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二宮町の由来(その1)

2010年04月22日 | 地域情報・まちづくり
今年の2月、東京ビッグサイトで開催された第7回グルメ&ダイニングショーに二宮ブランドの試作品を出展した際には大勢の方にお越しいただきましたが、何人かの方から「ああ、二宮尊徳が生まれた町ね。」とか、「二宮町って、栃木県ですよね。」といわれたことが気になっていました。

結論から申し上げると、二宮尊徳(幼名:金次郎)は小田原市の生まれですから二宮町ゆかりの人ではありませんので、町名の由来とはなっていません。また、栃木県には二宮尊徳が町名の由来となった二宮町がありましたが、平成20年8月に真岡市に編入合併しています。

私は小田原市に生まれ育ちましたので、小学校では二宮金次郎の銅像の前で「柴刈り縄ない草鞋をつくり 親の手を助け弟を世話し 兄弟仲よく孝行つくす 手本は二宮金次郎」と声を張り上げて唱歌を歌い、中学校と高校へは二宮尊徳翁を御祭神とする報徳二宮神社の脇を通学していましたので、二宮尊徳には親しみがあります。二宮尊徳の名前は知っていても、どのような人だったかを知る方は以外に少ないと思いますので、以下に概略をご紹介します。

二宮金治郎は、天明7年(1787)に相模国栢山村(現在の小田原市栢山)の農家に生まれました。近くを流れる酒匂川の再三の氾濫で家は没落し、両親の死後は兄弟ばらばらに親戚の家に預けられました。大変苦しい生活の中でも学問を学び、文化8年(1811)からは小田原藩の家老をつとめる服部家に住み込みながら、財産を増やして一家の立て直しを行っています。その過程で、薪を背負って学問したこと、本を読むための明かりとりの油を菜種を栽培して収穫したこと、川の氾濫を防ぐために堤防に松を植えたことなどが逸話として残されています。

金次郎が32歳のときに服部家から財政の立て直しの依頼があり、それを引き受けたことが金次郎活躍のはじまりです。金次郎の才能は小田原藩主大久保忠真に認められ、藩主の分家であった宇津家の下野国桜町領(栃木県の旧二宮町周辺)の立て直しを命ぜられ、文政6年(1823)に桜町に赴任しています。桜町では、農民の表彰、排水技術の伝授と開墾などに取り組みましたが、数々の障害を受けて苦しい日々が続き、文政12年に行方不明になりました。成田山にこもって断食修行などをしていたようですが、3ケ月後に戻ったときには桜町の様子も変わり、その後は領民の協力を得て領内の立て直しを行っています。

天保8年(1837)に桜町から小田原に戻った金次郎は、天保の飢饉でも手腕を発揮し、小田原領内では一人の餓死者も出さずに、4万人あまりが救われています。なお、金次郎が尊徳(ただのり)を名乗るようになったのは、天保13年56歳のとき幕府の役人にとりたてられてからです。

尊徳が各地を立て直した方法を尊徳仕法といいますが、尊徳はどの土地にもあてはまる雛形づくりに力を入れました。現代風に言えば、地域経営の立て直しと地域振興をはかるマニュアル本ですが、この書は仕法の手本として後世に伝えられています。

尊徳は晩年になっても烏山藩仕法、相馬藩仕法、東郷村をはじめとする14か村の天領仕法、日光仕法などに力を注ぎましたが、安政3年(1856)に現在の栃木県日光市今市で亡くなっています。

少し長くなりましましたので、我が二宮町の町名の由来は明日のブログでご紹介したいと思います。


(記述の一部は、小田原市ホ-ムページの「二宮金次郎物語」を参考とさせていただきました。)
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