世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

完結したCHAO不定期連載の『ラーンナー古陶磁を訪ねて』

2019-03-19 08:09:15 | 博物館・セブ

チェンマイの日本語情報誌『CHAO(ちゃ~お)』は月2回の発刊である。そこに『ラーンナー古陶磁を訪ねて・ラーンナー古陶磁の窯址を巡る』とのテーマで発刊して頂いた。5回シリーズの不定期連載であったが、先の2月25日号で完結した。

シリーズ第5回:2019年2月25日発刊=パーン窯址編

チェンラーイ県パーン郡のパーン焼と現地の2つの窯址、更にチェンマイ国立博物館前庭に移設された窯址を紹介している。

シリーズ第1回・2018年6月10日発刊

実質的な入門編としてカロン焼と窯址、サンカンペーン焼と窯址、パヤオ焼と窯址、パーン焼と窯址の概要を紹介している。

シリーズ第2回・2018年6月25日発刊=カロン窯址編

チェンラーイ県カロン副郡のカロン焼と窯址を紹介している。旧ランナー王国下でバラエティーに富む焼物が焼成された窯で、窯址も多様性に富んでいる。

シリーズ第3回・2018年8月25日発刊=サンカンペーン窯址編

シリーズ第4回・2018年12月25日発刊=パヤオ窯址編

パヤオ県ムアン郡に存在するパヤオ焼と窯址を紹介している。北タイで最も早く操業を開始したであろうと云われている。

CHAOはチェンマイでは要所で無料入手できるが、日本では郵送して頂くことが可能である。数寄者で入手希望の方は以下の手順で入手されたい。尚、価格は1部350円。

購入希望バックナンバー(各表紙右上の各枠記載番号)と代金の銀行振込口座

 楽天銀行 サンバ支店

 普通口座 4081258

 口座名 高橋敏(タカハシビン)

代金振込後、

①氏名(ふりがな)、住所、電話番号、バックナンバー記載

②振込の領収書コピー

①と②を合わせて、下記宛て郵送かFAX、またはE-Mailにて申し込みして下さい。

宛先:Bridge International Foundation

住所:296/136 Moo2 Laguna Home T.Nongjom A.Sansai

        Chiangmai 50210

FAX:0-5312-7175

Mail:mail@chaocnx.com

今後、番外編として他の北タイの窯址を幾つか紹介する予定です。

 

<了>

 


聖なる峰の被葬者は誰なのか?(11)

2019-03-11 14:39:53 | 博物館・セブ

<続き>

もう少しラワ族(=佤族)について検討したい・・・、と云うのは聖なる峰の被葬者としてラワ族が、一つの可能性であろうと個人的に考えているからである。その理由はメンライ王がランナー王国を建国する以前の先住民がラワ族であり、チェンマイ盆地にも環濠都市国家を築いていたことが明らかであり、タイ族の進出に因り山間部へ逃避したことによる。

(ドイ・ステープ山麓のラワ族環濠都市国家ウィアン・ジェットリン)

雲南・佤族は東経99度ー東経100度、北緯22度ー北緯24度のいわゆる阿佤山区に多くが居住する。グーグルアースで示した滄源県佤族について検討する。

(訂正・写真下方が北緯22度、上方が北緯24度)

下のスケッチは『弥生文化の源流考』に掲載されている雲南省滄源県翁丁村の集落配置である。

墓地は裏門の先に在る。若林弘子女史の調査は1989-1992年に及んでいるようだ。其の時のスケッチを示しているが、今日のグーグルアースと比較すると、集落の建物配置は多少異なっているように見える。

(出典:グーグルアース)

しかし写真のように建物は、古様を示している。この翁丁村の標高は1500m程である。裏門の先に墓地があるとのことであるが、標高はほぼ同じであろう。ここで次のグーグルアースをご覧頂きたい。

翁丁村が如何に山中に存在しているか、御理解頂けたと考える。ほぼ45度南東の河谷盆地はタイ族の集落と水田である。山中の赤茶けた処は、佤族などの少数民族の住居地である。

佤族は何故、山深い山中に追い遣られたのであろうか。そのこととタイ(泰)族が阿佤山区で勢力を張ったことと関係する。歴史を遡ると、南詔国時代に鉱物資源増産のため、泰族の20余万戸が東部から移住させられた。その人口の膨張は、南詔国の滅亡を機に当然のこととして雲南西南部の情勢を変化させた。泰族が強勢になるにつれて、雲南西南部の利権を獲得し、その地を支配するようになった。

一方、佤族が阿佤山区に居住を始めたのは元時代に遡り、当初は水利のよい高原盆地を求めて開拓したが、間もなく異族である泰族の圧迫で、佤族はさらに山深い僻地に移動することになった。

その結果として翁丁村が、山奥に存在するか御理解頂けたと考える。この佤族であれば、先に紹介したオムコイ郡メーテン村の1500mを越える山中に墳墓を設けることは可能であろう。しかし、先にみたように雲南・佤族は土葬である。オムコイやターク・メーソトの墳墓には火葬と土葬双方が存在したと云われている。してみると佤族とは異なる民族であろうか・・・佤族の可能性が高いと考えているが、埋葬方法にやや異なりがある印象である。

最後に話を混乱させて恐縮である。タイ人(族)の可能性は捨てきれていない。確かにオムコイの事例をみても、河谷盆地のタイ族が1500mもの山の尾根まで遺骨を持ち上げ埋葬するのか?・・・現地を訪れて感じる素朴な疑問である。

ところが時代は19世紀末から20世紀初頭のことである。ビルマ勢力を放逐したチェンマイ・チェットトン朝の第7代・インタウィチャヤーノン王の墓地がタイ最高峰であるドイ・インターノンの頂上に存在する。タイ最高地点と表示された看板の後方に、第7代・インタウィチャヤーノン王の遺骨を納めた祠というか墓がある。

(ドイ・インターノン山頂の墓地)

第7代王の娘でラーマ5世王に嫁いだダーラーラッサミー妃が、父である第7代王の遺骨を天国に最も近い場所に埋葬するために、自ら歩いて運んだとの伝承が残っており、現にその墓には献花が絶えないでいる。中世ではなく、19世紀末から20世紀初頭に、聖なる峰への埋葬が存在していたのである。これがタイ人埋葬説の根拠の一つであるが、それをもって中世もそうであったことにはならない。何故なら盗掘により物証がないのと、金石文(石碑等々)に何も記載がないことによる。だが第7代・インタウィチャヤーノン王の事例があるように、タイ族の可能性は捨てきれない・・・ということで、またまた結論の無い話となった。モン(MON)族の可能性も捨てきれない。しかしながらモン(MON)族の葬送に関する情報がつかめないでいる。どうでもよい話だが、更に追及してみたい。

結論の無い長編の連載をご覧頂きありがとうございました。    <了>

 


スグボ博物館(4)

2018-12-20 06:45:41 | 博物館・セブ

今回は、イフガオ族に関する展示を紹介し最終回とする。イフガオ族とは、ルソン島北部のコルディエラ山脈に居住する少数民族。プロト・マレー系の民族で人口は約19万人とのこと。

山岳農耕民で、標高1000~1500mの山腹に石垣を重ね棚田を作り水稲栽培を行う。水牛をつかって田起こしをするという。なお陸稲も栽培する。稲刈りは穂先のみで、なにやら弥生時代を思わせる。

伝統的な家屋は、通常正方形高床式で、屋敷内には高床の米倉をもつ。村民共同で刈入れし、室内ないしは米倉の床下で儀式が行われ、コメの神に鶏や豚の生血と、米からつくった酒が奉げられるという。ここまで聞くとなにやら倭族と何らかの関連があるのではと思いたくなるが、葬送の仕方がまったく異なる。イフガオ族は洗骨の習慣があり、洗骨後民族柄の布地に包まれて、軒下に吊りさげられるとのことである。稲作伝来の海の道は、厳しいものがありそうだ。

農耕民といえども狩猟はおこなっていたことが分かる展示品である。

展示されている土器が面白い。丸や×さらにはギザギザ文様、鋸歯文もある。これらの文様は古代から中世の各民族がもちいたのであろうか・・・各地でみることができる。

 

<了>

 


スグボ博物館(3)

2018-12-19 06:43:40 | 博物館・セブ

以下、アメリカ統治時代と日本占領時代の展示品を紹介。

日本占領下の品々も展示されていた。下の酒杯は昔に実家で見た記憶がある。

セブはビサヤ地方に属す。Vijayan新聞として英字紙を発行していたようだ。

戦争の惨禍は2度と起こしてはならないが、国を守る国防力の強化は必要だ。

<続く>

 


スグボ博物館(2)

2018-12-18 06:51:10 | 博物館・セブ

Mr.Bariliは金属器時代の遺跡を発見調査した。説明ボードによるとお洞窟内の遺跡を調査したところ、破損した土器と人骨を発見し収集したとのことである。

これらの土器には幾多の文様が刻まれていた。見るとあまり複雑な文様は無いようだが、数種類の鋸歯文が目につく。

農具の名称はキャップションに記載されていたが、時代背景の説明がなかったように記憶している。日本の大正・昭和初期を思わせ、何やら北タイの農具や生活用具といわれても納得しそうだ。

<続く>