世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

肥前鳥居

2016-04-30 08:19:39 | 日記
今回の平戸紀行の目的の一つに、肥前鳥居を目にすることであった。場所は佐賀城址に近い与賀神社(1603年建立)、福岡の筥崎宮(1609年建立)などに在るという。行程の関係から佐賀は避け、筥崎宮の鳥居を見ることにした。鳥居の笠木に鳥の肖形物が、載っているであろうとの期待である。

目指すは、黒田長政が寄進したという一ノ鳥居。残念ながら鳥の肖形物など何処にも見当たらない。
そもそも鳥居とは何ぞや。Wikipediaは誰が記述したか知らないが、それによると、「神社などにおいて神域と人間が住む俗界を区画するもの。つまり結界であり、神域への入口を示すもので、一種の門である」・・・とある。先にも紹介したように、アカ族のゲートも結界である。
では日本の鳥居の起源は、どうであろうか?  引き続きWikipediaからの流用である。それには諸説あり、”考古学的起源についてはっきりしたことは分かっていない。単に木と木を縄で結んだものが鳥居の起こりであると考えられる。文献に徴すれば古くは「於不葦御門(うへふかずのみかど)」(皇太神宮儀式帳)と称して、奈良時代から神社建築の門の一種としている。いずれにせよ、8世紀頃に現在の形が確立している”・・・とある。中にいは鳥の寄生木説もあるが・・・。
先般みたように、その起源はアカ族の結界や、吉野ヶ里の結界であろう。では何故肥前鳥居の笠木にのみ、鳥が鎮座するのか? 中世、肥前地方にそのような肖形物が存在したのか、伝承があったのか不明であるが、何がしかの根拠は存在したであろう。
上掲の写真は、福山市鞆の沼名前(ぬなくま)神社の肥前鳥居である。笠木に鳥衾と呼ばれる鳥の肖形物が載る。福山城主が寛永二年(1625年)肥前の住人を呼んで、建立したものだと云う。これを見ればアカ族の結界云々は、牽強付会とも思われない。





アカ族と吉野ケ里の結界

2016-04-29 07:26:32 | 古代と中世

吉野ヶ里遺跡にアカ族の結界に似た構造物が在る。吉野ヶ里のそれも、やはり結界であろう。
先ず、バーン・トンルアンのアカ族村の結界である。村の入り口には鳥居に似たアーチが建つ。そのアーチの上には、鳥の木彫肖形物が複数載る。そしてアーチの根元には、木製の男女が交合している。

 

 

一方、吉野ヶ里のそれである。紹介する吉野ヶ里の結界を紹介順に、下の案内図に番号をふった(文字が小さく恐縮である)。

先ず、吉野ヶ里遺跡入り口で1番の番号位置の結界である。どうもこの結界は、遺跡公園にしたときに設けられたもので、弥生のものではなさそうである。

次は、2番目で南内郭入口に立つ結界で、その位置は発掘調査の結果に基いている。

3番目が、北内郭の入り口に立つ結界である。

アーチ状の結界、そこに横たわる鳥居で云うところの、笠木に鳥の肖形物が載るのだが、翼を広げる鳥であったり、翼がなかったりするが、この違いもアカ族の結界と同じである。
遺跡内の展示室には、写真の復元された鳥形の肖形物が展示されている。この結界の鳥は何を示すのか? 諸説である。

この鳥は死者の魂を天界へ運ぶものであろう。或いは招かれざる者の侵入を見張っているのか? いずれにしても古代の鳥は大役を果たす。神武東征における八咫烏伝承もそうである。
アカ族と吉野ヶ里の結界を比較した。倭族と東南アジア少数民族の源流には、親縁関係を感じざるを得ない。










吉野ヶ里の心御柱

2016-04-28 08:11:53 | 古代と中世

昨年(2015年)7月、チェンマイの北約100kmのチェンダオ少数民族村・パローン族村を訪れた。すると東屋風建物の中に緑色の柱が立っている。コンムアン(北タイ人)でラックムアンと呼ぶ村の祖柱と似ている。近くのパローン族男性に聞くと、タイ語(パローン語ではなさそうだ)でファンチャイバーンと呼ぶそうだ。聞き間違いもあるかと思うがファンチャイバーンであれば、心御柱ということになる。

 

この心の御柱は、記紀に登場する伊邪那岐・伊邪那美両神が、天の沼矛をかき回して淤能碁呂島を作り、その島に天の御柱を見立てたという、国生み説話と符合する。ク二の祖、中心ということになる。
ここで述べたファンチャイバーンと源流を同じくすると思われる”柱”を、平戸紀行の途中である吉野ヶ里で見た。まず写真をお目にかける。

 

柱の奥に見える台形上の丘が北墳丘墓である。その墳丘墓にアプローチするのが墓道で、その右手に写真の立柱がある。キャップションによると祖霊が宿ると説明されている。吉野ヶ里集落からやや北に位置している。
 パローン族村のファンチャイバーンも村の祖柱であり、その先端は鉛筆の芯のように尖っている。吉野ヶ里の祖霊柱の先端も尖っている。この2つの源流は同じであろう。記紀にみえる心御柱と同義と思われる。

パローン族の集落で見かけたお婆さんである。日本の農村でみるお婆さんに似ていなくもない。
雲南・貴州から北タイに居住する少数民族、本来は揚子江周辺に居住していた彼らが、漢族に終われて南下し、一方は東に移動した我々の祖先であると、考えれば深層では親縁関係を感じざるを得ない。
文献史学を含め古代史を学究する学者、考古学者は日本に留まることなく、北タイを目指して欲しい。成果が得られるのは、ここ10年程だ。それを過ぎれば、生活環境はタイ社会に組み込まれしまう。”急げ北タイへ”。








三川内伝統産業会館・三上次雄コレクション

2016-04-27 07:28:45 | 陶磁器
川内伝統産業会館には、三川内焼の歴史展示のほか、現川焼も展示されているであろうとの期待で訪れた。残念ながら大きな目的である現川焼の展示はなかった。代わりと云えば語弊があるが、三上コレクションが展示されていた。展示点数は少ないものの、氏の広範な活動を伺うことができた。


タイルとしては、最もポピュラーなラスター彩鳥花文星形タイルである。色数は少ないが縁の藍色はラスピラズリを思わせ、イスラム寺院の尖塔を思い出す。
色釉鹿花文タイルで17世紀サファビー朝のもの。やはり藍ないしは青色が基調である。

ラスター彩花文二段瓶。同じく17世紀のイラン・サファビー朝で焼成されたもの。ラスター彩とは金属ベースの釉薬で文様を描いたものである。
シーサッチャナーライの青磁瓶でよく目にする一品である。
これもシーサッチャナーライの鉄絵ケンディーで、これもよく目にする一品。

クメール、タイ、安南等々広範に展示されているが、スペースの関係からか?展示数が少ない。貴重な品々をもっと鑑賞したい、三川内伝統産業会館には再考願いたい。














松浦史料博物館で見たもの

2016-04-26 16:30:02 | 日記
過日「伝言ゲームのようなズレ」とのタイトルで、”犀牛望月”についてブログに掲載しているが、それを松浦史料博物館で目にした。松浦家35代の殿様が使用した硯屏である。写真がぼやけてしましい、恐縮である。
その硯屏について、キャップションになにも記載されていないので、詳細は不明であるが、唐土からの輸入陶磁であろうと考えられる。先の記事との関連で、何ともタイミングのよいことであろうか。
更には暹羅(アユタヤ王朝)船が平戸に寄港したときの絵図まで展示されている。

姿形は中国のジャンクと見紛うほどである。所謂宋胡禄を遠路運んできたのである。アユタヤと日本には往来があったのである。ここでも暫し悠久の浪漫を感じることができた。