世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

防火対策は?・首里城炎上

2019-10-31 09:02:24 | 日記

10月31日午前2時40分、警備会社より出火していると、消防へ通報があったとのこと。なんでも6-7棟が焼失したとのこと。

正殿は1992年に再建され、順次他の建物も再建され、全てが完了したのが2018年秋であった。

復元・再建費用は、最終的に108億円以上を要したという。金額的損失もさることながら、近年の再建とは云え貴重な文化財を失ったことなり、沖縄の象徴の損失は影響が大きい。

今となっては見ることができない光景となった。現代のことなので、再建するに必要な資料は残されているであろうが、再建の是非や如何。

それにしてもお粗末、正殿が全焼し他の建物にも延焼し、最終的に何棟焼失するであろうか。防火設備は役に立ったのか、役立たずか?・・・あまりにもお粗末、悲しみを通りこして憤りを覚える。

国内の重要文化財・国宝級の建物管理は、この首里城炎上を他山の石とされたい。

 

<了>

 


吉野ケ里の高床式建物は住居なのか?

2019-10-30 06:42:56 | 古代と中世

かれこれ3カ月前の古い噺で恐縮である。夏休みを利用して孫とハウステンボスへ行って来た。その途中に吉野ヶ里へ寄った。大小さまざまな建屋が想定復元されているが、高床式建物もその一つである。その高床式建物のなかで高床式住居が再現されている・・・正直、ほんまかいなとの印象である。

住居の最低条件は、冬場の吹き曝しに耐えることの可否である。高床とあるからには床下は吹き曝しとなる。床や壁の造作はどうか?・・・板材であるとすれば、それらの板材の製材状態は?・・・つまり、板と板の間は隙間だらけではないのか・・・との疑問が湧く。隙間があれば寒風が吹きこみ、寒さに耐えられないであろう。弥生期の高床式住居に炉があったのかどうか?・・・あったとすれば、隙間風を多少緩和することもできるであろう。

吉野ケ里遺跡の高床式住居の内部の壁が上掲写真である。見ると隙間なく板材が貼り付けられている。そうであれば隙間風の吹込みはなかろう。しかし弥生期、板材の端をこのように精度よく直線が出せるのか?

次の写真を見て頂きたい。これは岡山市・津島遺跡資料館に展示されている弥生期の板材である。

この板材の直線精度は相当なものである。成るほど、隙間なく板材を貼り付けることは可能であったと思われる。

それでは、床下の吹き曝しはどうであろうか。現地で見る高床式住居の床下は、竹の枌(へぎ)を編んだ網代で囲まれているではないか。

床下は網代で囲まれており、床下からの隙間風を防ぐことはできそうである。その床に炉がきられている形跡はない。してみれば厳寒期、甕ないしは広口壺を風炉のようにして暖を取っていたとの想像はゆるされるであろう。

吉野ケ里の高床式住居は、上記に見てきたように住居として通年用いられたであろう。しかし、これは最高司祭者(シャーマン)と説明されている。一般の人々はこのように立派な高床式住居に棲むことはできなかったであろう。やはり、冬場は竪穴住居が常用されていたであろう。但し、夏季は隙間の多い高床式住居が用いられていたと考えたい。

 

<了>


みよし風土記の丘ミュージアム(10)

2019-10-29 07:04:29 | 博物館・広島県

<続き>

みよし風土記の丘古墳群の出土遺物が展示されていた。それを紹介して『みよし風土記の丘ミュージアム』と題した連載を終える。

 

ジオラマ右の建物がミュージアム、白抜きの丸印内が古墳群である。

 

 

須恵器窯を復元した模型が展示してある。その断面模型で内部構造が理解できるが、これとほぼ同形状の窖窯(あながま)が北タイのワンヌア窯である。片や5世紀前後の須恵器窯、片や14世紀頃の北タイの窖窯である。北タイでは、その窖窯で鉄絵装飾の陶磁を焼成したのである。

須恵器窯では、鉄絵装飾の器物は焼成されなかったが、特徴をもつ形状の器物が多く焼成された。

 

<了>

 

 

 

 


みよし風土記の丘ミュージアム(9)

2019-10-28 07:50:52 | 博物館・広島県

<続き>

復元された素環頭太刀と参考にされた出土太刀、更には三次工業団地の発掘で明らかになった松ケ迫遺跡(弥生後期)の復元ジオラマを紹介する。

復元ジオラマには、様々な形状の建物が想定復元されている。一つの集落に、このような様々な建物が、果たして存在したかとの単純な疑問が湧く。

多くの建物遺物が出土すれば、それらの全体像がつかめるが、全貌が分かるほどの遺物は出土していない。

 

<続く>

 

 

 


<続編>聖なる峰の被葬者は誰なのか?

2019-10-27 06:52:22 | 北タイ陶磁

1980ー1990年代、タークからメーソトにかけてのミャンマー国境に近い、タノン・トンチャイ山中の墳墓跡からミャンマー陶磁やスコータイ、シーサッチャナーライ更に北タイ陶磁や中国陶磁が大量に盗掘された。タイ人は墓を持たないとされておりその墳墓が、どのような民族のものなのか謎であった。

タイの考古学者や知識人が、その墳墓の主の民族は不明とするなか、当該ブロガーが無謀にも『聖なる峰の被葬者は誰なのか?』とのテーマで連載を試みた。その帰結は当然と云えば当然ながら、明確な結論を得ることができなかった。興味をお持ちの方は以下のブログをレビュー願いたい。 

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(1)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/0588d17ccd37b762c468e68cfb33d5db

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(2)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/09157ceb99483956396d8d88b2d8f11f

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(3)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/4607f1dd2dbe286265efa1530f2c5795

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(4)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/7093aefe16868099d39e86858960104f

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(5)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/37cbdc211ffb477495f54ee1fdf12c87

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(6)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/47a4a466e55b60caa6e7944ede6ba174

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(7)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/8ee69b9fc4c8be602b9419a35e116b9e

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(8)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/349e7c907849913d9c495dc42c3ea63d

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(9)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/ce6e908cffa3c4b448d72a92805e8952

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(10)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/fe99cfeab26b6f52102b5495f7aff6a2

〇聖なる峰の被葬者は誰なのか?(11)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/faf8888befdc99acb87b4c116a0a19ad

 

近年、チェンマイ国立博物館は改装工事を行っていたが、先年再オープンした。其処には先史時代の展示も行っている。当該博物館で発行しているガイドブックを参考にしながら、<続編>として再考してみたい。

〇 Ban Yang Thong Tai遺跡

国立博物館のガイドブックによれば、遺跡はチェンマイの北東10kmのドイ・サケット郡に在る。その遺跡は平地に対し1mのマウンド状を示しており、出土遺物が示すのは、ランナー王国初期の墓地である(どの遺物が、それを示すのか説明はない)。そこには赤い胎土の土器、青銅遺物、鉄製工具が当時の人骨と共に出土した。

サミットル・ピティパット教授は、タノン・トンチャイ山脈中の盗掘跡の調査で確認した副葬品に鉄製品や青銅遺物があったことを指摘していいるが、土器については言及されていない。

この遺跡は、タノン・トンチャイ山脈やオムコイ山中の墳墓と同時代で、かつ考古学的発掘であり、もっと精査して欲しい気がする。人骨のDNA解析結果はどうであったのか。是非再調査して欲しいものである。どの民族のものなのか。

 

〇 Ob Luang遺跡

遺跡はチェンマイ県ホート郡のOb Luang国立公園内に在る。考古学的発掘調査によると、文様のある土器片、高坏の破片、磨製石器が出土の品々であった。調査では、岩場の下の崖下に朱と白で描かれた人間と動物の壁画が発見された。

考古学チームっは前史時代の25000年ー2500年前のものであったと考察している。

つまり埋葬主はタイ族南下前の前史時代人であり、課題の中世の人々ではないが、副葬品をともなっっている点は共通である。

 

〇 Ban Wang Hai遺跡

ランプーンの1.5Km程南に位置している。遺跡はクワン川中流の盆地の田圃に在る。

出土遺物より、そこは2つの文化時代にまたがっていたと思われ、同じグループの人々が継続して居住していたであろうとことを示していた(つまり2つの文化時代にまたがり、ある民族が継続して居住していた)。それらの民族は、新しい技術の受入れによって、徐々に変化したであろう。

2つの文化時代の後期に遺骨が無くなったのは、8世紀から9世紀にかけての仏教の到来と、それに伴う火葬の習慣によるものであろう・・・以上、ガイドブックが記す概要である。

このBan Wang Hai遺跡は8世紀半ばに建国されたハリプンチャイ王国と呼ぶ、モン(Mon)族の遺跡と思われる。モン族は仏教を受容し火葬に転換したとある。

タノン・トンチャイやオムコイの墳墓は、土葬もあれば火葬の痕跡も認められている。してみれば、それらの墳墓跡はモン族の可能性が考えられる。

今回『<続編>聖なる峰の被葬者は誰なのか?』と題して、再度考察を試みたが、やはり結論のない噺となった。現代のハイテク分析機器を用いれば、これらの墳墓の主はどのような民族であろうか・・・との命題に一歩近づくとは考えるが、それを行わないのは流石タイではある。

 

追・Ban Wang Hai遺跡出土遺物は写真の磨製石器、鉄・青銅遺物、ビーズなどである。ビーズの装飾物は現代の山岳民族に繋がっている。

 

<了>