世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

フォトジェニックなวัดบ้านเด่น(ワット・バーンデン)

2022-03-09 08:16:15 | 北タイの寺院

過日、ChiangmaiNewsを眺めていると、ワット・バーンデンの記事が写真入りで紹介されていた。以前は「ワット・リ・ブン・ルアン」として知られていたワット・バーンデンは、1894年に低い丘の上に建てられた・・・と記載されている。どうも僧院のようで瞑想施設もそなえているようだが、タイ語の羅列で読む気にならないと云うか、よく読めない。ここのTOPはクルバ・トゥエン・ナツィラロ僧と呼ぶようで、著名な僧侶らしい。当該ブロガーも過去に建立中のところを2度参拝したが、参拝当時も極彩色であった。それに磨きがかかっているようだ。まずはChiangmaiNews掲載の写真をご覧いただきた。

過去2度参拝したときは、写真の孔雀の像は建立されていなかった。近年の建立であろう。

なかには膝を崩した人もいるが、タイ人も日本人同様正座する。敬虔な仏教徒である。

相当な資金が必要であろう。何でもBKKにパトロンがいるとか、いないとか。それにしてもクルバ・トゥエン・ナツィラロ師は相当やり手のようである。

現在、タイ観光はCOVID19のせいでハードルが高いが、観光できるようになり、チェンマイ観光の際には是非訪れていただきた寺院の一つである。

境内にはまだ余裕がありそうなので、今後も寺院建物が増えていくであろうか。メーテン郡の以下の位置に寺院はある。

やや残念なのは、チェンマイ市街より北に約1時間を要すことである。メーリムの象さんキャンプの際に、足を伸ばされてはどうだろうか。チェンマイ旅行時の参考になれば幸いである。

<了>

 


金の糞をするメンシーフーハーター(แมงสี่หูห้าตา)

2018-12-01 06:49:18 | 北タイの寺院

過日、新明天庵氏のブログをみていると、11月18日から28日までチェンライでタイ王国国民体育大会が開催中とのこと。そのブログに紹介されていたのが四耳五目のメンシーフーハーターなる動物のマスコットである。

タイは日本と異なり、毎年開催ではなく2年に1回の開催である。うろ覚えであるが、タイは確か77-78県であったはずだが、これでは一巡するのに150年かかる・・・そのようなことは置いといて、本題である。

自分の目で大会マスコットを見たわけではないので、大会のOfficial siteに掲載されていた写真とスケッチを掲げておく。御覧のようにインパクトのあるマスコットである。

 

新明天庵氏は、ブログに動画を掲載されていた。見ると日常会話もままならないのに早口でさっぱりである。動画では体はライオンのように描かれ、黒色で目は緑色であった。1990年からチェンマイと関わるようになったが、メンシーフーハーターは初耳で、知らないことが未だ多々あるようだ。そこで種々調べてみたが、分からないことが多く、機会が在れば現地で調べてみたい。わずかながら掴んだことは、以下のようである。

『ある日猟師が山に入ると、メンシーフーハーターと呼ぶ四耳五目の動物が足に縄をかけられ、木に吊り下げられていた。猟師は縄をほどき連れ帰ると、火を食べ金の糞をした。その時の王様は欲張りで、噂を聞きつけメンシーフーハーターを猟師から奪い取った。糞をさせ金を手に入れようとする王様に嫌気がさして、メンシーフーハーターは山奥の洞窟に逃げ込んだ。欲張りは駄目だという伝承である。』・・・とのことらしい。伝承と云うより仏教説話のように思える。この伝承の本貫がチェンライの南の小高い丘に建つ、ワット・プラタート・ドイカオクワーイという寺院と分かったが、この寺院の縁起が良く分からず、いつ建立されてこの伝承が生まれたのか、その時期がハッキリしない。

以上のようなことであったが、チェンライではそれなりに知られた伝承で、それが大会マスコットに採用された理由であると考えている。調べていると、メンシーフーハーターはチェンライのみならず、チェンマイの寺院でも見ることができるという。それは旧市街南側のチェンマイ門近くのワット・チェットリンである。この寺院は知らず未だ参拝していない。他人様のメンシーフーハーター像の写真を掲載する訳にはいかないので、それをスケッチしたものを掲げておく。

このワット・チェットリンの寺伝も知らないが、年代記によると古くはワット・ノーン・チンと呼ばれていたとのこと。仏歴2094年(西暦1551年)から2101年(1558年)にチェンマイを治め、最終的にペグー朝によって退位させられたメーク王の即位式はこの寺院で行われた。したがって16世紀には寺院は存在していたことになるが、メンシーフーハーター像がいつ建立されたのか情報が無い。

それにしてもパンダでもあるまいに、白黒のツートンカラーとは?但し最近では黒と茶のツートンカラーにペインティングされているらしい。像には多くの人々が参拝しているとのこと。宝くじの金運祈願である。メンシーフーハーターは王様の欲から洞窟に逃げ込んだが、ここワット・チェットリンでは金運祈願の対象である。仏教説話は何処へ行ったことやら・・・。そう云えば、故プミポン国王は“足るを知れ”とおっしゃっていたが・・・。

先に記したように、この伝承がいつ頃からのものかハッキリしなかったが、このような動物や神話・伝承は東西にあり、日本では三つ目小僧があり、インドではシバ神の三つ目である。西からの伝承の影響を受けたのであろうか・・・?

 

<了>

 


ワット・プーミンの壁画

2016-08-13 07:11:48 | 北タイの寺院

過日、ワット・プーミンについて紹介したが、今回はその壁画について紹介したい。
寺院の建立は1596年、1867年に大修復され其の時、壁画がタイ・ヤイ族の画工により描かれたとされている。
尚、その壁画を紹介したブログは多々存在するので、写真中心でコメントは必要最小限にとどめている。

タイ・ルー族の女性と思われるが、当該ブロガーには随分大柄の女性に見えるが、どうであろうか?

 

 

 

フランスがインドシナに進駐した当時、ナーンの統治下にあったメコン左岸をフランスに割譲した。其の時当地へ進駐したフランス人と思われる。

 

最も有名な壁画である。囁く男性は全身に刺青したタイ・ヤイ族であろうか。女性は微笑みかえしているが、無言の様子である。

タイ・ルー族の富裕層の男性。さすがにこの髪形を現代ではみない。ナーンには存在するであろうか?
御多分に漏れず、剥落や退色が進み始めている。古いものに関心のないタイではあるが、ここはしっかり保存して欲しいものである。


















北タイの仏足石と涅槃仏を訪ねて

2016-08-12 08:24:01 | 北タイの寺院

北タイの極一部であるが、チェンマイやその近辺の仏足石と涅槃仏を訪ねてみた。その目的はサンカンペーン窯の双魚文は、仏足石や涅槃仏の足裏文様と密接に関連していた・・・と考えているからである。結果として期待はずれもあったが、望外の喜びも経験した。訪問順に記述してみる。

<チェンマイ国立博物館>
先ずチェンマイ国立博物館である。14世紀のランナー様式坐像の足裏に、仏足石文様と同じように、魚文が刻まれている。しかし残念ながらその写真撮影は禁止されている。サンカンペーン窯と同時代資料であり、写真を撮りたかったが、残念であった。
当該博物館には、他にも彩漆螺鈿の仏足跡が存在する。残念ながらこれは1794年と解説されており、同時代資料とは成り得ていないが、その文様配置は隣国ビルマの様式を受け継ぎ、14-15世紀もそうであったろうと感じさせるものであった。その中に魚文は存在した。それは螺鈿で表現されているが、ところどころ剥落しているものの、はっきり魚文と認識できた。しかしその魚文は小さく、どのような魚の種類であったかについての、検討は無理である。
当然これも写真撮影禁止であるが、当該博物館のパンフレットに写真掲載されていたので、それを転載しておく。


<ワット・チェデエィールアン>
仏塔の後ろに涅槃仏が安置されている。仏陀の尊顔もこれといった表情はなく、金箔の質が今一つであろうか、印象にのこらない。その涅槃仏の足裏に文様はなく、多少なりとも期待はずれであった。

 

 

涅槃像はセメントと云おうかコンクリート製で、ペンキを塗っていたような形跡があり、興味がそがれることはなはだしい。通常涅槃仏の頭部は方角上北(北枕の語源)になるが、この寺院では西を向いており、その方位については厳格には守られていないようである。

<ワット・プラシン>
ランナー朝第5代・パーユー王の建立で、チェンマイでは、あまりにも著名な寺院である。特に礼拝堂の建物そのものや、プラシン仏はランナー様式の代表と思われる。また本堂の壁画は古く、北タイの風俗を研究する上では欠かせない。
ここの仏塔は辰年生まれを守る仏塔で、辰年生まれの参拝者が絶えない。しかしながら、仏塔は古色を感ずるものの、すばらしいとの印象はない。

 

ここの涅槃仏は、足も枕を敷いており、造形的な美は感ずるが、金箔の質は悪く尊顔も今一つで、足裏に文様はなく、セメントとペンキの剥落もあり、印象にのこらない。
この涅槃仏は北枕どころか、頭部は南向きであり、形にとらわれないのは、タイ人の面目躍如か?

<ワット・プラプッタ・バットタークパー  ランプーン>
この寺院はランプーン県パサン地区にあり、チェンマイ盆地の南端の山塊の麓で標高が少しあり、遠方の盆地の様子がよくわかる。寺域はひろく多くの堂塔伽藍が建ち並んでいる。仏足石は一番手前の堂に安置されている。

 

辺りは赤い色の岩盤に覆われ、どうもその岩盤に仏足が穿たれているようで、その仏足石を覆うように堂が建っている。みると大小二つの仏足石で、一列に並ぶ配置となっていた。その足跡は無紋で、金色に輝いているが、金箔をはったものか、金色のペンキなのか判然としない。しかし、ご利益を求めて多くの賽銭に覆われている。
日本の仏足石を見ている眼には、多少なりとも違和感がある。魚文がある訳でもないので早々に後にした。

<ワット・プラーノンモンチャーン ランプーン>
ここの涅槃仏は新しいと思うが、実に仏陀の顔立ちが良い。それは下目つかいであるが、何か慈愛のようなものを感ずる。また金色ペンキではなく、きっちり金箔で装飾されているのがよい。
その足裏をみると一列状に爪先から、小さな魚が、中央には法輪が陰刻され、かかとには大きな魚が描かれている。魚文は大小ともに黒い線で描かれ、漆であろうと思われた。しかし、その足裏の前に写真のように、無粋にもチーク材にタイの田園光景を彫り込んだ額が掲げられ、右の足裏は隠れてしまっている。

 

魚文の様式は、東南アジアで広く普及しているものから離れ、自由闊達で単純化されており、なにかすっきりした想いが残った。
<ワット・プラタート・ハリプンチャイ  ランプーン>
ハリプンチャイの故地に建つ名刹である。寺域も広くどこにあるのかと探した。それはセメントでつくられ、写真のように一番大きな外枠に相当する仏足、更に細分化された仏足と、あわせて四つの仏足が刻まれている。
賽銭と共にゴミも落ちており、セメントの無味乾燥と相俟って、とても有難味があるとも思えない。


<ワット・プラケーオ・ドンタオ ランパーン>
この寺院の由来を事前調査していなかったが、寺域のひろい寺でビルマ様式の仏塔は内部が御堂になっており、その装飾がすばらしい。それは韓国・釜山で参拝した梵魚寺の装飾と似通っているのが印象的である。
この寺院に涅槃仏があった。像は多分コンクリート製であろうが、一応金箔らしきものが貼ってあり、その像は涅槃そのものであるが、顔立ちはランプーンのWat Phra Norn Mon Charngには及ばないと思われた。注目の足裏文様であるが、無文であったのが残念である。

 


<ワット・ポンサヌックヌーア ランパーン>
この寺院も由緒を調べておらず、且つガイドブックにも掲載されておらず、今まで見てきたように期待はできなかった。しかし偶然の産物であるが、涅槃仏の足裏文様を描き込んでいる場面に遭遇した。

 

 

見ると、金箔がところどころ剥げ、足裏文様も含めて補修しているという。その御堂は鍵がかかり、堂内に入れなかったのだが、足裏文様を描き込んでいる職人さんに、声をかけると開けてくれた。涅槃仏の下側の足、つまり右足裏の文様は描き終わり、今は残りの足裏に文様を描いていると言う。見ると腕前は相当のようだ、しかも若い職人である。
その文様は足裏を108に区画し、そこに中世以来の伝統的な文様が描き込まれている。見ると、探し求めた二匹の魚が波頭に飛ぶように描かれている。まさしく双魚文である。その様子からは淡水魚ではなく、海水魚のように思われるが、どうであろうか。
釈迦の尊顔は慈愛にあふれ、いい御顔であり、先に見たランプーンのWat Phra Norn Mon Charngの涅槃仏と双璧との感じを抱かせる。
仏足石はいずれも新しいものの無紋で、その古様を示しているが、コンクリート製であったりして、個人的には今一つの感じである。一方仏足跡としての、涅槃仏の足裏文様は、見るものが多かった。
サンカンペーンの盤に用いられる、双魚文との関係を実際の目で確かめたいとの想いで巡った。サンカンペーン窯のそれは、直接的にはパヤオ窯を含めたタイ北部諸窯を経由した、中国の影響が考えられるが、それを受け容れる下地、あるいはそれ以上の存在感として仏教が、影響していたであろうとの想いである。残念ながらチェンマイ国博の同時代足裏文様の写真撮影はできなかったが、そこで用いられたであろう文様の証左らしきものには、巡りあうことができた。
北タイの仏教受容と魚文の下地が、サンカンペーンでの双魚文を支える土壌であったと、再認識した次第である。




仏足石を訪ねて

2016-08-11 08:00:37 | 北タイの寺院
仏足石を訪ねて

中国や東南アジアでは陶磁器や漆器、さらには各種の装飾文に魚文や双魚文を見ることができる。古来中国では魚の卵は多く多産であることから、家門繁栄の象徴とされてきた。魚文のルーツを探ってみると金石併用時代頃(紀元前2000年)からのものらしい。
インドでは星占術に転用され、十二宮の双魚宮に該当している。つまり釈迦入滅後の信仰のよりどころとしての仏足石に、魚や双魚として刻まれる所謂双魚相としての概念は土俗信仰として定着していた。・・・このことが仏足石をはじめ数々の造形物等の装飾文様として採用された所以と考えられる。
過日、日本最古の仏足石を見に奈良・薬師寺に行ってみた。これらの写真は薬師寺が発行しているパンフレットから転載したものである。写真の仏足石を見ても、その拓本を見ても中央の法輪はなんとなく見えるが、魚文は親指の根元にあるものの認識しづらい。

現物は大講堂の後堂に安置されているが、現物をみても明瞭に認識しづらいのは、前述の通りである。その仏足石は石と云うより、岩の表面を刻んだもので、その色は黄土色で彫は浅く、長い年月による磨滅もあろうかと思われた。
この仏足石の由来は以下のようであると云う。唐の王玄策がインド・鹿野苑にある仏足石を長安の普光寺に写し伝えたものを、遣唐使として渡唐した黄文本実(きぶみのほんじつ)が唐で写し請来した仏足跡を、天武天皇の孫である文室真人智努(ぶんやのまひとちぬ)が夫人の追善のために、753年(天平勝宝5年)につくらせたものと伝えられている。
日本最古である薬師寺の仏足石について、実見した様子を交えて記述してきたが、これとは別に金堂に安置されている、薬師寺の本尊である薬師如来座像は、左脚を上にした結跏趺座であるが、その足裏に仏足文が彫金されている。それはパンフレットに写真入りで掲載されているが、実像は台座の上に載り、足裏を見ることは角度的に無理であった。

その写真によると法輪のほか、指に卍花を刻むなど、吉祥文が表されている。これらは仏の三十二相に基づく表現である。第2趾(足の人差し指)の根元に魚文が刻まれており、それは明瞭に見ることができる。上述の如く当日実見できないのが残念で、鏡でもついておればとも思うが、それは無理な相談であろう。
京・東山・智積院にも仏足石がある。過去何度か見ているが、古来の装飾文様である魚文や双魚文の意識で見ていなかったため、どのような文様であったのか記憶がなく、今回改めて確認した。本堂に向かう参道の左側にそれはある。仏足石の横にある奉納の由来碑文によると、ブッダガヤにあるものに倣ったと刻文されているが、ブッダガヤの現物を知らないので論評のしようがない。
左右共に、第3趾の根元に双魚文が刻まれ、彫が深いので明瞭である。昭和五十三年六月十四日の建立と碑文に記されているので、新しい仏足石である。
五条通りを下った塩竃町の上徳寺にも仏足石があるとのことで、そこに向かった。仏足石は雨に濡れ、文様が明瞭に見えない。ここは智積院とは違い、文様部分が浮彫になっていた。
この寺院は1603年(慶長8年)に建立され、この仏足石は平成十年十一月建立された新しいもので、魚文は双魚ではなく、単魚文である。
インターネットで仏足石について、種々検索していると日本には約120の仏足石が存在するとのこと。山口県では防府の周防国分寺と山口の瑠璃光寺にあるとのことであった。
国分寺は、天平13年(741)聖武天皇の勅願(詔)によって諸国に68ケ寺建立された官立の寺院である。現在の伽藍は、奈良時代の創建時の位置に立っており、仁王門・金堂・聖天堂・二の門などが現存しているが、国分寺の中で最も古い金堂は、二層入母屋造りになっており、1779(安永8)年に、毛利重就によって再建されたものであり、国の重要文化財に指定されている。

その金堂に向かって右側に写真の仏足石はあった。それには文様はなく古様をしめしているが、建立(奉納)の縁起の記載はなく、比較的新しいものかと思われる。
下は山口・瑠璃光寺の仏足石で本堂に向かい右側に鎮座している。瑠璃光寺と云えば大内義隆を思い出すが、それは今回の主題ではないので置いておく。
曹洞禅の寺院で本山は永平寺とある。今回までに2度来たが、全く気付かなかった。ここの仏足石も近年の建立と思われ新しい印象である。そこには多くの賽銭が置いてあったが、多くは法輪の上であり、双魚文を見ることはできた。それは浮彫の陽刻となっている。この仏足石の文様とその配置により、日本では大きく4つに分類されているそうである、この仏足石がそれらのどれに相当するのか調べていないが、京都の寺院でみかけるタイプと似ている印象をもった。
比較的新しいと思われる仏足石に賽銭。宗教に無関心の日本人とは云うものの、捨てたものでもないか。