世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

『カチン族の首かご』

2022-02-18 08:04:21 | 東南アジア少数民族

過日、チェンマイ県チェンダオ郡最北端にある、カチン族集落のマナウ柱(ココ参照)について記事にした。

カチン族について、どのような民族であるか種々調べていると、妹尾孝彦氏なる方が著述された、『カチン族の首かご』なる著書が存在するとのこと。題名からして興味をひいた。地元の図書館には無く、島根県立図書館に存在していた。早速借用し7時間ほど要したが、一気に読了した。

(初版:昭和32年1月20日:60年前の出版であり、紙焼けしている)

妹尾氏は第55師団歩兵第112連隊第3大隊の第2中隊所属の陸軍1等兵で、『カチン族の首かご』は、所属部隊のカチン高原掃討作戦を記録した軍記(手記)である。妹尾1等兵は英語ができたことから、所属部隊の斥候兼進軍の行路確保の任務に当たっていた。

現・ミャンマーはカチン州の要衝・ミッチーナに進軍し、そこから北部のカチン高原に向けて、英軍および重慶軍(中華民国蒋介石・国民党軍)の掃討作戦から物語(実話)が始まる。

(牟田口廉也師団長の第18師団はインパールを目指した)

話しは中抜きして要点を記すが、カチン高原の要衝・サンプラバムを確保して間もなく、本隊はミッチーナへの退却命令が下るも、妹尾1等兵は諜報の為1人現地に留まった。そこで現地のカチン族5部族の推戴によりコーカム(国王)に就くことになった。約1か月後、妹尾1等兵にミッチーナへの退却命令が下だり退却することになるが、それまでの1か月間、カチン族との交渉や現地を見聞して知り得たことどもが記されている。素人目にも民族学的に貴重な資料と思われる。そのせいであろう、かの梅棹忠夫氏が”あとがき”を寄稿しておられる。

今回は、物語の中からカチン族の風俗・慣習から3点の事柄を紹介し、残りは後日にしたい。

先ず、図書名の『カチン族の首かご』である。妹尾1等兵が進軍した当時の昭和16年に、首狩りの習慣が残っていたとのことである。上図のような竹で編んだ籠に入れたと云う。この首狩りの習慣は、第2次大戦の当時残存していたようで、カチン族のみならず、佤(ワ)族(ラワ族も同族で別呼称)もそのようであったと聞いている。

次に紹介するのが、カチン族酋長の家である。何本もの掘立柱を持つ高床式住居である。ここで注目して欲しいのは、建物中央(下図で云えば上側)の”乙女の部屋”である。当該高床式建物は、家族や客人が出入りする出入口の他に、乙女の部屋にも出入口が存在する。これは夜間に”夜這い”する若き男性のためのものである。黒潮洗う南海の土佐のかつての夜這いを想起させる。

3点目は、カチン族女性の『腰環』である。妹尾氏のデッサンを御覧頂きたい。

上掲デッサン中央の女性。腹部というか腰に巻いているのが腰環である。籐や真鍮でできているそうだ。なぜこのような腰環を付けるのか、その理由や目的には言及されていない・・・残念。

(いずれもチェンマイ郊外のパロン族女性の腰環である)

これと同じように腰環をつけつ人々が北タイにも存在する。それはパロン族(パラウン族ともいう)の女性である。カチン族の習慣がパロン族に伝播したのか、あるいは逆なのか。いずれにしても居住地は隣接しており、風俗や習慣は相互に影響を与え合っているであろう。

いずれにしても『カチン族の首かご』は、読むのにひきつけられた良書である。折々に内容を紹介したいと考えている。

<了>


サマキー村のマナウ柱

2022-02-09 07:30:37 | 東南アジア少数民族

バーン・マイサマキー( บ้านใหม่สามัคคี )を日本語表記すれば、サマキー新村となるが、以下、サマキー村と表記する。

時間に暇ができると、Google Earthを見るのが日課のようになっている。東南アジアの山岳民族は、漢族の南下圧力に押されて、中国江南から貴州・雲南・東南アジア北部に逃れた人々の末裔であろうと考えている。その江南つまり呉越の地は、百越と呼ばれる多くの民族の本貫の地である。日本列島に渡海した百越の一派と、密接に関わっていたと考えている。彼等の慣習・風俗が古代日本のそれに、何某ら関連しているであろうと考えている。古来の慣習・風俗は、本貫の地よりも周縁部に残っている場合が多々存在する。

従って、貴州・雲南・広西、北および中部ベトナム、北タイやミャンマーのシャン州やその北部(カチン州等々)のGoogle Earthに貼り付けられた写真を、上述のことについて手がかりがないか、眺めている次第である。

チェンマイ県北部のチェンダオ郡、その郡の最北端に位置するアルノータイは、ミャンマー国境に位置している。そのアルノータイの南隣りが、今回話題に取り上げるサマキー村である。

サマキー村は、中国で景頗族(チンポー族とかジンポー族と云う)、ミャンマー・カチン州ではカチン族と呼ぶ民族の、北タイでは数少ない居住地のカチン族村である。そのサマキー村の創始は、ミャンマー政府軍と抗争するカチン独立機構・カチン独立軍(KIO/KIA)の組織から離れた、KIA兵士が移住したのが発端と云われている。50年以上経過していることになる。

前置きが長くなったが、そのサマキー村の一枚の写真に目が釘付けになった。その写真をGoogle Earth(貼り付けた人は日本人のようだが)から借用して掲載しておく。

写真の構造物をマナウ柱(เสามะหน่าว)と呼ぶようだ。カチン族正月のマナウ祭り(中国の景頗族は、それを目瑙縦歌節【めのうじゅうかせつ】と呼ぶ)の広場に立っている祭壇とも呼べるものである。

この祭りは、“かつて天空に9つの太陽が、出現して大地が干からびてしまった時、人々が多くの鳥を太陽を支配する神のもとに遣わした”という伝承にちなんでいる。鳥は歌い踊って神を楽しませ“1日に出る太陽は1つだけにして欲しい”という願いを聞き入れてもらった。その祝いの踊りとされている。この伝承は古代中国の十日神話の変形版であるが、ここでは、そのことはPendingしておく。
その祭りの広場に立つマナウ柱の写真が、Google Earthに貼りついていた。この柱の形状や文様に、それぞれ意味があるという。以下、それについて説明する。

中央の2本の柱は、ドゥンラー(男性・柱の先端が丸い、太陽を表す)、ドゥンイー(女性・柱の先端が半月状にかける、月を表す)、その両脇に同数並ぶ柱は、ドゥンノオイと呼ばれ、様々な文様で装飾されている。斜めの柱はドゥントン、土台はドゥンビエと呼ぶようだ。

土台の一番下の横たわる柱の先端(写真左側)はサイチョウの頭部を表し、反対側は尻尾である。先に記した伝承(カチン族の神話)に登場した鳥が、サイチョウで表現されている。マナウ祭りをリードする男性はサイチョウがモチーフになる冠を被るという。サイチョウは鳥の王者であり、マナウのシンボルで統治権つまり、王権を象徴しているとのことである。そのサイチョウの頭側から尻尾にかけて順にクジャク、銅鑼、月、太陽、星、太鼓を表しているという。

個人的にこれは?・・・と、注目したのは、垂直に立つ6本の柱の一番左側、中央の四番目、右端の六番目の柱の渦巻き文様である。これは三角の連続文(鋸歯文)と同様に魔除け・悪霊除けを意味するようである。日本の弥生時代や古墳時代の装飾文様に、意味が分かりにくい文様や幾何学文が存在するが、その謎解きのヒントになるような文様である。これについては、別途記事にしたいと考えている。

それにしてもサマキー村に貼り付けられた写真を見た時は、久方ぶりに興奮と云えばやや大袈裟だが、大いに興味をそそられる写真であった。貼り付けた人は日本人のようだが、個人的に長年頸を傾げていた、古代日本の文様の謎の一端に迫る写真であった。写真をUpdateした方に感謝したい。

<了>

 


哈尼族の棚田

2019-02-22 08:07:56 | 東南アジア少数民族

過日、TBSの『世界遺産・紅河哈尼(ハニ)族の棚田群』なるTV番組を視た。哈尼族はタイでアカ族とよぶ少数民族と同族である。

番組を視ていると、山の頂上(標高2000M)直下に集落を営み、そこから谷底に向けて、気が遠く成るほどの段数の棚田が形成されている。

棚田は完全な湿田で、乾田にすると土壌が脆くなり崩壊するので、湿田にしているという。但し稲刈りの時は作業がしにくいので、一時的に水を抜くと放映していた。その湿田で栽培しているのは赤米とのこと。

稲刈り後、水位の下がった田圃で、鯉のような魚を獲っていた。年中水を張っているので、鯉科の魚を養殖しているようだ。雑草の成長を妨げ糞は肥料になり、まさにエコと環境維持の農法である。

その魚で動物蛋白を摂取していることになる。且てはタイ人も、田圃に淡水魚を放していた、乾季には水が引くので田圃に穴をほり、田圃から水が引けば、その穴に逃げ込むようにしていたのである。北タイの山岳少数民の銀飾に、やたら魚がモチーフとして使われているのは、このように日常生活で関係の深い理由によるものと考えている。北タイ陶磁に魚文が多いのも、同じ理由によるものであろう。

<了>

 


チェンマイ山岳民族住居博物館(7)

2018-11-15 06:51:31 | 東南アジア少数民族

山岳民族住居博物館として連載していたが今回が最後である。その最後はリス族住居で、切妻屋根の土間式住居である。

 リス族はサルウィン川に沿った南北に伸びる帯状の地域に展開している。本貫地はチベット、雲南省西北部、ミャンマー・カチン省の領域と考えられている。タイ国内ではチェンマイ、チェンライ、メーホンソン県に居住する。鮮やかな彩色の服を身に着けている。

写真はウキペディアより借用した。地域により衣装は少し異なるようだ。

チェンマイにお越しの方々、観光地見物も結構だが、山岳民族博物館は中心部から近いので、是非見学して頂きたいものである。

<了>

 


チェンマイ山岳民族住居博物館(6)

2018-11-14 06:25:49 | 東南アジア少数民族

<佤族住居>

北タイでは佤族をラワ族ないしはルワ族と呼んでいる。佤族=倭族と定義したのは、鳥越憲三郎氏である。これは単なる語呂合わせに過ぎないと考えているが、住居形式には近しいものがある。しかし民族そのもは、紀元前後にミャンマーのマルタバン湾からサルウィン川を遡り、チベット系民族と混ざった後、タイのチェンマイ盆地に進出した。メンライ王の祖先・ラワチェンカラートは、ラワ族だとする年代記が残る。従って鳥越憲三郎氏が述べる、揚子江中下流域の倭族の一派が南下した集団と本質的に異なる。

村落にはタイ語でラック・ムアンと呼ぶ村の祖柱があり、土俗信仰のシンボルとなっているそうだが、それは未だ目にしていない。

竹造式高床式住居で屋根は入母屋造りとなっている。基部も竹造で他の民俗の木造と異なる。

夏は涼しくて良さそうだが、山間部の乾季は最低気温が10度以下となり、寒くてかなわないと思われる。写真にもあるように囲炉裏がきってあり、乾季にはそれで暖をとっているであろう。

 

<続く>