似性が指摘できる。

 

注・① 元神戸大学教授 美術史家・芸術学者

参考文献:顔の考古学 設楽博巳著

<了>