世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

古代出雲『青銅器と勾玉』の聖地巡礼#1

2019-04-30 08:16:21 | 古代出雲

以下の古代関連施設と遺跡を『青銅器と勾玉』の聖地と呼ぶことにする。

これらを順次紹介したいと考えている。最近思うことがある。古代出雲に限らず弥生期の倭国は、東アジアとの交易を主としながらも国際的な交易が存在したであろうとの想いである。

それは弥生期の玉類に、インド・パシフィックビーズと呼ばれる朱色のビーズが首飾りとして、出雲の地から出土する。この起源は、紀元前2世紀の南インドと云われ、紀元前1世紀にはスリランカやタイへも伝播したと云われている。北タイの山岳少数民族の朱色ビーズの首飾りと極似しているのである。その繋がりは学問的な証明は困難であろうが、根源は繋がっているであろう。それらのことも含めて順次紹介したいと考えている。

 

<続く>

 


古代出雲の四大スポット

2019-04-29 09:12:45 | 古代出雲

過日、県立古代出雲歴史博物館開催の『古墳文化の珠玉』展に出掛けてみた。当該ブロガーの目から見て新たな発見もあったが、それらは後日紹介したい。

博物館のパンフレット・リーフレット置き場を覗くと、『古代出雲の四大スポット』サブタイトルで『弥生ブロンズネットワーク』なるリーフレットがあった。

そこには、荒神谷博物館と加茂岩倉遺跡ガイダンス、出雲弥生の森博物館、古代出雲歴史博物館の4館が四大スポットとして紹介されている。

目を通すと、スサノオのオロチ退治 オオクニヌシの国造りをはじめ神話を豊かに伝える出雲として

1984・85年 荒神谷遺跡から弥生時代の銅剣358本・銅矛16本・銅鐸6個

1996年には加茂岩倉遺跡から弥生時代の銅鐸39個が出土

1983~92年の調査により西谷墳墓群の3号墓が弥生時代最大級の王墓と判明

2000年には1248年遷宮の巨大神殿の柱が出雲大社境内から出現

かつては『空想の産物』とみなされていた壮大な出雲文化の手掛かりを秘めた四大スポットとある。

10連休中に一度は訪れられたら、古代出雲の輪郭が御理解頂けると考えられる。

この四大スポットと共に、古代出雲関連の展示施設等を順次紹介したいと考えている。

 

<了>


津和野藩亀井家入府(城)400年展・#3

2019-04-25 08:09:31 | 石見国

<続き>

今回は亀井家別邸・温故館の展示物の一部を紹介する。場所は津和野の南郊である。

大名と云えども5-6万石であれば、この程度かと思わせるが、残存していることは素晴らしいことである。

館内展示物は撮影禁止と知ったのは、以下の2葉を写した後だった。受付で示したところこの2葉はOKだが、以降慎むようにとのこと、従って2葉のみの紹介である。

参勤交代時、大阪から伏見まで淀川を遡った。其の時の屋形船で姿形がよかったことから、幕府に用いられたそうである。

秀吉に仕えた玆矩(これのり)を祖とする亀井家は、玆矩の海外飛躍をする夢を形が異なるとは云え、朱印船貿易でシャムと交易を行った。幕末に人材教育に力点をおき、森鴎外や西周などの海外留学者を輩出したことは、玆矩の夢の再来であろうか?

 

<了>


津和野藩亀井家入府(城)400年展・#2

2019-04-24 06:43:32 | 石見国

<続き>

亀井の殿様には風流人が多かったようである。四代・玆親(これちか)は漢籍を新井白石に画を狩野洞春に学んだ。その画が展示されている。

七代・矩貞(のりさだ)は書画も良くしたが、陶芸の才が在り綾焼を起こした。

まさに玄人の手になる焼物である。誰に学んだのか興味がある。下に掲げる神農図は八代・矩賢筆である。

見ると源矩賢と記し落款を押している。源と所縁もないが源平藤橘をなのる風習が江戸期に蔓延していた。

我が島根で江戸期の風流人と云えば、松平不昧公が真っ先に思いだされるが、亀井の殿様は代々風流人であったようだ。今回で津和野町郷土館展示物の紹介を終え、次回からは亀井温故館の展示物を紹介したい。

 

<続く>

 


津和野藩亀井家入府(城)400年展・#1

2019-04-23 06:35:11 | 石見国

約2年前の話で恐縮である。亀井家は尼子の家臣であったが、毛利元就に攻め滅ばされ、亀井玆矩(これのり)は尼子氏再興を目指し、秀吉に仕える形で各地に転戦した。秀吉が天下を平定すると琉球に出陣したいと願いで、琉球守をなのることを許された。琉球は薩摩に先取りされ、それは夢におわったが、シャムと朱印船交易を行った。つまり小なると云えども海外雄飛を企てる男であった。そのようなことで亀井玆矩には興味があり、二代・玆政(これまさ)の嫡男で家督を譲られる前に亡くなった玆朝の感状が我が家に伝わっていることから関心事が高い。

その亀井家が玆矩の息子・政矩(津和野藩初代)の代に、津和野藩主として因幡鹿野から入府して400年になり、その関連行事として幾つかの展示施設で『400年展』が開催された。その幾つかを思い出しながら紹介したい。先ずは津和野町郷土館の展示から紹介する。

かの高橋由一の筆になる『西周肖像』である。津和野のような小藩は人材育成に力を注いだ。津和野は八代・矩賢(のりかた)により、天明六年(1786)に創設され、儒学・漢学・医学・数学・兵学が設けられた。十一代・玆監(これみ)は嘉永二年(1849)に、新たに国学や蘭医学を設け拡大した。ここから先の西周、森鴎外、福羽美静等を輩出したのである。

このフランキ砲は朱印船貿易で入手したとある。シャムで入手したのであろうか?

キャップションには、玆矩二百五十忌大祭とある。先頭から二人目は十一代・玆監である。

津和野藩江戸上屋敷絵図で、外桜田の一等地に上屋敷を設けた。赤色の屋根は地元・石州の赤瓦を江戸まで運んで用いたものである。

藩校・養老館に祀られた孔子像。養老館からは多くの逸材が輩出されたが、西周の家は九十石取りで、田舎の小藩としては上等の部類であった。

その西周がオランダのライデン大学留学時に受けた講義を翻訳した『万国公法』が展示されていた。

 

<続く>