世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

ブログ掲載500回記念・魅了する大壺の彷徨える焼成地論・その8

2016-07-30 06:44:04 | 北タイ陶磁
<続き>

前回の「魅了する大壺の彷徨える焼成地論・その7」でまとめた、焼成地不詳の1)、3)と4)は、どこ産であろうか? その最大の謎である1)について、謎ときに挑みたいが残念乍ら意気込みだけに終わりそうで、時間を要しているものの時間は停滞している。
まずバンコク大学東南アジア陶磁博物館発行のSoutheast Asian Ceramics Meuseum Newsletter Vol.4 No.3 MayーJun 2007を復習してみたい。

ニュースレターに2a 2bとして掲げられている壺であるが、これは何度も紹介しているバンコク大学東南アジア陶磁博物館及びホノルル美術館展示品と同手の兄弟である。下の写真は、上よりバンコク大学東南アジア陶磁博物館、ホノルル美術館展示品を順に再掲する。
       (バンコク大学東南アジア陶磁博物館)
            (ホノルル美術館)
ニュースレター掲載の写真は解像度が低く、文様が正確に読み取れないが、上の写真のような稲穂文(当該ブロガーが勝手に命名)と思われる。それを分かりやすいようにスケッチにした。
ホノルル美術館の大壺の印花文である。緑の○枠に囲まれているのを稲穂文と名付けたが、この文様の壺を実見したのは、ホノルル美術館とバンコク大学東南アジア陶磁博物館の2例のみで、写真では件のニュースレターの1例である。更に郡家美術館が示すパーン窯(先に見たようにパーン窯ではないのだが)の2点目の大壺の肩部の印花文が、そのように見えなくもない。
当該ブロガーの貧弱な管見によれば、この稲穂の印花文の陶片が、窯址から出土したとは見聞しておらず、謎は深まるばかりである。そこでそれ以外の印花文を注視することになる。
緑枠で囲んだ稲穂文様の下に、二重の半孤の中に点が配置された文様を見る。この文様はナーン・ボスアックの壺に見ることができる。そのスケッチを下に示す。
しかしもう1点気になる陶片がある。チェンマイ大学陶磁資料室で見た次の陶片である。
この陶片の記録によればサンカンペーン出土と記録されているようだが、当該ブロガーにはもう一つ腑に落ちない点がある。これが本当にサンカンペーン(このような疑問は当該ブロガーのみならず、北タイ陶磁の泰斗J・C・Shaw氏も感じておられるようで、その著書「Northern Thai Ceramics」によれば、下の写真を掲げサンカンペーン?と記している)とすれば、ここで謎としている大壺はサンカンペーンの可能性も視野に入るのだが?
謎の稲穂文様の下には、赤枠で囲った米粒のような三角形状の中に点を打った繋文をみる。北タイではどこにでもあるような文様だが、ではどこかとなると産地が明確な陶片に出会わない。
もう一点似たような副次的な印花文がある。それはバンコク大学東南アジア陶磁博物館の壺の印花文で、そのスケッチを掲げておく。
この文様は、下のナーン・ボスアック産盤の青枠と、ほぼ同じ文様である(堺市博物館の展示ではサンカンペーンとあったが、ボスアックであることは先に紹介した通りである)。
以上、くどくどと説明してきたが、稲穂文様そのものズバリの産地証明ができない。副次的な文様からみると、ナーン・ボスアック産の可能性が考えられる。しかし、そうとも云えない事例が存在する。次回はそれについて言及したい。




                                <続く>

ブログ掲載500回記念・魅了する大壺の彷徨える焼成地論・その7

2016-07-29 06:59:11 | 北タイ陶磁
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さまよえる焼成地論の最後として、6点目の事例を紹介するが、事例は大壺ではなく盤であることをお断りしておく。更に過去「謎のサンカンペーン青磁印花文双魚文盤」として、既に紹介している事例の再掲で恐縮である。
過日、京都府立図書館にて長谷部楽爾著「インドシナ半島の陶磁・山田義雄コレクション」をみた。その中の印花双魚文盤である。書籍はサンカンペーンと紹介している。その魚文は初見で、過去鉄絵・印花文合わせて数百点を見ているが、この手の文様は経験がない。先ず写真を御覧いただこう。
サンカンペーン青磁印花双魚文盤と紹介されているが、解像度が低く文様が不鮮明である。拡大すると多少輪郭が分かるが、不鮮明な部分も多々残っている。
見ずらいのでスケッチにしてみた。どこまで正確に写し取れているのか自信はない。
先ず鰭の数であるが、背側は1箇所で腹側ははっきりしないが、1箇所のようである。背側の鰭が1箇所の印花文は、パヤオとナーンの特徴である。
文様を拡大しても不鮮明であるが、文様の特徴として後3点を確認することができる。
1点目は、筋状の尻鰭が上下に分かれている点である。これもパヤオとナーンの特徴である。以下、上から2つがパヤオ、3つ目の魚文がナーンの文様である。このような尻鰭の文様はサンカンペーンでは見ない。


2点目は、魚体に骨のような文様を垣間見る。このような文様はパヤオ魚文の特徴である。
3点目が最大の特徴であるが、魚体の周囲に小さな○文が配置されている点である。この手の文様を見た経験があることを思い出した。
それは、チェンマイ大学陶磁資料室である。それが下の写真であるが、波状の劃花文の周囲を小さな○文が囲んでいる。この○文の使われ方の趣旨は双方同じものと思われる。
陶磁資料室の学生に尋ねると、陶片資料番号からサンカンペーンという。手にとって見ると、口縁に釉薬が掛かっている点、胎土や高台の形状や様子から、どことなくサンカンペーンとは異なるようで、個人的には焼成地が特定できていない。チェンマイ国博敷地内のタイ芸術局第8支所の担当者に質問すると、パヤオかナーンではないかとの指摘であった。これについてはJ・C・Shaw氏もその著作で、写真入りでサンカンペーン?と記しておられる。氏も確定できていないようである。
多数の小さな○文を装飾に配するのは、サンカンペーンとナーンの特徴である。サンカンペーンの事例を以下に紹介しておく。
よくもま~、根気強く押したものである。ナーンの事例も下に示しておく。
以上、読み違いもあるかとは存ずるが、サンカンペーン・青磁印花双魚文鉢なる山田義雄コレクションは、サンカンペーンないしはナーンで、ナーンの可能性がやや高いと思うが、決定打がない。
この印花双魚文盤の胎土と高台の様子をみれば、サンカンペーンかパヤオかの概要がつかめそうであるが、そうもいかないのであろう? 今日一番見てみたい謎の陶磁である。

さまよえる焼成地論として紹介した6点の事例を再掲すると・・・
1)ラオスからもたらされた一群の壺をアデレード大学のドン・ハインはラオス産とし
 いるが、これは北タイ産と思われるものの、詳細な産地は不詳
2)バンコク大学東南アジア陶磁博物館で展示され、ラオス産と表示されている壺は
 70-80%の確率でナーン・ボスアック産である。
3)関千里著「ベトナムの皇帝陶磁」Page226-227のパーン青磁印花文大壺、焼
 成地は不詳なるも、パーン陶磁の可能性は限りなく低い。
 「東南アジアの古美術」Page220に掲載されている、図番K-1でしめされた青磁褐
 釉象魚印花文壺を、関氏はSankampaeng or Payao 16th centuryと記されている件
 であるが、これはサンカンペーンの可能性大である
4)郡家美術館展示のパーン青磁刻文双耳壺・2点は、パーンの可能性は限りなく
 低いが、具体的焼成地は判断できない
5)堺市博物館でみたサンカンペーン印花盤は、ナーン・ボスアック産である
6)長谷部楽爾著「インドシナ半島の陶磁・山田義雄コレクション」掲載のサンカン
 ペーン・青磁印花双魚文鉢は、サンカンペーンの可能性もあるが、ナーン産の可
 能性が高いと思われる
では、焼成地不詳の1)、3)と4)は、どこ産であろうか?・・・次回以降それを詮索してみたい。




                              <続く>




ブログ掲載500回記念・魅了する大壺の彷徨える焼成地論・その6

2016-07-28 09:02:52 | 北タイ陶磁
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2012年7月、堺市博物館で見た盤はキャップションによると、サンカンぺーン印花盤と記されている。その見込み中央は銅鼓と同じ光芒を放つ太陽文であるが、その外周の文様が不鮮明ではっきりしない。
そのサンカンぺーン印花盤は、比較的大きい29.5cmで、口縁の輪花形状も変則的であり、重ね合わせた反対側の盤の口縁が、当該盤の釉薬によって部分的に剥ぎ取られ喰いついている。これは過去に見たサンカンぺーンの盤と景色が異なっている。その文様を写し取ったのが上のスケッチで、見込み中央文様は、東南アジアに分布する銅鼓の打撃点文様で13光芒である。その外側は日本で云う蕨手文と思ってスケッチしたが、どうも異なるようで下のスケッチに訂正したい。
青丸のように隅を丸くした二重三角を90度倒して、その底を合わせた繋文と考えている。最外周の赤丸は巻貝文様と二重の半孤の間の点文様である。この最外周の文様が決め手と思われ、堺市博物館で見た盤はナーン・ボスアック産の可能性が極めて高い。
さまよえる焼成地論として5点目の事例を紹介した。次回は6点目の事例を紹介し事例紹介を終えたいと考えている。




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ブログ掲載500回記念・魅了する大壺の彷徨える焼成地論・その5

2016-07-27 06:43:09 | 北タイ陶磁
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今回はHP上の郡家美術館に展示されている壺を御覧願いたい。ココをクリックすると「郡家美術館」のHPがでる、そこの「南海古陶磁」なるバナーをクリック願いたい。そうすると郡家美術館所蔵の37点が、順次展示されるので、そこの5点目・パーン青磁刻文双耳壺と6点目・パーン青磁刻文双耳壺を御覧頂きたい。
いずれも如何にも堂々とした姿の大壺で名品である。掲載写真は解像度が低く、どのような文様か判然としないところが多い。先ず5番目の青磁刻文双耳壺を御覧願いたい。解像度は低いものの、何とか文様が読み取れたので、そのスケッチを掲げておく。
何から述べれば良いか、多少の戸惑いが無いわけではないが、先ず名称である。現物を目の前で見ていないので即断はできないが、「パーン青磁刻文双耳壺」との名称の刻文、確かに胴を巡る二重線は刻文であり、ジグザグ文も刻文の可能性もあるが、魚と象は印花文である。
次に「パーン」とある。当該ブロガーの狭い見識がなせる業であろうが、このような黄褐釉のパーン陶磁を見た経験がない。北タイ古陶磁の図録には、このような黄褐釉パーン陶磁の掲載はなく、昨年パーン窯址訪問時に収集した陶片(20点弱)にも、黄褐釉陶片はない。バンコク大学東南アジア陶磁博物館をはじめ、多くの美術館・博物館展示のパーン陶磁でも見た経験がない。パーンの釉薬の特徴はシーサッチャナーライと同じように翠色に発色する・・・と、ここまで断言調に記載しているので、もし存在すれば大恥ではあるが・・・。
そこで、パーンでないとすれば、何処か? 可能性の1番はサンカンペーンである。釉調はサンカンペーンに存在し、ジグザグ印花文もサンカンペーンに存在する。最も特徴的な象の印花文、象の三日月のような眼はサンカンペーンの特徴である。ではサンカンペーンか・・・となるが、断言するほどの自信はない。
なんとなれば、次の郡家美術館・南海古陶磁6点目の壺の文様である。5点目・6点目を比較すると口縁の形状は異なるが、全体的な姿は同じで同一窯と考えてよい。そうすると6点目の印花文様が気になる。
写真の解像度が低く、スケッチをおこすこともできないが、当該ブロガーが勝手に命名している稲穂文様のように思われる。
この稲穂文様の優れた壺が、ホノルル美術館とバンコク大学東南アジア陶磁博物館に存在する。
上はホノルル美術館、下はバンコク大学東南アジア陶磁博物館の展示品である。
両館共に産地は不明としている。サンカンペーン陶磁については、それなりに自信があるが、当該印花文がサンカンペーンに存在するとの知見は持ち合わせていない。当該ブロガーもさまよっていることになる。
回りくどい噺をしてきたが、郡家美術館の青磁大壺はパーンではなく、産地不詳である。可能性として残るのはパヤオとナーンである。この郡家美術館の2点の実物を見てみたい。底はべたか?高台付きか? また、パーンと命名された根拠をしりたい。
以上、さまよえる焼成地論の4点目を紹介した。次回は、その5点目として、三度目の日本の事例を紹介する。




                                  <続く>



ブログ掲載500回記念・魅了する大壺の彷徨える焼成地論・その4

2016-07-26 06:43:26 | 北タイ陶磁
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さまよえる焼成地論の3点目を紹介する。それは、日本の古美術界でも同じような状態である。
関千里氏著作の「東南アジアの古美術」Page220-221に以下の記述がある。少し長いが全文紹介する。
ラオスからもたらされた大壺の一群、多種類のデザインで飾られた印花文が壺の口元から頸、そして肩や胴にびっしりと連続して押されている。象や魚であったり、蔓状の植物文であったりする。壺の肩についている耳には、龍や蛙そして貝が付いている。龍や蛙や貝も中国に発するが、農耕民族に縁が深いモチーフではないかと思われる。
大壺の一群は、ラオスの歴史の中に埋もれていたことは間違いないが、ラオスで作られた確証はない
(当該ブロガー注:ドン・ハイン教授はラオス産と断言し、その影響下にあるバンコク大学東南アジア陶磁美術館の展示品もラオス産の可能性を、示唆しているのとは異なる見解である)。タイの見解では(注:どこの誰の見解かは、記述されていない)、サンカンペーン窯であるか、パヤオ窯であるか判然としないが、いずれにしてもタイ北部窯からラオスに輸出されたものだという。
仏教美術をはじめとしたパヤオ美術は、どちらかと云えば、チェンセーン後期美術として位置づけられていることもあり、やきものも15世紀以降16世紀と捉えることが適切だと思う。その意味でチェンコーン地域に現れた大壺の一群を、この時代のパヤオのやきものとすることに違和感はない
。”・・・とある。
そのPage220には、白黒の写真(図番K-1)で示された青磁褐釉象魚印花文壺頸部を、関氏はSankampaeng or Payao 16th centuryと記されている。・・・これについては後述。
そして同書Page21の図番AI-1の青磁印花文壺をPayao?15世紀として、写真掲載されている。その壺は、下の写真の図番13-111パーン青磁印花文大壺と同じものである。
上の写真は、関千里著「ベトナムの皇帝陶磁」Page226-227である。そこには図番13-111 パーン青磁印花文大壺と記載されている。
関氏の著作にも混乱が見られる。上述したように同一の壺を、「東南アジアの古美術」では、パヤオ?15世紀と記し、「ベトナムの皇帝陶磁」ではパーンと記されている。その「ベトナムの皇帝陶磁」Page34-35には、”1990年、ラオスにあった、タイ北部パーンの青磁大壺が多数タイへ里帰りした。頸部が褐釉で肩から下が青磁の掛け分けとなっていて、特に壺の口元から肩にかけて、象や魚そして花に蔓唐草文(当該ブロガーは、これをジグザグ印花文と表現している)の印花でびっしりと飾られているのが印象的な大壺群である。”・・・と記載されている。関氏もさまよっておられる様子を紹介した。
蛇足乍ら上の写真の大壺の肩に装飾されている四耳は、陶土紐を親指と人差し指で、左右から摘まんだような形をしている。この耳はルアンプラバーンのバン・サンハイとサンカンペーンに見る特徴であり、他の北タイにも存在する可能性があるが、当該ブロガーは詳しは知らない。
そこで同一壺である、図番AI-1のパヤオ?と図番13-111パーンであるが、個人的にはパーンの可能性はないと思われる。最大の根拠は、写真の解像度が低く、はっきりしないものの、押されている印花文の文様をパーン陶磁で見た経験がなく、釉薬の発色もパーン陶磁で見た経験がない。パーン陶磁の最大の特色の一つが、青磁の発色が翠色で、写真のようにやや酸化じみた肌色の陶磁をしらない。
しかしながらパヤオ?の可能性は残っている。更にはラオスの可能性も残されているように思われる。
そこで先に記した、「東南アジアの古美術」Page220に掲載されている、白黒の写真(図番K-1)で示された青磁褐釉象魚印花文壺頸部を、関氏はSankampaeng or Payao 16th centuryと記されている件である。その印花文をスケッチしたので下に示す。
上からピクンの花ないしは日輪文、その下が蔓状文(ジグザグ文)、象、魚と続く。ピクンの花は北タイ陶磁には頻出する。象の印花文は、数は多くはないものの北タイ各地にある。とくに象の眼が三日月状にデザインされているのは、サンカンペーンの特徴である。友人が所有する壺の印花文をスケッチしたのが、下の図である。
象の印花文を御覧願いたい。双方を比較しどのような印象を持たれたのであろうか?実際の壺の肩部の写真を、下に掲げておく。
拙速な結論を出す訳にいかないが、関氏が著書で示す(図番K-1)の青磁褐釉象魚印花文壺 (サンカンペーンorパヤオ)は、サンカンペーンの可能性が高い。
日本の古美術界の混乱ぶりを示した。次回も同じように日本の彷徨ぶりを紹介したい。




                              <続く>