生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

環境/存在論から見て

2010年05月25日 14時40分18秒 | 生態学
2010年5月25日-3
環境/存在論から見て

  「環境と生息場所という概念は、物理的世界の性質に関係して解釈される。よって、これらの用語の意味を説明するどんな満足のいく存在論もまた、空間、時間、物質、物理的対象という概念に言及するだろう。」(Bennett 2010: 4)。
 空間について。ユークリッド距離を与える原始的関数。開集合と閉集合という標準的な位相概念を、通常的に定義する。地球に対して固定された参照枠によって特徴づけられる空間。ここでは、地球の回転とその運動は無視する。
 ……(中略)……

環境 environment
 「直接的環境 immediate:或る特定の主体subjectの外的表面に直接衝突することによって、その主体に影響する要因。
  影響的環境 affective:所与の主体に相対的に同定される、対象の収集体、および/または、物質substanceの質。〔collection of objects and/or quantities of substanceは、collection of ((objects) and/or (quantities of substance))だとすると、「所与の主体に相対的に同定される、対象、および/または、物質substanceの質の収集体」となるが、『物および構築体の収集体』てことはないだろうから、やはり最初の訳が妥当か。〕
  局所的環境 local:主体に近位の物理的領域(これは、近位性の程度が特定されない限り、漠然としているvague。或る生物体の局所環境は、一日に動くことができる範囲に関係づけることができるだろう)。〔そら、えら甘いでぇ。一日の行動圏behavioural rangeや家圏home range 〔だれやろ、home rangeを行動圏て訳したのは? →また、概念の定義と『操作的定義』と実際の調査という標本抽出。全数調査はあり得ない。精確には、全数調査はあり得ても、全体調査はあり得ない〕 を考えてみておくれやん。概念的定義はできずに、指標を提案できるだけやん。ま、操作的定義のほうが、まぎれがなくていいけど、それすら難しいもん。主体はどんなタクソンに属するんやろん? 数種に属するそれぞれ複数の生物体について、それぞれの局所的環境を例示してもらえません? 〔脚韻を踏んでみよう。ただし、日本語では中頭韻を踏むのが、由緒正しい〕〕
  全括的〔全覆的〕環境 glabal:或る総体性totality〔=最大領域〕の領域内で可能な直接的環境、の範囲を決定する物理的環境、によって特徴づけられる物理的総体性。」(Bennett 2010: 9)。
 ここで主体とは典型的には、生きている生物体である(9頁)。
 と、12頁まで記述が続く。
 12頁からの第6節は、「種、ニッチ、生息場所」である。

Bennett, B. 2010. Foundations for an ontology of environment and habitat. 21pp. www.comp.leeds.ac.uk/qsr/pub/fois-10.pdf.

定義の仕方/意味論

2010年05月25日 12時17分55秒 | 生命生物生活哲学
2010年5月25日-2
定義の仕方/意味論

mode様態
 プログレッシブ中英和辞典によれば、modeは、様式とか、哲学では様態や様状、論理学では様相と訳される。様態は、「デカルト・スピノザ以来、事物の本質にかかわる属性と区別された、事物の偶然的な属性。様。様状。状態。偶有性。」(大辞泉)とある。
 patternにはパターンまたは様式を、訳語として一意的あるいは機械的に与えたいとすると、modeは様態としたいが、やはり通常には様式か。modes of life (living)は、生活様式または生活様態。生活様態とは耳慣れないだろうな(→声を大きくして、耳慣れるようにする?)。次のBennett (2010)のmodeの定義は何だろうか。結局、基本的な言葉の定義は与えられないままが多い。たとえば、entityとかagentとか。

suggest
 suggest thatの訳例は、<~するようにすすめる、~したほうがいい、~とうながす、is suggested that ~と言われている>(飛田茂雄 1994.10『探検する英和辞典』草思社 286頁)。
 「proposeが積極的な提案であるのに比べて, suggestは控えめな提案」(プログレッシブ英和中辞典)。
 示唆とは、「それとなく知らせること。ほのめかすこと。」(大辞泉)。
 suggest thatはどう訳すのがぴったりなのか。示唆すると提案するの中間の言葉はないのか。唆案とか示案という語を造語するか?

 Bennett (2010)は、「定義の様々な様式〔様態mode〕に応じた、用語の諸意味は、_自然的に相関してnaturally correlated_いることによって関係している」と示唆suggestする。そして、意味論semanticsから考察している。
  「たとえばわれわれは、「二輪車〔自転車bicycle〕」という用語を、一定の材料的および運動的性質を持つ物理的対象として定義するか、あるいは代わりに、特定の目的のために知的行為者agentによって作られた人工物の型typeとして定義するかもしれない。二輪車の物理的特徴を持つ或る対象が自然に生起できるというのは、知的設計designと建造なしには、極めてありそうにないから、どちらの定義も実在する対象の同一クラスに対して同等に当てはまる〔適用される〕だろう。にもかかわらず、二輪車の物理的形態formを持つ或る対象がなんらかの風変わりなfreak自然的プロセス〔過程〕から生じ得るとしても、二つの定義は論理的に別個のものdistinctである。」(Bennett 2010: 3)。

Bennett, B. 2010. Foundations for an ontology of environment and habitat. 21pp. www.comp.leeds.ac.uk/qsr/pub/fois-10.pdf.

大本営発表/官房機密費

2010年05月25日 02時11分44秒 | 生命生物生活哲学
2010年5月25日-1
大本営発表/官房機密費

 平成22年5月18日(火)9:30~9:58の、(記者クラブではなく)雑誌・フリー等の記者との会見における、亀井内閣府特命担当大臣の言。
http://www.fsa.go.jp/common/conference/minister/2010a/20100518-2.html
  「大本営発表ばっかり鵜呑みにしているうちに、だんだん「化石」みたいになってしまうのですよね。それは、やはり、今の司法記者クラブだけではないですよ。」
  「結局はもたれ合いでしょう。テレビだってそうです。迎合しない評論家は、全部、コメンテーターから外されているでしょう。」
 亀井大臣は、上司のいいなりにならず、責任もって書きたいことを書け、という趣旨のことも言っている。
 IPCC問題シンポでの記者たちの、何を意味しているのかよくわからなかった発言とも関連しそうだ。

 野中広務氏は、官房機密費のなかからお金を評論家たちにも配っていたと暴露したらしい。
http://www.asahi.com/politics/update/0430/TKY201004300449.html

 金融庁大臣室では、フェア・トレードのコーヒーを買うようにしているらしい。
http://jinjibu.jp/GuestIntvw.php?act=dtl&id=28
(平成22年5月14日(金)9:03~9:50の、(記者クラブではなく)雑誌・フリー等の記者との会見)

 5月3日のアエラに、「日本経済は破綻しない」という特集が載っているらしい。
  「表題の「破綻しない」というのは、23人のエコノミストに対する調査で「破綻しない」が13対8と多数を占めた結果だそうです。」
http://blog.goo.ne.jp/papillo/e/ea9c51db6827900fdbe697411e2dc63c

科学コミュニケーション?/IPCC問題シンポ

2010年05月23日 01時13分26秒 | 生命生物生活哲学
2010年5月23日-1
科学コミュニケーション?/IPCC問題シンポ

 小沢環境大臣が、2010年5月11日の記者会見で、2010年4月30日の日本学術会議によるシンポジウム「IPCC(気候変動に関する政府間パネル)問題の検証と今後の科学の課題」に関連した質問に答えて、次のように発言しているとのこと。

  「ただ問題は、いつも言っているのですけれど、IPCCの組織論を申し上げたのですが、例えば1000人の賛成と1人の反対みたいな話でも、新聞紙面で書くと1対1になっちゃうんですよね。1000のボリュームと1のボリュームというふうにならないので、そこは本当にメディアの皆さんには是非御注意いただきたいという話をいつも言っているんです。こういう意見もあると、こういう意見もあるよねって必ず言うのですけど、こっちの意見は何万人の意見で、こっちの意見は本当に少ないという、そこを見極めて書く能力こそ、正にメディアが問われている能力で、一般の素人の人たちはそこは分かりきらないわけだから、そこをミスリードしていただかないように皆さんには是非お願いしたいなと思うのですけどね。」(小沢大臣一般記者会見録(平成22年5月11日(火)http://www.env.go.jp/annai/kaiken/h22/i_0511.html)。

 ある主張に対して賛成と反対があれば、どちらも紹介し、同程度の紙幅を割くのは当然だろう。「こっちの意見は何万人の意見で、こっちの意見は本当に少ないという、そこを見極めて書く能力こそ、正にメディアが問われている能力」で、何を言いたいのか?
 賛同者の数については、見極めることではなく、国民の意見を調査すればよいことである。(ただし、設問の仕方によって、回答は異なるだろう。)

 主張の論理的整合性、「その時点での」科学的知識との整合性、その主張自体の経験的証拠、これらに照らして、また記者自身の経験に照らして、主張内容が妥当かどうか、本当に根拠があるのか、未来のついての主張ならばそれが実際に当たりそうか、をよく考えて書くことである。そのためには日頃から問題意識を持ち、相手の主張をうのみにせず、自分でよく考え、安易に納得しないという態度でことに当たるのが良いと思う。

 「例えば1000人の賛成と1人の反対みたいな話でも、新聞紙面で書くと1対1になっちゃうんですよね。」というのは、シンポでのパネリストだった横山広美氏の発表「IPCC問題・科学コミュニケーションの立場から」で、似たような文言があったような気がする。それは、「日本のメディアの対応」と題したスライドに、
  「科学的事実の重みが
   1対1に見える
  (本当は1対100のところ)」
であった。科学的事実の重みづけなんてできるのだろうか? 科学者の賛同者数を指標とするのか? 科学的主張についてであれば、多数決で決めてはならない。
 (「科学コミュニケーション」って何だろうか。その教科書は? 藤垣裕子・廣野喜幸(編)2008.10『科学コミュニケーション論』東京大学出版会、から勉強するのがよいのだろうか?)

 そして、IPCCが用いたデータとそれにもとづくあるいはもとづかない主張自体が、疑われているのである。学術会議によるシンポでは、何の結論も出したわけではなかったので、IPCCの予測はまちがっているということになったのではなかった。しかし、IPCCの主張については、立証責任はIPCC側にある。莫大な予算措置をともなっているのだから。懐疑論について反論するだけでなく、予測してたとえば或る年の全球平均気温を当てることだ。これが連続して10年あたれば、少しはそのさらに10年先の予測くらいなら当たるかもしれないと思うようになるかもしれない。


  「会場からの質問者の中に、その意味で長期と短期の区別がついていないのに、詰問調で迫るかたがおられて、江守さんが匙を投げてしまいましたが、ああいう詰問調は事業仕分けの真似なんでしょうか。こういう場面では、詰問調で迫ろうがおだやかに質問しようが、出てくる答は同じです。じっくり説明を聞く気がないなら、質問しないほうが他の人のためです。
  あとでさらに追記すると思います」(posted by きくち at 11:36 pm。http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1273674969)。

 「その意味で長期と短期の区別がついていない」(「長期と短期」とは気温変化についてのことだろう)とか、「じっくり説明を聞く気がないなら、質問しないほうが他の人のためです。」とはどういうことなのか、追記を待とう。

メレオロジー/部分学と全体学

2010年05月22日 15時57分05秒 | 生命生物生活哲学
2010年5月22日-1
メレオロジー/部分学と全体学

  「は部分である is-a-part-of」、「重複する overlaps」、「外部にある is-outside」などの述語の代わりに、メレオロジーは、用語を形成する関手functorである、「の部分 part-of」、「の重複者 overlapper-of」、「の外部者 outside-of」を持つ。」(Simons 1987: 23)。

 Simons (1987)の第9章は、統合的全体 Integral Wholesと題されている。翻訳書は出ないかなぁ。
 「部分・全体関係が、四次元対象の把握にも、時間的対象の把握にも基礎となっている」(中山康雄 2003)での部分全体関係とは、何なのか。


中山康雄.科学技術論と四次元メレオロジー.pdf.
中山康雄.2003.四次元メレオロジーと存在論.pdf.
*中山康雄.2007.言葉と心:全体論からの挑戦.勁草書房.

[S]
Sider, T. 2001. Four Dimensionalism: An Ontology of Persistence and Time. Oxford University Press.[サイダー,T. (中山康雄(監訳)/小山・齋藤・鈴木訳 2007.10)四次元主義の哲学:持続と時間の存在論.462pp.春秋社.]

Simons, P. 1987 (paper 2000). Parts: A Study in Ontology. xiii+390pp. Clarendon Press. [B20030716, y3778*1.05]

註:
 In category theory〔圏論〕, a branch of mathematics, a functor is a special type of mapping between categories (Wikipedia).
 関手は「圏の圏」における射と考えることもできる(ウキィペディア)。

ニッチや環境の存在論やメレオロジー

2010年05月21日 23時45分52秒 | 生態学
2010年5月21日-4
ニッチや環境の存在論やメレオロジー〔部分論〕

 「科学は、諸プロセスを理解するためのアプローチであり、したがって科学の言語の多くはプロセス用語〔術語〕として類別され得る。」とPennington (2006)は述べ、下記はその接近段階を箇条書きにしたものである(原著を改変した)。
  1. 人は、時間と空間(時間のカテゴリーと空間のカテゴリー)における存在者(存在者カテゴリー)を観測する。
  2. 人は、存在者を統御する関連プロセスについて理論的推測をする(理論カテゴリー)。
  3. 変化が観測できるのは、機会に恵まれたoppotunisticときかもしれないし、あるいは実験的操作によって制御されるときかもしれない。
  4. これらのカテゴリーは、一つのカテゴリーを他のカテゴリーの文脈へと位置づける観測(観測カテゴリー)中に、組み合わせられる。

 図2に、ニッチ理論の例がある。

    プロセス                 観測

  非生物的相互作用    ニッチ理論      生態系
  生物的相互作用      /|\       生物地理学
              / | \      進化生態学
             /   |   \ 
  種        空間 -  -| -  - 時間   スケーリング
  生起〔出現〕   \ 存在者と諸性質  /    分類学
             \   |   /      
              \ | /      野外研究
  生起を予測        実験作業      モデル構築
  分析を変更                  シミュレーション


 おそらく、Smith & Varzi (1999)の"The Niche"というオントロジーを適用したという論文以来、ontologyが生態学や環境関連で出てくるようになったようだ。環境存在論の本(河野哲也ほか )がある。


◇ 文献 ◇

Bennett, B. 2010. Foundations for an ontology of environment and habitat.

河野哲也・染谷昌義・齋藤暢人・三嶋博之・溝口理一郎・関博紀・倉田剛・加地大介・柏端達也.2008.6.環境のオントロジー.304pp.春秋社.

Pennington, D. 2006. Representing the dimensions of an ecological niche. 10pp.

Smith, B. & Varzi, A.C. 1999. The niche. Nous, 33: 198?222.

TVや新聞等の非科学的解説

2010年05月21日 18時53分07秒 | 生命生物生活哲学
2010年5月21日-3
TVや新聞等の非科学的解説

 日本学術会議は、サイエンスカフェを実施する団体へ講師派遣の協力をしているとのことで、サイエンスカフェ講師登録一覧というpdf
www.scj.go.jp/ja/event/pdf/kousi.pdf
中の、「サイエンスカフェに関するご意見・要望」の欄に、

  「自然保護やCO2削減などについて,TVや新聞等の情報には非科学的解説が多い。日頃から研究成果のアウトリーチを心がけているが,マスメディアの誤った情報を訂正するのはかなり困難である。」
と或る講師の方が書いている。
 また、他の講師の方は、
  「昨年のIPCC疑惑によって地球温暖化について疑問が投げかけられている。」
と書いている。

 2010年4月30日の学術会議主催のシンポでは、多くの新聞社記者がいて、発言を求められていた。新聞社の経営も大変だし、記者も忙しいだろう。科学リテラシー(これって何?)をつけるには、多忙な中で実際にどうしたらよいのだろうか。
 内田麻理香(2010)では、疑うことを重要視している。確かに、これは基本である。地球温暖化疑惑には有効である。しかし、Popperの反証可能性だけを取り上げている。反証可能な、あるいは反証された理論が科学的であるとするわけではない。もし反証された理論であるならば、用は無い。Popperの反証可能性理論は役立たず、反確証されたのである。反証可能性とは、むしろ科学理論の構造上から言って、無益な考え方である。(道具を用いた)観測にも、理論負荷性がかかっているからである。そして、観測して、理論の予測と合致するかどうかは、観測系が多数の要素からなっており、それらを繋いでいるのだから、どれがおかしいかはほとんど決められない。『科学哲学4?』掲載論文、渡辺慧、Mahner & Bungeなどを見よ。

 journalismをプログレッシブ英和中辞典で引くと、(学術論文などと区別して)「雑文、俗受」という意味があった。扇情主義sensationalismの対極が、(理想的な)ジャーナリストの心意気だと思っていたが。俗受を狙うことは、売るべしのための扇情主義よりも良くない場合があるようだ。新聞社系列ではない、週刊誌や月刊誌では竜頭蛇尾的記事が多いが、問題提起の役割をときおり果たしている。
 武田邦彦(2010.6:エセ科学に踊らされる日本は「沈没」寸前)は、名指しで朝日新聞とNHKを批判している。

[U]
内田麻理香.2010.4.科学との正しい付き合い方:疑うことからはじめよう.286pp.ディスカヴァー・トゥエンティワン.

「人工」生命体/地球温暖化//備忘録

2010年05月21日 10時46分35秒 | 生命生物生活哲学
2010年5月21日-2
「人工」生命体/地球温暖化//備忘録

「人工」生命体(=生物体)

 人間は、(まだまだ程度の低い)神である。つまり、様々な力(主に、思考作用と力学的作用)を及ぼすことができ、したがって外界に作用し制御ができる。
 作るとか製造する、あるいは創造するとは、物体を(想像体もそうだが)その構成の組み合わせを改変することである。構成要素は既存のもの(既製物ready-made)である。或る種類に属する一つの分子そのものを、新たに出現させることができれば、ほぼ神に等しいと言ってよいだろう。


科学的証拠の吟味

 なんらかの主張を支持してもらいたいならば、その証拠(根拠evidence)を提出すべきである。むろん、その証拠として提出したものが、その主張を支持するかどうかの検討が問題である。

 地球温暖化論や温暖化脅威論の議論で、懐疑的議論をすべて論破したところで、温暖化するとか、温暖化すると脅威である、という主張の確証度は、少しもあがらない。もちろん、懐疑的主張に説得性があれば、相対的に地球温暖化論の信憑性credibilityは低まる。
 地球温暖化論や地球温暖化脅威論を主張するものは、論より証拠(とみなし得るもの)を提出すべきである。しかし、気温データそのものを改竄したのではないかという疑いがある限り(むろん、全体の結論は変わらないとIPCCは主張する)、IPCCの報告書を読んでくださいと言われても、地球温暖化関連の主張の妥当性を求めるには、空しい努力である。その出発点から、科学的であるよりは政治的だったのだから、科学的議論をせずに、たとえば地域経済や政府財政の観点から問題を考えるのは、もっともである。
 たとえば、温暖化は歓迎できることである。温暖化の脅威をあまりにも大げさに騒ぎ立てたと思える。(ただし、気象システムの異常が起きているという定式化ならば、話は別。)

武田邦彦.2010.6.1(2010.5.20入手).エセ科学に踊らされる日本は「沈没」寸前.正論 2010/6: 106-119. 産経新聞社.

ニッチ概念の検討2/ニッチの定義

2010年05月21日 10時09分09秒 | 生態学
2010年5月21日-1
ニッチ概念の検討2/ニッチの定義

 Mahner & Bunge (1997: 181;訳書 229頁)の定義5.7は、ニッチを適応性に関連して、生物体について定義している。それによれば、或る生物体のニッチとは、

  或る生物体のニッチ =def その生物体について法則率的に可能な(つまりそれが属するタクソンについて特異的な)、(その生物体の)環境との結合関係のうちで、その生物体に対して正の生命価値を持つ結合関係である。(マーナ・ブーンゲ『生物哲学の基礎』: 229頁、の表現を改変)。

 Mahner & Bunge (1997)は、適応性adaptednessと適合性aptednessを分けて考えている。これは進化をどう捉えるかということと関連するが、この(一つの)利点は、逆説的に進化をきちんと捉えることができることである。
 この定義を採用すると、生物体のニッチは、生息場所habitatといった物を指示することにはならない(訳書 229頁)。ところが生態学者が生息場所という語で何を指示しているかもまた、多義的だったりする。その理由(あるいは原因)は、結局われわれは科学的営為において、なんらかの種類と程度において、一般的な命題を主張するからである。個別事例は、一般命題の一つの事例であり、そのように同定されることで、個別事例は或る概念体系において位置づけられ、意味を獲得する(人が獲得させる)。

 実際に、2010年5月21日のScience電子版にクレイグ・ペイターさんらによる論文が掲載されるという、やや?、あるいは、かなり?の「人工生命」についてニッチ概念を適用してみよう。しかし、その前にシステム的見地からの検討をしよう。環境もまた、システムを(外部的に!、ここが大問題)構成するからである。

種問題と家族的類似

2010年05月21日 00時00分35秒 | 生命生物生活哲学
2010年5月20日-1
種問題と家族的類似

Pigliucci, M. & Kaplan, J. 2006.11. Making Sense of Evolution: the Conceptual Foundations of Evolutionary Biology. vii+300pp. University of Chicago Press.

 この本の第9章(pp.207-226)は、「家族的類似〔性〕概念としての種:種問題の解決(解消)か? Species as family resemblance concepts: the (dis-)solution of the speices problems?」と題されている。

 著者が主張することは:
  1. 種問題は科学的な問題ではなく、むしろ経験的証拠〔根拠evidence〕によって決めることのできない哲学的問題である。
  2. 解決は、ヴィトゲンシュタインの「家族的類似」または集塊cluster概念を採用し、かつ、「種」をこのような概念の一例だと考えることにある。(Pigliucci & Kaplan 2006: 207)。

 種問題ということで、何を言おうとしているのかにもよるが、種タクソンの設定は科学的な問題であり、種の存在の位置づけ(たとえば形態形質の離散性discreteness)も、科学的な問題である。どう捉えるかについては、哲学的問題「でもある」とは言える。
 家族的類似は、種問題とは何の関係もない。なお、家族的類似は渡辺慧の「醜いアヒルの子の定理」にもとづく考察から、述語の取り方ないしは発見または構築の問題だと捉えられる。(また、NOT回路とNAND回路とNOR回路からの構成。ただし、「|」だけによる演算は、不可。結局はシステム的作用として考えなければならない。)また、プロトタイプや典型事例といったことも、タクソン学とは関係がない。

 家族間でたとえば顔が類似しており、そして類似性については推移律が成り立たない(『生物哲学の基礎』を見よ)から、そのような形質またはその表現としての述語だけを議論している限りは、それら個体間では共通性質を認められないだけのことである。家族はすべて、たとえばHomo sapiensという種に属する。種を家族的類似または集塊概念で捉えることは誤り。おそらく、系統汚染のたぐいだろう。あるいは、種を生物体の収集体〔集まりcollection〕と捉えることの誤りか。
 Pigliucci & Kaplan (2006)は、いわゆる種問題はダーウィンの『種の起源』以来進化生物学を悩ませたと言っているが、(個別の種タクサではなく、)種タクソンという概念なくしてダーウィン自身が曼脚類を種分類できたはずはない。

 Ruse (1969)は何処?

[R]
?Ruse, M. 1969. Definitions of species in biology. British Journal for the Philosophy of Science 20: 97-119.

幽霊の物質的検出

2010年05月19日 17時16分59秒 | 生命生物生活哲学
2010年5月19日-4
幽霊の物質的検出

 某大学院の2000年度入試問題に、
 1. 「幽霊」という現象は、一般的には自然科学の研究対象にされていない。なぜかについて考えを述べよ。
 2. 幽霊現象を生物学として研究するとしたら、どのようなアプローチが考えられるか、考えを述べよ。

というのがあったらしい。(自然)科学とは何か、生物学的アプローチとはどんなものかを問う、根元的で良い問題である。

 まず、幽霊現象という言い方から、では幽霊が存在するという仮定をまず採用し、個々の幽霊(個物)について想定される共通的性質、つまり定義的性質を想定する。
 ただし、性質といっても、観測者がいて述語として表現できるわけであり、また物体(物質体)が他の物体に作用した結果を観測することができる限りにおいて、われわれは対象物を検出できるわけであり、さらにそれは理論にも(全面的ではないが)依存する。要は、一つのシステム的構築体において、われわれは観測したり、理論化したりする。

 では、幽霊現象の存在を、われわれの心ではなく、身体の外に実在する、つまり客観的に存在するとした場合、やはりわれわれの検出装置(これも理論に依存)を検討しなければならない。また、観測条件をきちんと定めるという作業が必要である。

 「生物学として研究する」をどう解釈するか。うーむ。幽霊が生物である条件とはなんだろう。或る対象が生命を持つ物体である、とはどういうことか。「生命を持つ」という言い方は、生命がまるで何かの性質のように見えるが、状態として解釈しよう。
 すなわち、「生きている」という状態にある物体として。
 で、レヴェル構造を導入する。たとえば、人が生きているのは、細胞が生きていることのおかげであるとして、細胞ではない。死んだ人の身体の細胞は、しばし生きているだろう(観測によって確証できる)。逆に、手足を切り取っても、心臓を人工物に代えても、その人は少しは生きているだろう。要は、わたしという(たとえば意識の)同一性がわたしであるとしたら、その同一性をもたらすメカニズムを備えたシステムが、わたしそのものである(これも精確には問題があるが、ま、このへんで)か、わたしという現象をもたらしている。

 では、人が死んだら、その人が幽霊という物体または状態になることができるとしよう。検出するには、幽霊物体を定義し、同定しなければならない。あるいは、幽霊現象を同定できなければならない。あるいは、脳内にそのように錯覚する?ような状態を作成できるか、である。むむ。幽霊または幽霊現象の定義って、あるのだろうか? 人が死んだ後にできるもの、というのでは、把握困難。そういえば、死んだ後では、死ぬ前よりも体重が減少するというような話または本があったな。
 いわゆる幽霊スポットに行って、可視光線を主に捉える通常の写真と、紫外線カメラ写真(とりわけ数十ナノメートル波長のあたりはどうでしょう?)を、同一のところを、バシバシあちこちでとってみたらどうだろうか。すでにやられているのかな。

 口舌は、むなしい。論より証拠。見ることは、信じることだ。見ていない物は、見るまでは、無いと言えない。何らかの調査の対象領域の範囲としかじかの方法では、検出できませんでした、あるいは確証できませんでした、と言えるだけ。それだって、見落としやら、意地の悪いことに?調査するときに限り、お隠れする物体もあるかもしれない。「お前が調査を休んだ途端、あるいはビデオカメラを止めた途端に、そいつは姿を現わすかもしれんでぇ」。
 ……また、うっちゃり。

生態系「集成規則」

2010年05月19日 16時38分07秒 | 生態学
2010年5月19日-3
生態系「集成規則」ecosystem "assembly rules"

 ecosystem "assembly rules"は、生態系「集成規則」または、生態系「組み立て規則」と訳されよう。

 Lekevicius〔cは正しくは、cの上にv〕 (2009: 170右欄)によれば、ロシアでは、「全体論的(システム的)アプローチ」がいまでも流布しているとのことである。その生態学と進化生物学におけるロシア流パラダイムの核心は、
  「生態系だけが、生きている」、あるいは、
  「生命は、生態系(=栄養循環)の形でのみ、 無期限に存在できる」
と言う。そのパラダイムを代表する者(たとえば、Zavarazin 2000やLekevicius 2002)は、空きニッチを使っている。ただし、空きニッチという用語をときには、生態的自由免許 ecological free licenseという用語で置き換えたりする。

 Lekevicius (2002 :78) [Lekevicius 2009: 170rにより引用]によれば、生態系「集成規則」は、次のように定式化される。

  「生命出現のそもそもの瞬間以来、生態系と栄養循環が形成されるような、きわめて単純なメカニズムがあったはずである。なんらかの生物体の代謝の最終産物は、廃棄物となった。それはつまり、何者にも使われないが、潜在的に使用可能な資源である。このような空きニッチは、これらの資源を開拓することができるような生物体の進化を誘発した。その最終的結果は、廃棄物食者〔デトリタス食者〕の代謝の最終産物が、生産者にとっての主要な材料となったことである。同様に、生態的ピラミッドが形成されたはずである。すなわち、生産者は草食者の進化を誘発したし、草食者は一次捕食者の進化を誘発した、などなど、とつづき、ついには進化は、最上位に大型捕食者を持つ(知っての通りの)ピラミッドを産出したのである。」(Lekevicius 2009: 170r)。

 メカニズムを想定することは良いことだと思う。しかし、物語またはシナリオは、理論と呼ぶわけにいかない。大型捕食者がいない地域については、どう説明するのか? 絶滅したとすれば、なぜ生態系も縮退しなかった(たとえばピラミッドの構成数の縮小)のか、という問題に答えなければならない。しかしそもそも、潜在的に使用可能な資源があることは、生物体の進化を誘発する必要条件であっても、十分条件ではない。それに、「誘発する provoke」必要条件ではない場合もあるかもしれない。単なる可能性を、必然性にまで誇張してはならない。「因果性を証言している」なんて、とんでもない。

 ましかし、そういうわけで(上記の生態系「集成規則」)、空きニッチは多様化を刺激するだけでなく、その方向も決定するのだ、と言う。
  「この考えは、進化理論の要石として見ることができる。なぜなら、空きニッチのデータにもとづいて、多様化の結果を説明し、また少なくとも部分的に予測することは、それほど難しくないからである。」(Lekevicius 2009: 170r)。

 「生物体が出現する前には、なんらかの空きニッチまたは適応帯が存在した事実に注意されたい」と表の説明(Lekevicius 2009: 171)にある。生物体がいなければ、空きニッチも適応帯も、それらが生物体に関係する概念である限り、考えることが不可能である。空きニッチを実際に定義したり、或る環境が種〔に属する生物体〕で飽和していることを定めることは困難だということではなかったのか。


□ 文献 vacant niche/ref

*Herbold, B. & Moyle, P.B. 1986. Introduced species and vacant niches. American Naturalist 128: 751-760.

*Lekevicius, E. 2002. The Origin of Ecosystems by Means of Natural Selection. Institute of Ecology.

Lekevicius, E. 2009. Vacant niches in nature, ecology, and evolutionary theory: a mini-review. Ekologija 55: 165-174.

Rohde, K. 2008a. Vacant niches and the possible operation of natural laws in ecosystems. Rivista di Biologia / Biology Forum 101(1):13-28.

Rohde, K. 2008b. Natural laws, vacant niches and superorganisms. A response to Woodley. Rivista di Biologia / Biology Forum 101(3):340-346.

Woodley, M.A. 2006. Ecosystems as superorganisms: The neglected evolutionary implications. Frontier Perspectives 15: 31-34.

Woodley, M.A. 2007. On the possible operation of natural laws in ecosystems. Rivista di Biologia / Biology Forum 100(3):475-486.

Woodley, M.A. 2008. A response to Rhode: natural laws, vacant niches and superorganisms. Rivista di Biologia / Biology Forum 101(2):172-181.

螺旋状の不思議な光??

2010年05月19日 00時48分05秒 | 美術/絵画
2010年5月19日-2
螺旋状の不思議な光??

 「地球温暖化ビジネス」でGoogleと、
「クライメートゲート事件 ”地球温暖化”ビジネス」と題するページがあった。
http://vickywallst.blog15.fc2.com/blog-entry-809.html
 それによれば、国連気候変動枠組条約会議(COP15)がコペンハーゲンで行なわれた2009年12月19日は、世界中に寒波が到来したらしい(ハンセンは会議場での温暖化のプレゼンに暑い日をねらった)。それで、12月9日にノルウェーで目撃されて世界中で話題になった不思議な光が、COP15の開催日に突然襲った寒波の原因だったのではないのかとまで言われているらしい。
 その螺旋状の動きとそこから発せられたように見える螺旋的な青い光は、なかなか美しかった。Youtubeでは(たまたま行き当たったが)たとえば、
http://www.youtube.com/watch?v=Sof_QK1z4b4&feature=related
である。

 そういえば、英国に行って、crop circleを見たいな。本当に一夜にしてできるのか? それにしても、上空から写真撮影された模様は、美しい。
 そういえば、日曜日だったろうか、西北西の中空に細くニ日月?があり、そのちょうど真上に金星が張りついていた。奇妙というか、面白いというか。

ニッチ概念の検討1/空きニッチの定義

2010年05月19日 00時04分16秒 | 生態学
2010年5月19日-1
ニッチ概念の検討1/空きニッチの定義

 以下では、『種』をタクソンとして考えている。したがって、或る種とは、その種(つまり或る特定の分類カテゴリー。測定尺度は、名義またはカテゴリー尺度である)に属する生物体(の一部)のことである。ただし、以下での定義の著者たちは、そのように(深く)考えていないかもしれない。
 Elton流の、或る種の共同体のなかでの(たとえば食物連鎖における)位置という定義は、種または生物体にもとづく定義である。ただし共同体どうしを比較した場合は、つまり種を抽象的な空間配置において、欠落していると捉えることができる。この場合は、進化的時間スケールにまで、(あればの話だが)理論の射程は及ぶ。

 空きニッチという言い方は、もちろん生物体にもとづいた定義ではない。ニッチを環境の性質と考える場合に、空きニッチは可能になる。すなわち、資源が利用しつくされていないときである(これは、ニッチを資源利用と同一視しているか、資源利用をニッチの指標と考えていることになる。→もう少し議論を詰めるべし)。
 このように捉えた場合にも、幾多の問題があるが、先に進むために、棚上げする。まず、定義を調べてみよう。なお、これらの定義はさしあたり、Lekevicius (2009: 165)によっている。


 Lawton (1984)による定義:
  空きニッチ =def 或る領域にいるどの種も良く適応していない、進化的に新奇な環境条件の一揃い。

 Rhode (2005)による定義:
  空きニッチ =def 生態系または生息場所において、或る特定の時点で存在するよりも、より多くの種が存在できるであろう可能性。
   (多くの可能性が、そこに存在する種によって使われていないから。)

 Moodley (2006: 30)による定義:
  空きニッチ =def 資源勾配の一定の領域に沿っての、種の不在。
   (空きニッチは、共同体水準〔levelという語だが、創発性または制御階層でのレヴェルではないだろう。ゆえに、あいまいに水準と訳しておく〕において、或る種の形質を固定する潜在性を持ち、そして、周囲の生態とのより大きな統合を有利とする方向に、或る種の進化的軌跡に影響を与える。)〔進化的時間スケールになると、とたんに構築概念たちを錯綜させるんだねぇ。〕

Lawton 1984
Lekevicius 2009
Moodley 2006
Rhode 2005

分類とパラディグマ(範例)/範型的混同

2010年05月18日 12時43分30秒 | 生命生物生活哲学
2010年5月18日-3
分類とパラディグマ(範例)/範型的混同

 渡辺慧『認識とパタン』に、パラディグマ的象徴という節がある。われわれが物事を捉えるときの基本的用語のうちでも、パタンまたはパターンは、最も基本的なものでである。では、パターン(pattern;様式、模様、型、型紙、模範、手本、図案)とはなにか?
 仏語のpatronは、英語のpatronとpatternになった。パトロンとは、守護者であり、お手本になるもので、型紙つまりパタンも一つのお手本であり、典型であり、われわれはそれに倣って次のものを作るのである(渡辺慧 1978: 10-11頁)。
 その後、中心とか主人という意味は消えていって、「それを倣った多数の実例の集団的な観念になった」(渡辺慧 1978: 11頁)。「現在では、……一つの類似なものの集団ということが、パタンという概念の核心になりました」(渡辺慧 1978: 11頁)。したがって、「或る集団[ルビ:クラス]の一員としての個体」(渡辺慧 1978: 11頁)といってよかろうという。

  「「これは何か」という問に対する答になるものはパタンだともいえましょう。それはそういう問に対する答として、普通、類概念をもってくるからです。「猫です」……とかいう答は、まさにその個体の属するクラスを指定していることになります」(渡辺慧 1978: 12頁)。

 この記述は、まさにタクソン学の根本を言い当てている。それはわれわれの概念作用(思考作用の一つ)であり、言語は基本的に類概念の体系である。われわれは世界を、類的個体(概念)として分節化して捉える。

  「パタンを認めるということは、すべての思考の共通地盤にある、最も基本的な心の働きだということがわかります」(渡辺慧 1978: 15頁)。

 パタン認識の二種:
  1. 類の創造 〔=タクソン新設〕
  2. 既成の分類の再認識 recognition 〔同定と分類体系の改訂〕

 概念の外延的定義なるものは実行不可能である。
  「犬という概念を定義するのに、すべての犬、過去現在未来に生きていた、または生きている、または生きるであろう犬のすべてを数えあげなければなりません。……これではパタン認識の役には立ちません」(渡辺慧 1978: 27-28頁)。

 したがって、生物の系統(再)構築なぞしても、科学的認識には何の役にも立たない。空想小説を楽しむといった効用はあるかもしれないが。分岐分類cladistic classificationでは、偶蹄類や爬虫類は側系統paraphylyだからといって、タクソンとして認めない。やれやれ。
 んじゃ、地球人のごく一部が火星に移住し、その子孫が地球人とは異なる種に属する生物体と同定されるようになったとしよう。するとその時点で、われわれ地球人は、種的に共通な形態的形質や生理的形質がなんら変わらなくても、側系統になり、分岐分類ではタクソンとして認定しなくなる。池田清彦『分類という思想』や馬渡峻輔『動物分類学の論理』が指摘する通りである。Michael Ruseも同様に、分類の根本を指摘している(文献失念)。
 むろん、分岐分類者はこの不都合をさけるために、生物体の集合(たとえば『個体群 population』、これは生物体を種的に同定できてから構築できる概念である。マーナ・ブーンゲ『生物哲学の基礎』を見よ)は問題とせず、種だけを問題とする。(脱線した。)

 しかしまた、概念の内包的定義は、困難であると渡辺慧は言う。しかし実践的には問題無い。実際、生物分類学研究者(biotaxonomist、biological taxonomist)は、検索表を作成して同定可能とする。そしてタクソンを創設することもやっている。

  「実際、お母さんが子供に「犬」とは何かを教えるときにどうするでしょうか。それは実に簡単で、実際の動物を見せて、「これは犬ですよ」「これは猿ですよ」「これも犬ですよ」と二、三回繰り返せばそれでよいのです。その次に一つの動物を見せれば、子供は間違いなくそれが犬だかどうだかを言い当てるでしょう。……大人でもたいていの概念は、実例、もっともっともらしくいえば、「範例」(パラダイム=paradigm)を通して学ぶのであって、内包だとか外延などなどは学者の無用な産物にすぎません」(渡辺慧 1978: 29頁)。

 しかし範例を通して学ぶことができるのは、すでに分類体系ができているからである。分類学者は神様である。レッテル貼りは、なかなか効果がある。(だから同定理由、つまり相手の言い分を尋ねよう。)
 われわれは定義することから物事を始め(世界を構築し)、そのようにしてすべての認識は始まる。そして定義を改訂し、定義された事項間の関係を定義し、再定義つまり改訂する。

 (探しあぐねて脱線ばかり?)結局、「この本の最初の章で……一応「パタンとは類の一員としての個体」であると申しました」(渡辺慧 1978: 179頁)という箇所がどこなのかわからない。

  「パタンが個物であるか類であるかという混乱は、実はプラトンがすでに気がついていたのです。プラトン流の形相、エイドスすなわちイデアというのは一方では類を規定するものでありますが、一方それはイデアの世界に実在する個物でもありました。その後者の見解を取れば、n個の類のメンバーがあるとすれば、形相はn個の上に立つが、やはりそれは一つのものであるから、(n+1)個の集合を形成します。そうすると、その(n+1)個のメンバーを持つ類のまた形相が必要になる。そういうことを繰り返し行〔な〕えば、限りなく形相が必要になって、これは実在とはいえなくなります。」(渡辺慧 1978: 180頁)。

 ならば、階層的に考えればよい(集合論では階型type)し、無限でもいいじゃないか。現実は無限かもしれないし。問題は、制御の上位下位を定義することで、レベルlevelの階層hierarchy(入れ子構造nested structureではない)を定めることである。層はstratumとしておこう。layerという語もあるな。


[W]
渡辺慧.1978.1.認識とパタン.v+191+5pp.岩波書店.〔380円〕