世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

ดอกงิ้ว(ドーク・ギウ)の咲く処・雲南タイ族の世界(3)

2021-06-05 07:04:51 | 古代の東南アジア

【サクディナー制】

文言のみで恐縮である。タイ大好き人間なら『サクディナー』との文言を一度は耳にされたことであろう。ここでは現・タイ王国の領域におけるサクディナー制について、『雲南タイ族の世界』のなかで古島琴子女史がふれられている。王権は仏教の因果応報や輪廻転生の論理を利用し民衆を支配したが、その支配権を確立するには、ピーを信仰する民衆の抵抗にあった経緯が記述されている。記述によれば、そのような伝承が存在していたのか・・・と、タイ人の一面を垣間見せる話しである。

以下、引用する。“封建領主性をサクディナー制と云い、国家が成立すると古代タイ族の村落共同体はサクディナー制へと発展し、大共同体を代表するものとしての国王が、多くの村落共同体を支配した。・・・アユタヤ時代サクディナー制が強固になったのは700年前、上座部(小乗)仏教の布教とほぼ同じ時期である。村落が国の権力に掌握された後、イデオロギー面では仏教が村落に浸透し始める。・・・国家は仏教の徳と業の論理を使って王族や高官の存在を納得させた。つまり村人は前世で犯した悪業のために貧困に苦しまなければならないが、国王・高官は徳を積みよいことをしてきたからそうなった・・・という論理である。しかし、村落共同体の精神的支柱であるピー信仰のなかでは、『社会における人々はみな兄弟、親戚であり平等であり、支配階級もなければ被支配階級もない、一方の階級から貢納を受ける階級もなかった』から、ピー信仰では支配階級の存在を民衆に認めさせることはできなかった。仏教の因果応報の論理は、ピー信仰の平等の論理を排して支配階級の存在を納得させるうえで有効な論理であった。庶民(農民)は十分に納得できないまま、この論理に従ったと云われている。封建領主性と仏教の伝播はこのような関係にあり、タイ国仏教が浸透したのは14世紀末から15世紀のことであった。

しかし、仏教の伝来当初、ピー信仰の激しい抵抗にあった。例えばピー信仰の祭祀には動物の生贄を欠かせないが、仏教の殺生戒はそれを真っ向から否定するものだったからである。タイ族の村人にとっては受け入れがたい教えであった。”それを物語るものとして以下の伝承が伝えられている。

“ある日、仏祖が宮殿の大広間でお経を読んでいるところに神仙地祇、龍王が人間の高官貴族の姿でやってきた。彼らは仏祖を見るとひざまずいて合掌したが、スカートをはいたタイ族の老女だけは昂然と頭を上げて立っていた。天神地祇や龍王は驚き、仏祖は激怒して「お前は何者だ!なぜ私を拝まないのか!」と怒鳴った。すると老女は、「私はヤ―・クワン・カオ(稲魂おばあさん)。この土地の者だ。地上の人間とすべての動物は私がいなければ生きられない。私は誰よりも偉いから立っている。私がひざまずいたら人類は飢え死にするだろうよ」と嘲笑した。

怒り狂った仏祖が、「一番偉いのは私だ。傲慢無礼なおまえなどどこかへ行ってしまえ」と怒鳴り、天神と一緒に彼女を追いだした。

稲魂おばあさんは土地を離れ、遠い無限の底に去った。地上ではたちまち作物が枯れ、一年たっても収穫が無い。人間も動物も飢えに苦しみ、仏祖と天神を恨む声が高まった。天神は仏祖の足元にひざまずき、「偉大な仏祖さま、世間は食物がなく苦しんでいます。万能の仏祖さま、どうぞ人間に食糧をお与えください」と懇願したが、仏祖は一粒の米も出すことができなかった。天神たちは「稲魂おばあさんに帰ってきてもらおう」と、闇の地方に迎えに行った。

稲魂おばあさんが地上に戻ると、たちまち作物はよく育ち、仏祖と神々は稲魂おばあさんがかけがえのない神であることを認めないわけにはいかなかった。それ以来、仏祖の前でみながひざまずいても、稲魂おばあさんだけは昂然と立っている。

タイ族にとって稲を実らせる稲魂はもっとも重要な霊魂である。仏陀にひざまずかず、仏陀にはない稲を実らせる力を持つ稲魂おばあさんの物語は、タイ族社会におけるピー信仰と母性原理の強さを表しているように思える。

従って、タイの村人は仏教の論理によって支配階級の存在を納得させられても、『村の日常生活にまで仏教が浸透することには抵抗し・・・サクディナー体制においても、ピー信仰は村の中心として存続し・・・仏教の方が土地の信仰に合わせなければならなかった・・・国王を正当化する国家仏教に覆われながらも村の霊に対する信仰は存続した』のであった。このようにしてピー信仰と仏教は闘争の末に相互に影響しあう二者共存に落ち着き、仏教はピー信仰に合わせた儀式を行うなどの改革を経て、村人の日常生活に浸透していった。・・・以上が古島琴子女史の語るところである。

そういえばソンクラーンの時、僧侶に白い紐を手首に巻いてもらった経験を思い出した。それはサーイシン(สายสิญจน์)と呼ぶが、アニミズム以外の何物でもない。これなどまさしく仏教がアニミズムにあわせた物事であろう。もしかするとマイペンライ(ไม่เป็นไร)の背景は上述のことがらであろうか。180度異なる事柄を包摂してしまう風土、それが何なのか深く追求しない。むしろ曖昧なままにしておくタイ人気質の背景であろうか。尚、興味をお持ちの方はココも参考にされたい。

今回でもって古島さんの書籍を読んだ感想文の掲載を終了する。

<了>

 


ดอกงิ้ว(ドーク・ギウ)の咲く処・雲南タイ族の世界(2)

2021-06-04 07:50:23 | 古代の東南アジア

【村の中心ツァイマンと祖霊信仰】

 

今回は、表記テーマで記す。以下、古島さんの文章である。

”孟連から南進すると芒信(マンシン)に至る。そこにはツァイマンと呼ぶ村の中心があり、照葉樹の木を植え、竹垣と石垣で囲ってある。村はずれの田畑の隅にはターレオを掛けた竹竿が何本も立っている。樹木が茂る森の入口の藪が村の祭祀場であった。

雲南タイ族の伝説によると、タイ族の祖先のあいだにサンムーティという聡明な若者が現れた。彼は人々を引き連れて山に登り、材木を伐りだしてきた。それから敷地の中央に尖った赤い石柱を立て、十本の木柱で囲み、その周囲に家を建ててムラを作った。ムラを作ったタイ族の祖先は農耕生活を開始し、やがて幾つかのムラを統合してムオン(ムアン)すなわちクニを作り、サンムーティは王と呼ばれるようになったと云う。

ムラの中央に立てた柱を“ツァイマン”といった。雲南のタイ族では、ツァイは中心、マンは村、つまり村の中心という意味であり、中国語で“寨心”と呼ぶ。ツァイマンは目印の柱であったが、人口の増加とムラ繁栄を願い、生殖を象徴する形であった。後にそれは最初にムラを作った指導者を祀る場ともなり、村人の結合の象徴ともなった。タイ族の村には必ずツァイマンがあり、タイ族の村はツァイマンを中心とした集合型集落である。

ツァイマンの原形は、木柱または石で作った生殖器の形であらわす。木柱は上部を尖らせて赤く染め、地面に立てる。高さは1m以上のものもある。草葺きの小屋を建てて蔽う。石の場合は先の尖ったガチョウの卵大の石を置き、そのかたわらに卵形の小石を二つ埋める場合もある。

耿馬県孟定のタイ族村のツァイマンは、集落の中央あたりに草葺きの小屋があり、そのなかに生殖器のシンボルの木柱と木が一本植わっていた。囲いの竹垣には、小さく切った瓜や芋などを藁に通し、輪にしたものがたくさんかけてある。豊作を感謝して村人が供えたものである。”・・・以上である。これらの記事と共に写真が掲げてあった。借用して以下に示す。

掲げられていたのはモノクロ写真。上端の色が濃いので、これが赤色であったと思われる。これは北タイのタイ人(コンムアン:シャム族)や少数民族がラック・ムアンと呼ぶ村の祖柱と同じである。何度も掲げて恐縮であるが、下の写真はチェンダオのパローン族村の村の祖柱である。成程先端がとがっている。

パローン族村の柱は、写真のように東屋風建物に収まっているが、先の耿馬県孟定のタイ族村のツァイマンは、集落の中央あたりに草葺きの小屋がありそこに収まっているという。その写真も拝借してかかげておく。

見ると高床式建物の床面にあたる建物の外面に、古島さんが記述する”小さく切った瓜や芋などを藁に通し、輪にしたものがたくさんかけてある。豊作を感謝して村人が供えたもの”である。成程、タイヤイ族はこのような方法で供物を捧げるのであろう。この供物を捧げる方法に拘るが、これはチェンマイでも見かけた覚えがある。

それは、チェンマイ旧市街の北東の濠の外側のWat Pa Paoのオークパンサー(出安居)で特別につくられた紙製の仏塔に、これらの供物が供えられていたのを見ていたのである。僧侶は、3カ月前のカオパンサーから寺籠りの修行に入るが、新暦10月の満月の日に寺籠りが明ける、それをオークパンサーと云い、その籠り明けの行事をテオロハナ行事と呼ぶ。チェンマイではタイヤイ(シャン)族の寺院、ワット・パーパオが著名である。下の紙製の仏塔の周囲に取り付けられている。

チェンマイに住いするタイ・ヤイ族はこのような形で、村の祖柱(すなわち祖霊にほかならないが)やオークパンサーに供物を供えるようだ。オークパンサーは新暦10月の満月の日に祝うが、これは稲作の収穫を祝う時期とも重なる。

日本人は三方に供え物を盛るが、タイヤイ族は紐に通して掲げるように供えるようだ。民族によるちがいをみるのも楽しからずや。

 

<了>

 


ดอกงิ้ว(ドーク・ギウ)の咲く処・雲南タイ族の世界(1)

2021-06-03 08:12:00 | 古代の東南アジア

【タイ族の故地は雲南】

過去に一度『雲南タイ族の世界・古島琴子著』について、”ดอกงิ้ว(ドーク・ギウ)の咲く処”と題して紹介した。今回から数回に渡り、その続編を紹介する。ここで雲南タイ族とあるが、そのタイ族とは文脈からタイヤイ( ไทใหญ่:シャン)族のことのようだ。現タイ王国を構成するシャム(ไทยสยาม)族とは兄弟の関係であろう。

壱話完結の形で今回は、『タイ族の故地は雲南』と題してお届けする。以下、朱字は古島琴子女史の著作からの引用、黒字は当該ブロガーが綴ったものである。

『雲南タイ族の世界』なる著書で、著者の古島琴子女史の語るところによれば、“雲南の先住民は越人と濮(ぼく)人であった。越人は長江流域以南の広大な地域に住んだ古代の農耕民族で、タイ族、チワン族などタイ語系民族の祖先にあたる古代の民族である。駱越(らくえつ)、干越(うえつ)など地域による多様な名称があり総称して百越というが、雲南の越人は滇越(てんえつ)といわれた(注釈:雲南の古代を滇という。志賀島から出土したのは『親魏倭王』の金印、滇池湖畔石寨山遺跡から出土したのが『滇王之印』金印である)。

雲南のタイ族は滇越を祖先とする民族であり、雲南の先住民である。越人とともに早くから雲南に住んでいた濮人は百濮とも云われ、ワ(佤)族、プーラン族、ドアン族などモン・クメール系民族の祖先にあたる古代の民族である。“

雲南省徳宏州瑞麗の寺に保存されていた『銀雲瑞霧勐果占壁簡史』(略称・簡史)(尚、勐果占壁はモーコーサンビーと呼ぶ)。その『簡史』は、古代から元代までの瑞麗江流域を中心としたタイ族の歴史物語で元末の著作と推定されている。従って古代に関する史記にどれだけの信憑性があるのか、多少なりとも疑問に感ずるが、そこには今から3000年前の話が記されている。“瑞麗一帯のタイ族の国で、妊娠中の王妃が巨大な怪鳥にさらわれ、はるか離れた密林の大木の上におろされた。王妃は樹上で男の子を生んだ後、山中の修行僧に助け出され、密林の中で暮らしていた。男の子が凛々しい若者に成長すると、天神から神琴を授けられた。若者がその琴を弾くと、密林の動物がみな付き従う。やがて若者は白象に乗り象群を従えて山野を越え、国に帰って王位を継いだ。この物語の王国は、モンマウ(勐卬)古国(インド風呼び名をコーサンビー(果占壁)王国とする)であるといわれ、瑞麗の丘陵地帯にはウーティン王の父の城といわれる雷允(れいいん)山城址がある。”・・・と記されている。ここで漢語文献を翻訳する際に『修行僧』とあるが、3000年前に仏教は伝来しておらず、その種の荒行を行っていた人であろうか。若者は白象に乗り、国に帰って王位を継いだという。現・ラタナコーシン朝も白象は王室が管理し、王が騎乗するものとされている。タイ族の長い歴史と伝統の賜物であろう。瑞麗江一帯はタイヤイ族の故地であろう。ミャンマー・シャン州北部に瑞麗は位置している。

現タイ王国のタイ人は、上掲の故事を知っているのかいないのか?ミャンマー・シャン州のタイヤイ族は旧知の故事であろうと考えられる。

<了>


ランプーンのグーチャン遺跡は驃(ピュー)国の影響だった

2021-04-26 08:46:42 | 古代の東南アジア

表記タイトルに関し過去記事にしている。前置きが長いが先ずココを御覧頂きたい。

結論から云えば、10世紀以前のビルマ北部に栄えたピュー族国家・驃国の都・タイエーキッタヤー(シュリークシェートラ)の砲弾型仏塔とランプーンのグーチャン遺跡の仏塔の類似性をもって、それは驃国の影響であろうと記していた。その根拠は驃国でピュー族とモン族(MON:断っておくが中国語で苗(Mhong)族と表記するモン族とは異なる)が同居しており、ランプーンはモン族国家のハリプンチャイ王国の故地であることが、その理由である。

(ランプーン:グーチャン遺跡 砲弾型の仏塔がピューのそれに極似している)

ところが、先日に紹介した『古島琴子著・雲南タイ族の世界』を読んでいると、以下のように記されて(要点を抜粋して記す)いた。

紀元前の中国は前漢の時代、瀾滄江以西の地を哀牢(あいろう)と呼び、多様な系統の住民を一括して『哀牢夷』と呼んだ。後漢に入り哀牢の地は永昌(ヨンチャン)郡が設置された。ヨンチャンとはタイ語のヴィエンチャン(象の城)を語源とし、哀牢夷のなかでもタイ族の祖先は有力であった。哀牢夷の人びとの中で、タイ族の祖先は鳩寮(きゅうりょう)であると云われ僄越(ひょうえつ)は僄と越に分けて僄はピュー(驃)族という説があるが、永昌郡域外すなわち現在の徳宏州からビルマ北部に至る地方のタイ族の祖先はピュー族と接し、その影響を受けていたであろう。

以上が要点である。当該ブロガーはモン族繫がりの類似性と考えていた。その可能性も捨てきれないが、タイ族がピュー族と接触していたことを古島琴子さんは指摘しておられる。古代の雲南からミャンマー西部、タイ北部は多くの民族が入り乱れ、一大文化圏を形成していた可能性を感じさせる話であった。

<了>


ดอกงิ้ว(ドーク・ギウ)の咲く処

2021-04-25 09:47:49 | 古代の東南アジア

『長岡京市埋蔵文化財センター・シリーズ』を中断して紹介する。過日、島根県立図書館で【民族・民俗】に関する図書を検索していると、『雲南タイ族の世界・古島琴子著』なる書籍の背表紙が眼に飛び込んできた。冒頭、いきなり確信を突くような記述で、ついついはまり込み借用して読書中である。

その冒頭に、タイとは犂(からすき)を意味し、タイ族の祖先は最初に犂を使って土地を耕した人々という伝承があり、もっとも早く水稲耕作を始めた民族である・・・と、記されている。

著書の前半部分には、”攀枝花”(バンジイホア)の咲く処として、雲南省や東南アジア、インドに至るまで生息しており、古代や中世に花の実からとれる綿を衣服に用いたと記されている。

”攀枝花”(バンジイホア)とは、タイ語でดอกงิ้ว(ドーク・ギウ)と呼び、日本では”木綿(キワタ)の木”と呼び、パンヤ科キワタ属の落葉高木で、チェンマイでも郊外で見かけるそうだが、見た経験があるのかないのか?

この高木は中国南部から西南部に多く、雲南では攀枝花と呼ぶそうだ。早春、若葉の出る前に枝一面に赤い大輪の花が咲き、花のあとに瓜のような形の実がなり、美のなかの繊維を紡いで織った布を雲南では桐華布(とうかふ)と呼ぶようである。

(出典:Wikipedia)

(出典:Wikipedia)

その布は、吸湿性が少なく、肌にまとわりつかないため高温多湿の衣服にむいており、綿花の栽培が普及するまでつかわれてきたという。この桐華布を織ったのは”滇西越人(てんせいえつじん)”すなわち雲南西部のタイ族の祖先や、濮人(ぼくじん)すなわち佤族(ワぞく)や徳昂族(ドアンぞく)の祖先の女性たちであったことが唐代の史書『蛮書』に記されている。

このดอกงิ้วであるが、どうも食材のようだ。そういえばワロロッ(ト)で過去に乾燥した花の雄蕊を見た記憶が蘇ってきた。当時は何なのか、当該図書を読むまで知らなかったが、タイ・ヤイ(シャン)族が好む食材のようで、ナム・ニァオ(มํ้าเงี้ยว))はタイヤ・ヤイの定番料理のようである。味は未食のため知らない。

・・・といことで、当該書籍は面白い、ワンダーランドの世界である。折に触れて主要点を紹介したいと考えている。

<了>