前回は親鸞の悪人正機から他力の悪を眺めた。また、その背景は戦乱を経て怨霊の呪縛を解く念仏の貴族社会から武家社会の民衆への大乗仏教に移行した鎌倉時代であり、本願ぼこりの悪行を考えた。
では、同時代の道元の「諸悪莫作」即ち、諸悪をしてはいけないから、悪行について考察してみよう。教行信証を書いた親鸞は両親から離れて貴族日野家のおじの家で暮らす身、正法眼蔵を書いた道元も出世に善悪を無視した父と妾の貴族の母から生まれた身で、似た環境で育っている。
縁起から無自性から空への循環構造は修証一等で、道元の思想の軸である。さらに道元の世界観、人間観から具体的に善悪を見てみると、道元は善、悪、無生の三性の一つととらえている。善は善にあらず、悪は悪にあらず、善でも悪でもないものも無生(空)という。そして、善悪は法なり、法は善悪にあらずと言っている。
また、諸悪莫作を諸悪はすでにつくられずなりゆくと言い換え、修業力の現成であり無尽蔵にある仏道の真理は無限である。修行では、仏道の悪を避け、善を志向し坐禅瞑想して身心の執着を解脱して、善悪を超越した世界観が体得されるという。
では、同時代の道元の「諸悪莫作」即ち、諸悪をしてはいけないから、悪行について考察してみよう。教行信証を書いた親鸞は両親から離れて貴族日野家のおじの家で暮らす身、正法眼蔵を書いた道元も出世に善悪を無視した父と妾の貴族の母から生まれた身で、似た環境で育っている。
縁起から無自性から空への循環構造は修証一等で、道元の思想の軸である。さらに道元の世界観、人間観から具体的に善悪を見てみると、道元は善、悪、無生の三性の一つととらえている。善は善にあらず、悪は悪にあらず、善でも悪でもないものも無生(空)という。そして、善悪は法なり、法は善悪にあらずと言っている。
また、諸悪莫作を諸悪はすでにつくられずなりゆくと言い換え、修業力の現成であり無尽蔵にある仏道の真理は無限である。修行では、仏道の悪を避け、善を志向し坐禅瞑想して身心の執着を解脱して、善悪を超越した世界観が体得されるという。