日本紛争予防センター事務局長1977年群馬県生まれ中央大卒瀬谷ルミ子さんと田原総一郎との対談から見えたものは、アフガン、ルワンダに行き、中国、韓国、ベトナムに行くと二度も広島、長崎に原爆投下、都市という都市は殆んど焼け野原になって何もかもなくなってもアメリカに次ぐ経済大国になったことへの復興の手本とする願望が強く、そのノウハウを教えてくれという人が多い。
鎌田實医師と石井光太氏と対談でも紛争地ウガンダの兵士のことを載せたが、
瀬谷さんは、ルワンダの大量虐殺での難民の写真を見て、紛争解決のニーズがあるのに日本ではその専門家がおらず、兵士からではなく一般市民として「武装解除」の進路を決めたという。
1994年の大量虐殺から3年後にルワンダに行くと、5,6歳の少年が内戦の兵士になっていた。少年兵は加害者であるが、同時に拉致された被害者でもあり、薬漬けにされてマインドコントロールされて人を殺した子は精神が崩壊しているという。
また、お金は出すが人は出さない風潮の日本ではNPOの人材強化の組織もなく、外交官として、カルザイ大統領の信頼から、大使と武装解除の交渉をして、現地の要望に沿う形ができても、武装解除した地域にタリバンが侵入標的にされる悩みで休職してしまう。
これではダメでと新しい仕組みを作り紛争を解決したい思いから、日本紛争予防センターを立ち上げたという次第である。
鎌田實医師と石井光太氏と対談でも紛争地ウガンダの兵士のことを載せたが、
瀬谷さんは、ルワンダの大量虐殺での難民の写真を見て、紛争解決のニーズがあるのに日本ではその専門家がおらず、兵士からではなく一般市民として「武装解除」の進路を決めたという。
1994年の大量虐殺から3年後にルワンダに行くと、5,6歳の少年が内戦の兵士になっていた。少年兵は加害者であるが、同時に拉致された被害者でもあり、薬漬けにされてマインドコントロールされて人を殺した子は精神が崩壊しているという。
また、お金は出すが人は出さない風潮の日本ではNPOの人材強化の組織もなく、外交官として、カルザイ大統領の信頼から、大使と武装解除の交渉をして、現地の要望に沿う形ができても、武装解除した地域にタリバンが侵入標的にされる悩みで休職してしまう。
これではダメでと新しい仕組みを作り紛争を解決したい思いから、日本紛争予防センターを立ち上げたという次第である。