今日の朗読講座で
この話を聞いた
視覚を遮断して
感覚が研ぎ澄まされる
視覚以外の感覚
意外に
障害を持ってないか?
という話
見えるために
わかった気になって
かえって
感じられなくなっている
という話
昨日は
ギャラリーTOMで →の本を手に入れ読んだ
言語が 視覚を阻害していないか?
という話
見えているから
言葉でくくるから
わかっているような気がする
落とし穴
ということで言えば
同じ話だ
子供の成長というのを考えるときも
発達の筋道とか 考えるけれど
個体としての人間の発達と
知らず知らず考えてたな
右の本では
デザインを美術教育に取り入れるとき
コミュニケートするという 表現のとらえ方が
色々書かれてあった
カンディンスキーの展覧会を見てきて
青騎士が出るころの様子がいくらかわかって
物事が解明されていくときの多様性に圧倒されているところだ
抽象画が出てくるとき
1910年代 ヨーロッパでは キュビズムの嵐は若い芸術家を巻き込んで
そこを通らなかったものは ないかも というほどだったらしいけれど
カンディンスキーは キュビズムは通らない
どこから
抽象化が立ち現れたんだろう
考えてみれば
キュビズムはたぶんに言語的?知的な分析だけれど
カンディンスキーはモネの積み藁に衝撃を受けたって
それの具象ではないところに 一撃を食らったらしい
私は ちょっとわからない
もしかすると カンディンスキーは共感覚の持ち主だったからな
シェーンベルクの音楽も絵画を生み出したみたいで
実際シェーンベルクの音が鳴り響いたら
あの黄色が広がったんじゃないかと思う
私には共感覚はないからわからないが
この絵よ