世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

前方後円墳は天下布武の象徴?

2024-05-29 08:50:24 | 古代日本

天下布武と云えば信長が思い出されるが、ここでは前方後円墳の形状は、何を物語るか・・・と云うことを記したい。

前方後円墳の墳丘形状は、天円地方説や壷の形状を示しているので、それは壷中の天を表し、桃源郷だとする説まで多彩である(古墳時代の七不思議・其の壱:謎の前方後円墳形状 参照)。しかし墳丘は周濠に囲まれている。

仁徳天皇陵(大仙古墳)周濠を含めると盾に見える

今回は、この周濠を含めた形状を話題にする。その形は盾の姿にほかならない。後世の命名であろうが、盾が並んだ形という意味で盾列(たてなみ)の陵とか、古墳の墳丘上の神社を盾築神社と呼んだりする。周濠を含めた形状は、盾形で盾を伏せたように見える。盾を伏せるとは、戦いをやめるとか終結とかの不戦の意味を持つ。現在でも盾伏舞が奉納されている地区が存在するが、盾伏舞とは戦いをやめる舞で平和舞である。

この盾形状は弥生時代から見ることができそうである。その盾は鳥取・青谷上寺地遺跡や大阪、出雲の弥生遺跡からも出土している。朱色に塗られ上方の両隅が丸みをもち、前方後円墳の周濠の形と同一である。

青谷上寺地遺跡出土・弥生時代の盾

大阪府立弥生文化博物館展示の盾

出雲弥生の森博物館展示の盾

古代の大王や王が、前方後円墳の周囲を盾形にしたのは、その地の征服者として、戦いのない平和な治世を行った証としたと考えられる。いわゆる天下布武の象徴であったと考えるが、如何であろうか。

<了>


誕生 隠岐国展                       

2024-05-09 09:10:44 | 古代日本

過日、県立古代出雲歴史博物館にて『誕生 隠岐国展』を観た。隠岐諸島に地域のまとまりが形成されていく6世紀から、対外関係で重視されるようになった9世紀にかけての、隠岐の古代史をテーマに展示されていた。

個人的には有史以降の歴史については興味を持たないが、何故か対馬、壱岐の弥生時代から古墳時代にかけての遺物が、少数ながら展示されていたので、それらを中心に紹介する。

御存知のように『魏志倭人伝』には、対馬国と一大国(一支国・壱岐国)の様子が著述されている。

始度一海千餘里至對海(對馬)国 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴 又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

対馬は方四百ばかりで山険しく深林が多く、道は獣道で約千戸の人家があるも良い田圃がなく、海物を食して自活している。壱岐は方三百ばかりで、竹木叢林が多く三千余戸で、僅かに田地あるも猶食するに足らずとある。つまり両国ともに南北に交易していると記されている。

その対馬国の存在を示す、弥生時代後期(2世紀)の遺物・粟粒文方柱十字型剣把頭飾と古墳時代の遺物が展示されていた。

弥生時代の一大国(壱岐)の存在を示す遺物の展示はなく残念であったが、そこには原の辻遺跡なる集落が存在していた。そこからは人面石や龍の線刻絵画土器等が出土している。一大国の古墳時代の出土品として、新羅土器が展示されていた。それは過去より、見たいモノのひとつであった。

大和王権は新羅とは友好関係になく、出兵さえおこなっている。そのような中で、新羅との交易を示す新羅土器の出土である。壱岐は新羅と大和王権との仲介をしたであろう。

隠岐は対馬や壱岐とは異なり、弥生時代から古墳時代にかけて、半島と直接的な交渉はなかったであろう。隠岐の古墳時代の出土品が展示されていたが、いずれも本土との交易により入手したもので、半島からの渡来を感じさせるモノはなかった。

隠岐の島町飯ノ山横穴墓(古墳時代終期)出土の壁画片は初見で、隠岐にも装飾古墳が存在していたことは驚きであった。

<了>

 


田中英道著『発見!ユダヤ人埴輪の謎を解く』を突く

2023-11-16 09:36:06 | 古代日本

田中英道氏は千葉県芝山古墳群出土の通称『渡来人埴輪』をユダヤ人埴輪だと、その著書で指摘しておられる。この手の書物は、あまり興味はないのだが、それなりに受け入れられていそうなので、過日一読した。やはり虚実を綯交ぜにした、事実無根の論述であった。大人げないが以下それを明らかにしておく。先ず注目した一文の掲載Pageと、その一文を太字で掲載し、当該ブロガーの主張したい点を⇒に続けて青字で示した。

P35

古事記には、武射国造の氏姓として、牟邪臣(むさのおみ)と記載されており、カバネを有した国造であった。(芝山古墳群から出土した)人物埴輪は武射国造の統治下で作られた。

指摘の通り、そのように考えられる。

P36

高天原は関東にあった。

日本の起源は日高見国に在ったとし、『日本書紀』景行天皇紀は、大和からみた東方が日高見国で、そこが高天原だとする。日本書紀・古事記の曲解甚だしい。

P42

縄文時代・弥生時代は、中国、朝鮮といった近い地域の人々よりも、西方の人々が渡ってくる場合の方が多かったと考えるべきでしょう。すべては太陽信仰のなせることです。いずれにしても、奈良に大和国が成立した後でさえ、そうした西方の渡来人=帰化人がやって来ました。渡来は弥生時代に始まり、大きな波のひとつとして応神天皇の時代を中心とする4世紀末から5世紀初めにかけて、次に5世紀後半から6世紀中頃といった具合に、波状的に日本に渡ってきたと考えられます。

西方とは何を指すのか?西域の人々であろうか? 渡来人の多数が中国や朝鮮半島の人々より、西域の人々であったとの解釈である。根拠の指摘がなく、田中氏の思い込みとしか考えられない。

P43

秦氏は、応神天皇の時代に弓月国から百二十県の人々を率いて渡来したと『日本書紀』に記されている弓月君を祖先とするといわれる民族です。

虚偽記載。『日本書紀』に弓月国はどこにも、記載されていない。『日本書紀』は“応神天皇十四年、弓月君が百済からやって来た”と記すのみである。

P54

『芝山埴輪』は、鍔付帽子と顎鬚、そして美豆良(みずら)の3点セットでユダヤ人の姿形を思い起こす。美豆良はユダヤ人の「ペイオト」ときわめて似ている。

虚偽記載。歴史上、ユダヤ人(ユダヤ教徒)が被るのは鍔なしのキッパー(キッパとも)で、鍔付きの山高帽は18世紀以降で、芝山埴輪の時代には存在していなかった。尚、美豆良はユダヤ人の「ペイオト」ときわめて似ているのは事実。

ユダヤ教徒が被るキッパー 出典:Wiokipedia

出典:はにわ館HP

一つとして同じ山高帽は存在しない。この事実を無視して、山高帽として一括りにする理由が不明である。

P61

秦氏の祖である弓月君は、確かに朝鮮半島を経由しています。しかし、秦氏の系統は『新撰姓氏録』においては『漢』の区分です。つまり秦氏の系統は、当時の朝鮮半島の人々である高句麗、任那、百済、新羅とは別系統なのです。このことは、彼らは西方の人々であるということが一般的に認識されていたことを示しています。そして、このことが秦氏とユダヤ人との関係を明らかにしていくのです。

漢の区分が、何故西方の人々と繋がるのか。漢は漢であろう。また西方の人々が何故ユダヤ人なのか?

『新撰姓氏録』は以下の如く記す。“太秦公宿禰 「左京 諸蕃 漢 太秦公宿禰 秦始皇帝三世孫 考武王之後也」” ここで諸蕃とは氏族を類別した呼称で、中国・朝鮮半島から渡来したと称する諸氏を指す。 ・・・以上、田中氏の都合のよい解釈がお分かりいただけたであろう。

P61-P62

中国の西、ウィグル、カザフスタン辺りに弓月国という国が存在していました。佐伯氏(注・佐伯好郎氏・言語学者)は、『日本書紀』や『日本三大実録』などの史書に残された弓月の民は、この『弓月国』からはるばる日本に渡ってきた人々である、という説を唱えました。佐伯氏は『弓月国』にはユダヤ人景教徒が存在していたことを明らかにし、つまり弓月の民とはユダヤ人であるとしました。

一言で根拠不十分。何度も記すが、中国・日本の古史書に『弓月国』なる文言は、一言も登場しない。登場するのは『弓月道』。

中国で元豊七年(1084年)成立の『資治通鑑』によれば『弓月道』の記載有り。それは唐代の永徽三年(651年)のこととされている。景教が中国に伝来したのは635年とされている。『弓月君』の来朝は、応神天皇14年(実年代4世紀末―5世紀初)であり、その時期に日本はおろか中国にさえ景教は伝来していなかった。従って『弓月国』=『弓月道』とするなら、そこにユダヤ人景教徒は存在していなかった。

 佐伯氏によると、弓月の君は弓月国の人で景教を信仰するユダヤ人で、はるばる日本に来たとしている。弓月君の末裔である秦酒公(はたのさけのきみ)の献上する糸綿絹帛がうずたかく積まれたことにより、「禹都万佐(うづまさ)」の号を天皇から賜るが、佐伯氏はこれをIshu Messiahの転訛とし、イエス・メシア(救世主)であり、キリスト教である証左としています。また秦河勝は大酒(大避)神社に祀られているが、大避は大闢(だいびゃく)でダビデを指すなどの点から、秦氏はユダヤ人の景教徒とされている。

繰り返しになるが『日本書紀』によれば、弓月君の来朝は、応神天皇十四年(実年代・4世紀末―5世紀初)とされている。景教が中国へ公伝したのは、唐の太宗治下の貞観九年(635年)の7世紀であり民間伝来が6世紀としても、話は時代錯誤である。

イエス・メシアの話しは語呂合わせであろう。大避は大闢(だいびゃく)でダビデであるとするが、中国語辞典によれば、ダビデは『大衛』であり、大闢などどこにもでてこない。もう少し詳しく説明して欲しいものである。

 P64-65

日本人のルーツを遺伝学的に研究したウィルス学者の崎谷満氏の「DNAが解き明かす日本人の系譜」によれば

1.遺伝学の分野では、Y染色体のDNAは父系遺伝だが、日本人と中国人や韓国人とは、DNAがかなり違う。

指摘の通り。

2.Y染色体比率

  日本人 O系統 54% D系統 39%

  韓国人 O系統 78% C系統 9%  D系統 4%

  中国人 O系統 82% N系統 13% C系統 5%

  ユダヤ J系統 30% E系統 20-30% R系統 20-30%

かなりかどうかは別として、指摘は正しいとおもわれる。

 3.世界では珍しい古代血統であるY染色体のD系統が日本人には多い。

D系統が多いと云えば多いが、過半数はO系統の54%である。

 4.Y染色体のDNAによる分類をすると、驚くべきことに日本人と地中海の人々が同じDE系統になる。東アジアはO系統、オセアニア・南アジアはK系統になる。

1項で記載したが、日本人の主流O系統で、やはり東アジアの一員のように思われる。 D系統とE系統が親系統・DE系統から分岐して、7.3万年から8.3万年が経過している。親系統が一緒だとしてどのような意味があるのか? ユダヤ人のE系統比率は20-30%で主流たりえない。日本人にE系統が認められないのはなぜか。

 5.同じD系統であっても日本人のD系統は、ほぼ100%近くがD2系統である。遺伝的に近いはずのチベットや東南アジアはD1とD3系統である。

記されていることは事実。しかしD系統の下部系統(D1、D2、D3)の違いが、親系統DE系統の違いより遠いと云うのであろうか?

6.特殊であるD2系統は、日本人にしか存在しない日本の特有である。

日本人にしか存在しないのに、なぜユダヤ人が来朝したと云うのか?

 7.大陸や半島など近隣諸国は、Y染色体のD系統は存在しない。

誤記。チベットで約50%、雲南・貴州で10-50%(場所により差位あり)、韓国で4%。 繰り返すが日本人にE系統は存在しない。

 8.300塩基もの挿入部分をもつ『YAP』という特徴的な変異があるが、この『YAP』はDE系統のみに存在し、他のグループには存在しない。

事実。だからどうなのか? 繰り返すが親系統のDE系統からD系統とE系統に分岐したのは7.3万年以上前である。

 9.このE系統を持つ民族が、ユダヤ人である。

事実。但しユダヤ人のE系統比率は20-30%でユダヤ人の主流ではない。

・・・と、云うことでY染色体を持ち出して、日本人とユダヤ人は親戚だとする論法には違和感を覚える。むしろ東アジアの一員との印象が強い。

 P106

芝山町殿塚古墳:石室の内部は朱が塗られていた。勾玉などの玉類・金環、頭椎太刀(かぶつちのたち)、金銅鈴、鉄鏃、鉄製刀子、銅碗などが収められていました。これらはすべて、大陸に由来するものだということができます

誤解。頭椎太刀は倭人のデザインで、半島や大陸には存在しない。大陸の定義が不明瞭だ。田中英道氏は中国大陸と西方を区別しておられたはずだが?

中段2振りが頭椎大刀で倭式 出典:文化財オンライン

P108

弓月国の人々が朝鮮半島を通り抜けて日本にやってくるということが、芝山古墳群の殿塚をはじめとする関東の遺跡から出土する埴輪およびさまざまな出土品、つまり考古学的発見の事実から類推できるわけです。

さまざまな出土品の具体例が示されていない。上掲の出土品を指すとすれば、弓月国(これも分からない用法だが、ここでは弓月道の人々としておく)の人々が遣って来たという考古学的な証明にはならない

 P109

姫塚古墳の埴輪列の第四群は、男子像十体で構成されていました。あごひげをのばした武人、つまりユダヤ人風の武人とともに、鍬を持った農夫がいました。鍬を持った農夫というところが重要です。これは、ただ単にユダヤ系の人々がやってきたというわけではなく、農耕を行って日本に住みつく意図をもやってきた、ということを示しているからです。

出展:はにわ館HP

男性埴輪は頭部のみも含め10体 農夫埴輪の写真が見当たらないことから、下の写真で考察する。

農夫埴輪 出典:文化遺産オンライン 多分この農夫埴輪のことであろう

熊谷市ヤス塚古墳出土の農夫像埴輪で考察する。農夫が渡来してきたとの根拠が示されていない。農夫がなぜ倭式の鍬を持っているのか? 渡来人といえば今来才伎(いまきのてひと・帰化技術者)であり、農夫が渡来したとは聞かないが・・・。

 武射国(むさしのくに)で大規模な古墳の築造が始まったのは6世紀後半。

そのようである。

 P112―P113

ディアスポラたるユダヤ人たちは、日本にもやってきていました。姫塚が造られたのは6世紀後半ですが、ユダヤ人たちがやってきたのは、もう少し前の6世紀初頭あるいは5世紀末だと思われます。

前章までにも述べてきましたが、第21代雄略天皇の時代です。人物埴輪が数多く作られた時代が、ユダヤ系の人々が日本にやって来た時代だと考えられます。

姫塚は6世紀後半あるいは、7世紀はじめに造られました。つまり、そこに葬られた埴輪たちは、すでに日本に定着していた人たちをかたどったものだということになります。姫塚から出土した埴輪列はきわめて多数です。武蔵国の一領主を取り囲んで、多数のユダヤ系の人々がいたということです。そして、単にいただけではなく、領主の統治行動を助けたということが予想されます。

先ずユダヤ人とユダヤ系と使い分けられているが、各々の定義が示されていないので都合よく使い分けられている印象をもつ。

ユダヤ系かどうかは別にして、弓月君が来朝したのは応神天皇14年(実年代4世紀末―5世紀初)で雄略天皇の時代ではない。ユダヤ系の多くの人々が来朝しておれば、『日本書紀』は記録するはずである。その『日本書紀』が記す、高句麗・新羅・百済・伽耶以外の来朝者は下記の通りである。尚、秦氏記事は記載することとする。

1.雄略天皇十一年秋七月 百済国から逃げてきた者があった。貴信(くいしん)と名乗っていた。あるいは呉国の人ともいう。

2.雄略天皇十四年春一月十三日 身狭村主青(むらてのすぐりあお)らは、呉国の使いとともに、呉の献った手末(たなすえ)の才伎(てひと)、漢織(あやはとり)、呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉の津に泊まった。

3.雄略天皇十五年 秦氏の率いていた民を臣連らに分散し、それぞれの願いのままに使われた。秦氏の管理者の伴造に任されなかった。このため秦造酒(はたのみやつこさけ)は大変気に病んで天皇に仕えていた。しかし天皇は寵愛され、詔して秦の民を集めて、秦酒公(はたのさけのきみ)に賜った。

4.雄略天皇十六年秋七月 詔して桑の栽培に適した国・県を選んで桑を植えさせられた。また秦の民を移住させて、そこから庸調が上がるようにされた。

武蔵国に多くの秦氏系統の人々がいたことは考えられる。しかし、それがユダヤ人であったとの根拠はない。

 P127―P128

ユダヤ系の人々が、機織りの技術や絹の生産技術、あるいは農業技術、灌漑施設の建設技術、そして古墳をつくる土木技術などをもって、日本にわたってきたことは明らかです。それは中国や朝鮮にはない技術です

同時に彼らは、日本にわたってくる途中で入手したアジア各地での技術をもたらし、物品をもたらしてきました。これが、これが天平時代8世紀中頃に始まった「正倉院宝物」に、なぜ中国・朝鮮のものよりも中央アジアからペルシャにいたる広い地域のさまざまな装飾品や仏具の方が多く収められているかということの理由です。

つまり、日本に海外の文化を伝えたのは、中国人や朝鮮人ではなかったということです。正倉院をつくったのもおそらくユダヤ系の大陸の人々であり、その宝物も彼らが聖武天皇に寄贈したものでしょう。

田中英道氏といえば学者である。氏が述べられていることの証明や背景資料の提示なく、単なる〇〇と思われます。〇〇と考えられます式の氏の思い込み以外の何物でもない。

中国や朝鮮にはない技術との断言である。秦始皇帝陵の建設に土木技術は不要なのか、高句麗・将軍塚の立派な切り石の積み重ね技術は、石工や土木技術なくして出来ない代物である。何か差別の匂いがする。

正倉院はユダヤ系の人が建築したと宣まわる。正倉院と云えば校倉造りである。イスラルの古代建築に校倉造りの建造物が残るというのか? 考古学者・石野博信氏の著述によれば、“1991年8月、アルタイ共和国の前6世紀―前3世紀のスキタイ系クルガン(古墳)の棺桶が木槨に収めれており、その地下の井桁組み(校倉造り)を目にして、これぞ正倉院建築のルーツであると、肌で感じたという。”

アルタイといえば、シルクルートの草原ルートであり、そこから中国東北部、朝鮮半島を経由して日本列島にやってきたものである。校倉造りは5-6世紀の高句麗・麻線溝1号墳壁画の高床建物は校倉造りである。その時期の列島では、茨城健玉里村舟塚古墳の家形埴輪は校倉造りである。また建物ではないが、伽耶の大成洞古墳の木槨は、丸太を井桁に校倉造り状に構成されている。ユダヤ人が途中の足跡を残さず、日本列島に遣ってきて正倉院を建てたのではなく、その源流は中央アジアに存在したのである。

玉塚古墳の家形埴輪・校倉造りと思われる 

出典:アジア民族建築見てある記 石野博信著

尚、校倉造りの建造物は、現在でも中国・貴州省や雲南省に実在する。但し、これらは丸太で組み立てられており、正倉院の断面形状・三角の校倉材とは異なる。尚、三角の校倉材は、奈良・纏向遺跡の井堰(3世紀)に校倉造りの技法が使われており、当該技法は弥生末期には伝来していたものと思われる・・・と云うことで正倉院を造ったのはユダヤ系の人々ではなかった。

 P114-P115

殿塚・姫塚両古墳の造営時期は、従来考えられていた時間幅ではなく、6世紀後半の造営とするのが妥当である。これには重要なポイントがあります。ユダヤ人あるいは秦氏の人たちは6世紀後半には、すでに東国に定着していました。――略―― 聖徳太子が6世紀後半から7世紀の初めに登場します。聖徳太子を助けた側近として、秦河勝という存在が知られています。

平安時代初期に成立した『上宮聖徳太子伝補闕記』によれば、“秦河勝は「物部守屋の追討戦(587年)に軍政人として従軍し、厩戸王子を守護して守屋の首を斬るなどの活躍を果たし、秦氏の軍事力を上宮家の私兵として献上した」人物です。――略―― 秦河勝は、姫塚のユダヤ人埴輪が示す人々と連続した勢力の中のひとりとして考えられます。

上掲の一文のどこが、“秦河勝は、姫塚のユダヤ人埴輪が示す人々と連続した勢力の中のひとり”との結論にどのように結びつくと云われるのか?田中氏の思い込み以外の何物でもなく、およそ学者先生とも思われない検証抜きの結論ジャンプである。

 P115

秦氏についてはこれまで、朝鮮系であるとか、あるいは秦始皇帝の末裔であるとか、常に中国あるいは朝鮮の出身であるということが主張されてきました。しかし、そうしたものとはまったく違う、もうひとつの巨大な勢力が日本にやってきていたという事実を、芝山古墳群の殿塚・姫塚は物語っているのです。

P61では、秦氏は『新撰姓氏録』には「漢」の区分であると氏自身述べられているが、当該P115では朝鮮でも中国でもないという。また「漢」を西方(これもよくわからない。西域の人々とされているようだが)と呼び変えて解釈するなど変幻自在であり、信憑性はない。

 第八章 関東にあった日本

関東は当然ながら当時の倭国であるが、その一部であり、政権の中枢は畿内にあった。

古墳の数が畿内より関東が多い。そして畿内より関東に多い人物埴輪、多胡羊太夫の事績を持ち出して「日本国は関東にあった」としておられる。だから「関東にあった日本」であると。まさに意味不明で歯牙にもかからない。

 P129

古墳時代に存在した主な勢力地域というものを見ていきましょう。大和朝のあった畿内の他に毛野(群馬県、栃木県)、尾張・美濃(愛知県、岐阜県)、吉備(岡山県および周辺)、出雲(鳥取県)、筑紫(福岡県)、日向(宮崎県)があげられます。

出雲は島根県です。単なる記載ミスと思うが、一事が万事このいい加減さである。

 P166

和同開珎となる銅を発見した多胡羊太夫。その名に中国の文献では異民族の意味に使われる「胡」という字を含む、日本にはいなかった動物の「羊」の字を含む。多胡羊太夫は、明らかにユダヤ系の人物です。中国ないし朝鮮系ではなく遊牧民系であるということは、先にも触れた通り名前からわかります。

多胡碑によると「和銅四年に近隣三郡から三百を切り取り『羊』なる者に与え多胡郡とした」とある。この『羊』が羊太夫であるとは金石文には刻まれていない。この人物については、諸説百出しており田中氏が説く“ユダヤ系人物説”もその諸説の一つであろう。

日本には存在しない羊という漢字を名前に用いたのか? 和銅四年(711年)に羊は存在していた。羊の初出は『日本書紀』が記している。推古天皇の御代に百済から贈られたとある。“推古七年秋九月一日 百済が駱駝一匹、驢馬一匹、羊二匹、白雉一羽を奉った。”その証拠と云えば何だが、多胡碑建立の時代に羊を象った「羊形硯」が存在する。羊はいなかったのではなく、存在していた。但し高温多湿で繁殖していたかどうかは確かではない。ユダヤの民は遊牧民族系とあるが農耕民です。事実誤認もはなはなだしい。尚、多胡羊太夫は伝説が存在し、実在が疑われている人物です。

多胡碑 出典:Wikipedia

出典:IM internet museum

過日、『伊勢と出雲』展にて羊形硯をみた。想像でこの硯は造形できないであろう。羊は当時実在していた。

以上、田中英道氏の記述内容にことごとく反論した。何か大人げない感慨も無きにしも非ずだが、著名学者にしてはあまりにもお粗末であり記事にした。いわゆる渡来人埴輪は、ユダヤ人埴輪ではなかった。では誰をモチーフにしたのか、ズバリそれはソグド人であった。それについては、改めて記事をUp Dateする予定である。

参考文献

 ユダヤ人埴輪の謎を解く 田中英道著

 アジア民族建築見てある記 石野博信著

 NHKスペシャル 文明の道③ 海と陸のシルクロード

 はにわ人は語る 国立歴史民俗博物館編

 ソグド商人の歴史 ベシエール

 アルタイ山中にクルガンを訪ねて 和田晴吾

 Y染色体 Wiki pedia 他

 新撰姓氏録

<了>

 


秦氏は何者?『太秦・秦氏と秦始皇帝』

2023-11-12 10:04:34 | 古代日本

過日、山城国葛野郡太秦を本拠とした秦氏について調べていると、以下の内容を掲載したブログがHitした。

秦河勝像 大酒神社

曰く“『日本書紀』によると、秦氏の出自は現カザフスタンとウィグルの間にある「弓月国」であるとのこと。弓月国はネストリウス派キリスト教(景教)を信仰する国”・・・とある。多分、言語学者・佐伯好郎氏や田中英道氏の著書を参考にされたものと思われるが、どこの何が出典なのか記載されていないのでよくわからない。しかし『日本書紀』には、上掲の一文はどこにも記載されていない。

『日本書紀』によると秦氏の初出は、以下のようなものである。応神天皇十四年①、弓月君が百済からやってきた。奏上して「私は私の国の百二十県の人民を率いてやってきました。しかし新羅人が邪魔をしているのでみな加羅国に留まっています」と云った。そこで葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)②を遣わして、弓月の民を加羅国によばれた。しかし三年たっても襲津彦は帰ってこなかった。 ―略― 十六年八月、平群木菟宿祢(へぐりのつくすくね)らは兵を進めて、新羅の国境に臨んだ。新羅の王は恐れて、その罪に服した。そこで弓月の民を率いて、襲津彦と共に還ってきた。”

先述の秦氏の出自が「弓月国」であるとは、『日本書紀』は応神天皇条以降のどこにも記載されておらず、ましてや「弓月国」なる文言は、「弓月君」以外にどこにも出現しない。

そこで「弓月君」と「秦氏」についてである。渡来後の「弓月君」の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のようだったことから、仁徳天皇の御代に「波多」の姓を賜ったとされている。

広隆寺山門 秦河勝建立

京都・大酒神社 

創建に関して『広隆寺来由記』では、仲哀天皇(第14代)の時に渡来した功満王(秦始皇帝の後裔、弓月君の父親)が「秦始皇之祖神」を勧請したことに始まるとする

京都・木嶋神社(別名・蚕の社)

秦忌寸都理が祀った松尾大社と同じ神紋をもつ。秦氏との関連が指摘されている

ここで太秦・秦氏は秦始皇帝の末裔であるとの伝承にふれておく。平安時代初期の815年に編纂された『新撰姓氏録』によれば、“太秦公宿祢として「左京 諸藩 漢 太秦公宿祢 秦始皇帝三世孫考武王之後也」”と記され、これは“秦氏は、秦始皇帝の末裔”という意味の記載である。この記載内容は、年代が合致しないなど信憑性に疑問ありとされており、その出自は百済からの渡来(新羅渡来説も存在する)であるものの、その素性は明らかでなく、秦氏自らが権威を高めるために、秦王朝の名を借りたというのが定説となっている。

但し『日本書紀』は弓月君が百済から渡海したと記している。秦末期の動乱時に秦の民が、朝鮮半島に逃れ、その末裔が弓月君の集団であった可能性は考えられる。しかし、これは推論であり、古文献は黙して何も語っていない。

つぎに「弓月国」である。それに関連して中国史書を渉猟したのが佐伯好郎氏である。資治通鑑は元豊七年(1084年)に成立し、全294巻で構成されている。その巻199に「弓月道」との記載がある。“永徽二年(651年)秋,七月,西突厥沙鉢羅可汗寇庭州,攻陷金嶺城 及蒲類縣,殺略數千人。詔左武候大將軍梁建方、 右驍衞大將軍契苾何力爲弓月道行軍總管,右驍 衞將軍高德逸、右武候將軍薛孤呉仁爲副,發秦、成、岐、雍府兵三萬人及回紇五萬騎以討之。”つまり、西突厥の沙鉢羅可汗が幾つかの県や城を攻め数千人を殺戮したので、梁建方将軍、 契苾何力将軍を弓月道行軍総管に任じ・・・・云々とある。ここで「弓月国」との文言はなく「弓月道」と記載されている。この「弓月道」は北海道の用法と同じであるので、一定の地域を表していることになる。

その「弓月道」は、漢族にとって異民族の西戎の地である現・新彊ウィグル自治区伊寧市の弓月城が道都であったかと思われる。この弓月城が秦の始祖あるいは秦始皇帝の系譜とどのような関係にあるのか。

前905年、周の考王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴(えい)の姓を賜り、秦の地に領地を貰ったのが秦邑(現・甘粛省張家川回族自治県)であったと云う。この秦の最初の本拠秦邑と弓月城との関係は、中国史書は黙して語らず、先の資治通鑑も「弓月道」の記載以外に弓月道と秦の事どもについて何も語っていない。従って秦氏あるいは秦の姓である嬴(えい)氏の出自が「弓月城」なり「弓月国」と繋がることは文献上証明できない。

左上の白抜きが弓月城、右下のそれが秦邑。秦始皇帝の始祖(非子)は姜族との説もあるが・・・

思うに「弓月君」と「弓月城」の語呂合わせと、証明不能な『新撰姓氏録』の記載文が連想ゲームのごとく組立てられたものと思われる。

尚、崇神天皇諡号「御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)」の「御間城入彦」とは、任那から倭へ渡来したと云う意味。入彦とは任那から倭へ入り婿となったと云うこと。「イニエ」は「伊寧(いねい、イー二ン)」を表していると考えられるとした、原始キリスト教徒たちは、伊寧(弓月城)から任那へ来て、その人々が渡来したとの説も存在する。まさに苦しい語呂合わせで証明不能な話である。

以上、結論として思うに『日本書紀』の記述によれば、秦氏は百済から渡来した「弓月君」とその子孫で、動乱を避けて逃れてきた漢族であったことは推測できるが、秦始皇帝とつながり、それはユダヤ人であるとの俗説には同意しがたい

注)

①応神天皇十四年: 応神天皇十四年は西暦283年とされるが、そうであれば時代観はまったく合致しない。実年代は4世紀末―5世紀初とされている。

②葛城襲津彦: 武内宿祢の子で4世紀末―5世紀前半頃の人物とされている。

③大酒神社: 延喜式神明帳によれば式内社で、当時は「大避神」と呼ばれていた。祭神は秦始皇帝、弓月君(ゆんずのきみ)、秦酒公(はたのさけのきみ)である。このことも、秦氏が秦始皇帝の末裔であるとの誤解を与えている一要因と思われる。広隆寺由来記では、第14代仲哀天皇の時に渡来した功満王(秦始皇帝の後裔、弓月君の父)が、「秦始皇之祖神」を勧請したことに始まるとする。また、大避神の大避とは、漢語で大闢(だいびゃく)と記し、ダビデをさしており、秦氏はユダヤ人の景教徒だとの解釈もある。ところが中国語翻訳で“ダビデ”と入力すると“大衛”と翻訳される。大闢(だいびゃく)がダビデとの説も今一つ腑に落ちない。

④木嶋神社: 通称「蚕の社」と呼び、秦氏との繫がりが云々されている。神紋は双葉葵で、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が祀った松尾大社の神紋と同紋である。

<了>

 


江田船山古墳:伽耶展に関連して

2023-10-07 07:58:37 | 古代日本

伽耶展のシリーズを中断している。今回は伽耶展に関連して、伽耶との繫がりを示す熊本県北部和水町の江田船山古墳と出土品について記す。

江田船山古墳は熊本県和水町にある墳丘長62mの前方後円墳である。有明海にそそぐ菊池川の中流域の台地にひろがる清原古墳群に属する。石棺式石室から多彩な副葬品が出土した。アクセサリーは5世紀後半頃(冠帽・冠帯・長鎖の耳飾り・龍文の帯金具など)と、6世紀前半頃(広帯二山式冠・耳飾り・飾履など)に、それぞれ副葬されていた。別の人物を飾るアクセサリーであったと思われる。

耳飾りは大伽耶系の特徴を持つが、全長15cmと異常に長い。ガラス玉で飾る浮子形垂飾りも大伽耶ではみられない。ただ新羅や百済の耳飾りにはガラス玉を組み合わせた事例が存在する。大枠は大伽耶系であるが倭風にアレンジされたものである。

冠帽は金銅製で、烏帽子(えぼうし)のような側板二枚の上縁をフレームで固定して本体としている。側板の透か彫りは、絡み合う二匹の龍を中心に置き、その周囲に火焔のような文様を連続してめぐらせる。本体の下縁には裾板がめぐり、本体は立飾りもついていたようだ。さらに、後面には伏鉢装飾が鋲で固定されている。これは百済系の冠帽であり、百済から贈られたものと考えられる。

大きな宝珠形の立飾りを正面にそなえた金銅製の帯冠。帯冠と立飾りは一枚の金銅板から一体で切り出されている。文様は帯の上下の縁に列点文、その内部に蓮花を横から見たような蓮華文が表現されている。立飾りや帯に円形の歩揺を取り付けている。この帯冠は大伽耶のそれと似ているが、百済にもよく似た蓮華文があり、百済・大伽耶系と考えられている。

龍文帯金具は金銅製で、飾板『C』字形の龍文を立体的に表現している。百済・大伽耶系の帯金具である。

被葬者は『ムリテ』という名をもつ人物で、雄略大王に『典曹人』として仕えていた。その副葬品に中国・朝鮮系の優品が多いことから、ムリテは有明海を通じて朝鮮半島と交流していたであろう。そのことを通じて倭王権と緊密な関係にあり、ワカタケル(雄略大王)の宮廷で『典曹人』としての地位を得たものであろう。

彼は主体的に朝鮮半島の諸社会、特に百済や大伽耶と交渉を重ねながら、一方で倭の外交を補佐し、一翼を担うような実力者が葬られた。百済や大伽耶も江田船山古墳被葬者の交渉能力、倭王権とのつながりを仲介する役割に期待すること大であり、百済王権から最高級の冠帽が贈られたと考えられる。

このように江田船山古墳の被葬者は、倭王権と気脈を通じ伽耶諸国や百済と独自に交渉していた。それは北接する磐井君が新羅と誼を通じていたのと対照的である。そのことは雄略大王の時代とは云え倭は一枚岩でなかったことを物語っている。

<了>