湧き出づる泉の如く (余録:NASAの流出画像と云う。地球とも違う。何か?)
率直な感想であるが、ブログを書き始めたとき、果たしてコンテンツ(情報の内容)が続くだろうかと、内心不安でいっぱいだった。所詮、日記のひ
とつだとは
云え、少なからず読者を意図しているところが大きく違う。ヘタなモノは出せない。そういう思いは少なからず抱いた。 又、ブログを書き始めるに
は、若干ながらもささやかな目的があった。それは一滴の『純粋な理知』を持って、世の中のウソを糾弾していきたいと云うモノである。奇しくも今年の漢字が
『偽』となった事は、ささやかな運命を感じる。一滴の『純粋な理知』の雫が、やがて蒸発して遍く『純粋な理知』に作用して、一陣の風になり飄(つむじ風)
のひとつにでも成れば、少しは『世の中のウソの糾弾』に役立つであろうと考えた。
そのコンテンツ(情報の内容)は、当初、先人の糾明を自分なりに検証し、自分の視点で諒解し、自分と同じくする『純粋な理知』に語りかけるモノ
とした。それは結構な神経を要する作業であると感じた。実際、結構な作業であった。HTMLの意味は理解していても、使ったことはとんとない。従って、只
書き込むだけの無味乾燥なブログである。写真ぐらいは載せられるようにすぐなった。
それにしても、いわゆる『硬派』に部類するブログに読者は、関心を寄せるであろうか、それも不安である。欲なものである。日記のひとつ、せめて一滴の生きる証などと云っては見ても、読者数は気になるから不思議だ。
それが、一人増え、二人増え、10人20人と読者が増えてくると、今度はプレッシャーが生じる。何とか自分なりの視点を維持し、『純粋な理知』に叶っているのかどうか、付和雷同、不分別の誹りを招く畏れは......。いろいろ想いはきりがない。
2ヶ月半立って、やっと続けていける決心が起った。それは読者の響きである。一度としてお目に懸かり、お耳に懸かりした事とてない読者の響き
が、不思議と心に伝わる。コメントとて、そうは多くはない。その中にはありがたいコメントもあった。そうとも云えないモノもあった。そうではないの
である。書く方のあり方に依る読者の響き。それを感じるのである。数の問題ではない。そう感じたとき、心にスイッチが入った。
少しはHTLMの要領も知った。これから見やすい、読みやすい、解りやすいブログの提供も少しは出来ると想う。出来れば楽しめるモノとした
い。『楽しくなければブログじゃない!』。別にフジテレビを向こうに張るつもりはないが、ブログの楽しさを味わう一人として、そう思う。そう思う故に、ブ
ログを発信する立場として、新参者ではあるが決意を新たにする次第である。
よく『硬派』と『軟派』が、ブログにあると聞く。その意味では、本プログは『硬派』である。その定義は良くは知らない。何となくは解る。生きる
意味に於いて『硬派』も『軟派』も同じである。その同じ理由で、ブログにおいては同じである。厳つい顔もたおやかな顔も、同じ人間である。男がおり、女が
おり、それが故になごみが生じるようなモノで、一方だけでは味気がない。別に『硬派』を向こうに張るつもりもない。自然体でいたい。しかし、いのちを乗せ
ていきたい。そのためにもあるべき姿、真実を追究したい。
そう思うと、コンテンツ(情報の内容)など心の中から湧くモノだと気づいた。外のコンテンツ(情報の内容)は、まさに呼び水である。心から湧く
コンテンツ(情報の内容)こそ真水である。それを乗せることは『いのちを乗せる』ことである。いのちに『硬派』も『軟派』もない。男も女もない。
汲めども尽きせぬ泉の如く、アリタイ。