黒鉄重工

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【ノンスケール】RMSタイタニック【ギャラリー】

2024-09-14 22:54:01 | 模型ギャラリー
キット:ロイヤルメールシップ タイタニック(モンモデル)

タイタニックは1911年に進水したイギリス、ホワイト・スター・ラインの大洋航路船です。1912年処女航海中の氷山との衝突で沈没した悲劇的な事故により、極めて知名度の高い客船となってしまいました。あとは1997年の映画「タイタニック」のヒットもありましょう。
何年か前に「タイタニック」が地上波で放送されたのを見てからプラモデルを作りたくなったので、次の日に買いに行ってその日に作り始めました。

 

タイタニックのプラモデルはいくつもあります。お店に買いに行った先にあったのがモンモデルのデフォルメキットでした。すぐに完成させるのにもちょうどいいと思い、これにしました。


成形色にて色分け済みなので、船体などは塗装しないまま組み立てています。塗装は煙突、マスト、甲板、スクリューなど色の足りないところや塗り替えるほうがいいと思ったところだけに留めています。


船体のストライプとスクリューは金で塗装するほうが見栄えがいいです。


タイタニックの一番うしろ4本目の煙突はダミーという逸話があります。煙突が多いほど美しくて高性能という価値観があったみたいです。このキットでは4本目の煙突の排気口だけ形状が変わっていて、デフォルメキットと言えど芸が細かいです。


ちなみにRMSというのは、ロイヤル・メール・シップ (Royal Mail Ship) のことで、イギリスの郵便事業者ロイヤル・メールとの契約で郵便物輸送をしていた船に付けられる接頭辞です。





以上、RMSタイタニックでした。


 
 
 

【モンモデル】RMSタイタニック号【プラモデル製作】

2024-09-12 22:47:56 | 艦船模型製作記

何年も前ですが土曜洋画劇場で映画「タイタニック」(1997年)の放送があったんです。久しぶりに見たので盛り上がってしまって、タイタニック号のプラモデルを作りたくなってしまいました。そういえばいつも通っている模型店にあったなあと思い出して、翌日買いにいって作ることにしました。
タイタニックは極めて知名度の高いモチーフであるので、プラモデルもいくつもあります。これは中国のモンモデルが発売しているタイタニックです。ハセガワのたまごひこーきやバンダイのSDガンダムのような、丸っこくデフォルメされた形状です。まあ、初心者向けということですね。

 
 

成形品は色分けされていて、組み立てはスナップフィットです。


船体の部品ですねー。


煙突なんかはスライド金型で抜いていて、一体化されています。
色分けされていますしさくっと完成させたいので、成形色を活かしながら組み立てようと思います。


基本的に塗らないよといったそばからですが、タイタニックの煙突はオレンジ派なのでここは塗ります。


舷窓も華やかな満艦飾(?)を出すために黄色で塗ってみました。
はみ出したところは溶剤で拭き取っちゃえばOK。


甲板はタンで塗ります。


船体は鉄板を貼り合わせて建造された形状がうまいぐあいに再現されていて程よい密度感です。
スクリューは金色で塗ります。


金属線で張線も張ります。お手軽に作るはずが思わず手が込んできてしまいました。


線の張り方はパッケージを参考にしました。


そんなこんなで完成です。自分のやりたいところまで好きにやればいいのがこういうキットのいいところです。


張線のおかげでデフォルメキットに似合わず密度を上げることができました。やったね。

完成品はギャラリーにて。

 
 
 

九州project 2 ~Phantom in Kyushu. その18【2018/9/19~23】

2024-09-06 21:12:40 | 旅行・イベント記
2018年9月21日(金) 14時48分
鹿児島県姶良郡湧水町 JR吉松駅
肥薩線の観光列車「いさぶろう」号の終点、吉松駅へ着きました。さっきは宮崎県にいましたがすぐに抜けてしまい、もう鹿児島県に入ってしまいました。
肥薩線はこの先も隼人駅まで延びている他、吉都線が乗り入れています。矢岳越えの南側の拠点としてかつては機関区もある大きな駅でした。


吉松駅では列車を乗り換えるだけですが、待ち時間の間にどうしても見ておきたかった物が駅前にあるので、急いで一旦改札の外へ。それとは、駅前に保存されているC55形52号機です。実は吉松駅にはかつて2010(平成22)年に乗り換えで立ち寄ったことがありました。その時もC55を見に行ったのですが、すでに夜中で辺りも暗かったため実物は見れたものの写真撮影はできずに悔しい思いをしました。そのリベンジができる日が来たのです。

C55形は、1935(昭和10)年から1937(昭和12)年にかけて62機製造された亜幹線用のテンダー蒸気機関車です。一時、流線型の覆いを装着してスピード野郎を狙っていた頃もありました。あの頃は若かった・・・。
C51の後継機で、ひとつ前のC54が攻めた設計をした反省が取り入れられています。その割に生産数が少ないのは、早々にC57の生産に切り替えたからです。
スタイルでいえば鉄道省の制式機の中ではスマートさと力強さをうまく兼ね備えた素晴らしい形状で、一番好きです(流線型のアレを除く)。


あの時も感じましたが、ここのC55は状態が良いのです。今もほぼ変わらぬ状態を保っているのには当時以上に感動します。再び会うことができて本当良かった。とはいえ乗り換え時間短いのでやや慌てながらの観察です。


これの説明看板にも書かれている通り、スポーク車輪が大変魅力的です。さらにロッドには油が差されていて地金が出ています。ロッドがこういう状態だとよく手入れされている機関車だとわかる指標のひとつとなります。

ちなみに、おなじいさぶろう号に乗っていた乗客の1組がこのC55を見て「C55と比べると矢岳駅のD51はぼろぼろだね」みたいなことをつぶやいていました。私は矢岳のD51も状態は良好だと見受けましたが、塗装の表面状態は確かに荒れていました。そこがその乗客たちの評価の分かれ目だったと思います。
これは結構示唆に富んでいると思っていて、大抵の場合街や公園の保存車両の評価を下すのは鉄道オタクではない行政担当者や市民であるので、見た目の状態は案外重要なのです。構造が別に問題なく再塗装すれば元の姿を取り戻すような車両でも、見た目が悪いばかりに廃棄処分されてしまう事例は挙げられるでしょう。逆にとれば、とりあえず見てくれさえ良ければ素人の目は誤魔化すことができるとも言えます。まずは見た目をきれいにして、その後目に見えにくい部分の問題を直していけばいいのかもしれないですね。


この個体は1937(昭和12)年3月14日、汽車会社製。初めは小郡機関区に配置され、糸崎、鳥栖、大分、宮崎、若松、吉松、鹿児島を転々として1974(昭和49)年4月26日廃車。翌年1月14日に吉松まで無火回送されて、ここに静態保存されたのだと思います。
設置理由は書かれていませんでしたが、いつもの教育目的での国鉄からの無償貸与だと思います。機関区のある町でしたから、吉松に在籍歴のある機体を選んできたのはグッドですね。C55というのも渋くて良いです。吉松在籍時は肥薩線の吉松~西鹿児島と吉都線全線で運用されていました。


スタイル抜群です、はい。トミックスのNゲージが出たときは買いましたからね~。


キャブにも入れます。どのハンドルがどういう役割をしているのかが分かり、ありがたいです。計器類も揃っているみたいで、これすごいね。


石炭投入口の蓋が赤いのも現役の再現?
とにかく、吉松駅のC55は必見です。ぜひ行ってみよう。


そろそろ時間なので急ぎ吉松駅に戻ります。駅舎はこんな感じで地方拠点の鉄筋コンクリート造の駅舎を地で行っています。


改札内へ再入場して跨線橋を渡っていると、次に乗る列車特急「はやとの風」が出発待ちでした。発車まで残り数分なので駆け足です。


「いさぶろう・しんぺい」と「はやとの風」それぞれのキハ47形が並んでいる光景です。こういうのがいいんですよ、こういうのが。


第29走者:JR肥薩線・日豊本線特急「はやとの風」3号鹿児島中央行(キハ40系)吉松15:01→鹿児島中央16:44
それでは「はやとの風」に乗ります。2004(平成16)年、九州新幹線の部分開業時に肥薩線用に、一般用のキハ40系を観光用に大改造して特急列車用に仕立て上げてできた観光特急です。それまでの観光列車は快速列車主体でしたが、特急扱いにして特急料金を巻き上げるようになったのはこのあたりからだったような記憶です。知らんけど。
「はやとの風」はすでに走っておらず、車両は西九州新幹線開業に伴う観光列車のために召し上げられてしまいました。今の肥薩線は線路は不通だし観光列車も走らないし、一時期よりもさみしくなってしまいました。


特急料金を取るので、座席は回転式リクライニングシートです。車体の改造は例によって水戸岡鋭治によるもの。木目調の内装にこの木材の薄い座席です。やっぱり枕や座布団が薄いんですよね。


とはいえ、車内に入った時に感じる高揚感とか非日常感とかそういう演出はうまいんだよなと。


最初の停車駅、大隅横川駅に停まりました。約5分間停車するので外に出てみます。


反対側に吉松行のキハ47形が停まっていました。


大隅横川駅の駅舎。やはりこの地域は明治時代に建てられた駅舎の宝庫でありますな。


ほおずきが干されていました。こういうのは季節性や人間の営みを感じさせるので、駅舎が生きているものと認識できるのでいいですね。


三和土の床、角材の柱、土壁と、間取りは駅舎のそれですがそれよりも古民家の土間を感じさせる内装です。


大隅横川駅は1903(明治36)年開業で、駅舎は開業時のものが現存しています。太平洋戦争中は米軍の空襲や機銃掃射にも見舞われましたが生き残っている幸運な駅舎なのです。
5分間だけではちっとも堪能できませんでした。またゆっくりと来ます。

というところで今日はここまで。


その19へ→



 
 
 

九州project 2 ~Phantom in Kyushu. その17【2018/9/19~23】

2024-09-05 06:46:00 | 旅行・イベント記
JR肥薩線の観光列車「いさぶろう・しんぺい」の「いさぶろう」の方に乗って人吉駅へ向かっています。
各駅停車の観光列車なので、大畑駅の次は矢岳駅へ停まります。ここも当時物の駅舎が残っています。


広い待合室ですねー。


国鉄時代に建てられた駅舎とはなんとなく造りが違うような気がします。


さて矢岳駅といえば、駅の隣に建っている「人吉市SL展示館」です。ここにはD51形170号機が静態保存されています。いさぶろう号の停車中に合わせてここを開けてくれていて、停車時間の間に見学することができます。
なんでこんなところに・・・という感じもします。ちなみに、矢岳駅へ繋がる道路は隘路なので鉄道車両の陸送は難しそうです。なので矢岳駅までD51を走らせてきて、クレーンか何かでここへ移動させたのだと思います。


D51形170号機。1939(昭和14)年製造。九州に来たのは1945(昭和20)年で、そこから1972(昭和47)年の廃車まで熊本周辺で運用されました。
廃車後は人吉市が国鉄から無償貸与を受けて矢岳駅で展示。なので施設の管理運営は人吉市ですが、国鉄OBの方々がよく手入れをしてくれているので良好な状態を保っています。
ちなみにいまはD51だけですが、かつては8620形58654号機も隣に静態保存されていました。そう、SL人吉号として走っているハチロクと同じです。はじめここに保存されていた物をJR九州が胴体復活させるために引き取ったのです。
今は58654号機は現役を退いてしまいました。機体は人吉市に譲渡されて元の鞘に収まる形となりました。人吉駅の機関庫に置かれるようですが、かつては同じ屋根の下で過ごしていたデゴイチとハチロクが離れ離れなのはなんだかもどかしい感じがしますね。


良好な状態を保っていると評判のデゴイチですが、ちょっと表面が荒れているのが気になります。足回りには油が差されていて、見た目ほど悪いようには見えませんでした。でも時期は不明ながら今は国鉄OBの手入れが入らなくなった噂もあります。
ここの機関車に限らず、国鉄OBが手入れしていた蒸気機関車はOBの高齢化でなり手不足に陥っているような物が増えている印象があります。もちろん手入れの継承ができているところもありますので、そういう機関車が増えてくれるといいですね。


駅へ戻ってきました。1面1線ホームですが右手には平場が広がっていて、往時の構内はもっと賑わっていたのが想像できます。


水飲み場。これは近年のものっぽいですかねえ。
標高536.9mは肥薩線内最高地点で、人吉駅からえっちらおっちら登ってきた列車はここを境に下り勾配になります。


朝顔形手水鉢。奥には貨物ホームもあります。SL時代の香りです。


矢岳駅を出発するとすぐに矢岳第一トンネルに入ります。いわゆる矢岳越えの区間で、トンネル入口のあたりで熊本県から宮崎県へ入ります。矢岳第一トンネルは2,000mを超える長さで地盤も弱く、難工事だったと言われています。「いさぶろう・しんぺい」号の名前は、矢岳第一トンネルの両側に掲げられている扁額に揮毫した山県伊三郎、後藤新平に由来するのです。
矢岳第一トンネルを抜けると、日本三大車窓のひとつとして知られる矢岳越えの景色が広がります。雨も深々と降る天気だったので手前しか見えませんでしたけど・・・。次の宿題にしようと思っていますが、肥薩線は不通になってしまいました。また乗れる日はくるでしょうか。


最期の途中駅、真幸駅が見えてきました。ここもスイッチバック駅です。駅構内がカーブを描いているあたり、平地の確保に苦労したと感じられます。


真幸駅に着きました。


ここも広い構内付き駅舎です。


のんびりしていていいです。


真幸駅というのは縁起の良い字をしているので人気があるようです。みんな自動車で来るんですけどねー。


待合室はちょっと狭い。


待合室にはねこちゃんが住んでいました。


漆色のキハ47は案外矢岳の新緑と合っていて、いい景色を作り出しています。車両転用に伴ってこの列車が無くなってしまったのは惜しいですね。
では、終点人吉駅へ向けてラストスパートです。

というところで今日はここまで。


その18へ→



北米project 5 ~How do you like Canada? その48【2016/6/15~22】

2024-09-01 21:18:30 | 旅行・イベント記
カナダ航空宇宙博物館の続きです。引き続きブッシュプレーンを見ていきますよ。
これはユンカース W 34f/fi (Junkers W 34f/fi) です。1926年初飛行。ドイツ製ですね。
定員8名(うち乗務員2名)の軽旅客機で、安定した飛行性能と高い頑丈さがブッシュプレーンに適しており、1930年代のブッシュプレーンの最高峰と評価の高い機体です。ただし全金属製の機体とドイツの重い関税のため機体価格が高く、カナダに輸入されたのは9機だけでした。
この個体は1931年製で、翌年カナディアン航空に納品。何度か所有者を変えたあと、最終的にカナディアン航空創業者婦人のもとに行き着きました。1962年に当館へ寄贈されています。このときブリティッシュコロンビア州から当館まで自力で最終飛行してやってきています。博物館入りするために自力飛行してやってくるというのは、こっちでは珍しいことではないですね。たぶん陸上輸送のほうがお金がかかりそう、というのもあります。



当時のユンカース機らしいコルゲートの入った全金属製ボディです。このボディを見たのは初めてだったかも?ちょっと感動しますよね。ブッシュプレーンのはずですが低翼機です。たぶん最初からブッシュプレーンとして開発されていなかったからだと思いますが・・・。
ちなみに機体の周りには小道具が置かれていて、ブッシュプレーンとはなんぞやという演出に機体ともども使われています。


ユンカースで運ぶんだろう物資ですね。この時代に段ボール箱は無いので、当然木箱です。こういうのもあって当時材木の需要は高かったわけです。


サムソン・モデルMというトラクターです。物資をここまで運んできたのかな?


機体は何をされているかと言うと、フロートの横についている車輪を外しているご様子です。そして、その横にあるスキー板へ履き替えようとしているみたいです。
車輪を浮かして取り外すためにホイストで機体を吊り上げています。


エンジンのある機体前部が重心近くなので、そこを持ち上げるほうが良いということでしょう。


車輪を取り替えているパイロットのジョー(仮名)です。一人でも交換作業ができるのが汎用性の高さに繋がっているのだ、という展示なんでしょうかの。


横に置いてあるスキー板です。これを履けば雪原で離着陸できるのです。というか冬季だとカナダ北部の辺境の湖は全面結氷するでしょうから、離着水できないんだと思います。


何年もの間ず~っと機体の横で「車輪が外れない・・・」と困って固まっているジョーくん(仮名)。飛び立てる日は来るのか。いや来ない。


フェアチャイルドFC-2W-2 (Fairchild FC-2W-2) です。1926年初飛行。
アメリカのフェアチャイルド社が航空測量用に開発した7名乗りの多用途機です。カナダ北部の遠隔地での運用にも適していて、1920~1930年代のカナダ開拓に重宝されました。カナダ空軍でも写真調査と連絡用に使われていました。
この個体は1928年製で、1940年代初めまで航空測量に使われていました。引退後はブローカーの手により保管され、その会社の創業者によって当館に寄贈されて今に至ります。
塗装はカナディアン・トランスコンチネンタル航空の形態ですが、この個体の経歴には無いはずです。


主翼は根本で折りたたむことができます。これにより小さな納屋に格納するなどが可能です。北極圏での運用では、翼を畳んで防氷シートで覆うことがあったそうな。


スティンソンSRリライアント (Stinson SR Reliant) です。1933年初飛行。
アメリカのスティンソン社で開発された4~5名乗りの多用途機。190機くらい生産されたんだそうな。
カナダでの運用実績はあまり無いそうで・・・。この個体は1933年製でウィリアム・リアの個人所有でした。ちなみにこの人がビジネスジェットのリアジェットの創設者となります。胴体の後ろ側にジェットエンジンを搭載しているからリアジェット・・・ではなくて、人名が由来なんですよね。英語の綴りを見ればすぐ分かる話なんですが、勘違いしやすいです。
その後1953年にI・I・ハンドバーグに購入されるまで幾人もの所有者の間を渡り歩き、ハンドバーグによりカナダの登録番号を得ました。これがカナダの登録番号を持った2機目のリライアントです。1963年にノースランド航空が購入してこの時に内外装を色々改造されたようです。
最後は1983年にアキーラ航空機修理社がこの機を復元して、博物館に売却したそうな。


樹体に加えて小道具が置かれていて、情景展示になっています。整備中のご様子。エンジンカウルは外された状態です。


機体に積み込む貨物もあります。


1930年代になると機体も金属化されているようです。後年の改造によるものかもしれませんけど・・・。


デ・ハビランド・カナダDHC-2ビーバー (De Havilland Canada DHC-2 Beaver) です。1947年初飛行。
ご存知、カナダの産んだ名作です。カナダで開発されたブッシュプレーンとしては初めての全金属製です。比較的重いペイロードでも発揮される短距離離着陸性能と陸上、水上、雪上で運用可能な汎用性の高さが魅力です。
1968年まで長期間製造され、製造数は1,600機以上と大ヒットでした。そのうち大半はアメリカ軍の発注でしたが。今も現役機が多数飛んでいますね。
この個体は1,600機いるビーバーの中で最初に製造された初号機です。カナダでこういう初号機が博物館で保存されている例は意外と無いんですよね。初めてかもしれないです。


機体は水上機形態で展示されています。フロートの後ろには水上タキシング中に方向を変えられるように舵が付いています。


フロートの脚と胴体はこんな感じで繋がっています。意外と細いなっていう。


尾輪の接続穴。


尾部。このくらいの小型機が好きですね。矩形断面の胴体は貨物を積むのに適していそうなのです。
ビーバーに乗ったことはないですが、撮影では何度も見かけている機体なので、ここで初号機に会うことができて嬉しかったです。

というところで今日はここまで。


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