世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(1)

2019-02-28 07:59:46 | 北タイ陶磁

字ズラの多い話で恐縮である。1984年に始まったタイーミャンマー国境のタノン・トンチャイ山脈の墳墓跡の発掘による古陶磁の流出は、過去に経験したことのない範囲で拡大していった。その様子は古美術商・関千里氏によって、『東南アジアの古美術』とのタイトルの書籍にまとめられている。

当該ブロガーは、その熱気が冷めた1995年3月に、仕事の関係でチェンマイに赴任した。その当時ターペー通りの骨董店で、サンカンペーンの所謂『犬の餌鉢』と呼ぶ灰釉無文盤を数点入手した。それから北タイ陶磁の虜になり、ほぼ同じ時期に関千里氏の著作である『東南アジアの古美術』に巡り合った。その書籍は氏の幅広い知識と洞察力により、ロマンを感じさせ、常に座右に置いて紐解いている。

どうでも良いようだがそれ以来、その墳墓の被葬者が誰なのか気になっている。時にはオムコイ山中の発掘現場を訪れたり、種々の事柄を長年調査しているが、未だに結論が得られていない。結論は得られていないが、現在までの過程の一端を紹介したいと考えている。

1)関千里氏の考察

長文になるが、関千里氏のロマン溢れる記述の要点を、以下に紹介する。それは前記書籍のP287-P309の“あばかれた聖なる峰の落日”、P310-P342の“うるわしき緑のハーモニー”、P343-P347の“タノン・トンチャイ宇宙センター”とのタイトルで記述されているので要点を以下に示す。内容はサミットル・ピティパット教授のレポートを参考にされているようだ。

“1984年のタノン・トンチャイ山脈の墳墓跡の発掘では、遺骨と共に出土した副葬品は焼物、鉄製の武器、青銅鏡、腕輪、水晶、ガラス玉、鎌、刀、石灰を入れたキン・マーク用具であった。埋葬の前に死者を火葬にしているのは、中国人の埋葬習慣にはないので、中国からの移民ではなさそうだ。壺に石灰の痕跡があったことから、キンマ用途であったろう。サミットル教授は埋葬遺跡の主は恐らくタイ人、あるいはモン(MON)の人々であったとする。しかし証明する多くの資料が失われた(『関千里氏もサミットル教授と同様に、タイ族やモン(MON)族の墳墓であったと考えている。』)

山岳高地の埋葬遺跡とは、なんともミステリアスである。そして浮世離れした幻想をかきたてる。ヒンズー教や大乗仏教の天上界思想を連想させ、さらにエジプト・ナイル川上流の古典的な太陽信仰に基づく王家の谷の墳墓のように、永遠の生命である太陽に魂の昇天を祈り、生まれ変わる最短距離の山頂を選んだ、素朴な結果であったと思える(当該ブロガー注:このようなロマン溢れる表現が現実的であったのか・・・という疑問を持っている)

白釉緑彩陶と共に葬られていた民族は、サルウィン川を母とする下ビルマ、モン(MON)族の勢力下だったことになる。下ビルマはまた土着的なインドの風習の影響を受けて土葬を固持していたのか、イスラム教徒の影響によるものなのか、タノン・トンチャイ山脈を聖なる霊地として崇め、平地よりはるばる雲上の峰を目指し、遺体を山岳地帯まで担ぎ上げていた。もしくはいったん遺体を腐乱させ、その後山上で二次葬をおこなったのか

タイ族は上座部仏教という宗教上の見地から墓制はないと思われる。タノン・トンチャイ山脈の集中墓発見により、出土した多数のやきものが主にタイ族の王国発祥の地で製作された13世紀半ばから、15世紀半ばのものであることから、その墳墓に眠っていたのはタイ族に相違なく、このことが認められれば、墓制の認識が大きく変わる。

発見された墳墓の埋葬様式の多くは、土葬ではなかったか思っている。それは出土したシーサッチャナーライやスコータイの皿が大半を占めていたことにより推測でき、皿は遺体に添えて埋葬されていたのではないかと私は想像している。一つの墳墓から皿や鉢が五点程度出土したと聞いているが、怨霊に対する封じ込めの意であったのか、そして皿と共に剣もでてきたらしいが、悪霊をはらう象徴に副葬されたものかもしれない。

また骨壺の蓋となっていた皿や、壺のまわりを囲んでいた皿もあると言われ、火葬もあったことは確かなようである。土葬であったか、火葬であったか、議論の分かれるところであるが、タイ族も部族によって、あるいは時代にもより、土葬もあり、火葬も行われていたということであろう。

<続く>

 


環濠集落の消滅と天孫族

2019-02-27 08:39:30 | 古代と中世

今から13年前、エッセイ集『司馬遼太郎が考えたこと・2』を読んでいたが、中味はとうの昔に忘却していた。最近読み返しているが、昭和36年12月のエッセイ『ああ出雲族』に目が釘付けになった。やや長文だが転載する。

『先年、私は出雲へ旅をした。この地は天孫族が日本列島を征服する以前に出雲族による王朝のあった国である。私の旅は、出雲族の祖神たちをまつった古社を歴訪しつつ、古事記や出雲風土記に出てくる、そのかみの出雲王朝を空想するのが目的だったが、私の空想は、ともすれば道をゆく出雲おとめの美しさにさまたげられた。

彼女らは、ひと皮の眼が多い。

顔の肉がうすくて、ややおもながであり、男好きがする。

彼女らの顏は、出雲の地下から出土する弥生式の土器とおなじ系列のものだ。それらの土器は朝鮮、満州、蒙古から出土するものとほぼおなじものとみられている(当該ブロガー注:この土器は朝鮮系無文土器と呼ばれ、出雲市大社町・原山遺跡、出雲市・矢野遺跡、松江市・西川津遺跡などで出土している)。出雲女性の血には、ツングースの血がまじっているのであろう。

みなみからきて中つ国を平定し出雲王朝をほろぼした天孫族がどういう人種であるのか、いまだに定説がないが、天孫の貴族が何人種であれ、勇敢な南方のポリネシア人を多数連れていたことはたしかである。

つまり隼人だ。

かれらの男子は、いまでもカブキでクマドリをするように、眼の左右にイレズミを入れ、眼が裂けたようにみせる習俗があった。敵をおどすためだろう。

(写真は松江・風土記の丘資料館の人物埴輪頭部である。眼の刺青は見られないが、鼻の左右に刺青を見る。このような刺青が眼の左右にあったものと思われる。)

神武天皇の軍隊の根幹は、隼人の一部隊である「久米」と称する連中で、その族長が大久米命という元気のいい将軍だった。将軍といっても、台湾の高砂族(当該ブロガー注:日本統治時代に高砂族と呼んだ原住民で、マライ・ポリネシア系インドネシア語派に属す)や南洋諸島の連中とおなじく、赤フンドシをしめて、夏はハダカであったにちがいない。赤色は、いまもポリネシア系の原住民のこのむところだ。

神武天皇は、ある日、大久米命の眼のイレズミをみて、からかった。『あめつつ、ちどりましとと、など黥(さ)ける利目(とめ)』・・・おまえさん、なぜ、裂け目のようなイレズミをしているのかえ。大久米命は冗談を解する豪放なポリネシア人だったらしい。歌っていわく、『乙女に、直(ただ)に逢はんと、我が裂ける利目』・・・あたしはね、おんなの子にあったときよく相手の顏がみえるようにこうしているんでさ。

この神武天皇が、葦原中国(あしはらのなかつくに)を征服したとき、さっそく女房をもらった。その女房の名は、姫蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)というのだが、名というより美称だろう。タタラというのは、鍛冶屋さんがむかしつかっていたフイゴのことだ。フイゴは、タヌキの皮で作ったアコーデオンのようなもので、風をおくって炭火をさかんにし、鉄をとかす。新妻は、きっと寝室では、

『フイゴ姫』

と愛称されていたにちがいない。

この姫は、出雲王朝の皇帝事代主命のむすめで、天孫族と出雲族の融和のためにはるばる出雲の地から大和へとついできた。政略結婚である。とはいえ、古代的英雄である『神武』という征服王が、その男性的気質からみて、たんに政略だけで女房をえらぶまい。やはり当時から、男どものあいだで

『おんなは出雲』

という定説があったように想像する。』

・・・以上が、司馬遼太郎氏のエッセイの内容である。何とも、その想像力に脱帽する。

 (宮崎県情報誌JoJo8号掲載の準構造船)

(韓国・金海国立博物館展示の準構造船)

後世、渤海使が船を浮かべ日本海を渡海したように、ツングースが丸木舟ないしは準構造船のような船で、縄文後期か弥生期に出雲に渡海してきて、出雲王朝を建国したのであろうか・・・と、想像力が膨らむ。朝鮮半島経由などと、まどろっこしいことではなく直接渡海であろう。

天孫族については、台湾・高砂族のようなポリネシア人が南の島嶼伝いに、日本列島に至ったとの噺である。そのポリネシア人グループが出雲のツングースを負かしたことになる。

出雲に派遣された天孫族は、大和や日向からであろうか? 噺をややこしくして恐縮であるが、それのみではなかろう。山陰米子に稲吉角田遺跡が在る。そこから高床式住居や準構造船のような船に乗って、櫂を漕ぐ羽(鳥)人が刻まれた土器が出土した。そこには櫂を漕ぐ人々の頭部に、鳥の羽と思われる飾りがついている。

この羽人は南越のドンソン銅鼓(ドンソン文化:前4世紀ー前1世紀)にみることができる。

(出典:西村昌也『北部ベトナム銅鼓をめぐる民族視点からの理解』)

してみれば、山陰の海辺にも南方のポリネシア人が直接乗りこんだ、あるいは大和のポリネシア人(=天孫族)と示し合わせて、乗りこんできたであろうと、空想は果てしなく広がる。

その果てしなく広がる空想の行きつく先を想像してみた。環濠集落は、稲作文化と同時に朝鮮半島経由かどうかは別にして、大陸から伝播し日本列島東部へと波及したと考えられる。しかし、2世紀後半から3世紀初頭には、弥生時代の集落を特徴付ける環濠が各地で姿を消した。この時期に西日本から東にかけて政治状況が変化したと考えられている。この変化が、上の噺と繋がりはしないのか・・・。つまり環濠などと無縁のポリネシア人グループの来寇である。

忘れていた。司馬遼太郎氏は出雲美人に言及している。出雲で生を受けて育った当該ブロガーの眼には、男好きの女性は何人もいるが、いわゆる出雲美人は一人しか見た経験がない。目が節穴であったろうか。以上、司馬遼太郎氏のエッセイを読みながら、件(くだん)の妄想を抱いた次第である。

<了>

 


スリランカ見聞録(3)

2019-02-26 07:21:08 | 旅行

<続き>

4月13日

先ず仏歯寺(ダラダー・マールガーワ寺院)に出かけた。残念ながら先年LTTEのテロ攻撃に合い、寺院の一部が破壊され、その外部を修復中で外観を見ることはできなかった。

(出典:グーグルアース)

(出典:グーグルアース)

また仏歯寺はキャンディー湖畔に位置しており、その風景はなかなかのものである。標高は300mほどであろうか、日中は暑いもののコロンボに比較すれば、住み易い気候かと想像する。

写真の扉の奥に仏歯が納められているという。これは仏陀の犬歯といわれており、4世紀にインドのカリンガ国からもたらされたとのことである。当地は世界的に名高いペラペラ祭りが7月にあるという。一度観てみたいとも思うが、もう2度と訪れることはないかと思っている。

寺院内には沢山の仏像が並んでいる一画があった。そこには見慣れた仏像がならぶ、見るとタイのサンガから寄贈された仏像群である。今日、タイのサンガとスリランカ仏教サンガとは交流があるやに思えた。

ここ仏歯寺の付近がキャンディーの中心のようで、そこから南西郊外にあるペラデニア植物園への道沿いに、中国語の看板が出ておりびっくりした。さらに車窓から眺めたり、宝石店(スリランカはルビーやブルーサファイアの産地)へ寄った際に周囲を見回すと、東洋アンティークショップがあった。結局植物園に行くまでに3kmはあったであろうか、合わせて3軒程の東洋アンティークショップがあった。植物園の観光が目的であったことと、7名のグループであったために、これらの店に立寄ることはできなかったが、種々考えてみるにつけ、中国人のパワーは並大抵ではない。西岸のコロンボならまだしも、島の中央部であるキャンディーで生活しているのである。我々日本人には想像もつかない。

これらの中国人は、いつの時代に移り住んだのであろうか?まさか明の鄭和の時代でもあるまい。確かに鄭和は1410年に来島し、当時の王国は明の朝貢国となった。当時は島内に三国が鼎立しキャンディーを王都としたウダラタ王国(1474-1815)のほかに、コーッテ王国と北部のジャフナ王国があった。この時の中国人が出発点であるとすれば、既に土着化が進み漢字は忘れ去られているであろう。いずれにしても元や明の骨董品が交易によりもたらされ、これらの一部が店に並んでいるのであろう。このような空想をめぐらすのも楽しいものである。実際に覗いてこの地にもコピーが氾濫しておれば、この空想も台無しになる。

ペラデニア植物園についた。日立製作所のCMである「この木なんの木」の木がある。そのオリジナルはハワイのそれだが、ここの植物園もでかい。

双子椰子やカカオ、ナツメグなどの香辛料になる植物がスパイスガーデンとして一画に集められている。下から2番目の写真は確かナツメグだったと思うが自信はない。1番下の写真はカカオである。これらのスパイスめがけて中近東や欧州の国々が大航海以降おしかけた。

1815年、イギリス軍がキャンディーに入り、ついに王権は消滅した。したがって古い建物の多くが英国のスタイルである。このキャンディーは1週間程度は滞在したいとの欲望にかられた街である。

これらの見学を終えて、マイクロバスにてコロンボへ戻った。途中象サンクチュアリに立ち寄り、水浴びや訓練の様子をみた。いよいよ明日は帰国である。

<了>

 

 


スリランカ見聞録(2)

2019-02-25 07:25:28 | 旅行

<続き>

4月12日

チョーラ朝により建都されたポロンナルワだが、チョーラ朝のスリランカ支配は短く、シンハラ王ビジャヤ・バフー1世によって駆逐されている。チョーラ朝を追い出したシンハラ王は、ポロンナルワをシンハラ人の都とした。1070年のことである。

我々はアヌラーダプラから南下して、そのポロンナルワにいる。この都は南インドとの相次ぐ紛争のため、わずか300年ほどで廃都になっている。ポロンナルワを代表する仏教遺跡は、ガル・ビィハラである。涅槃像は長さ14mあるという、他に坐像、立像をあわせて3体の仏像は、大きな1枚の岩から彫られている。

現地に立つと、大きな岩山によくも大きな像を3体も彫ったものと感心するが、その顔立ちは中国、日本の像とことなり、像そのものからくる印象はあまりない。

南インドからの征服者チョーラ朝を倒したシンハラ王は、それまでのヒンズー教色を一掃するかのように多くの仏教建築をここに残した。写真のワタダーゲ゙もその一つである。

中央に坐像があるが、四方に入口があり、ガードストーンとムーンストーン(写真参照)があり、7世紀の建立である。

写真のムーンストーンは寺院の入口の地面に設けられており、ここから先は神聖な場所であり、この前で履物を脱ぎ裸足となって中に入ることになる。このムーンストーンは輪廻の思想を表しているという。一番外側が炎の輪で欲望を表し、その内側が4種の動物が描かれ生命の力と活力を表しており、象が誕生、馬が老齢、ライオンが病、牡牛が死を象徴していて、これで輪廻を表すという。その内側の花輪は愛する心、さらに内側は花をくわえた鳥で純潔を表して、人が命を持つ意味を表すという。最後は蓮花で天国をしめしている。

当日はシーギリアに立ち寄り、キャンディーまで行くことになっており長丁場である。眼前に巨大なシーギリア・ロックが見えてきた。

この岩山には有名なシーギリア・レディーが壁画の如く描かれており、その頂上には宮殿址がある。5世紀カッシャパは家臣にそそのかされ、父のシンハラ王ダッセナを殺し王位を簒奪した。この知らせを聞いた弟モガラナは、いち早く南インドに亡命した。カッシャパはモガラナの復讐を恐れ、このシーギリアの岩山に砦を築き、自らは山頂に宮殿を建てて住んだという。王位に就いたカッシャパは父殺しを悔やみ、善政をしいたといわれている。しかし18年後、南インドで兵を集めた弟モガラナは、カッシャパを攻撃するために立ち上がった。カッシャパも大軍を率いて迎え撃ったが、弟の軍を眼前に戦わずして、自らの命を絶ったという。カッシャパの死後、シーギリアの城塞は僧院として一時使われたが、その後は人の立ち入ることのできない深いジャングルに埋もれてしまった。

シーギリア・ロックの麓を過ぎると、長い階段が続く。この坂の途中から螺旋状の階段を使い、垂直に登ったところにシーギリア・レディーはいた。そこは岩山の中腹で登ってきたところが眼下に見える。

そのシーギリア・レディー、手の届く距離より眺める豊満な美女たち。彼女たちから1500年もの歴史の隔たりを感じることはできない。この画風も仏教と共にインドからもたらされたものであろうか。どの女性も花と大粒の宝石で身を飾っている。日本でいえば高松塚古墳壁画より時代は古い。その壁画が顔前1mもないところに描かれている。悪戯書きや破損の心配はしないのであろうか。日本の文化財保存行政と180度異なる。日本ではカビが生え、24時間空調で特別室まで作って保存し、御蔵入のままである。何かがおかしい・・・。

頂上は360度の眺望であるが、周囲は深いジャングルになっている。頂きの一番高いところに宮殿の址がある。他に大きなプール、番所、舞台の址が残っている。不便さはあったろうが、成る程これなら生活できたであろうと思われる威容であった。

これからキャンディーに向う。その国道11号を南下していると、なんと野生の象がいるではないか、とっさに車中から写した写真を掲げておく。

キャンディー市内の入口から暫くのところに、本日の宿泊先があった。当地もタイと同様仏暦を使っており休日である。そのため宿泊者が多く、現地のスリランカ人であろう人々がゲームに興じ賑やかである。そのホテルはマハウェリ・ピーチホテルと云う。名前は分らないが川のほとりに建っており、部屋の写真は撮っていないものの、感じがよかったと記憶している。

夕刻キャンディー・ダンスを観に出かけたが、ダンスの内容と食事内容が思い出せない。確かダンサーは仮面をつけていたと、かすかな記憶があるが、はたしてどうであったろうか?

 

<続く>

 


スリランカ見聞録(1)

2019-02-23 07:23:46 | 旅行

過去の話で恐縮である。現在(2010年6月)、遅ればせながら1988年出版の「NHK海のシルクロード:全6巻」を読んでいる。その第4巻は中国と中近東のほぼ中間に位置するスリランカの論考である。これを読みながら触発された訳ではないが、1999年4月にバンコクのパンダ・バスツアー社に申し込み、タイ正月に、4泊5日の予定でスリランカへ旅行したことを思い出した。その旅行後、簡単に概要をまとめていたが、それを紛失したままになっており、今回思い出しながら、まとめ直してみた。

1999年4月10日

BKK19:50発のAir Lanka(1999年からスリランカ航空に名称変更したが、4月はまだエアー・ランカであった)に搭乗するため、当日の午後CNXを出発しBKK・ドンムアン空港にて、ツアーに同行する5人と合流し合計7人のツアーとなった。

コロンボの北30kmほどの国際空港に22時前に着陸し、入国審査後コロンボの宿泊先にマイクロバスで到着したのは夜12時近くであった。宿泊したホテル名は記憶になく、ホテルの名刺等の印刷物も持ち帰っておらず不明である。

4月11日

ビュッフェを摂っていると、隣から日本語が聞こえてくる。先方は2人であったが、その先方から声がかかり、企業の駐在員かとの質問である。旅行者であると応え、短いながらも話をすると、先方はコロンボ日本人学校の先生とのことだった。後刻アヌラーダプラへ向う車中からYKK等の日系企業の工場が見える地点を通過した。当時当該ブロガーはタイ北部工業団地内の日系に勤務していたが、生活環境はコロンボのほうが厳しそうである。日本人がそう多くもない当地での勤務はご苦労なことである。

日本語ガイド氏の名前は忘れた、それなりの日本語をはなす高身長の青年であった。彼は今日から最終日まで同行してくれることになっている。今日は北部のアヌラーダプラへ行く予定である。当時そこから北は、LTTE(タリームイーラム解放の虎)の勢力圏で危険であるとのこと。

3時間弱走ったであろうか、人造湖が幾つもあり、大きなストゥーパがある一画に着いた。アヌラーダプラである。シンハラ人の先祖がインド北部からこの島に移り住んできたのは前5世紀のことである。以来、10世紀まで都はアヌラーダプラにおかれた。この人造湖を望むレストランにて昼食だったが、何を食べたのか覚えていない。人造湖を望み、ヤシの木が散在する周囲の田園風景が、好印象として残っている。

スリランカに仏教が渡来したのは前307年、アショーカ王の息子マヒンダ王子によって伝えられたことにはじまる。インドで仏教が誕生したのが前5世紀頃なので仏教誕生後、早い段階で伝来したことになる。

中国僧法顕は当地のアバヤギリ大僧院で修行した。399年法顕は64歳の高齢で長安を旅たち、陸路シルクロードを経由してインドに至り、7年の修行ののち、スリランカに立ち寄り、「海のシルクロード」にて帰国したが、法顕はこの僧院で2年間修行した。このアバヤギリ大僧院を見学したかどうか記憶がないが、写真のスリ・マハ菩提樹は記憶に残っている。

二千数百年もたっている(?)とのことなので、老木でさぞ大きいものと考えていたが、実に細い。直径30cmもあろうかと思われるほど細い。前3世紀にインド・ブッダガヤの菩提樹の分け枝が、アショーカ王の王女であるサンガミッタによりもたらされた。それが世界最古といわれるこの菩提樹である。

マイクロバスに向って歩いている途中、子供が小遣い銭せびりに付きまとう。周囲には当地の猿が大勢いる。30度以上と気温が高いので、その猿の動作も緩慢で、こちらも気だるさを感ずる。

10世紀末、アヌラーダプラは、南インドのチョーラ朝の侵略によって滅ぶ。そしてチョーラ朝は都をアヌラーダプラから南東へ100kmのポロンナルワへ移した。マイクロバスはポロンナルワへ向けて走り出したが、20分も走ったであろうか、本日の宿泊先に着いた。ホテルの名前はコロンボ同様覚えていないが、コテージタイプのホテルであった。

<続く>