世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

豊穣祈願と太陽と鳥

2020-11-29 07:33:16 | 日本文化の源流

――荻原秀三郎著『稲と鳥と太陽の道』―― シリーズ(9) 

“稲作地帯の鳥竿習俗は、稲の豊穣祈願と密接に関連している。穀霊を運ぶのは鳥の役割の一つであり、一方で死霊を運ぶ役割も担っていた。ところが、稲の豊穣をもたらす、その鳥を射落とす神事がある。”・・・として千葉県沼南町高柳の三本足の烏(カラス)を描いた的を弓矢で射落とす神事を紹介しておられる。

我が島根県では旧・八束郡(現・松江市)にも、そのような神事は存在するようだが、隠岐の島に現存している。それは、五箇地区の荒神さんと呼ぶ客神、牛頭天王を祀る山田神社の山田客祭風流(やまだきゃくまつりふりゅう)での矢を射る神事である。そこではカラスとネズミ(兎から鼠に変化した?)の絵が描かれた的をめがけて矢を射る神事が行われている。

(写真出典:隠岐の島町HP)

この的に矢が当たるか否かで、この年の豊作を占うものだと一般的に云われているが、はたしてそうかと荻原秀三郎氏は問いかけている。

つまり、“的は必ず射当てねばならぬこと、当たらなければ近くに寄ってでも射当て、最終的に破る事例も存在するという。一般論の豊凶占いでは説明がつかない”・・・と、氏は指摘しておられる。では何のために的を射るのか?

“中国の天地創世神話である盤古神話と射日神話につながる。巨人・盤古の死体化生モチーフ及び弓の名人羿(げい)が九つの太陽を射落とす『射日神話』によるものである。太古に天と地は陰陽に感じて盤古という巨人を生んだ。盤古が死ぬとき、その体がいろいろなものに化して万物が生まれた。息は風雲となり、声は雷となり、左の眼は太陽となり、右の眼は月となり・・・”と続く。

更に別の伝承によれば、“その太古に太陽は十個あり、地中に住み、地中で湯浴みしている。東の果ての湯谷の上に巨大な扶桑の木があり、十個の太陽は湯谷の扶桑をつぎつぎ昇って、一日ずつその梢から天空へと旅たち、西の果ての蒙谷に沈み、地の下(水中)をもぐってほとぼりをさまし、再び湯谷に帰っていた。太陽にはそれぞれ烏(カラス)が住んでいて、樹上から飛び立っていた。あるとき、十個の太陽が一度に空を駆け巡った。大地の草木は、みるみる焼け焦げた。弓の名手・羿が太陽の中にいるカラスを九羽まで射落とし、地上の人々は焼死を免れた(山海経・淮南子)。”

荻原秀三郎氏は、射日神話の事例を種々説明されているが、何のために的を射るか・・・・について、結論らしきものは示されていない。結局これらの事例が物語るのは、安直ながら天下平穏と豊作祈願であろう。

<シリーズ(9)了>


南の植物2題

2020-11-27 07:42:11 | 日記

今春、それでもと思い、アボガドとパパイヤの食後に、その種を植木鉢に植えておいた。忘れかけた梅雨時であったと思うが、まさかの芽がでたあと、それなりの成長を続け写真の状態となった。

パパイヤはビタミン豊富で、レモンを絞って食するのが好物である。チェンマイでは述べ6年滞在し、クアラルンプールも述べ1年滞在した。シーズンには毎日食したものである。

御覧のように観賞用の鉢に植えている訳でもないので、冬季に玄関に入れることは考えていない。さて冬を越すためにどうしたものか。

<了>

 


出雲・富(とび)神社(弐)

2020-11-26 08:27:39 | 出雲国

<続き>

本殿を中心に反時計回りに摂社の数々を紹介する。先ず『社日』から。

〇:社日

不勉強な当該ブロガーにとっては理由を知らないが、出雲では道祖神をあまり見ないが、社日神(社日塔)は数多く見ることができる。倉稲魂命(うかのみたまのみこと)刻まれていることから、稲魂を祀っていることになる。つまり稲作や穀物の守護神に他ならない。出雲平野は稲作地帯で、数多く祀られた理由が頷ける。

〇:若宮神社

〇:稲荷神社

縁起を写真に撮っていなかったので、以下に記しておく。

祭神は宇迦之御魂神で創立年代は不詳とのこと。縁起によれば、この神様は、須佐之男神の御子神で本来穀物の神であるが、神仏習合思想によって仏教の荼枳尼天が同一視され、招福や財福の神として狐霊によって憑依託宣が行われ、近世になり呪術的稲荷信仰が浸透すると除災招福の神とされている。宇迦御魂神=倉稲魂命にほかならず、穀霊神や稲作の神である。先述したように出雲では多く祀られている。

〇:胞衣(よな)荒神

荒神さんも出雲には多い。産土(うぶすな)神につながり、山ノ神や田ノ神につながる。ひいては稲作の神と云うことになる。

〇惣荒神

惣荒神の縄蛇の頭は出雲大社を向いていると云われている。

〇:龍神祠

黒龍、白龍とあるが、これは雌雄の蛇神に他ならない。この手の祠は出雲に多いのか少ないのか、数多く参拝していないので不詳ながら初見である。これについては富神社の謎の続編として後述する。

〇:金刀比羅神社

〇:大歳社

縁起を写真に写していないが、大歳神は須佐之男命の御子神で大晦日より良い年を迎える神で穀物を守護する神である。

〇:風日社

さて、富神社の謎について続編である。前回記載した噺は謎が多い。東の意宇地域を分割統治していた富家がなぜ、西の富村に社を建立し、熊野大社の祭神・八耳命を移し祀ったのか。そして富神社の主祭神は、八束水臣津野命と天之冬衣命の二柱である。さらに不思議なことは、出雲大社で大国主命を祀るのは、大国主命の末裔や八束水臣津野命、天之冬衣命の末裔(前回の系図参照)ではなく、天孫族の天穂日命なのか。天穂日命はご存知の如く、天照大御神と須佐之男命の誓約により生まれた由緒正しき天孫族である。富當雄氏の『出雲の屈辱の歴史が始まった』とは、出雲国造家の祖である天穂日命に簒奪されたことを物語っているのであろうか?

境内には龍神祠が存在する。この建立年代は不詳と云う。これを見て古代出雲族は、蛇信仰の徒であったと云うには、あまりにも長い時間差がある。

出雲族はセグロウミヘビを龍蛇様として祀る信仰が存在する。その事例を下に示しておく。

噺がやや飛ぶ。古代の出雲族は、古代呉越の民で漢族の南下圧力に追われた越人の一派が、渡海してきた人々と考えている(ココココ参照)。

その古代越人の社会には蛇信仰が存在した。『呉越春秋』には、越の王宮・南大門の上に、蛇の飾りがあると記載されているとのことだが、『呉越春秋』を読んだことはなく、詳細は不明である。

しかし、北ベトナムでは蛇信仰が存在する。ベトナムのマジョリティーはキン(京)族である。彼らは越人の末で、百越のなかでも駱越といわれた人たちであるという。ベトナムが越南と表記される由縁である。

過去、ハノイに半年滞在する経験をした。多くの社寺仏閣を訪れた訳ではないが、道教から派生した聖母道の祠を訪ねると、一対の蛇の象形が掲げられている。この事例を見ても越に蛇信仰が存在したであろうこを裏付けている。

(ハノイにて)

やや飛躍した噺になんるが、これらは何を物語るのか。古代出雲王朝を樹立した出雲族の本貫は、古代・越にあり。その越人が祀った龍蛇神を、出雲に渡海したのちも、それを継承したであろう。出雲大社で大国主の命は南面するのではなく、稲佐の浜(日本海)を見る西を向いておられる。伊勢神宮に背を向けて、故地の越を向いておられることになる。そして出雲大社の大注連縄は何だ。それは一対の蛇が交尾していることになる。伊勢神宮に注連縄は存在しない。伊勢神宮が注連縄を飾ることは、出雲族を祀ることに他ならないことになる。富神社の謎は深い。

<了>


出雲・富(とび)神社(壱)

2020-11-25 07:58:52 | 出雲国

荻原秀三郎著『稲と鳥と太陽の道』シリーズを中断して、富神社を参拝して思うことを紹介する。荒神谷遺跡が存在する出雲市斐川町富村に鎮座するのが、今回取り上げる富神社である。富神社は謎が多く、今回と次回に分割して記すことにする。

先ず、参道は鳥居近くに掲げられている由緒である。『古傅、八束意美豆努神國引神事後出雲大川(斐伊川)地帯は、雲州(簸川)平野のナイルで斐伊川は、長い間に何回か東西に流路を替えつつ広大な沖積平野を修理造成し、神名火山(佛經山)の嶺より地理を見て「八雲立出雲八重垣云」御歌唱へ給ひてこの西の辺りは、土地がよく神門水海に近く此所に鎮座により出雲郷と云い社号を出雲社と云う。
 聖武天皇御代の和銅六年(七一三)に諸国の風土記編集をめいじられ出雲風土記出雲郡に神祗官社「出雲社(いずものやしろ)」とあり諸々の古文書に記されている社である。
 霊亀元年(七一五)出雲國造出雲冶郎信正の三男出雲信俊此の里に分家し、我が遠祖神(とおつみおやのかみ)合祀祭神を以て此の里人氏神と称し富大明神と云い、富村となった。
 神主三代目の出雲俊里、延暦一四年(七九五)に田の中に屋敷があり草花や花木多いところから家の名を花田家となした。
 明治四年に社名改正し村社「富神社」に改める。宝亀四年(七七三)頃、正倉院は一郡一倉を置き、出雲郡では、この富村に郡家正倉の蔵屋敷があった。
 天文九年(一,五四〇)大庭村、熊野神社御火継祭に出雲大社上官以下多数の祭員を隨へて出雲郡富村に別邸千家・北島両国造のそれぞれ御殿に往復宿泊され古事に習い明治二年(一,八六九)迄、出雲社に参詣された社である。こうした由来により当社の御遷宮の度に両国造から、大提燈を奉り参列される社である。』

出雲国風土記に記されている『出雲社』とある。出雲国で『出雲社』と国名を背負るのは、出雲大社と富神社のみである。上に長々と由緒を由緒書から転載したが、いかにも由緒正しい社のようにみえるが、実は謎の多い社である。

主祭神は八束水臣津野(やつかみずおみつの)命と天之冬衣(あめのふゆきぬ)命である。この二柱の神は親子関係である。ここで古代・出雲王家の系図は、淤美豆奴神(八束水臣津野神)ー天之冬衣神ー大国主神となる。出雲大社云々と云われる理由が御理解できたものと思われる。

先ず、拝殿・本殿までのアプローチを紹介する。

左右の狛犬の先に手水舎が、参道右側にある。その先が随神門。

写真は随神門内の青と緑に彩色された神門狛犬。祭神は櫛磐窓神と豊磐窓神。武官用の衣を着た左右一対神像を随神といい、矢大臣、左大臣というとのこと。

(拝殿)

(本殿)

主祭神は先に紹介したとおり。以下、拝殿と本殿の社紋であるが、亀甲に交差丁子紋である。

(本殿)

(拝殿)

その昔は丁子ではなく交差する銅剣(荒神谷遺跡の銅剣に恣意的に結び付けているきらいもあるが)であったようだ。戦う神と八束水臣津野命、天之冬衣命とのイメージが結べないのだが・・・。

以下、大いなる謎を紹介する。富神社は古代出雲王朝の王家である富家が建立したと伝わる。司馬遼太郎氏の著書『歴史と小説』に、以下の如く記されている。”知人の島根県人によると「天孫降臨以降、出雲の屈辱の歴史が始まった」と云う。”その知人とは産経新聞時代の同僚・富當雄氏である。記紀による系図は先に記載した。その八束水臣津野命は出雲国風土記に記されるように『出雲の国引き』を行った神である。つまり出雲の国土を創生した。大国主命の代に至り、『国譲り』を行わざるを得なくなる。つまり出雲の国土は天孫族に簒奪されたのである。

異伝によれば、古代出雲王国の始祖『八耳命(菅之八耳)』には、二人の息子がいた。その二人の息子が出雲の東(意宇)と西(出雲)を分割統治したという。東は富家、西を神門臣家が支配する構図であった。

記紀で親子の関係である八束水臣津野命が神門臣家、天之冬衣命が富家となる・・・今回はここまでとしたい。

 

<次回に続く>

 


鳥形木器と鳥竿

2020-11-24 08:10:13 | 日本文化の源流

――荻原秀三郎著『稲と鳥と太陽の道』―― シリーズ(8)

以下、荻原秀三郎氏の著述の引用である。“集落の縁辺部の濠や小川などの湿地に残った小型の鳥とは別に、集落の中心部の柱の頂に大型の鳥があったと想像している。吉野ヶ里遺跡では、南内郭部の入口に門を復元し、門の上に鳥をとまらせている。吉野ヶ里から鳥型木器の出現はまだないものの、周辺の遺跡からの出土例が多く、推定して復元したという。首長墓前の柱も復元されているが、頂に鳥はない。”

(吉野ヶ里遺跡南内郭入口の門)

弥生時代の鳥形木器・鳥竿ないし鳥霊信仰に関して、ほぼ定説化しているのは、田植えのころ、先祖霊の形をして飛んでくる鳥が、先祖の国から穀霊を運んでくるのだという。それに対し荻原秀三郎氏は、それらの説では鳥竿の『竿』の部分が説明できないとして、“鳥はむろん重要にちがいないが、竿・柱の部分が時にはもっと重要ではないか。祖霊、神霊、穀霊に限らず、およそ霊魂が依りつくのは柱である。我が国の民俗例として鳥竿を思わせるものとしてケンケト祭がある。鳥鉾は鳥霊の『依代』である。鉾の上には鷺がとまり、その下に稲風呂といって稲穂を象る御幣が枝垂れる。これを奪うと豊作や家内安全の祈願がかなうのであろう。”

(びわ湖芸術文化財団HPより)

このケンケト祭りの鳥鉾は、祭りの際のものであるが、これが定置されているのが朝鮮半島南部の鳥竿(ソッテ)である。ケンケト祭りの鳥竿は、ソッテの影響を受けたものであろう。

以下、邪推であろうが、ケンケト祭りの鳥鉾が存在することをもって、吉野ヶ里の一本柱の頂上に鳥の肖形が存在したであろうとの判断は遠謀すぎるきらいがあるがどうであろうか。

<シリーズ(8)了>