世界の街角

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竹原装飾古墳の三角文様は旗なのか?

2022-03-07 08:35:30 | 古代と中世

過日、北タイの幟であるトゥンの役割や、日本古代の幟・幡(旗)の役割を探ってきた。下に掲載したブログテーマをクリックして頂ければ、それらの内容を再確認して頂ける。

 ธง(トゥン:旗・幡)とは何ぞや(ココ参照)

 日本の幟や幡(はた・旗)は何なのか(ココ参照)

これらは、今回のテーマである『竹原装飾古墳の三角文様は旗なのか?』についての実に長いプロローグであった。竹原古墳とは福岡県若宮市に在る装飾古墳で築墳年代は、6世紀後半と云われている。下に古墳壁画(奥壁)の模写図とパンフレットを掲げておく。

ここで今回のテーマは、パンフレットの『⑤連続三角文』である。パンフレットの解像度が低く、読みにくいとは思うが「赤と黒の三角形が縦に並んで旗のようにみえるよ」と記されている。

この連続三角文の謎解きである。誰かと云う記載は避けるが、某著名学者によれば、これは幾何学文であるとの表現で終わりである。流石に金関丈夫氏は、「右側の赤と黒の三角形。棒の上の方がわずか内側に曲がっている。これは風になびく旗なのか、それとも幾何学文か。」・・・と記されている。

上掲の2つのブログを御覧になった方は、やや曲がった線(旗竿か?)に並ぶ5つの赤・黒の三角文。これは旗で『死者の葬送に関して聖なる空間を示し、かつ死者の魂の依代』を示すであろうと、お気付きになられた方が多いと考える。

しかし、問題がないわけではない。この三角形が旗を示しいているかどうか・・・である。『日本書紀 巻第一神代上 一書(あるふみ)第五』のイザナミは、以下のように記るされている。紀伊国の熊野の有馬村に葬った。そのとき鼓・笛・をもって歌舞してお祭りする・・・と。残念ながら、一書第五はこれ以上語らず、この旗がどのような旗なのか不明である。従ってこの三角旗が、『死者の葬送に関して聖なる空間を示し、かつ死者の魂の依代』を示すかどうか確証はない。しかしながら、7ー8割程度の確率でそうであろうと考えている。

ここで、連続の三角文であるが、これを鋸歯文と呼ぶ。この鋸歯文自体が辟邪文様である。

(国宝 加茂岩倉 23号銅鐸 古代出雲歴史博物館にて)

銅鐸の鰭に相当する部分に連続の文様が刻まれている。これが鋸歯文で辟邪文様である。弥生や古墳時代の人々は自然の営みと共に生きていた。万物には霊が宿ったのである。その悪霊を避けるための辟邪文は、古代人必須のアイテムだったのである。

鋸歯文は古墳時代も必須であった。下は、茨城県ひたちなか市の虎塚古墳の石室の入口である。両立ち上がり部と天井部の縁に、鋸歯文が並んでいる。死者が収まる棺に悪霊が侵入するのを防止する意味をもつ。

この鋸歯文は、雲南・貴州や東南アジア北部の少数民族も辟邪文として、現実世界にいきている。したのアカ族の結界(ロコンと呼ぶ)は鳥居状の構造物である。

笠木の上には黒と赤に塗り分けられた鳥の肖形が並ぶ。これは日本の鳥居の原形であろう。鳥居も神社の内と外を区別する結界に他ならない。やや横道に逸れたが、上掲写真の鋸歯文をご覧願いたい。三角文様の色は、白・黒・赤である。竹原古墳の三角旗は赤と黒でよく似ている。この黒と赤について、アカ族集落で確認していないので、どのような意味をもつのか不明であるが、この色も魔除けや辟邪の意味をもつであろうか。

悪石島の神社に立つ鳥居である。そこにはアカ族のロコンと同じように鋸歯文が刻まれている。

そこで主テーマに再び戻る。竹原古墳の連続三角文(鋸歯文)は旗なのか、それとも辟邪文様なのか。個人的には旗と考えたいが、先述のように確証がない。ここは東南アジアの山岳民族の葬送場面が参考になりそううだ。葬送場面に旗が用いられているのか否か。訪泰時の課題がまた一つ増えた。

<了>


日本の幟や幡(はた・旗)は何なのか

2022-03-06 07:28:52 | 古代と中世

過日、『ธง(トゥン:旗・幟)とは何ぞや』なる一文をUpdateしたが、その続編に相当する。北タイで見られ、祭礼・儀礼に用いられるトゥンについてである。特に寺院に掲げられるトゥンは、干支が描かれ『先祖供養』の意味合いを込め、まだ昇天できない迷い霊を改めて空へ送るという役割があると云う。

また、死者を弔たり、寺院の祭礼の時に掲げられる。寺、仏塔、木(菩提樹か?)、供花、ナーガ、象、馬、鳥などの動物、人が載った船などの模様が描かれるとのことである。また布地ではないが、その原形と思われる竹の枌(へぎ)制のターレオ・ヤーオが稲の精霊の祠(ケーン・ピー)に掲げられている。これは、稲の精霊の在処つまり神聖な空間であることを示している。

さて、このトゥンは日本で云えば幟(のばり)や旗の類である。春祭りや秋祭りでみる村の鎮守の幟は何なのか、それについて考えてみたい。

歴史を遡のぼり、紀元前後と思われる幟・旗の初出から見ていくこととする。まずは魏志倭人伝である。

『其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。』其の六年とは正始六年のことで、その年に詔して倭の難升米に黄幢(こうどう・こうとう)を賜い、郡に付して假授せしむ・・・とある。黄幢の黄色は皇帝の色である。幢とは幡(旗)である。つまり、魏の正規軍を示す旗で、軍の指揮に用いるものである。魏皇帝は、卑弥呼に魏皇帝(転じて卑弥呼女王)を示す幡を贈ったのである。ここで假授とは現在の漢字では仮授である。

この黄幢であるが、どのような幡であったのか。諸葛孔明に扮した金城武が出演した『レッドクリフ(赤壁)』、そこには将軍や国名を明記した軍旗が映し出されているが、黄幢はそのような軍旗とは異なるようである。三国時代(魏・呉・蜀)に建造が始まった遼陽壁画墓に、黄幢が描かれている。それをスケッチしたのが下の写真で、騎馬上の人物が捧げ持っている。

これは、どう見ても幡ではなく、“♪てんてんてんまり てん手まり”の 髭奴が捧げる『毛槍』のように見えるが、これが後世において貴人に差し掛ける蓋(きぬがさ)に繋がっていったものと思われる。

いずれにしても魏志倭人伝に、蓋や幡につながる黄幢が記されていることを紹介した。次は本邦の史書である。

『日本書紀 巻第一神代上 一書(あるふみ)第五』は、以下のように記している。“イザナミ尊は、火の神を生むときに、からだを焼かれてお亡くなりになった。それで紀伊国の熊野の有馬村に葬った。土地の人がこの神をお祭りするには、花のときに花をもってお祭りし、鼓・笛・をもって歌舞してお祭りする”・・・とある。これをどのように解釈するのか。山折哲雄氏は、『古代神の登場』と題する一文で次のように記されている。有馬村の葬送場面は、“歌舞音曲を奏し、飲食をして弔っている。神聖な場で旗を立てることが重要な意味をもっていた。死んだ人の霊魂をそれに依りつかせるという意味だったであろう。あるいは死んだ人の魂を鎮めるために諸々の神の降臨をあおいで、葬送の儀を行った、そのための法具の一つだったとおもわれる”・・・と、記されている。イザナミ尊の葬送場面の旗は神聖な場を示すためのものであったことになる。

同じく『日本書紀・欽明天皇十三年条』に以下のように記されている。“欽明天皇十三年冬十月、聖明王は西部姫氏達卒怒唎斯致契(せいほうきしそつぬりしちけい)らを遣わして、釈迦仏の金銅像一軀(ひとはしら)・幡蓋(はたのきぬがさ)若干・経論若干巻をたてまつった”・・・とある。幡蓋(はたのきぬがさ・はんがい)の幡は、仏教初伝の6世紀の段階から、仏像・経論とともに最重要な役割をはたしていたことになる。仏教における幡蓋とは以下の”4Travel.jp”の写真のようなものかと思われる。これは、遼陽壁画墓に描かれた黄幢に似ているが、これも幡蓋と称し幡の一種のようである(仏教に関しては疎いので、これ以上の講釈は無理である)

4Travel.jpココ参照

この蓋(きぬがさ)は、古墳時代に埴輪のモチーフとなった。先ずは蓋飾りの木製パーツから見て頂くことにする。

(上掲3葉は、滋賀県守山市埋蔵文化財センターにて)

(鳥取県湯梨浜町羽合歴史民俗資料館にて)

ここで、幡・旗で思い出すのは、八幡や八幡神(=応神天皇)である。八幡神の『八幡・ヤハタ』とは何か。これは間違いなく旗である。八幡(やはた)は、八つの旗を意味し、神功皇后の三韓征伐の際立ち寄った対馬では、八つの旗を祭壇に祀り、神功皇后から応神天皇が誕生した際に、家屋の上に八つの旗がひらめいたとされている。

このような謂れから、後世に清和源氏、桓武平氏など全国の武家から、八幡神(=応神天皇)は武運の神として崇敬され、神仏習合とあいまって『八幡大菩薩』と唱えられるようになった。これらのことから、山折哲雄氏は、『幡(はた)』とは、神の寄りつく依代(よりしろ)としての旗を意味すると記されている。

戦場における八幡神の旗の事例も幾つか知られている。源の頼朝は奥州の戦で、八幡神の加護にあやかるため、八幡神の神号が入った錦の御旗をもちいたとされる。戦国大名では井伊直政が八幡大菩薩の神号入り幟を用いた。このように神の依代としての幡(幟)の加護に期待したのである。

以上、長々と北タイのトゥンに相当する、幟(幡)について弥生の昔からのことどもについて述べて来た。その幟(幡)の役目は、北タイと同様に神あるいは魂の依代、更には葬送場面での神聖な空間(場所)を示すことや、亡くなった人の魂鎮めの役割が見えてきた。鎮守の神様の幟は、その神様の依代で、祭りがありますとの合図ではないことになる。今回はここまでとして、次回ないしは別の機会にエンディングを紹介したい。

<了>


渦巻き文は古代のオリエンタル・スタンダードだった

2022-02-24 08:42:12 | 古代と中世

過去、『サマキー村のマナウ柱』(ココ参照)として、カチン族の祭壇について一文を掲載した。その写真を再掲する。

垂直に立つ柱が6本存在するが、左から1本目、4本目、6本目の文様は渦巻き文である。渦巻き文の意味合いは、悪霊を避ける辟邪文と云われている。

東洋の東の果て日本列島でも縄文の古くから、この手の文様が存在する。先ずは縄文土器文様である。

(注口土器 茨城県椎塚貝塚出土 縄文後期 渦巻き文が

視認できる)

(島根県雲南市加茂岩倉銅鐸 弥生時代 銅鐸中央に四頭渦巻き文をみる)

縄文時代・弥生時代の人々は、万物に霊が宿る考え自然と共に生活してきた。悪霊を避けるには、精霊信仰が欠かせなかった。当時の人々は、身の回りの品々に辟邪文を描いたのである。それは、古墳時代を経て奈良時代まで継続していた痕跡がある。

(平城宮跡出土の隼人の盾・8世紀前半・復元品)

隼人の盾は双頭渦巻き文である。戦闘の場において、敵の槍や刀で死傷しないように辟邪の文様を描いたものと思われる。勝手な想像乍らこの種のことが転じて『呪い(まじない)』になったものと思われる。

古代日本の渦巻き文は、カチン族のそれと同様に、辟邪文であったことがわかる。漢族がどうであったのか調べていないが、漢族の周辺が渦巻き文を辟邪文様としているからには、古代の漢族もそうであったろうと想像できる。

西欧や中東はどうであったか知る由もないが、少なくとも東洋では、渦巻き文は辟邪の意味をもつ標準文様であったと思われる。驚くべきことは貴州・雲南や東南アジア北部には、今日も辟邪の文様として現実世界にいきていることである。日本の古代は、彼の地の山岳民族・少数民族の現実世界である。若き研究者のフィールドワークに期待したい。

<了>


魏志倭人伝にみる柏手跪拝と神の降臨

2021-10-11 08:09:01 | 古代と中世

神社の参拝作法の初原は邪馬台国の時代から?

魏志倭人伝に記述されている一文と、それから想定した事どもを記してみたい。まず魏志倭人伝の該当部分を紹介する。

魏志倭人伝は『見大人所敬、但搏手以當跪拝』と記す。大人とあるからには首長ないしは、それに連なる貴人であろう。この一文に対し一部の識者は、「大人の敬う所に見あうときは、但手を搏(う)ちて以て跪拝に当(あ)つ」・・・とする。『但手』を柏手(拍子:かしわで)との解釈のようだが、『但手』なる熟語は存在しない。そこで『搏手(ばくしゅ)』であるが、これは熟語として存在し、「平手で打つ」との意味がある。そこで『見大人所敬、但搏手以當跪拝』の一文は、「大人の敬う所に見あうときは、但(ただ)手を搏(う)ちて以て跪拝に当(あ)つ」・・・となる。つまり、神社の参拝のように手を打って跪(ひざまずいて)て拝む・・・ということになる。

そこで『大人の敬う所』とは何だ。つまり『何処で何を敬うのか』。考えられるのは祖先(祖先神)や精霊、或いは豊穣の神々と考えて大誤ないであろう・・・とすれば、神々に柏手を打ち跪拝する習慣は邪馬台国、つまり弥生時代から存在していたことになる。

では『敬う所』の『所』とは、どんな所なのか。倭人伝は語っていないが、それは神々の依代としての磐座や大木(御神木)の類と思われ、今日の神社の原形は古墳時代以降と考えている。しかし、弥生時代の痕跡がまったくないわけではない。松江市の弥生遺跡である田和山遺跡からは9本柱の高床式建物の柱穴が出土している。9本柱の高床式たてものと云えば、出雲大社本殿がある。しかし田和山遺跡からは祭祀遺構や遺物が伴っておらず、神社建築の初源とはやや考えられない。

話が反れたが、後段の『但搏手以當跪拝』は、神社の参拝のように手を打って跪(ひざまずいて)て拝むことである。では誰か? それは、大人が依代に向かって敬っている所を見ている人々、つまり参列者のことである。これと同じ光景は、今日でも見ることができる。

ここで話しは飛ぶ。『古事記・神代記』によれば、大国主命は素戔嗚尊のもとから『天の詔琴(のりこと)』を抱えて逃亡したとの伝承が記されている。『詔(のり・みことのり)』とは、神ひいては天皇の『みことのり』に他ならない。

弥生時代後期遺跡である出雲市・姫原西遺跡から『琴』が出土した。その琴は、弦がない琴板と呼ぶ木箱であった。この琴は、出雲大社で祭礼に現在でも用いられている、柳の撥で打ち鳴らす琴である。

(熊野大社環翠亭にて)

この琴を叩き鳴らして神の降臨を仰ぎ、神のお告げを聞いたのである。

琴といえば弦つきの琴も弥生遺跡から出土している。写真の琴は鳥取・青谷上寺地遺跡から出土したものである。

では、弦を張るこの琴の使途である。またまた魏志倭人での一節をご覧願いたい。

読み下し文で紹介する。”始め死するや、喪を停(とど)むること十余日、時に当たりて肉を食らわず、喪主、哭泣し、他人、就(つ)きて歌舞飲酒す”・・・となる。ここで歌舞飲酒とある。この歌舞に弥生遺跡から出土する土笛と共に、この琴が用いられたと想定している。

このように、祖先神となった故人の喪にあたり、用いられる弦付琴と神の降臨を願う琴板。琴は古来、神とは不可分の楽器であったことが分かる。

青谷上寺地遺跡の琴についてのキャップションには、日・月・星辰について記されている。道教と云うか陰陽道以外の何物でもない。今回は、このことにつて触れないが、別途考察してみたい。

<了>

 


埴輪からみる古代の喪葬・後編

2021-10-04 07:45:07 | 古代と中世

前編は囲形埴輪ついて記述した。それをupdateしてから日時が経過したので前編(ココ)参照願いたい。

船形埴輪

三重県松阪市宝塚1号墳(古墳時代中期・5世紀前半)から出土した船形埴輪の大きさは日本最大級である。その船形埴輪の楕円形台座二基の上に船体部を嵌め込んでいる。

(松坂市HPより)

全長140cm、嵌め込み台座を含めた高さが94cmにもなる大形品である。日本で出土する船形埴輪は、いずれも準構造船を表現したもので、その船体構造は大きく二つのタイプに分かれる。一つは、刳舟の両側縁に舷側板を取り付けて、船首の内側には水切り用の竪板をはめ込んだ二体成形船タイプ、もう一つは、両側縁に舷側板を取り付けるのは同じだが、竪板は船首・船尾の先端をおおうように付加した一体成形船タイプである。

(奥・一体成形船タイプ 手前・二体成形船タイプ 出典:大阪歴史博物館HP)

宝塚1号墳の船形埴輪の船内は、装飾の在る四個の隔壁によって仕切られている。舷側板の頂部には、櫂を据えるための突起であるピポットが三対表現され、それぞれに小孔があく。船首と船尾は、ゴンドラのように大きく反り返っている。

(松坂市HPより)

この埴輪の船首は大刀側で、蓋(きぬがさ)が船尾側と思われる。それは、天理市の前期古墳である東殿塚古墳出土の鰭付楕円筒埴輪の線刻画に、そのように描かれていることによる。

船上に置かれた器財類は、船首側から装飾隔(障)壁、大刀、装飾隔壁、石見型立物(大)、不明器物、石見型立物(小)、装飾隔壁、蓋、装飾隔壁の順で並ぶ。上図で威杖と記載されているのが、石見型立物と呼ぶ威杖である。

器財類のうち大刀は、木装のこしらえをもつ、いわゆる倭装大刀を表現したものである。これは『伊勢国風土記』逸文に記された天日別命(あめのひわけのみこと)と伊勢津彦(いせつひこ)をめぐる説話によると、大刀は支配者のしるしとしての役割があった。すなわち神武東征に際して、天日別命は神武から刀を授けられて神武一行と別れて伊勢へ乗り込み、伊勢を支配していた伊勢津彦と対峙する。天日別命が攻め込もうとした前夜、伊勢津彦は光を発しながら海上を東へ去っていったとされる。大刀は権威を示すだけではなく、支配権の象徴である。船首に倭装大刀を載せた船形埴輪は、宝塚1号墳の被葬者が、倭王権から伊勢の支配権を委譲された伊勢の王者であったと考えられる。

石見型立物は、奈良県石見遺跡から出土した『石見型盾形埴輪』に類似することから、そのように呼ばれている。この石見型立物が何をモデルに造形化されたのか不明であった。このことについて近年、奈良県御所市鴨都波(かもつば)1号墳から出土した鑓の鞘(やりのさや)の装飾が、同じものであることが判明した。つまり鞘を被った鑓りであったことになる。

蓋(きぬがさ)の傘の端部には、28個の方形孔があいている。三重県尾鷲市の二木島祭りで用いられる関船の船尾に蓋のような『カサブキ』が立てられる。このカサブキの端部に穿孔列があり、そこに吹流しが結ばれ、カサブキから吹流しが走船時に後方になびく。船形埴輪の蓋の方形孔列も、吹流しを結ぶための孔であった可能性がある。尚、蓋は貴人の所在を示すものであり、王者が乗船する王船であったことを物語る。

この船形埴輪は何を示すのか。倭装大刀や石見型立物つまり鑓をかざしていることから、海上で覇をとなえているとの見方もできるが、やはり喪葬観念とのかかわりが大きいであろう。奈良県広陵町巣山古墳(葛城氏の墳墓・4世紀末~5世紀初)の周濠から出土した船形木製品がある。古墳の周濠から出土したことに注目したい。『隋書』倭国伝に次の一文が記されている。それは「葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽(ひ)く」という記載とかかわって、この船形木製品に棺を置き、それを更に修羅(木製そり)に載せて、陸地で牽くために用いたとする意見が、舟形の棺そのものであるとの意見より大勢を占めている。いずれの意見も喪葬との関係でとらえられている。

従って宝塚1号墳出土の船形埴輪は、権力者の喪葬に用いられたもので、魂を天上他界や海上他界に送り出す願いがこめられていたものと思われる。

つまり囲形埴輪は遺体を浄める殯(もがり)の習慣を表し、船形埴輪は被葬者の魂を天上他界や海上他界に送り出すためのものであったと考えている。

以上であるが、どうでも良いことながら他界、他界と記しているが、それが天上他界なのか、海上他界なのか、はたまた地下他界なのか気になる。これにつていは別途考えをupdateしてみたい。

<了>