世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

装飾古墳は語る(7)・日ノ岡古墳

2022-11-30 08:41:36 | 装飾古墳

不定期連載として掲載した過去6回分をレビューしておく。

 第1回目 装飾古墳は語る(1)・装飾古墳概論

 第2回目 装飾古墳は語る(2)・竹原古墳

 第3回目 装飾古墳は語る(3)・王塚古墳

 第4回目 装飾古墳は語る(4)・梶山古墳

 第5回目 装飾古墳は語る(5)・穴神1号横穴墓

 第6回目 装飾古墳は語る(6)・五郎山古墳

今回は、第7回目として福岡県うきは市の日ノ岡古墳をとりあげる。

<壁画系装飾古墳>日ノ岡(ひのおか)古墳 うきは市 6世紀前半

うきは市吉井町に所在する墳丘長74mとも80m(中には95m)とも云う前方後円墳で、墳丘高さは5mで若宮八幡宮境内の東に位置する。

北部・中部九州を巡る中で、うきは市の吉井歴史民俗資料館を訪れたが、時間の関係で日ノ岡古墳そのものを訪れるのをあきらめた。従って確認し用いる資料は、うきは市HPと吉井歴史民俗資料館で頂いた、古墳石室の縮尺絵図である。

後円部には横穴式石室があり、奥壁には赤・白・緑の3色で同心円文、蕨手文、三角文(鋸歯文)などの文様が描かれ、周囲の壁には武具、魚、船、動物などが描かれている。

白の丸枠内にゴンドラ風の船

右上白丸枠・魚 左下白丸枠・動物

特徴的な文様は、余りにも多い同心円文である。前後左右を合わせれば40個以上にもなる。特に奥壁の一枚岩に描かれた6個の同心円は、大きく描かれ主文様に受け取れる。これをどのように捉えるのか?

熊本県立装飾古墳館掲示の模写図

装飾古墳の文様については、多くの解釈が存在すると云うか百家争鳴である。その中で同心円文は、太陽を表す見解と銅鏡との見解がある。これらの見解は概ね、壁画の内容によって使い分けされているようだ。

日ノ岡古墳の同心円文は、太陽とは異なるであろう。古代中国では射日神話(十日神話)が存在する。十個の太陽がいっぺんに現れ、地上は灼熱地獄となり、作物が全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天から神の一人である羿(げい)が遣わされた。その羿が9個の太陽を射落とすのであるが、日岡古墳では10個どころか40個以上の同心円文が描かれており、これが太陽文であると指摘するに当たらないであろう。

やはり、邪悪な悪霊の侵入を監視したり、撃退する意味合いをもつ銅鏡と理解したい。被葬者は主文様と思われる6個と合計40個以上の銅鏡により護られたことになる。

左の同心円文の右に盾を描く

白丸枠内に靫と大刀

描かれた武具は靫(ゆぎ)と盾であるが、その数は多くは無い。この靫と盾は、他の装飾古墳にも描かれている。靫と盾は辟邪文との解釈もあり、当該古墳でもそのように捉えられなくもないが、数も多くないことから被葬者が、生前身に着けていたものを描いたと解釈したい。

縮尺絵図に白丸で示した動物文様であるが、これをどう捉えるのか。馬にも見えるし、他の四つ足動物にも見える。縮尺絵図を注視しているが、この手の動物文様を他に見ないので、やはり被葬者が生前に騎乗した馬と理解したい。更に白丸で示したゴンドラ風の船も描かれている。これも他の装飾古墳同様に、被葬者の魂を海の彼方の常世(ニライカナイ)へ運ぶものであろう。

このように描かれた文様の意味するところは、他の装飾古墳とおなじであるが、当該古墳が装飾古墳の先駆けである点が重要である。被葬者が誰であるのか、当地を治めていた的臣(いくはのおみ)であろうとの見解がある。当該日ノ岡古墳と隣接する月岡古墳からは立派な馬具・金銅装眉庇付鉄兜・金銅製帯金具・銅鏡6枚も出土しており、日ノ岡古墳と月岡古墳の関係がハッキリしないが、的臣は相当な権力を有した先進気鋭の豪族であったであろう。日ノ岡古墳にも同心円文(銅鏡)よろしく銅鏡も副葬されていたであろうと思われる。

月岡古墳出土・金銅装眉庇付鉄兜(まびさしつきてつかぶと)

月岡古墳出土・金銅装帯金具

ところで西谷正・元九州大学教授は、日ノ岡古墳の奥壁全面を飾る同心円文の多用は、高句麗と係わりがあるかもしれないと指摘しておられる。どこの何をもっての指摘か、それらしき痕跡を探すが良好な事例が見当たらない。それらしき事例があるにはある。それは、高句麗・安岳1号墳(4世紀末)玄室天井に同心円文をみるが、どうみても従文様で、それもその他大勢の文様にしかみえない。この同心円文と日ノ岡古墳の同心円文を結びつけるのは、やや無理筋のように思われる。

高句麗・安岳1号墳の同心円文 出典・全浩天著 高句麗壁画古墳の旅

しかし、先にも触れた隣接する古墳の月岡古墳から、龍文・草葉文透彫帯金具が出土している。この帯金具は遼寧→高句麗→新羅→倭国とルートが辿れることから、西谷正・元教授の指摘は妥当かもしれないが、もうひとつピンとこない・・・と、云うことで装飾古墳壁画の解釈について記してきたが、最後は的外れの話しになった感無きにしも非ずである。

<不定期連載にて次回へ続く>


春咲きの薔薇と百合が咲いた

2022-11-28 09:09:23 | 日記

我が田舎・山陰の今日も最高気温は20℃とか、昨日も晴天で20℃ほどであった。11月も月末で20℃とは、過去に経験したのか、しなかったのか、いずれにしても記憶にない。そのせいであろう春咲きの薔薇が開花し百合も咲いた。

そう云えば先月22日、熊本は和水町だったと思うが、10本近くの桜が一斉に開花していた。これから先、その反対もありそうだ。反対と云えば寒波の襲来か。

<了>


『ハニワの世界へようこそ』展(1)

2022-11-27 08:23:24 | 古代日本

過日、島根県立古代出雲歴史博物館にて展観中の『ハニワの世界へようこそ』展を観た。埴輪に関しては、それなりの想いもあり、過去にも記事にしている。時間があれば、以下の記事も参照願いたい。

       多様な埴輪(1)

       多様な埴輪(2)

       多様な埴輪(3)

       多様な埴輪(4)

       多様な埴輪(5)

       多様な埴輪(6)

・・・と云うことで、すべてを網羅した訳ではないが、それなりの種類の埴輪を紹介してきた。今回は出雲歴博の展示品を紹介する。

先ずは、山陰の埴輪である。そのちょっとした特徴を記す。

以下、出雲型子持壺ただし壺と云っても底なしで、容器の用は足さず、墳丘にならべられていた。次は雲伯系円筒埴輪で一般的な円筒埴輪に比較し小型である。三番目が壺形埴輪で、全国的にみても珍しい部類かと思われる。

以下、馬形埴輪をご覧願いたい。馬形埴輪の疑問や特徴がパネルで説明されていた。参考になるであろう。

熊谷市上中条出土 6世紀 重要文化財

岡山県真庭市・四ツ塚13号墳 6世紀

松江市・平所埴輪窯址 6世紀 重要文化財

広島県・緑岩古墳 6世紀

今回はここまでとして次回へ続く。

<続く>


悲劇の英雄・筑紫君磐井

2022-11-25 07:42:13 | 古代日本

過日、福岡県八女市の岩戸山古墳と岩戸山歴史文化交流館を訪れた。筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)は、ヤマト王権に反逆した賊徒と思いきや、当地では英雄扱いである。果たしてどうか?

岩戸山歴史文化交流館のエントランス前には筑紫君磐井像をみる

九州北・中部で最大規模の前方後円墳である岩戸山古墳は、長さが170m以上で、同時代の今城塚古墳(継体天皇陵)の7割程のサイズである。岩戸山古墳が筑紫君磐井の墓とされるのは、「筑後国風土記」逸文の記載内容と古墳の石人・石馬の破壊内容が一致し、時代観に矛盾が無く、九州最大級の前方後円墳であることから、筑紫君磐井が生前に築造したものであることが特定されている。

岩戸山古墳には石人石馬が並ぶ(但しレプリカ、本物は交流館に陳列)

これだけの規模の前方後円墳と、阿蘇凝灰岩を使った石人石馬は、筑紫君磐井の勢力の大きさを窺わせる。石人石馬は人物埴輪や馬形埴輪を作る労力の比ではない程の人手を要す代物である。それが100点以上出土している。相当な規模の豪族であったことになる。

筑紫君磐井の前身である当該八女の地は、魏志倭人伝に記された奴国の南方の一国であったであろう。彼の地の豪族である磐井一族は、弥生時代から海を制し、大陸や朝鮮半島と独自に交流してきたと考えられる。磐井をはじめ多くの九州北・中部の豪族は、それぞれ独自に半島と交流し、先進の文物を得ていた。

弥生後期 八女・茶ノ木ノ本遺跡出土品

当地の茶ノ木ノ本遺跡からは、原三種の神器と呼ぶべき銅剣・銅鏡・勾玉ならぬガラス玉の頸飾りが出土している。中国本土から直接渡来したか、それとも半島経由であったか。いずれにしても当地の首長(豪族)は先進の文物を入手していた。

しかし、当時の倭国を代表するのは、ヤマト王権であった。百済から求められる軍事支援に対しヤマト王権は、各地の豪族を動員していた。『日本書紀』雄略天皇(第21代・457年―479年)二十三年夏四月条には以下の記載がある。“百済の文斤王(もんこんおう)がなくなった。天皇は末多王(またおう)が聡明であるのを見て、その国(百済のこと)の王とされた。兵器を与えられ、筑紫国の兵士五百人を遣わして、国へ送り届けられた。これが東城王(とうせいおう)である。この年筑紫の安致臣(あちのおみ)・馬飼臣らは船軍を率いて高麗を討った”・・・これ以外に多くの百済に対する軍事的支援記事が、日本書紀に登場する。

倭国渡来の甲冑・池山洞32号墳出土 国立金海博物館にて

日本書紀に記載されているようにヤマト王権が伽耶に贈ったものか、それとも北部九州の首長が贈ったものか、ヤマト王権が贈ったとしても、日本書紀にあるように筑紫から彼の地にもたらされたものであろう。

百済・武寧王陵出土・金製耳飾り

八女・立山山古墳出土・金製耳飾り

立山山古墳出土の首飾りは朝鮮半島南部からもたらされた。北部九州と朝鮮半島南部は一衣帯水の関係にあったのである。

半島情勢が大きく動くのは、継体天皇(507-531年)の時代である。516年に百済が伽耶の一部を物部氏の支援を得て自国領とした。次いで新羅が524年に伽耶南部に侵攻する。これに対し伽耶南部諸国と百済は、倭国に援助を要請した。継体天皇の命により近江毛野臣(おうみけぬのおみ)は、六万の兵を率いて伽耶に赴こうとしたが、磐井は新羅から賄賂を受け、火(肥)国、豊国の勢力と共に、半島への海路を遮り妨害したのが磐井の乱である。反乱は1年半も続いたが、物部麁鹿火(もののべのあらかい)に敗れ、磐井は討たれた。

磐井の乱において物部麁鹿火軍に破壊された石馬 岩戸山文化交流館展示

磐井は、元来ヤマト王権の一員として参画していた。ヤマト王権に出仕し、敵となった近江毛野臣と同じ釜の飯を食った仲であった。磐井の勢力が及ぶ江田船山古墳の地、古墳の被葬者は典曹人(てんそうじん)と呼ぶ文官である。彼の人がヤマト王権に出仕し、帰国後江田船山古墳に葬られたのか、あるいはヤマト王権から派遣された官僚であったろうか。いずれにしても欠字はあるものの獲加多支鹵大王銘をもつ鉄剣が出土している。従前よりヤマト王権と磐井との間に齟齬はなかったのである。

江田船山古墳出土銀象嵌銘文鉄刀:和水(なごみ)町歴史民俗資料館にて

被葬者は典曹人の無利弖(むりて)、欠字はあるが獲加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ)と刻まれている獲加多支鹵大王とは雄略天皇のこと。余談であるが、埼玉・稲荷山古墳から獲加多支鹵大王と刻む金象嵌の鉄刀が出土している。被葬者は杖刀人(じょうとうじん)で武官である。この事から雄略天皇の時代、東は関東、西は九州までヤマト王権の力が及んでいたことになる。

磐井は何故乱を起こしたのか。新羅からの賄賂はあったのか。日本書紀は以下のように記す。“継体天皇は、穂積臣押山を百済へ遣わし、筑紫国の馬四十匹を賜った”。磐井をはじめ九州北・中部の豪族は、度重なる百済の軍事的支援を負担に感じ、領内は疲弊する。磐井等々は、自分たちの権益を守ると共に、疲弊から逃れるために立ち上がったのである。筑後ではヤマトが云う悪者ではなく、領民を護るためのことであり、悲劇の英雄として語られている。そのように捉えると、岩戸山古墳を見上げながら、無念の想いにかられたであろう、磐井の声が聞こえてきそうである。

<了>


最近見たオークション出品の東南アジア古陶磁・#44

2022-11-24 07:50:34 | 東南アジア陶磁

過日、ネット・オークションに出品されていた3点である。先ず、コレは?と思う品から。

シーサッチャナーライ・青磁鳥形水注である。鳥はハンサ(ハムサとも、タイでは確かホンと呼ぶ聖鳥)を写したものである。タイではシーサッチャナーライであれ北タイ諸窯であれ、我が国のように伝世品は、皆無とは云わないが、未だ見た記憶がないほどである。従って発掘品・出土品である。それらは約600年の長きにわたり土の中に眠っていたことになる。多かれ少なかれ貫入や高台に土銹を見ることになる。成程、高台裏には焼台の目跡は、約束事を踏襲しているが、貫入に土銹を見ず、昨日の焼き上がりのように見える。シーサッチャナーライは素人で、偽物と断言する知識をもたないが、限りなく?である。残念ながら2万円で落札されたようである。

それでも、出品者に売りつけた骨董屋はカワイイものである。狡猾な業者は、写真のような今できの品を土中に10年埋める。程よい土銹や時代銹をつける。これにあえば、素人は見分けがつかない。

”な~んでもタイランド2”氏が詳しいので、氏の見立てを聞きたいものである。

2点目はカロンの鉄絵花文盤である。極端に狭い高台幅、砂噛みの胎土と削り痕、貫入の土銹等々申し分なし。25500円の落札である。タイで1万バーツ以下となるが、安い買い物である。最近のタイの相場を知らないが、日本円で5万円は下らないであろう。

3点目は、サンカンペーンの所謂”犬の餌鉢”と呼ぶ、ありふれた灰釉盤である。内面は肌色からやや青磁がかった色合いをしている。最低落札価格がそれなりに設定されていたことから落札者はいなかったようである。本物です。

<了>