世界の街角

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「陶磁器・パヤオ」シリーズ・32

2016-02-27 14:55:30 | 北タイ陶磁
<続き>

<パヤオと中国陶磁>
●磁州窯との関係(2)
前回は、磁州窯と北タイ諸窯の関係を文献からみてきた。最も正確であろう中国側文献には、スコータイ朝の入貢、ランナーへの南征とランナーの入貢記事しか記載されておらず、陶芸技術や陶工の移動については、何も記載されていない。
しかし、近世の編纂ではあるが、年代記集成には磁州窯と龍泉窯の陶工云々が、伝承されていることを述べてきた。
今回は、パヤオ(一部北タイ諸窯の事例を含む)と広義の磁州窯(系)との類似性を比較してみたい。
陶磁器(製品)および技法、窯構造全般にわたる比較が必要である。先ず窯構造であるが、磁州窯は半倒焔式の饅頭窯であるのに対し、パヤオのそれは横焔式単室窯で、やや違いを示している。
焼成技法としては、双方共に匣鉢を用いている点である。但しパヤオ窯群全てが匣鉢を用いていたかどうかについては疑問がある。しかし、その匣鉢が似ていると思っている。
          (磁州窯匣:出典「磁州窯瓷・王建中著」)
         (ウィアン・ブア窯群匣:出典「陶磁器・パヤオ」)
双方共に寸胴形で縦方向が長い(高さがある)。磁州窯は口縁釉剥ぎをし、窯道具を使って伏せ焼の重ね焼き、ないしはトチンを使った重ね焼きのための、縦長であろう。一方パヤオは口縁と口縁、底と底の重ね焼きのための縦長であると理解したい。双方に重ね焼きの方法はことなるものの、縦長の匣鉢を用いたことに、何やら暗示するものがありそうである。
さて、冒頭の一覧表に戻る。似たものだけを集めて表にしたとの誹りを受けるとも思われるが、抜けているのは、先の窯構造と轆轤の形態と回転方向、器体の形状である。窯構造については前述した。
轆轤であるが、王建中著「磁州窯瓷」によると、石製円盤とそれを支える中心軸から構成され、手回しであるという。そして回転方向は右である。また大きな甕などは、2個の円盤が使用され、専従の轆轤工によって回された円盤の回転は、ベルトで大きな円盤に伝えられ、陶工はその大きな円盤で轆轤ひきすることになる。
    (100年前のチェンマイの陶工と轆轤:出典「陶磁器・パヤオ」)
上の写真が中世も使われていた保証はなにもないが、磁州窯と同じように2つの円盤がベルトを介している。手前の轆轤工が轆轤を回転させ、奥の陶工が作陶している構図は磁州窯と同じである。但し中世のパヤオはどうであったろうか?
磁州窯はトチンによる目跡が残るが、パヤオでは蛇の目である。この重ね焼き手法は、経由地安南の影響かと思われる。さらに窯詰め方法は異なるものの、口縁釉剥ぎは双方共に共通している。
器物の装飾技法については共通点が多い。先ず鉄絵である。鉄絵の初出が磁州窯にあることは論をまたない。この鉄絵がパヤオに存在することにびっくりした。しかし、このパヤオの鉄絵はカロン風で、安南経由カロンで定着したものを、パヤオで模倣したものである。下の写真がそれであるが、胎土はカロンに比較し非常に粗く、パヤオの特徴そのものである。
            (出典:「陶磁器・パヤオ」)
            (出典:「陶磁器・パヤオ」)
白化粧は双方共通で、白化粧後の装飾方法も共通点が多い。その一つが白掻落とし技法である。
         (白掻落とし 出典:「磁州窯瓷・王建中著」)
         (白掻落とし ワット・リー付属博物館収蔵)
磁州の白地黒掻落しは、パヤオに存在しないが、同じような視覚効果を狙う装飾手法として、白掻落し黒貼花がある。それらを写真で比較する。
       (白地黒掻落とし 出典:「磁州窯瓷・王建中著」)
        (白掻落し黒貼花 ワット・リー付属博物館収蔵)
白化粧後二重圏線を掻落とし、その上から黒土を貼り付けている。これは磁州の白地黒掻落しに勝るとも劣らない技法である。胎土と白化粧土、装飾用の鉄分の多い黒土の剥離を起こさせないためには、同じような熱膨張と収縮に耐える必要がある。つまり、焼成時と冷却時に問題がないようにするための、知識が不可欠であり熟練を要す。これがパヤオの陶工で出来たことに、驚きを禁じ得ない。
以上、支離滅裂の比較説明の感を免れないが、磁州窯(系)とパヤオを比較してみた。比較すべき技法や装飾方法に、余にも共通点が多く、単なる偶然として無視する態度はとれそうもない。先達、先輩諸兄の磁州窯影響論は、それなりの説得力を持つものと解したい。




                                  <続く>


「陶磁器・パヤオ」シリーズ・31

2016-02-26 07:57:54 | 北タイ陶磁
<続き>

<パヤオと中国陶磁>
●磁州窯との関係(1)
一旦パヤオを離れて見てみたい。中国からタイへ、陶磁に関する技術伝播を示す資料として、識者の多くは下記の見解を示している。それは、元史とそれに関連するタイの年代記集成の記述についての、考察に関する見解である。
先ず、元史から確認したい。

元史巻十八:成宗(一)①
至元三十一年・・・秋七月壬子、・・・詔招諭暹國王敢木丁來朝、或有故、則令其子弟及陪臣入質

スコータイ朝が元に入貢したことについて、上記のように記録されている。すなわち“詔諭の詔によりスコータイ朝の敢木丁(カムラテン)国王が来朝したが故あって、その子弟と陪臣に謁見の令を与えた”。
ここには、中国陶磁の技術がスコータイに伝播することに関して、一言の言及もない。この至元三十一年とは、西暦1294年である。当時のスコータイ朝は、ラームカムヘーン王(在位:1279-1300年)の治世で、その版図はスコータイ朝を通して最大を誇った。
ところがこれに関し、タイ側に以下の資料が存在する。それは19世紀にラーマ5世の異母弟であるダムロン親王が、編纂したと云われている、「タイの年代記集成」である。その第1部に以下の記述があるという。
それは、“1294年の第1回入貢の時、帰国する翌年に50名ほどの磁州窯系の陶工をつれて帰ったこと、1300年には第2次使節団が、龍泉窯の陶工・家族を含めて500人をタイに招致した”・・・という伝承である。
これをもって多くの識者は、そのようにして技術伝播したと見解をのべているが、その信憑性はどうかとの疑問が残る。つまり、13世紀末の事績を19世紀に成文化したわけだが、どこまで真実を伝えているのか?
スコータイと元との関係は、スコータイが入貢することにより、比較的良好な関係にあったようである。(以下、蛇足ではあるが、八百息婦(ランナー)と元との関係については、元史巻17、19、20、21、23、24、61、63、99にランナーへの元の南征、巻25、30、32、33はランナーから元への朝貢が記録されているが、陶磁技法や陶工の移動に関する記述は皆無である。)
別の識者によれば、元寇の南下圧力により磁州窯の陶工が難を逃れ、吉州窯や広東、安南を経由してタイに至った・・・と云う。更に馮先銘氏は吉州窯の鉄絵を「靖康の変」②(つまり元寇に遡る時代)に際して、磁州窯の陶工が江西省に逃れ、釉下彩絵の手法を伝えたというのは、非常に可能性のあるところだと云う。
これらの説については、同時代資料に記述がないことから、当該ブロガーとしては、荒唐無稽とは言わないまでも、疑問であろうとの立場に立っていた。しかし、パヤオを訪問し、博物館で展示品を実見し、窯址に立って陶片を収集し、書籍「陶磁器・パヤオ」を読むに至り、立場の変更を余儀なくされている。
(元寇の南下に押され、磁州窯から吉州窯へ、その影響を受けたであろう鉄絵を有する磁竃窯、廉江窯、海康窯、更には安南のチューダオ窯とパヤオの位置関係を示した。鉄絵技法は安南山脈を越え、ラオスを経由して北タイにもたらされたであろうか?)
スコータイ、シーサッチャナーライの鉄絵文様は、磁州窯の影響であると、多くの識者が指摘している。その詳細は省略し、タイ北部窯への影響を次回以降検討したい。

注)
① 成宗 元朝第2代皇帝
              (出典:ウィキペディア)
② 靖康の変:1126年宋(北宋)が女真族国家の「金」に敗れて、華北を
 失った事変、靖康は当時の宋の年号

参考文献)
・東南アジアの古美術 関千里著 めこん社
・ベトナムの皇帝陶磁 関千里著 めこん社
・上智アジア学第11号所収・ベトナムの貿易陶磁 森本朝子著
・磁州窯陶瓷 王建中著 二玄社
・中国の陶磁第7巻 磁州窯 長谷部楽爾著 平凡社
・世界陶磁全集13巻 遼・金・元
・陶磁大系47 タイ・ベトナムの陶磁 矢部良明著 平凡社
・日本出土の中国陶磁 長谷部楽爾著 平凡社
・元史




                            <続く>



「陶磁器・パヤオ」シリーズ・30

2016-02-25 09:00:50 | 北タイ陶磁
<続き>

祝:シリーズ30回

<バーン・マイ陶磁>
2015年11月初めのパヤオ窯址紀行の時点で、バーン・マイ窯は当該ブロガーにとっては、未知の存在であった。ワット・シーコムカム付属博物館で購入した、書籍「陶磁器・パヤオ」に掲載されていたのだが、それを知ったのはチェンマイに戻ってからであった。従って未訪問である。
バーン・マイ窯は、パヤオ湖の北北西17kmのメースック村集落の南に位置し、北緯19°17′24″ 東経99°47′21″付近に存在する。その位置は下の写真の白丸位置である。
「陶磁器・パヤオ」は多くを語らないが、頭頂部が破壊されていた地下式の横焔式単室窯が発掘された。「陶磁器・パヤオ」に掲載された窯址写真をみると、形を残しているように見える。その後、覆屋が設けられているかどうか、全く不明である。形が残っているうちに一度訪問したい。
            (出典:「陶磁器・パヤオ」)
上掲写真に続くPageに、以下の焼成陶磁が紹介されている。これは以前紹介したことがあるが、見込みに蛇の目の釉剥ぎをもつ皿である。
ところが、この皿はバーン・マイ窯焼成品と特定できていないようである。上の写真の朱色棒線にはパヤオ窯焼造と記されている。突然広義のパヤオ窯表示である。
何らかの関連性を考慮して、バーン・マイ窯を紹介するPageに掲載したと考えられるが、「陶磁器・パヤオ」は何も触れていない。
いずれにしても広義のパヤオ陶磁に、蛇の目釉剥ぎの皿が存在すること自体が、驚きである。シーサッチャナーライやスコータイ陶磁に目跡をもつ盤や鉢は存在するが、蛇の目については存在せず、その特異性が際立つ。これについては後日検討したい。

                                 <続く>

「陶磁器・パヤオ」シリーズ・29

2016-02-24 07:19:01 | 北タイ陶磁
<続き>

<ウィアン・パヤーオ陶磁>
●採集陶片
御覧のように窯址らしき処は破壊され、バナナ畑に変貌している。上写真の画面右は、一段低くなり田圃となる。バナナ畑と田圃の斜面に窯址が、あったであろうと推測する。上写真の右下の白枠のように、陶片が散乱しており、窯址が存在したであろうと思われる。
そこでは写真の陶片を採集した。

壺と思われる陶片の表裏である。壺の外側には褐釉がかかっていたであろうと思われるが、カセていて光沢はない。もしかして無釉の陶片かとも思うが、素人には判断が難しい。内側は写真のように無釉である。

広口短頸壺と思われる口縁部の陶片である。その口縁は釉剥ぎされている。外側面は白化粧であろうか、それとも釉薬がカセたのであろうか? いずれにしても胎土以外の何かで覆われている。壺の内側も同様なもので覆われている。
 まさに何でもありの印象だ。パヤオの多くの壺は、口縁に釉薬がかかっており、上の陶片のように口縁釉剥ぎを見ないのであるが、上写真の陶片は釉剥ぎされている。果たしてそうか? 素焼きの段階で廃棄された結果であろうか?
未だ全貌は把握しきれていないのであろう、素焼の瓦が出土したということなので、素焼は行われていた。その素焼きがすべての陶磁に当てはまるのか? 施釉と無釉が存在したと云うが、白化粧後無釉で焼締めた陶磁が存在すか否か? 「陶磁器・パヤオ」は何も示していない。




                                <続く>

「陶磁器・パヤオ」シリーズ・28

2016-02-23 08:02:37 | 北タイ陶磁
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<ウィアン・パヤーオ陶磁>
●焼成陶磁
「陶磁器・パヤオ」の著述に従って説明する。窯址からは素焼きの瓦の欠片が見つかった。焼成陶磁は施釉と無釉がある。無釉のものは、胎土が灰黒色で、施釉のものは、釉薬が茶色か、茶色がかった緑色で、胎土は灰黒色か褐色である。出土したものの多くは、厚く作った水差しの陶片であった。ウィアン・パヤーオ窯群の特徴として、施釉した皿、鉢、小鉢の種類はこの周辺では出土していない。
ウィアン・パヤーオ窯群でのこれらの調査で、考古学的な調査はまだ行われていないが、次のことがわかる。ウィアン・パヤーオ窯群は小さな窯で、主にコミュニティの中での必要に応じて生産されていた。作られていた製品は、多くが日常生活に使うもので、鍋や壷類、水差しだった。この窯の年代は、ウィアン・ブアの時代と同じ頃で、仏暦20-21世紀(西暦14世紀半―15世紀半)頃だと推測される。
            (掛分釉広口短頸壺:高さ45cm)
(緑がかった薄い褐色のコーティングの広口壷。高さ13センチメートル、胎土は褐色)
いずれもウィアン・パヤーオ窯群にて焼造。パヤオ県ムアン郡ターワントーン地区ウィアン・パヤーオまたはウィアン・ナムタオにて出土(出土時の記録が明確に残っていないようだ)。
無釉の馬人形。ウィアン・パヤーオ窯群より。パヤオ県ムアン郡ウィアン地区ワット・シーにて出土。
ここまでウィアン・ブア窯群、モンオーム窯群、フェイ・メータム窯群の陶磁を紹介してきた。いずれの窯群も、それぞれの特徴を備えていたが、当該ウィアン・パヤーオ窯群も、その事例に洩れず肖形物、壺、水差し焼成に特化した窯群であった。
この特徴をどのように理解すれば良いのであろうか? 冒頭の掛分けの大壺は、見た目でサンカンペーンのそれと、見分けがつかない。「陶磁器・パヤオ」には、違いについて説明がない。数を見るしかないが、その数が少ない。

                             <続く>