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ザイム真理教が記す”失われた30年”

2023-09-28 09:08:53 | 日記

『伽耶展』を一時中断して記す。過日、森永卓郎氏の著書『ザイム真理教』を一読した。政府はプライマリー・バランス云々を金科玉条の如く唱えるが、それは年々改善されており、増税議論はもってのほか。森永さんが唱えるよう減税すべきである。

森永さんは、近年の増税が可処分所得を減少させ、それが失われた30年の元凶だとして、以下のように記している。

出典:総務省『家計調査』

税金と社会保険料だけを差し引いた世帯主収入は33年間で、384万円から398万円へと3.8%増加している。

この間消費税率が新設され10%(食品8%)にまで上昇した。この間の間接税(消費税)の負担増は32万円となっている。つまり33年間で、税金は36万円、社会保険料は41万円も増えたことになる。

消費税も含めた税社会保険料を差し引いた世帯主収入の手取りは、384万円から366万円と、18万円も減少している。

失われた30年、日本企業がイノベーションを怠ったとか、企業が雇用維持のため昇給率を抑えたとか云々されているが、上表をみればあきらかであろう。『急激な増税と社会保険料アップで手取り収入が減ってしまったから』だ。使える金が減れば、消費が落ちる。消費が落ちれば、企業の売り上げが減る。そのため企業は人件費を削減せざるを得ない。

以上が、『森永卓郎氏の失われた30年』論である。これには異論がある。日本経済を語るにあたり、国内経済だけで論を進めるには無理がある。世界経済の一翼に参画しており、その論点が欠落している。企業の売り上げが減るのは、国内市場のみを対象とした企業であり、輸出すれば売り上げは増大する。その観点がスポッリ抜け落ちている。やはり、日本企業はイノベーションを怠ったのだ。それについては次回説明したい。

<了>

 


伽耶展(15)

2023-09-25 10:05:38 | 日本文化の源流

<続き>

第二部 渡来人

渡来人とは何か

第一部の出典展示物の紹介を終え、今回から第二部である。先ず『渡来人とは何か』とのテーマで、主として奈良・新沢千塚126号墳出土遺物を中心に紹介する。

この渡来人埴輪については、過去記事にしたが、今後関連記事をUpDateしたいと考えている。

これは、熊本県氷川町物見櫓古墳出土の金製垂飾付耳飾りである。鎖を有しており、大伽耶の特徴を示している。

以下、奈良・新沢千塚126号墳出土遺物である。小型の長方形墳で被葬者は中国東北部あるいは朝鮮半島から渡来した女性であろうとされている。日本書紀は5世紀に女性の貴人が渡来したとの記載はないが、交流は活発であったので、記録に残らない貴人の来朝があったと考えられる。

金製垂飾付耳飾り:大伽耶の特徴を示している

166・銀製釧 167・金製指輪 168・金製螺旋状指輪 169・銀製指輪

170・金製歩揺 171・硬玉勾玉 172・金製空玉 173・銀製空玉

174・ガラス小玉 175・金箔入りガラス丸玉

以下、今回の展示はなかったが、新沢千塚126号墳出土品である。

銅製火熨斗(アイロン)

金製方形板

ガラス碗

ガラス皿

新沢千塚126号墳出土のガラス碗は、東京理科大の蛍光X線分析では、ササン朝ペルシャとされている。これと似た碗が先に紹介した陜川玉田(きょうせんぎょくでん)M1号墳出土のガラス碗とほぼ同一であり、新羅・金鈴塚出土のガラス容器に似ている。やはりペルシャ→新羅→伽耶→倭のルートで将来されたものと思われる。

ガラス皿は、ラスピラズリを思わせる濃紺の容器で、まさに貴人のもちものであった。

<続く>

 


伽耶展(14)

2023-09-21 08:11:08 | 日本文化の源流

<続き>

第一部 伽耶の興亡

第5章 伽耶のたそがれ 6世紀前半ー中頃

6世紀に入ると、百済や新羅が、伽耶の地の統合をもくろむようになる。伽耶はたくみな外交により、生き残りをはかった。それは、ある時までは功を奏したが、徐々に苦境にたたされる。ついに562年に大伽耶が新羅に降伏し、伽耶は東アジアの舞台から姿を消すことになった。その時期の遺品がてんじされていた。

ここまで第一部 伽耶の興亡 とのテーマで展示品を紹介してきた。古墳時代の倭に伽耶諸国は大きな影響を与えてきたが、必ずしも一方通行ではなく、倭の品々が伽耶から出土することから双通行であったことがわかる。その中で謎めいたことも存在する。次回、それを紹介したいと考えている。

参考文献

アクセサリーの考古学 高田貫太 吉川弘文館

海の向こうから見た倭國 高田貫太 講談社現代新書

幻の伽耶と古代日本 文芸春秋編 文春文庫

古代倭と伽耶 時空旅人 2022年11月号

<続く>


伽耶展(13)

2023-09-18 08:46:35 | 日本文化の源流

<続き>

第4章・『伽耶王と国際情勢』とのテーマの展示品の2回目である。

大伽耶の地で葬られた倭人か・・・山清生草9号墳

この地は、大伽耶から朝鮮半島南岸に至る南江ルートの要衝のひとつである。5世紀後半から大伽耶の滅亡のころに造営された古墳群である。その9号墳から大伽耶系の土器と共に、倭でつくられた須恵器12点と鏡が副葬されていた。さらに赤色顔料を詰めた小壺も副葬されていた。生草古墳群の中で倭系の副葬品が出土したのは、9号墳が唯一である。

被葬者が大伽耶へおもむいた倭人だったのか、それとも倭人と交流を重ねた現地のひとだったのか、黙して語っていない。それでも、須恵器が副葬されていること、大伽耶圏では中小の墓に鏡を副葬する習慣はないこと、倭の古墳に副葬される朱入り壺も、大伽耶ではその習慣がないことから、9号墳の被葬者は倭の葬送儀礼によって葬られたことになる。

朱入り小壺 山清生草9号墳 大伽耶 6世紀前半

須恵器 固城松鶴洞1Aー1号石槨 小伽耶 5世紀後半

須恵器は固城松鶴洞古墳からも出土している

上掲2点の須恵器は 山清生草9号墳 大伽耶 6世紀前半

珠文鏡 山清生草9号墳 大伽耶 6世紀前半

眉庇付冑 金海杜谷43号墳 金官伽耶 5世紀前半

大伽耶と新羅の境界

陜川玉田古墳群は洛東江の西に位置する。大伽耶を構成した勢力のひとつ多羅に比定されている。ここで独特な金製耳飾りが出土した。この耳飾りは大伽耶の意匠と新羅の意匠の双方が見られる。

以上で2回に渡って第4章の展示品を紹介した。次回から第5章『伽耶のたそがれ』のテーマで展示品を紹介する。

参考文献

アクセサリーの考古学 高田貫太 吉川弘文館

海の向こうから見た倭國 高田貫太 講談社現代新書

幻の伽耶と古代日本 文芸春秋編 文春文庫

古代倭と伽耶 時空旅人 2022年11月号

<続く>


伽耶展(12)

2023-09-15 08:10:42 | 日本文化の源流

第一部 伽耶の興亡

第4章 伽耶王と国際情勢

5世紀前半に、金官伽耶の王族墓地(金海大成洞古墳群)で大型墓の造営が中断する。背景は広開土王碑に刻まれた西暦400年の高句麗による金官國(金官伽耶)への侵攻の結果である。

金官伽耶と入れ替わるように伽耶の盟主となったのは、大伽耶であった。高句麗の南下により金官伽耶の王族や有力者は、大伽耶や倭へ移動したかと思われる。

大伽耶と倭の関係は、百済による大伽耶圏の一部(ソムジンガン流域)の領有を倭が認めたことによって、一時疎遠となったが、大伽耶は孤立を避けるために倭との関係を改善せざるを得なかった。この時期の大伽耶の周辺には、盛んに倭系古墳が築かれた。その被葬者は倭からの渡来人や倭と深い関係を持つ人だった。

5世紀後半に至ると、倭では大伽耶系のアクセサリー、装飾馬具、武器等の文物が古墳に副葬された。江田船山古墳はその事例の一つである。その頃に大伽耶は、洛東江より西側の地を統合するほど力をつけた。479年には伽耶で唯一、中国・南斉に遣使を果たし、輔国将軍・加羅王に冊封された。481年には高句麗の新羅侵攻に対して、百済ととに援軍を送っている。

今回は、やや順不同なるも『伽耶王と国際情勢』とのテーマで出品物を紹介する。

<伽耶王と倭>

帯金式甲冑 高霊池山洞32号墳 大伽耶 5世紀中頃

大伽耶の中心地、高霊や陜川には倭系の甲冑や須恵器がもたらされた。5世紀中頃の王陵級古墳である高霊池山洞32号墳では倭系甲冑が副葬されていた。大伽耶による対倭交渉は、新羅や百済と同様に、高句麗の南下対応策であったと考えられる。

<伽耶王と新羅>

蛍光X線による分析の結果ササン朝ペルシャのガラスであった

<伽耶王と中国、百済>

中国製の青磁鶏首壺が5世紀後半の南原月山里M5号墳から出土

大伽耶と百済の関係は、百済の海上交通にかかわる祭祀に大伽耶が参加したと云われている。

扶安竹幕洞祭祀遺跡 百済 5世紀後半

参考文献

アクセサリーの考古学 高田貫太 吉川弘文館

海の向こうから見た倭國 高田貫太 講談社現代新書

幻の伽耶と古代日本 文芸春秋編 文春文庫

古代倭と伽耶 時空旅人 2022年11月号

<続く>