世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

北タイ陶磁の魚文様(前編)

2019-08-30 08:09:33 | 北タイ陶磁

当該記事でブログ開設以来1503回となった。過去、ブログ開設1500回記事&5周年記念として、『北タイ陶磁特集』を連載すると予告してきたが、今回よりその連載を開始する。

初回は『北タイ陶磁の魚文様』とのテーマで前編・中編・後編の3回に渡って紹介する。スコータイ王国やランナー王国の陶磁器文様には魚の文様が頻出する。何故魚なのか雑感風にまとめたものである。

先ず魚が描かれている北タイ陶磁器の幾つかを紹介することから始めたい。最初は日本で宋胡録と呼ぶスコータイ窯の鉄絵魚文盤である。以下、同じように宋胡録と呼ぶシーサッチャナーライの鉄絵魚文盤とカロン、サンカンペーンの鉄絵双魚文盤を順次紹介する。

(スコータイ鉄絵魚文盤:バンコク大学付属東南アジア陶磁館)

(シーサッチャナーライ鉄絵魚文盤:町田市立博物館)

 (カロン鉄絵双魚文盤:Ceramics from the Thai-Burma Borderより)

 (サンカンペーン鉄絵双魚文盤:町田市立博物館)

北タイの陶磁器文様に魚が描かれていることがお分かりいただけたであろう。

 

『米と魚』なる書籍から、魚の文様が用いられている背景にせまりたい。その書籍は佐藤洋一郎氏の編書であり、学問的に裏付けられた書籍である。最近目にして米と魚の結びつきを再認識した。

かつて故・柳田国男氏は稲作の日本への伝播について『海の道』を唱えた。それは南の島嶼伝いに伝播したとの説で、単なる読み物、物語の域を出ないものと揶揄されてきた。しかし、筆者がフィリピンのセブ島で目にしたものは、弥生期の高床式住居や高倉に似た建物がフィリピンにも存在し、更に弥生期の甕棺と同じような棺桶も存在したのである。柳田国男説はたんなる物語なのか? それを調べる過程で、佐藤洋一郎氏の編書である『米と魚』という書籍の存在を知ったのである。

 

佐藤洋一郎氏は『米と魚、その同所性』というワードを使って説明している。日本では近世に至るまで、田圃の灌漑は近くの河川や溜池から取水した。それと同時にタガメやドジョウ、メダカや鮒が田圃に流れ込み、一部は留まり一部は下手の田圃や河川の下流または溜池に移動する。これらの小動物は雑草の生育を阻害し、その糞は稲の生育の助けとなる・・・これを佐藤洋一郎氏は『同所性』というキーワードで表現している。

この『米と魚』なる書籍を読んでいると、子供の頃(昭和30年前後)のことを思い出した。5~6月頃田圃に入ると、沢山のドジョウがいたのである。農薬を大量に使いだす前のことである。このことは日本のみならずモンスーンアジアの多くの地域における共通項だと云う。モンスーンアジアでは沿岸地域は海の魚により蛋白質を摂取できたかと思われるが、内陸部の魚と云えば淡水魚である。その淡水魚を焼いたり煮物にして食した。漁がなかった時のために干物にしたり、『ナレズシ』に代表される発酵、それも微生物や酵素を使った発酵法により保存されてきた。日本で『しょっつる』、ベトナムでニョクマム、タイでナンプラーとよぶ魚醤は、魚肉の細胞の蛋白質分解酵素の働きを借りて発酵をすすめたものである。

しかし東南アジアの全てが水田稲作地帯ではなく、丘陵部では取水困難な場所も存在した。そこは焼畑での陸稲(おかぼ)栽培である。陸稲栽培は冠水した水田ではないので、淡水魚とは縁がなかろうと思われがちだが、そこには縁があったのである。佐藤洋一郎氏によると、氏がラオス・ルアンプラバーン郊外で焼畑の調査をしていた時、焼畑の種まきの前に付近の山から竹を切ってくると、それで簡単な祠をつくり、高さ1mほどの竹竿の上に載せる。祠にはいくつかの装飾をつけるが、其の中に魚をかたどったものがある。村人の説明では、それは穀物を食べる鼠を獲ってくれる猫の好物だからだという。この説明では、魚は鼠の天敵である猫のためのものだが、それは同時に魚の存在証明になっている・・・と、佐藤洋一郎氏は記すが似たような話があり、それは後述する。

メコン川流域のラオスでは、田圃の中に縦横1~2m、深さ1.5~2mくらいの穴を掘る。乾季になって周囲の水が引けば穴に入った魚は取り残されるので、これを獲るのである・・・とも記されている。日本の稲作地帯でも溜池をみるが、灌漑用途のみならず、淡水魚の供給源でもあったことが伺われる。以上『米と魚、その同所性』について要点を紹介した。       

『米と魚』について論じているが、それと北タイで見かける装飾文様との関連を考えてみたい。北タイの山岳少数民族が、銀製の装飾物で身を飾ることを御存じの方は多いと思われる。その銀製の装飾物は何故か魚である。

 

 (チェンマイ山岳民族博物館展示)

 

 (ハノイ女性博物館展示)

上からチェンマイ山岳民族博物館展示のリス族の銀製ネックレスである。下は北タイではないが、北ベトナムに居住するタイ族の銀製ネックレスで、いずれも魚をモチーフとしている。チェンマイ在住者でこのような魚のネックレス等の装飾物を目にされた方々は多いと考えている。更に北タイの陶磁器文様に『魚』が頻出する。スコータイでは単魚文が多いが、チェンマイ以北では双魚文が圧倒的で複数魚文も存在する。

銀製ネックレスや装飾品と共に陶磁器文様の魚文を見ると『何故・魚文なのか』・・・と云う想いが頭をよぎる。中国では古来より魚の卵は多産で、子宝に恵まれ家門繁栄を示す吉祥文であると云われてきた。更に双魚文は陰陽配置が殆どであることから、陰陽道の影響を受けたとか、景徳鎮の染付文様の影響、更には龍泉窯の青磁貼花双魚文の影響を受けたと喧伝されている。そのような言説を受け、バンコク北郊ランシットに在るバンコク大学付属東南アジア陶磁館では、下の写真のように右に龍泉窯・青磁貼花双魚文盤を左にサンカンペーン・褐釉印花双魚文盤を並べて展示している。

 (バンコク大学付属東南アジア陶磁館展示)

何故・魚文なのかについては、インドの影響もあろう。中世の北タイはヒンズー教と上座部や後期大乗仏教の影響を受けた占星術(ホーラーサート)がある。いわゆる星占いの双魚宮、それは黄道十二宮の一つである。

 

(ワット・ノンナム碑文:ランプーン国立博物館展示)

ランプーンのワット・ノンナムの碑文(1489年ランナー文字で記され建立)の事例を紹介する。二重円圏の中の外周部は十二分割されている。この中に十二宮が配置される、それは占星術の星座で双子座、牡牛座、牡羊座、魚座、水瓶座、山羊座、射手座、蠍座、天秤座、乙女座、獅子座、蟹座である。このように中世のランナー領域は、インド占星術の影響を直接受けていたのである。

更にインド仏教では、双魚は八吉祥とか八宝の一つとされ、自由に水中を泳ぎ回れることから幸せのシンボルで、繁殖と豊富さを表しているとされた。つまり西方インドの影響であろうとの議論である。更なる西方イスラムの陶磁器文様にも双魚や三魚文が存在することから、西方の影響もあろうかとも考えていた。中国や西方インドからの影響はありそうだが、何かしっくりしない思いが残る。 

ところが『米と魚、その同所性』を読むにつけて上述の認識は、ややズレが感じられる。魚文のネックレスや陶磁器文様を見るにつけ、中国や西方インド云々では、中世北タイで日常生活を営んだ人々の声が聞こえてこない。上述の背景認識よりも、日々の営みである稲作と、その田圃や周辺湖沼・河川での淡水魚の漁撈は日常的であり、副食のメインである魚が陶磁器に描かれたと理解する方が納得感が高いと感ずる。以上のようなことで、北タイ山岳民族の首飾りや陶磁器装飾文様に頻出する魚文が、足が浮いたような中國やインドの影響といった話しのみではなく、日々の営みの上に成立したものだと確信した次第である。                  

振り返ってみると、北タイで以下の風景を過去に見て来たが鈍感の為せる業、『米と魚の同所性』なぞついぞ感じなかった。書籍『米と魚』を読んで見つめ直してみる。

 

写真は2010年10月末のチェンマイ県メーテン郡の田園風景で、同所のインターキン古窯址へ行った際に写したものである。稲の刈取りには今少し時間を要するであろうが、立派な穂が沢山ついている。写真を注視すると田圃は方形に区画整理されている。メーテンには取水用のかなり大規模なクリークが存在する。そのクリークと区画整理は一体のものと思われ、ここには『米と魚の同所性』は失われているであろうと思われる(実際はどうか不明)。

次はチェンライ県パーン郡の水田である。パーンのサイカーオ古窯址訪問の際に見た、現地の田園風景である。

ここも一枚の田は広い様である。写真左上は溜池で書籍『米と魚』に表現されている田圃の中に溜池が存在する典型例のようにみえる。

 

その様子をグーグルアースにより俯瞰してみる。田圃の中に多数の溜池と、今となっては整備された用水路を見ることができる。乾季のみならず、この溜池で漁撈していると考えて良いだろう。普通に考えて一枚の田圃に多くの溜池を分散して置く必然性は漁撈以外に考えにくい。

以上、北タイにおける平地の田圃を紹介してきたが、なだらかな丘陵傾斜地の棚田の様子も紹介しておく。

 

チェンマイ郊外メーリムの谷筋の丘陵傾斜地の棚田である。田植え後1週間程度であろうか。これだけ見ていると、田圃に淡水魚類が棲息しているかどうか判断できないが、近くに溜池が存在する。

谷筋の河川から引水し溜池に流し込み、田圃の灌漑は溜池から行っている様子である。従って淡水魚は棚田ではなく溜池に棲息しているであろう。過去の資料を引っ張り出し、北タイの『米と魚の同所性』について確認してみた。やはり佐藤洋一郎氏の論旨に該当するようである。            

さて漁撈用具であるが、それを展示しているのはチェンマイ山岳民族博物館である。

山岳民の人形の横に縦長の竹網籠が見えるが、日本でも見るような淡水漁撈具である。残念ながら実際に漁撈している現場は、未だ実見していない。

 

ここまで話がまとまると、ある二つの想いがよぎる。先ずは、ラームカムヘーン王碑文に銘文が刻まれている。ในน้ำมีปลา ในนามีข้าว・・・(水に魚在り、田に米在り・・・)との文言である。

二つ目は、北タイの稲作儀礼に魚が登場する。それは「岩田慶治著・日本文化のふるさと・角川選書」に、タイ・ヤーイ(シャン)族の稲作儀礼が紹介され、稲穂が成長すると稲田の端にケーン・ピーと称する小祠を建てるとのことである。ケーン・ピーに招かれるのは、稲の守護神であり、それは女性のピーであると云う。そのケーン・ピーの周囲には、色々なターレオを掲げて悪霊の侵入を防いでいるが、幟状のそれは百足(ムカデ)の形、魚の形をしたものである。岩田慶治氏によれば、陸棲動物の代表ムカデと水棲動物の代表魚がともに稲のピーの守護にあたっていると云う。その図を模写して掲げておく。

尚、チェンマイではローイクラトン前にガティン祭りが開催され、それを祝うムカデの幟(トゥン)が街角に立つ。年に一度の大規模な功徳を施す行事であるが、それは元々タイ族の収穫儀礼であったのである。

 

横道に反れたが、ターレオは何度も目にしているが、このケーン・ピーは残念ながら未だに見ていない。

更に収穫儀礼でもトライ・カムプリアンなる小魚の串刺しが登場する。岩田慶治氏は同書に以下の如く記す。『大昔には、稲が実っても稲刈りなどしなくてもよかった。籾(もみ)が自ら空を飛んで、パラパラと米倉に降ってきたからである。ところがあるときのこと、米倉の隣の若夫婦が不快な音をたてて稲のカミを驚かせてしまった。それに加え稲のカミに不謹慎な言葉を口にしたのである。稲のカミは立腹して、高い山の入口の狭い穴に逃げ込むこととなった。稲のカミが不在になるとクニ中の人々が飢えに苦しむこととなった。そこで稲のカミを連れ戻すための使者に選ばれたのがトライ・カムプリアンで、苦心の末に穴ぐらに入り込み、稲のカミを連れ戻したのである。しかしそれ以来、トライ・カムプリアンは狭い穴に入るため魚体が扁平になったのである。』

この説話は、2つのことを示している。一つ目は、稲(米)と魚の結びつきは古来からのものであること。二つ目は、その魚は扁平であることが示されている。

以上、北タイにおける銀の装飾品や陶磁器文様が魚である背景を理解して頂けたものと考える。

 

<続く>

 


江上波夫氏の騎馬民族渡来説

2019-08-29 08:24:14 | 古代と中世

(騎馬人物形土器:慶州国立博物館 レプリカ展示・北九市立いのちのたび博物館)

既に5回に渡り『騎馬民族は遣って来たか、来なかったのか』とのテーマで記事を掲載してきた。御覧の各位はどのように感じられたのであろうか。

江上波夫氏は、『任那(伽耶)』から崇神天皇が騎馬民族集団を率いて北部九州に遣ってきて、扶余・韓・倭連合の『日本国』をつくり、応神天皇のときに北部九州筑紫の人々の勢力を加えて東遷したというのが、騎馬民族征服王朝説である。

崇神天皇は¨御肇國天皇(ハツク二シラススメラミコト)¨の号を持ち、御間城入彦(ミマキイリヒコ)という和風諡号を持つ。ハツク二シラススメラミコトとは、王朝の開祖を意味し、御間城入彦は¨ミマ(任那=伽耶)の城¨であり、任那から遣って来た大王を指しているというが、ミマは残念ながら語呂合わせの域を出ないものであろう。

私見であるが、10代・崇神天皇は来なかったが、騎馬民族は遣ってきた。そのことは既に5回に渡るユーラシア、新羅等の朝鮮半島や列島の古墳等の遺跡から出土する文物の共通性から証明されるであろう。

古文献なかでも日本書紀に伝承として伝わるのは、11代・垂仁天皇三年三月条に記される『天日槍』である。これは特定の人物ではなく、集団を意味するであろうとされるが、その説に賛成である。その集団がどのような規模であったのか、想定する以外に方法はない。

(金海国立博物館展示の準構造船土器で日本の舟の埴輪に相当するもの)

(兵庫県立考古博物館展示の復元準構造船)

古墳時代の準構造船は数頭の馬と20人程度の人々が乗ることは可能である。それが一艘船出したとは考えられず、海難のことを考えれば少なくとも10艘は船出したであろう・・・とすれば、20-30頭の馬と200人程度の集団となる。弥生期以降の農耕社会に入り込んだとすれば、力のある集団の来寇となる。

天日槍集団のような集団が五月雨で、半島側から遣って来たのではないか。ある集団は北九州に、ある集団は山陰や北陸といった具合にである。それは氏族ごとに異なる集団であったであろう。

それらの集団の母体はなんであったのか。所謂新羅人や伽耶人といった韓族ではなく、西域騎馬民族の香りのする北方騎馬民族であろう。しいて云うならツングース系統が考えられる。

理由は簡単である。地球寒冷化の影響を受け、北方騎馬民族は南下せざるを得なかったのである。古気候学なる学問分野が存在するという。それによると5-6世紀は、まさに古墳寒冷期とよぶ寒冷化の真直中であったとのことである。

今日温暖化が叫ばれ、地球の平均気温が1℃上昇するだけで、今日のような異常気象である。寒冷化と云えば例え2℃も低温化すれば、その異常気象下の北方ツングースでは容易に生命維持をするのは極めて困難で、新羅経由で南下せざるを得なかったであろう。

ここで天日槍と都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)は同一人物であろうとの見方が存在する。ツヌガアラシトは自らを伽耶の王子とするが、これはツングース系女真族であろう。後世、女真族王朝として金を建国した太祖は、完顔阿骨打(ワンヤン・アクダ)である。他人様の語呂合わせは否定的見解を示しておきなが、我が使うのも気が引けるが、阿骨打と阿羅斯等、更にはアタイ、アルチュフ、アシホの人名が見える・・・渡来した騎馬民族を北方騎馬民族とする傍証である。

この北方騎馬民族が弥生人の後裔集団と混交し土着した。後世大和政権の中枢を担う人々はこれらの人々である。後世(日本書紀によれば応神天皇の御代)の渡来人集団である王仁(わに)、秦氏、漢(あや)氏などの氏族集団とは、民族が異なっていたのである・・・云々と空想が湧く。

空想と云えば、新羅の古墳から人物俑が出土する。以下の人物俑は西域・ソグド人の匂いがする。古代日本にも渡来して来たのでは?との空想も湧く。そう云えば金海の金首露王陵を訪れたとき、手前に並ぶ武人像をみると、西域人の風貌をしていた。朝鮮半島南端まで来ていたとするなら、幾人かは列島に渡海して来たのではないか?

(ユーラシアの風新羅へより転載)

空想ついでに、時代はやや下るが我が出雲、出雲族も騎馬民族ないしは騎馬民族の末裔であった。その出雲族の故地で得意技であった冶金を生業にすることになった、砂鉄精錬である。この砂鉄精錬は須恵器同様に火を制御する技が必要である。したがって須恵器窯も出雲の各地から出土することになる。

以上最後は蛇足になってしまったが、江上波夫氏の騎馬民族は来なかったが、別の騎馬民族集団が五月雨で列島に遣って来た。天日槍族もその一つであった。

 

<了>

<追>

当該記事でブログ開設以来1502回となった。過去、ブログ開設1500回&5周年記念として、『北タイ陶磁特集』を連載すると予告してきたが、次回よりその連載を開始する。

 

<了>


騎馬民族は遣って来たのか、来なかったのか(5)

2019-08-28 06:43:16 | 古代と中世

<続き>

引続きユーラシア、新羅等の朝鮮半島と日本列島の文物の比較検討を行う。

                       

(ガラス珠付首飾り・味鄒王陵4号墓出土 5-6世紀 慶州国立博物館)

瑪瑙の勾玉の上は水晶珠で、その上の青色に見えるのがガラス珠である。そのガラス珠の源流はユーラシアにある。

 

(広島県三次市荒瀬古墳出土 みよし風土記の丘ミュージアム)

新羅の地でも勾玉が出土し、一つの墳墓から百数十箇も出土することがある。勾玉の本貫は日本列島側にあると考えているが、或いは朝鮮半島から渡来の可能性は排除できないようだ。

ユーラシアでは、古来から牛や山羊などの角を器とし、7000年前には黒海周辺に土器で作られた角杯が出現した。

 

(馬装飾角杯 アゼルバイジャン出土 紀元前250-紀元0年 岡山市立オリエント美術館HPより)

 

(馬装飾角杯一対 釜山市福泉洞古墳出土 釜山市西区公式HPより転載)

ユーラシアと同じような角杯が伽耶の地である釜山市福泉洞古墳から出土している。明らかにコピーしたものであろう。

 

(騎馬人物形角杯 国立慶州博物館)

同じ伽耶の地である金海からは、騎馬人物形角杯で、馬甲をつけ馬上には楯をもった人物が乗り、その後ろに角杯を取り付けている。これに極似した騎馬人物形角杯断片が橿原市南山4号墳から出土している。

 

(古墳時代 5世紀 橿原市教育委員会HPより)

これは間違いなく伽耶の地から渡来人が持ち込んだものと考えて誤りはなかろうと思われる。その他に新羅の味鄒王陵7号墳から出土した台付角杯がある。

 

(台付角杯 5-6世紀 国立慶州博物館HPより)

 

(明石市図書館HPより)

台付ではないものの角杯は日本の各地でも出土している。明石市金ヶ崎窯址出土の角杯である。このような特殊形状の須恵器も朝鮮半島から伝播したのである。

以上でユーラシア、新羅、列島日本の文物を比較してみた。江上波夫氏が提唱した騎馬民族(崇神天皇)が遣ってきて、征服王朝を樹立したのか、しなかったのか、当該記事をご覧の各位はどのように感じられるのであろうか。

次回は当該ブロガーなりの結論を記事にしたいと考えており、『騎馬民族は遣って来たのか、来なかったのか』とのテーマで5回に渡る記事は、取敢えず今回で終了する。

 

<了>


騎馬民族は遣って来たのか、来なかったのか(4)

2019-08-27 07:33:27 | 古代と中世

<続き>

ユーラシア・スキタイの文化・文物が新羅に影響を与えたであろうことについて司馬遼太郎氏は、その著作(注①)で次のように記されている。『韓国の古代文化が、出土した帯鉤の模様などで察しするに、中国には似ず、むしろ紀元前カスピ海北岸の草原でひらかれたスキタイ(イラン系?騎馬民族の最初のひとびと)の文化に共通しているように見える。いわゆるシルクロードという絹商いの隊商が通った道よりもずっと北の道が、ユーラシア大陸をむすぶ騎馬民族の道とも云える往来路だった。その往来路は当然、中国文明を内側に区切っている長城のそとにあり、そこに往来する文明は、中国の影響をあまりうけずに済む。その東方のゆきどまりの一つが、中国東北地方の遼寧省であることは、出土する文物によって察せられる。文物には、スキタイの香りがする。その遼寧文化がさらに南下して、朝鮮の古代文化に影響したのではないか。』

この見方は妥当であろう。古新羅の遺跡から出土する中国系文物は少ない。同じ時期、百済で盛んに中国製品を使っていた状況とは異なっている。百済地域では100点以上の中国製陶磁器が確認されているのに対し、古新羅の遺跡では皇南大塚から出土した褐色釉瓶の1点が挙げられる程度だという。このことは、新羅に流入したユーラシアの文物は、中国を介したものでないことは明らかである(注②)。北方あるいは西方騎馬民族が直接ないしは遼東を介して遣って来たと考えるのに、大きな違和感はない。

そこで、スキタイ、新羅と古墳時代の倭の文物を比較検討してみたい。尚、一部の文物の新羅と倭の比較は既に行ってきた。今回はそれ以外の文物にスポットをあててみたい。

先ず、古新羅の騎馬民である。写真は慶州国立博物館所蔵の騎馬人物土器で、北九市立いのちのたび博物館展示のレプリカである。

(尻尾の上のカップが水の注ぎ口で馬の口先の下を左に伸びている箇所が注ぎ口である)

これを注視すると、我が国の馬の埴輪で表現されている、馬具一式と騎馬人物の鎧・兜を見ることができ、武人埴輪の如きである。このような騎馬民族が列島に渡海して来たものと思われる。

前置が長くなったが、ユーラシア・スキタイと新羅、古墳時代の倭の文物を比較する。スキタイは黄金趣味だと述べた。その黄金の文物を比較することから始めたい。

下の写真は慶州鶏林路14号墳出土の5-6世紀の装飾宝剣で、同じような宝剣は、カザフスタンのボロウオエ湖付近から出土している。この慶州の宝剣はスキタイからもたらされたものと思われる。

(慶州国立博物館HPより転載:尚、スキタイの宝剣は適当で転載可能な画像なく省略)

黄金や金銅の文物として、先に王冠や冠について取り上げたので、ここでは省略する。日本の古墳で出土する威信剤としての耳環は新羅の影響を受けたものであろう。

 (慶州普門洞合葬墓出土 6世紀 韓国・国立中央博物館)

 (耳飾り 6世紀 金海国立博物館)

慶州と金海(伽耶国)の耳飾りは、垂飾りも含めてよく似ているが、耳環の装飾はなくなり、肌そのものの無装飾である。これが日本へ至ると、垂飾付の耳環は少なくなり、多くが金環だけとなる。

 (姫路市宮山古墳出土耳飾り 姫路市埋蔵文化財センターHPより転載)

 

(奈良県橿原市新沢千塚126号墳 東京国博展示・ウキペディアより) 

 (兵庫県立考古博物館展示)

 (みよし風土記の丘ミュージアム展示)

これら一連の耳飾り・金環をどのように捉えるのか? 新羅から当時の倭国で倭国仕様に変化したとして、大きな齟齬はないであろう。

ガラス容器について考えたい。正倉院御物は8世紀のことで、時代はやや下っていいるが、その円形切子杯はペルシャから、多分新羅経由で持ち込まれたものである。中国にはこの種のガラス容器は出土していないので、長城のはるか北のステップ・ルートで持ち込まれたものと思われる。

写真は5-6世紀の慶州・天馬塚古墳出土の型吹亀甲文紺色杯である。隣の皇南大塚出土のガラス容器を蛍光x線分析したところ、成分組成は中央アジア由来のガラスである可能性をしめしたという。正倉院御物同様にユーラシアの地から渡来したものであろう。

今回は黄金・金銅遺物をガラス容器について見てきた。次回はそれ以外の遺物を概観する。

<続く>

 


騎馬民族は遣って来たのか、来なかったのか(3)

2019-08-26 08:12:23 | 古代と中世

<続き>

江上波夫氏は、前期古墳から後期古墳への変化が、「急転的、突発的」に発生したのは、騎馬民族が渡来した仕業だとする。これに対し多くの考古学者は、5世紀の100年間で徐々に変化したとしている。佐原真氏などは、朝鮮半島南部に騎馬民族が侵入した可能性があっても、北部九州に渡来したとする物的・考古学的証拠が挙げられず、馬が兵器として優位性を持っていたかどうか疑問であるとする。馬が力を発揮するためには牧草地と大草原が不可欠で、列島の森林や山から海への距離が短い日本では無理であろうとの反論である。

この反論も誇張があったり、無理な見解もありそうだ。馬を飼うのに大草原が必要なのか・・・と思われ、各地で出土する馬具付きの馬の埴輪をどのように考えれば良いのであろうか(尚、写真は2箇所の出土品を掲載した)。

      (松江市・平所遺跡 6世紀前半)

(広島県三次市・緑岩遺跡 6世紀)

江上波夫氏が述べる崇神天皇かどうかは別にして騎馬民族が遣って来なければ、騎馬に関する遺物が列島各地から出土するはずもなく、出土する現実をみれば騎馬民族は遣って来たと考えざるを得ない。

それがどのような形であっったであろうか。10代崇神天皇は、4世紀頃であったろうとの見方が大方の見解である。次の11代垂仁天皇の時に天日槍(あめのひぼこ)渡来したと日本書紀は記している。それは垂仁天皇3年3月条において、自ら新羅王子を名乗ったと云う。

 (古墳時代に至ると準構造船は随分大型となる。天日槍はこの準構造船に馬と一団の渡来人を載せて渡海したであろうとの想いが浮かぶ)

ここで天日槍とは和風名称である。それは「都怒我阿羅斯等:ツヌガ(角干:最高官位)アラシト(日の御子の名)」の日本名で、両者は同一人物との説もある。天日槍は渡来するにあたり、次の7物を持参し但馬国に納めて神宝にしたと日本書紀は記している。

それは・・・

〇羽太の玉(はふとのたま)         1箇

〇足高の玉(あしたかのたま)        1箇

〇鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇

〇出石の小刀(いずしのかたな)       1口  

〇出石の鉾(いずしのほこ)         1枝

〇日鏡(ひのかがみ)            1面

〇熊の神籬(くまのひもろぎ)        1具

(ちょいと横道:赤石の玉とは赤い色をしていたであろう、天日槍伝承のパネルには彼の妻は、一人の女性の陰部に日の光があたり赤い玉となった。それが天日槍のもとで美しい女性となり妻になったという。つまり赤石の玉とは太陽を表していることになり、日輪の王に相応しい持ち物である。)

・・・と云う。これは天孫降臨の際に天照大神が瓊瓊杵尊(ににごのみこと)に授けたとされる三種の神器と同じような印象を受ける。三種の神器とは・・・

〇八咫鏡(やたのかがみ)

〇八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

〇天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)

・・・である。先の7物と比較すると、鏡・玉・剣の3つは同じであるが、熊の神籬とは何ぞや。

熊は「甘」の意とも、「隠」の意味とも云われるが不祥。神籬は神が降臨する場所として特別に祀るための壇。天日槍が日本にもたらした神を祀る具で厨子のように神体が外に見えないように覆い囲むものという。

う~ん。7物も三種の神器も弥生の墳丘墓や古墳からセットで出土している。何やら5世紀の古墳時代に半島各地から列島各地に五月雨の如く、渡海してきたのであろうか。

朝鮮半島と日本列島の古墳の類似性や出土物について比較検討してきた。その朝鮮半島、特に新羅の文化・文物はユーラシアなかでもスキタイの匂いがする。渡海して来た天日槍は新羅王子だったという。次回はスキタイ、新羅、列島の文物を検証し空想を想い描きたいと考えている。

 

<続く>