世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

北タイから桜の便り

2022-12-31 08:47:29 | チェンマイ

年末にあたり多少なりとも明るいと云うか、心和む話を記載して今年のブログを締めくくる。CiangmaiNewsによれば、ヒマラヤ桜の咲き始めの記事で5箇所の桜処が記事に記載されていた。チェンマイに滞在しておれば、これから花見となる。

最初の場所は、クンチャンキアンと呼ぶチェンマイの奥座敷で、ドイ・ステープ寺院の下を回って行くことになるが、市街地より10km程度なので、花見には格好の場所である。また、チェンマイコーヒーの産地でもある。

次は、ドイインターノンの6~7合目であろうか、クンワン王立農業研究センターの桜である。チェンマイからはほぼ100kmの距離である。

3番目は、ドイアンカーン王立農業研究センターで、チェンマイ市街からは3時間程度であろうか。当該ブロガーは未訪の地である。

4番目は、ナリーインターノンと呼ぶドイインターノン国立公園内。

最後に紹介するのが、ホイナムダン国立公園で、メーテンの十字路を左折すると1095号線。それをパーイ方向に走って、チェンマイ県とメーホンソン県の県境にある。とても遠くて行けそうもないが。

ヒマラヤ桜を北タイでは“ ナーンパヤースアクローン(นางพญาเสือโคร่ง)”または“サクラムアンタイ(ซากุระ เมืองไทย)”と呼んでおり、1月末ころまで見られる。年末・年始にチェンマイへ観光でお出かけの方は、ドイステープ寺院参拝の際に見かけることが出来ると思われる。それでは当ブログ訪問の方々、良い御年を御迎えください。

<了>

 


『鳥をトーテムとする人々』古代日本の鳥族・平群氏始祖伝承

2022-12-30 08:12:01 | 古代日本

過去、『鳥装の羽人は、本当にシャーマンか?』(ココ参照)とのテーマで一文をupdateした。その後も“鳥装の羽人”については、時あれば資料を集めていた。それなりの資料も集まってきたので、その続編という形で『鳥をトーテムとする人々』、副題として”古代日本の鳥族・平群氏始祖伝承”と題して紹介する。

先ず、“鳥装の羽人”について、『鳥装の羽人は、本当にシャーマンか?』に続いて深堀りしてみたい。下の写真は、唐古鍵考古学ミュージアムでみた弥生中期の絵画土器である。

梯子をもつ高床建物、その上方には左向きの鹿、その右隣は両手を持ち上げる人物が描写されているが、当該写真ではそれ以上詳細が分からない。そこで田原本町教育委員会発刊の~唐古・鍵遺跡と清水鳳遺跡の土器絵画~なるPDF資料を援用する。それが下の写真である。

右の人物は、逆台形状の胴体の下に女性の陰部が刻まれている。両手は上方に高々と挙げられ、大きく膨らむ袖が刻まれ、右袖(向かって左)は鋸歯文、左袖は斜格子文が施されている。似た文様に清水風遺跡から出土した弥生時代の線刻絵画土器片がある。下に掲げておく。

これは鳥装のシャーマンと呼ばれる著名な土器片である。

ここで再び唐古・鍵遺跡出土の土器片(壺)に戻る。中央の高床建物・左向きの鹿、その左に角をもつ雄鹿、更に左に丸型の胴体を持ち両腕を挙げる人物が刻まれている。この場面をどのように読み取るのか。主題、言い換えれば表現したいことが刻まれているであろう。

鳥の嘴を付けた鳥装のシャーマン

唐古鍵遺跡公園のジオラマ:嘴をつけたシャーマンが呪儀を行っている

高床の建物は神殿、さらに聖なる鹿を前に巫女が両手を挙げて御託宣か。それを左手の人物が両手を挙げて聞いている姿であろうか。つまり、上掲2葉の写真のような場面かと思われる。

残念ながらそれ以上に想像力が湧かない。頭上に伸びる線は、鳥の羽であろう。これは米子市の稲吉角田遺跡出土の弥生土器にも刻まれている。

これと同じように船上の鳥装の人物は、中国南部から東南アジアの所謂ドンソン銅鼓に見ることができる。鳥をトーテムとする民族・氏族の存在を想わせる。

決定的な弥生期の線刻絵画土器片が存在する。岡山市の新庄尾上遺跡から出土した。

上掲2葉の写真は、岡山市教育委員会のPDF資料から拝借したものである。中央の鳥装の人物の頭部をご覧願いたい。向かって左向きに鳥の嘴が見える。清水風や唐古鍵同様に両手を挙げており、マント状の翼も表現されている。これは鳥装のシャーマン以外の何物でもなかろう。

現代でも鳥(鷲ミミズク)の姿をした頭巾を被り、鳥の羽を模した上衣を着るシーマンが存在すると云う。それは中央アジアのアルマトイ地域のテレンギット族と云われている。テレンギット族も鳥をトーテムとする民族のようである。しかし、中央アジアの民族を持ち出すまでもなく、東南アジアにも鳥をトーテムとする民族が存在する。それについては後段で触れたい。

さて、先の弥生線刻土器の鳥装のシャーマンであるが、我が日本でも鳥装のシャーマンないしは、その後裔と思われる氏族が古文献に登場する。

ミミズク(木菟)を霊鳥とする概念は、日本の古代(上古)にも存在した。雄略天皇・清寧天皇に大臣(おおおみ)として仕えた、平群氏(へぐりし)の始祖伝承にみることができる。それが記述されているのは、日本書紀・仁徳天皇元年正月条である。以下、主要部分を抜粋する。

元年春正月丁丑朔己卯、―略―。初天皇生日、木菟入于産殿、明旦、譽田天皇喚大臣武内宿禰語之曰「是何瑞也。」大臣對言「吉祥也。復、當昨日臣妻産時、鷦鷯入于産屋、是亦異焉。」爰天皇曰「今朕之子與大臣之子、同日共産、並有瑞。是天之表焉、以爲、取其鳥名各相易名子、爲後葉之契也。」則取鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子、取木菟名號大臣之子曰木菟宿禰、是平群臣之始祖也。

仁徳天皇元年春正月三日、―略―。初め天皇生(あ)れます日に、木菟(つく)、産殿(うぶどの)に入れり、明旦(くるつあした)に、譽田(ほむた)天皇、大臣武内宿禰を喚(め)して語りて曰く、「是(これ)何の瑞(みつ)ぞ」。大臣、対(こた)へて言(もう)さく、「吉祥(よきさが)なり。復昨日(またきのう)、臣が妻の産む時にあたりて、鷦鷯(さざき)、産屋に(とびい)れり。是、亦異(またあや)し」ともうす。爰(ここ)に天皇の曰く、「今朕が子と大臣の子と、同日に共に産れたり、並(ならび)に瑞(みつ)有り。是天つ表(しるし)なり。以爲(おも)ふに、其の鳥の名を取りて、各相易(おのおのあひか)へて子に名(なづ)けて、後葉(のちのよ)の契(しるし)とせむ」とのたまう。則(すなは)ち鷦鷯の名を取りて、太子に名づけて、大鷦鷯皇子(おおさざきのみこ)と曰へり。木菟(つく・ミミズク)の名を取りて、大臣の子に号(なづ)けて、木菟宿禰(つくのすくね)と曰へり。是、平群臣が始祖なり。

この説話は、平群氏の始祖伝承である。ここでは木菟(つく・ミミズク)が鷦鷯(さざき)と並ぶ霊鳥として語られている。平群木菟宿祢の息子が真鳥宿祢(まとりすくね)であり、鳥の名が親子二代続く。鳥をトーテムとする氏族の存在が推測される

鳥をトーテムとする民族について、テレンギット族の事例を先に紹介した。何も中央アジアの民族に話を飛ばさなくても、東南アジアにも存在する。それはミャンマー北部カチン州の住民カチン族である。それはミャンマーのカチン族集落まで行かずとも、チェンマイ県チェンダオ郡最北端のミャンマー国境に近いサマキー村、そこに移住してきたカチン族集落が存在する。そのカチン族正月の祭壇をマナウ柱と呼ぶ。そのマナウ柱の基部は、サイチョウが刻まれており、かれらのトーテムであることが理解できる。

司祭はサイチョウの嘴と鳥の羽で飾られた冠帽を被る

その正月祭りをリードするのは、ナウションと呼ぶ司祭である。司祭はサイチョウが描かれた上衣を身に着け、頭にはサイチョウの嘴と鳥の羽で飾られた冠帽を被る。

これは岡山市新庄尾上遺跡から出土した、鳥装の人物が刻まれた土器片の姿そのものである。カチン族も鳥をトーテムとする民族である。それが、何時の時代まで遡れるか不詳であるものの、漢族の周囲には古代の習俗が残存しており、これなどもその一部と認識できる。倭族の源流が呉越の地とすれば、我々の先祖に鳥をトーテムとする氏族が、存在していたとして、何の矛盾も感じない。そのように考えると、鳥装の羽人はシャーマンと考えることができる。鳥装の羽人はシャーマンであった。更に大胆に想定すれば、平群氏は呉越から渡来した鳥族を始祖にもつ氏族であったと思われる。

<了>

 


袖振りと領巾(ひれ)振り

2022-12-29 14:05:27 | 古代日本

天理市清水風遺跡出土鳥装のシャーマン線刻土器片

奈良・清水風遺跡出土の線刻絵画土器片をご覧願いたい。この線刻絵画は、過去にブログ掲載しているが弥生期のシャーマンを表現したものである。そのシャーマンは両腕を振り上げている。これは鳥が羽ばたく様子を表わしたものであろうが、袖を振る所作を表したようにも見える。

再度、線刻絵画をご覧願いたい。シャーマンの上衣の袖裾が深いと云うか、大きく線刻されている。この様子をどのように捉えるのか。この線刻絵画土器のシャーマンをフィギア化したものが、下に掲載した想定復元フィギアである。それは朱色の鋸歯文で彩られた、長四角のマントを羽織っている。誰が監修したものなのか。線刻絵画土器ではマントには見えず、袖裾の深い上衣に見えるのだが・・・。

土器片から想定されるシャーマン 

マントか袖裾の深い上衣なのか。大阪府立弥生文化博物館展示の卑弥呼の想定復元フィギアを下に示す。想定復元するにあたり、誰が監修したかしらないが、明らかに袖裾の深い服を身に着けている。

大阪府立弥生文化博物館にて

この袖裾の深い服は何なのか。これは『袖を振る』ため、すなわち『袖振り』をおこなうためのものであろう。袖振りの所作は万葉集に見ることが出来る。要約すれば、魂を鎮める呪的行為で、別れに際して見送る側が袖を振るのは、旅の安全を祈る行為であった。また愛する人や、冥界へと旅立つ人の魂を招き寄せる招魂の意味をもつ歌が記載されている。弥生後期の線刻絵画土器と万葉集の歌を一緒くたに述べているが、古代人は天空高く飛ぶ鳥の羽ばたきに、生命力と躍動感をもったと考えられ、袖振りはその延長線上に位置づけられる。

下に示したジオラマは、唐子鍵遺跡公園で見ることができる。嘴をつけた鳥装のシャーマンが庶民をまえに呪儀を行っている。これを袖振りの呪儀と理解したい。袖振りの所作をするシャーマンは神そのものであったろうか。

唐古鍵遺跡公園展示のジオラマ

古墳時代に入ると、袖振りから領巾(ひれ)振りに変化するようだ。下の写真は、いずれも群馬県上芝古墳と塚廻り4号墳から出土した巫女の埴輪である。見ると領巾が肩から前面に長く垂れさがっている。この領巾を腕に巻き、手を振ったものと考えられる。

上芝古墳出土埴輪

塚廻り4号墳出土埴輪

『肥前国風土記』松浦郡条の地名伝承である褶振峯(ひれふりのみね)の地名伝承によれば、「大伴の狭手彦連(さでひこのむらじ)、発船して任那に渡りし時、弟日姫子(おとひめこ)、此に登りて、褶(ひれ)を用て振り招きき。因りて褶振峯と名づく」と、袖振りと同じ呪的効果をもつ領巾振りの様子が語られている。

清水風遺跡出土の線刻絵画土器片に刻まれたシャーマン、卑弥呼の袖裾の深い服装も意味があったことになる。

<了>


埴輪と装飾古墳で考えた(4):来世・冥界への旅立ち

2022-12-27 07:59:18 | 古代日本

<続き>

ブログ開始3000日記念としての”埴輪と装飾古墳で考えた”4回シリーズの最終回である。振り返ると・・・

 第1回:刺青『胸形』から想いを馳せる

 第2回:お化けの三角頭巾

 第3回:魂を運ぶ馬

・・・の事どもについてお伝えしてきた。今回は最終回として『来世・冥界への旅立ち』とのテーマで記事にした。

古墳時代、船を肖形としたものに埴輪や木製品、更には装飾古墳壁画がある。

出土する船形埴輪は、船首と船尾が二股に分かれた二重構造と、船首と船尾が反り上がるゴンドラ風との2種類が存在する。二重構造の代表的な埴輪は大阪歴史館が展示する、長原高廻り2号墳(4世紀後半)の船形埴輪である。

一方、ゴンドラ風の埴輪は同じく長原高廻り1号墳(4世紀末~5世紀初)出土の船形埴輪である。

これらは準構造船と呼ぶ船をそのまま埴輪にしたもので、それ以外の付属物は表現されていない。これらの船形埴輪をもって、古墳被葬者の何某を表現したとする推測は出来なくもないが、やや無理筋であろう。被葬者の生前は、このような船で本貫の地から渡り来たったのか、それとも被葬者の亡骸ないしは魂を海上他界、つまり来世へ送り届けるためのものなのか、判断しにくいであろう。

国立金海博物館展示

これに関連し、韓国・国立金海博物館に長原高廻り古墳出土の船形埴輪に似た土製品が展示されている・・・と、すれば被葬者が生前に用いていた船を写したであろうか。いずれにしても判断つきかねる。

ところが、三重県松阪市宝塚1号墳(古墳時代中期・5世紀前半)から出土した船形埴輪である。この埴輪の目的も判断しにくいものの、以下のように考えられる。

宝塚1号墳出土埴輪

先ず、埴輪の船上に置かれた器財類は、船首側から大刀、石見型立物(大)、不明器物、石見型立物(小)、蓋(きぬがさ)の順で並ぶ。これら船体以外の器財類をみていると、被葬者の生前の権力を示すであろう。来世もそうあって欲しいとの願望を託したものと思われ、喪葬観念とのかかわりが大きいであろう。このことについては、後段で再度触れたい。

奈良県広陵町巣山古墳(葛城氏の墳墓・4世紀末~5世紀初)の周濠から出土した船形木製品がある。古墳の周濠から出土したことに注目したい。

以下、新聞記事の転載である。“『隋書』倭国伝に次の一文が記されている。それは「葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽(ひ)く」という記載とかかわって、この船形木製品に棺を置き、それを更に修羅(木製そり)に載せて、陸地で牽くために用いたとする意見が、舟形の棺そのものであるとの意見より大勢を占めている”・・・以上、宝塚1号墳の船形埴輪も巣山古墳の船形木製品も、喪葬との関係でとらえられそうである。

『隋書』倭国伝の一文を新聞記事から転載したが、我が国の史書である『古事記』(14代)仲哀天皇条・忍熊王の反逆譚に以下の記事が存在する。「ここに息長帯日賣命(おきながたらしひめ・神功皇后)、倭に還り上がります時、人の心疑はしきによりて、喪船を一つ具えて、御子をその喪船に載せて、まづ『御子は既に崩りましぬ。』と言い漏さしめたまひき。」とあり、初めて喪船の用語が記されている。仲哀天皇・神功皇后の時代は4世紀末から5世紀初めと考えられる。

このように、巣山古墳出土(4世紀末~5世紀初)の船形木製品と『古事記』仲哀天皇条記事との時代観はほぼ一致する。新聞記事によれば、舟形木製品(喪船)の上に真っ赤な木棺を載せ、それを更に修羅(木製そり)に載せて、人々に引かれて古墳へ運ばれたものと思われる・・・と記されている。従って宝塚1号墳出土(5世紀前半)の船形埴輪は巣山古墳出土の船形木製品と時代観が一致しており、権力者の喪葬に用いられたもので、魂を天上他界や海上他界に送り出す願いがこめられていたものと思われる。

そこで、装飾古墳壁画との関係である。壁画のモチーフとして、しばしば船が登場する。福岡県の鳥船塚古墳、珍敷塚古墳、五郎山古墳、熊本県の弁慶ヶ穴古墳など、幾多の事例をあげることができる。鳥船塚古墳や珍敷塚古墳では、船の上に二重ないし三重の同心円をみる。

五郎山古墳壁画 レプリカ

鳥船塚古墳壁画

玄室奥壁下段に見辛いもののゴンドラ風の船と、その上方に同心円をみる

珍敷塚古墳壁画 模写

珍敷塚古墳のそれは、それと対称の位置に月を象徴するヒキガエルが描かれており、船上の同心円は太陽であることを物語っている。これを『太陽の船』と呼ぶ識者も存在する。民族学者の松前健氏は、『太陽の船、それは太陽の日毎の大地からの出没の現象を、地下の冥府を通って旅するのだと考え(略)死者の魂が海洋を越えて他界に往くという、水辺民族に特有な信仰習俗と結びついた』ものと考え、珍敷塚古墳の壁画を「恐らく霊魂が現実にそうした船に乗って、天界旅行するようにとの呪術的意図を以て画かれた」とみている(松前健「日本神話の新研究」)。

ここで松前健氏は“水辺民族”と限定しておられるが、そのような限定は不要かと思われる。内陸の大和・巣山古墳から船形木製品が出土している。大和川流域も水辺と云えばそれまでであるが・・・。

弁慶ヶ穴古墳壁画には棺の上に鳥がとまる(白丸)

珍敷塚古墳、弁慶ヶ穴古墳や鳥船塚古墳の船には鳥がとまっている。鳥が来世・冥界へ被葬者の霊魂を導くためと考えられる。

五郎山古墳の船中央には、長方形の図形が描かれている。これは棺であろう。同様な図形は弁慶が穴古墳にも描かれ、そこには鳥がとまっていることから、霊魂を運ぶものであり、描かれた長方形のものは棺である。

また、五郎山古墳の船の周囲は、黒い点が描かれている。この黒点をどうとらえるか星であろう。星の輝く夜の海を渡って、被葬者の魂は冥界へ渡るイメージを描いたものと考えられる。

以上、準構造船の形をした船形埴輪と、装飾古墳壁画に描かれた準構造船から種々記載してきた。

この時代に船を肖形としたものに、船形木棺や石棺も存在する。それをもって古墳時代に舟葬(しゅうそう)が存在したとの議論がある。埼玉県行田市の埼玉稲荷山古墳、「辛亥年七月中記」にはじまる115文字の金錯銘鉄剣があまりにも著名であるが、古墳の第一主体の形状が、いわゆる舟形礫槨と呼ばれるもので、船形木棺が安置されていたであろう。これをもって船を棺とした葬制である舟葬(しゅうそう)が存在したとの論説が存在する。

佐賀・熊本山古墳出土 舟形石棺 佐賀県立博物館

滋賀東近江市雪野山古墳 舟形木棺

しかしながら当該ブロガーには(?)との印象が強い。舟葬・船葬とは、船に遺体を載せて海などに送り出す水葬のことを云う。船葬墓とは、船体や舟を用いるが、墓そのものは陸上に存在する。我が国では船形の木棺・石棺が存在するが、石棺はもとより木棺を使って舟葬した事例は考古学的に説明されていない。従って舟葬と表現する文献をみるが、それは海に流す本来的な舟葬ではなく、船形棺を用いた陸上墳墓へ埋葬である。

それは、冒頭に記載した巣山古墳の喪船が如実に物語っている。従って繰り返しになるが、松阪市宝塚1号墳の船形埴輪や五郎山古墳の壁画に見る、棺を載せて夜の海を行く船(見方によっては、星の輝く天空を行く船)や、鳥船塚古墳や珍敷塚古墳などの壁画にみる、霊魂を冥界へ運ぶ船は同じ目的により作られたものであると考えられる。

あくまで一般論であるが、装飾古墳からの埴輪の出土は少ないと云う。壁画に描かれた肖形が埴輪の代用であったかとも思われる。埴輪と装飾古墳のモチーフは関連していたことになる。

以上で4回シリーズを終了する。埴輪に関しては、今回以降も継続的に触れてみたい。

<了>

 


埴輪と装飾古墳で考えた(3):魂を運ぶ馬

2022-12-26 08:41:12 | 古代日本

<続き>

古墳から馬形埴輪が出土する。それは墳丘上に並べて立てられていた。この馬形埴輪は何を表すのか。馬を我が国に持ち込んだのは、騎馬民族やそれに繋がる人々によるものと考えているが、古墳に葬られた被葬者が、生前に騎乗していた馬を埴輪にしたものであろう。

しかし、それだけか・・・・と云う想いがある。馬は被葬者の霊魂を他界・冥界へ運ぶものと認識されていた可能性が高いと考えている。

畿内の装飾古墳は、九州北・中部に比較し少ないが、そのひとつ大阪府柏原市の高井田横穴群には、線刻壁画が存在する。そこには騎乗した人物像が線刻されている。これを単に騎馬民族あるいは、被葬者が生前に騎乗していた姿を表している・・・とするのか。

高井田横穴墓2-3号

故人の亡骸を収める石室に、線刻されている事実から考えられることは、被葬者の霊魂が馬にのって、他界へと導かれる様子を刻んだものと思われる。特に重要なことは、騎乗の人物の下方に琴であろう肖形が刻まれていることである。その琴は、葬送儀礼にとって重要な楽器であったことが窺われる。

そこで九州北・中部の装飾古墳に於ける壁画である。過去何度も紹介しているが、棺を載せて冥界へと旅する船に馬が載っており、幾つかは馬の上に同心円文が描かれている。識者は、これを『太陽の船』と呼び、それは冥界へ霊魂を運ぶ船としている。

弁慶ヶ穴古墳

弁慶ヶ穴古墳に描かれた壁画には、船にのる馬と、その馬の上方には同心円文が描かれる所謂『太陽の船』である。その船にのる馬は、霊魂を冥界へ運ぶ存在として認識されていたであろう。馬が被葬者の魂を運ぶためのもの、そのものズバリが王塚古墳の壁画である。馬の大きさに比べ小さい人物が騎乗している。小さな人物は他界した被葬者であろうか、その魂を馬が運ぶ姿である。

王塚古墳

以上のようにみてくると、馬形埴輪もまた被葬者の魂を他界へ運ぶ役割があったものと考えられる。

<続く>