ブログ仙岩

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司馬遼太郎の思想嫌いという思想

2014-08-07 10:08:54 | 日記
関川夏央「解説」する文学から、司馬遼太郎講演集に収められた40歳当時の「死について考えたこと」では、白髪を度々弁解していたが、人気が出ると自他ともに認めていた。

この時期が司馬を歴史小説家、評論家としての地位をしめ万人に頼りにされる換毛期と言える。60年1月「梟の城」で直木賞をとったときは36歳で産経新聞大阪本社文化部長になったばかり、その後多忙になり1年後退社した。

1923(大正13)年大阪生まれ、薬剤師の父福田の二男定一は勉強嫌い、腕白山登り大好き、朝飯6杯も食べる豪食、大陸の馬賊に憧れ、大阪外国語学校卒業するまでは乱読で、デパートの本屋で吉川英治「宮本武蔵」を立ち読み読破したエピソートを持つ。また、満州の戦車部隊の学校で成績が悪いのが運のつきで生き延び、終戦前の22歳で愚かな戦争に疑問を。

産経新聞社では京都大桑原武夫、貝塚秀樹の学者と寺社取材から、京都大の思想に違和感を覚え、戦争の破滅に向かった思想や戦後の不安定の思想も酒精分がもたらしたものと排斥の態度が身につき、密教から「仏法は今おまえさんがどこにいるかを教えててくれる一枚の地図」だというものに魅かれて行った。

結果,司馬は地図に身を任せることはしなかったが、68年の「坂の上の雲」では浩瀚であっても虚飾の多い日露戦争でなく、数百枚の地図から事実と物語を引き出したもので、歴史家は史実から引き出すが、作家は史実は化学の触媒で、嘘でない全く違う化学変化を起こすのが小説で、人間の真実を探る芸術であるノンフェクションと。