1950年徳島生まれ、2014年から漫画家竹宮恵子京都精華大学学長の「明日へのことば」を今朝8/2聞いた。
竹宮さんは5歳ころから日常的にマンガを描き、小学生でパーテイーだからとドレスを着せたり、5,6年生でいとことの対話を1枚に、中学なってからストリー5,6枚描いて学校で続きを描いた。
石ノ森章太郎へ友が欲しいと手紙をだし、マンガか入門から刺激を受け、同人誌「宝島」グループに参加回覧して友から刺激され、高校3年でマーガレットでデビュー、徳島大美術科に入学しても人前に立つのが苦手から教育実習が嫌いで中退、上京松山のペンネームから男と思って萩尾と同居、ときわ荘花の24人組大泉サロンで、1976年「風と木の詩」の連載はもともと50頁ぐらいデッサンしてあったもの7年かけ少年の同性愛の耽美したものを描いた。
1977年には「地球(テラ)へ」は環境破壊された地球へもどるもので、人間はコントロールできないダメなものから出発、14年前に精華大学を受け入れたのは、昔は言葉のまちがいでも編集者が修正してくれたのに、今は修正もしなければ売れるマンガだけ扱う。大学では大泉サロンのように、8人の先生が集団の学生に向かい、同じテーマでも別の先生から見てもらえる。隣が見えるから刺激があり、マンガは教えるものでなく、何を描くかと自分流に描くもの。
海外のマンガは日本の紙芝居で説明が入り台詞でない。日本のマンガも柔道のように世界のマンガへと、外人は日本の言葉が分からないのに画が動いているようにストーリーとして読み取れるという京都ミュージアムには人気があると。
竹宮さんは5歳ころから日常的にマンガを描き、小学生でパーテイーだからとドレスを着せたり、5,6年生でいとことの対話を1枚に、中学なってからストリー5,6枚描いて学校で続きを描いた。
石ノ森章太郎へ友が欲しいと手紙をだし、マンガか入門から刺激を受け、同人誌「宝島」グループに参加回覧して友から刺激され、高校3年でマーガレットでデビュー、徳島大美術科に入学しても人前に立つのが苦手から教育実習が嫌いで中退、上京松山のペンネームから男と思って萩尾と同居、ときわ荘花の24人組大泉サロンで、1976年「風と木の詩」の連載はもともと50頁ぐらいデッサンしてあったもの7年かけ少年の同性愛の耽美したものを描いた。
1977年には「地球(テラ)へ」は環境破壊された地球へもどるもので、人間はコントロールできないダメなものから出発、14年前に精華大学を受け入れたのは、昔は言葉のまちがいでも編集者が修正してくれたのに、今は修正もしなければ売れるマンガだけ扱う。大学では大泉サロンのように、8人の先生が集団の学生に向かい、同じテーマでも別の先生から見てもらえる。隣が見えるから刺激があり、マンガは教えるものでなく、何を描くかと自分流に描くもの。
海外のマンガは日本の紙芝居で説明が入り台詞でない。日本のマンガも柔道のように世界のマンガへと、外人は日本の言葉が分からないのに画が動いているようにストーリーとして読み取れるという京都ミュージアムには人気があると。