世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

ปลาอานนท์(プラー・アーノン):LAN NA EXPO 2018にて

2018-06-28 10:25:59 | 古代と中世

過日、チェンマイ・エキシビション&コンベンション・センターで開催のLAN NA EXPO 2018に行ってみた。前回は2015年のそれを見ているので、今回で2回目である。年々規模が大きくなっているか、縮小しているかは分からない。

中央ゲートであったかどうか忘れたが、写真のゲートを潜り直ぐ右手のブースに木彫の職人が出展していた。それが以下の写真である。

素材はチーク材であろうか? 職人さんに聞くのを忘れてしまった。

タイでホンと呼ぶハムサの彫像である。ハムサはブラフマー神の乗り物である。

ケースにはナーガの彫像が収まっている。蓮池であろうか蓮花の彫り物も見事である。何やら出目金のように見える双魚の彫像があった。

これは何ぞや、職人氏に尋ねるとปลาอานนท์(プラー・アーノン:アーノンと呼ぶ魚)だと、教示して頂いた。

タイに於ける宇宙観は、西方インドの影響つまり、ヒンズーや南伝上座部仏教の思想を受け継いでいる。それによると須弥山(スメール)は宇宙の中心で、プラー・アーノン(サット・ヒマパーンに棲む魚)によって支えられ水面に浮かんでいる。そこは天の神から地獄の悪鬼までの住処である。神か鬼かについては、知恵と徳行により区別される。

プラー・アーノンは須弥山を支えているが、姿勢を保っているため窮屈で、時々動くことが在る。その体を動かすと地震を起こすという。仏教に於ける世界観は須弥山を中心に七山八海で構成されている。従ってプラー・アーノンは7匹棲息するという。

長々と記述したが、ヒンズーや仏典に登場する聖獣や聖魚が、木彫の対象になる北タイ。中世以来の原風景をみる想いであった。

<了>

 


CHAO365号『特集:ラーンナー古陶磁の窯址を巡る・カロン窯址編』

2018-06-26 10:47:59 | チェンマイ

チェンマイで発刊されている、日本語無料情報誌CHAOに前回の364号に続き寄稿した。それが365号『ラーンナー古陶磁の窯址を巡る・カロン窯址編』である。

『カロン焼きが生まれた場所へ』がテーマで、下記内容で構成している。

〇窯址巡りの前に立ち寄ってみては?

 メーカチャン温泉の『クワンおじさんの骨董店』と、ワット・ウィアンカロンの博物館を紹介している。

〇カロン焼物の分類とその特徴

〇さあ、窯址巡りをしてみよう!

 トゥンマン・ポーター古窯址、フェイ・パヨーム・ポーユエン古窯址、メー・ヒェウ・サオケーオ古窯址の3箇所を紹介。

以上の内容である。日本在住者で興味をお持ちの方は、CHAOの連絡先にコンタクトされ入手されたい。

今号から、窯址位置を紹介しているが、これを見ただけでは、窯址に到達するのは容易ではない。当該ブロガーの経験では、タイ人日本語ガイドと一緒に何箇所かの窯址を探索したが、辿り着けなかったことを何度か経験した。多分200-300m以内には辿り着いたと思うが、その200-300mの何処かが分からないのである。

従ってタイ語もままならない日本人が、ガイドもないなかで辿り着くことは不可能に近い。目的の窯址所在位置を知悉する村人、望みはその地主が最良だが・・・、それらの人物を探し出すのが不可欠である。

失敗事例を一つ。CHAO編集人兼発行人のT氏と2014年、SanSai古窯址探索に出掛けた。場所はメージョー大学の西約200mであったが、T氏の堪能なタイ語で村人に質問を繰り返したが、辿り着けなかった。事前の情報では名前を忘れた寺院の近くだという。その寺院には辿り着けたものの、窯址位置が前述のように村人に質問するも分からない。

この寺院近くにクリークが存在する。窯業には水が欠かせないので、そのクリークの周辺とは思うものの、結論としてはあきらめざるを得なかった。

確実なことは緯度経度が分かればよいのだが、そこまで記載した情報は先ず得られない。従って日本人の数寄者で是非窯址巡りをなされたい方は、事前に情報の収集と、タイ人日本語ガイドの確保が不可欠である。

<了>

 


メナム・ノイ古窯址(3)

2018-06-26 08:59:29 | 窯址・タイ

<続き>

前回は、インフォメ―ションセンターに掲げられているパネルを紹介したが、今回はそのパネルにそう展示陶磁を紹介する。先ずジオラマが在り、陶磁の作陶風景を垣間見る仕掛けになっている。轆轤ないしは回転台の上で大壺が成形されている。多分紐作りで成形しているであろうが、その詳細まではわからない。

明時代の青花磁器の破片も同時に出土したようである。

 

<続く>

 


メナム・ノイ古窯址(2)

2018-06-25 08:59:54 | 窯址・タイ

<続き>

今回は下の1番の建物であるインフォメーションセンターと、そこの展示物を紹介する。

インフォメーションセンターの外には写真のパネルが設置されている。ノラシンガなどの寺院装飾の焼物、いわゆるメナム・ノイの四耳壺、はたまた焼台の写真が掲載されている。つまりはこれらの陶磁が焼かれていたことになる。他にも焼成物のパネルが展示されていたので、それらを紹介する。

これは先にも説明したが、仏教と寺院関連の焼成物である。

土管も焼成され、飲用水の確保に用いられていた。考えようによっては、上水道施設は当時の日本より進んでいたか? 合わせて焼成道具として焼台やトチンが用いられていた。重ね焼きが行われていたのである。

四耳壺、双耳瓶、甕などのコンテナーが大量に焼造された。特に四耳壺は那覇・首里城京の内遺跡や堺の環濠から出土している。焼酎も四耳壺で沖縄に運ばれ、その焼酎から泡盛が生まれた。現在でも泡盛の原料はタイ米である・・・横道にそれた。

これらの焼物は次図のように窯詰めされたようである。重ね焼きが採用され、1回あたりの焼成数は1000個を上回ったであろうと想定されている。

シーサッチャナーライ窯と比較して窯形式を紹介していたので、それを記しておく。

 パネルは仏歴で記しているが、西暦に置き換えると開始は14世紀中頃で盛時は16世紀としている。窯は地上タイプの横焔式単室窯でその最進化形である。この形の窯がメナム・ノイ窯とされており、シンブリー県チャオエンクラット副郡でノイ川河畔に200基以上の窯が在ったとされている。

<続く>