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落花生のルーツは二宮町

2010年01月12日 | 地域情報・まちづくり
1月9日の神奈川新聞の4面は二宮町の企画特集で、坂本町長が「二宮ブランド」の開発を柱にした新しい産業振興を目指すことを篤く語っていらっしゃいますが、紙面の片隅に「二宮落花生物語」という興味深いコラムが掲載されていましたのでご紹介します。

その概要は、「二宮町釜野の二見庄兵衛が、明治初期に横浜で外国人から南京豆を数粒もらってまいたのが始まりで、その後に県内はもちろん、千葉、埼玉、茨城、栃木と関東一円に広がっていった。」というものです。日本で落花生の栽培は江戸時代から行われていたようですが、一般に栽培されるようになったのは明治に入ってからで、大磯町と二宮町で同時期に栽培が始められています。

以下は、二宮町郷土史(昭和47年、二宮町教育委員会)からの抜粋です。
「栽培発祥の歴史には、二宮説と国府説があり、議論はいまだに解決をみないが、それぞれの町にとっての特産物を、意義あらしめた功績は大きいものがある。
 1866年(慶応二)釜野の二見庄兵衛が生糸の原料の買い付けに横浜の商館を訪れたさい、一外国人から、南京豆(落花生)の一粒をもらって持ち帰り、自宅の畑に栽培したが、花は咲いても実がならず、どうしたものかと思いつつ根を抜き取ったところ、根の部分に実があって、始めて南京豆は根に実がなることを知り、近隣に普及させたのが最初であるとされる。なお、二見氏は、昭和十年に日本における落花生栽培の先駆者として表彰された。
 当時の落花生は「這い落花生」(地面を這うようにできる)で、株にならない種類であったが、明治七年ごろ、この「這い落花生」のなかから「立ち落花生」が発見され、収穫しやすい品種ができるとともに、味がよいため、食用に、搾油に、食品加工にと販路も大きくなり、栽培者も大いに増加して、盛況になったという。」

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現在、 二宮町の落花生生産量はとても少ないのですが、二宮町商工会員の5軒のお店が長年培われた加工技術と職人気質で、納得のいく香りをかたくなに守った落花生を製造・販売していますので、二宮町にお越しの折にはぜひお立ち寄りください。

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