白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー146

2020年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム
ミニョンが放り込まれた刑務所の中の光景を眺めやりつつ突然ジュネが語り出す。

「この物語のなかでは、看守たちにも彼らなりの役柄がある。全員馬鹿ではないが、全員がもっているのは自分たちの演じているゲームに対する純然たる無関心である。彼らは自分たちの職務の美しさを何も理解していない」(ジュネ「花のノートルダム・P.303」河出文庫)

差し当たりジュネは「若くて美しい看守と若くて美しい囚人との出会い」について述べたがっている。しかしその主題はこれまで取り上げてきたすべてのジュネ作品において十分に語られている。その都度触れてきたので先を急ぎたい。本来ならデビュー作である「花のノートルダム」で触れるべきが妥当なのかもしれない。しかしそうしないのは「泥棒日記」で明らかにされているようにジュネは殺人者の逆説についての理解がまだ不十分な時期だったことに理由がある。殺人は殺人者を神格化してしまうという逆説についての理解。その後少しずつ理解の深まりとともに作品の内容もデビュー作とは異なる指向性を帯びつつ修正されていく。「泥棒日記」で明確化されたのは「泥棒、裏切り者、性倒錯者」としての等身大のジュネ自身である。多くの小説家がそうであるようにジュネもまた書くことによって自分を知る。だからといってジュネの場合、作品ごとに作風が変わっていくという一般的な小説家の変化を現わしているわけではない。ジュネに「泥棒、裏切り者、性倒錯者」としての自覚はあっても「花のノートルダム」では殺人者としての志向性をも「泥棒、裏切り者、性倒錯者」の系列の中で等価関係に置いて謳歌したがっている点が顕著に見られる。その意味でジュネは自分を巧みになおかつ慎重に測定し作者としての自分自身を鮮明に位置づけることができているとは言いがたい地点にいるからである。もっとも、「花のノートルダム」を見れば小説家として未熟でないことは文章内容ともに確実だといえよう。けれども、他のどの小説家でもないほかならぬジュネ《としては》安易に走った行為だったかもしれないという疑念は作者である以上どこまでも付きまとって離れない。ジュネが避けるべきは犯罪者であるなしに関係なくあらゆるものの神格化である。にもかかわらず「花のノートルダム」ではその点で不用意な記述が紛れ込んでいる。読者としても決して並列的に並べ立てることのできない一つの行為を等価関係に置いてしまうのはどこかジュネ的でないのではという違和感を受けなくもない。だが作品「葬儀」、そして「ブレストの乱暴者」以降、作者としての認識は決定的に変化した。それがはっきり自覚的に述べられるのは「泥棒日記」においてである。

「殺人は地下の汚醜の世界に到達するための最も効果のある方法ではない。それどころか、それを遂行した犯罪者は、流された血や、いや何時(なんどき)その首を切り落とされるかわからないという彼の肉体が置かれている不断の危険(殺人者は後退する、しかし彼の後退は上昇的なのだ)、そして彼が人に及ぼす魅力ーーーなぜなら人々は彼がこのようにはっきりと生命の法則に対立する人間であるので、一般に最も容易に想像される、最も強大な力の諸属性を備えているものと推定するからーーーなどによって、人々から蔑(さげす)みを受けることがないのだ。他の罪悪のほうがそれを犯した人間を卑(いや)しめ堕(おと)す。たとえば、盗み、物乞い、裏切り、背信、等であり、これらのことを犯すことをわたしは選んだ」(ジュネ「泥棒日記・P.150」新潮文庫)

その意味で「ジュネは泥棒、裏切り者、性倒錯者《として》書く」というサルトルの有名な言葉が通用するのは、少なくとも「葬儀」以降のジュネ作品の中でであるだろう。市民社会からの否定者あるいは市民社会に対する否定者を逆に大いに肯定することで「汚穢復権」への鉄扉をこじ開けるというジュネ特有の小説作法。その方法では市民社会から真逆の位置を獲得することで逆に神格化されてしまう殺人者を「泥棒、裏切り者、性倒錯者」の系列と等価関係に置くわけにはいかない。実際、ジュネ自身が殺人者としてヨーロッパ全土にその名を轟かせるような有名人ではなかったということもある。その意味でジュネが犯してきた犯罪はどれも冒険的でありながら同時に陳腐なものばかりでしかなかったわけだが、ジュネはその陳腐さの中に自分自身を発見する。それは殺人者のようにマスコミを賑わせて慄(おのの)かせ神格化させてしまうことがなく、逆に世間一般から蔑視され唾棄され無視され放置され、ジュネとその仲間たちを最も「卑(いや)しめ堕(おと)す」高貴な陳腐さだからである。決定的陳腐さ。陳腐以上のものになることができないという悲劇的なまでに動かしがたい高貴さ。それを可能にする技術もまた高貴なものとして重要だろう。しかもそれは連日連夜絶え間なく実行され再生産される。日々記録を更新していく再生産であるにもかかわらず大量生産/大量消費によって量から質への転化を伴わない純然たる汚辱の堆積である。その卑劣ぶりによって誰からも神格化されることがない「泥棒、裏切り者、性倒錯者」《としての》ジュネ特有の「たくらみ」。注意深い言語化の過程でその快感を見出したジュネはようやく自分が刑務所行きを繰り返していた頃から持っていた「詩人《としての》」ジュネ的感性を思う存分発揮することができるようになった。しかしここではまだ繭(まゆ)に包み込まれたジュネが語っている。それでもなおフェチの系列の中に身振り仕ぐさの変種としての「制服」が上げられている点は後のジュネ作品でも反復される重要な要素の一つとして無視できない。

「少し前から、彼らは濃紺の制服を着ているが、それは航空兵の制服の正確なコピーであり、もし彼らが高貴な魂をもっているなら、彼らは英雄のカリカチュアであることを恥じていると思う。彼らは、天井のガラス屋根を突き破って、空から監獄に落ちてきた飛行士たちなのだ。彼らは監獄へ脱走したのである」(ジュネ「花のノートルダム・P.303」河出文庫)

刑務所の看守の制服。それは天上世界の空中戦から名誉の墜落を遂げた脱走兵の「正装」(スーツ)となったのだ。墜落あるいは脱走。その意味でいえば囚人たちの側が「先輩」にあたる。だが囚人たちの中でも最も屈強な犯罪者はともすれば隙をうかがって看守の男性器を口一杯に頬張り絶頂の手前まで膨張させることを夢見る。たくましい看守の眼前に自分の尻を突き出し刺し貫かれる。ところがそのときこそ囚人が密室に燦爛たる音楽を降らせるまたとない瞬間なのだ。なぜなら、たくましい看守の男性器からこらえきれず噴出される奔騰しきった精液は囚人の尻の穴を通じて間違いなく囚人の側に吸い込まれ、看守から囚人への「力の移動」を成功させるからである。囚人はそのぶん看守からありったけの力を吸い込み奪い取り、要するに獄中にありながら行われる窃盗に成功し優位に立つ。
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さて、アルトー。シグリの儀式を終えて。アルトーは認識しようと求める。何か「まだ別のものが、《原理的なもの》が隠れているという印象」を受ける。

「しかし何よりもまず、すべての上方に、彼方に、回帰してくる印象があった。これらすべての背後に、これらすべて以上に、そして彼方に、まだ別のものが、《原理的なもの》が隠れているという印象が」(アルトー『タラウマラ・P.78』河出文庫)

追求していくときりがない。アルトーの時代にはもうほとんどすべての植物は分析されており、人間にとってどの植物がどのような作用を及ぼすか、その作用機序はどのように構成されているか、すでに解明されていた。ゆえにメキシコのタラウマラ族についてはペヨトル栽培の禁止という法律が施行され、アルトーがメキシコを訪れた頃には、ペヨトル自体どんどん姿を消していた。欧米列強は国家にとって危険となり得る可能性を有するありとあらゆる物質をすでに踏破した後だった。タラウマラの場合も例外でなかったというだけのことだ。とはいえ、国家にとって何が危険かという意味は押さえておこう。薬物使用によって錯乱者が出るということが危険なのではない。少数民族であろうとなかろうと一旦自分たちの支配下に置いた人間が労働力商品として売れなくなることが国家にとって危険なのである。社会復帰困難者のための社会福祉政策費の大規模化が危険なのである。労働力商品が上手く回転しないと剰余価値は生まれなくなってしまう。とりわけ大手メーカーは剰余価値発生の余地を創設することで資本として成立している。少数民族が薬物乱用によって絶滅してもしなくても大手メーカーにとっては痛くも痒くもない。だが、目の前にいる安い労働力商品としての少数民族をみすみす取り逃してしまうことには耐えられない。タラウマラの場合、資本ならびに国家がペヨトル畑を焼き払ったのは少数民族の薬物依存症発症を阻止することだが、その目的は二つある。第一に、欧米列強のための労働力商品へと編入された少数民族にとって薬物使用時間は余りにももったいないためペヨトル摂取から「守る」ということ。第二に、欧米列強のための労働力商品へと編入された少数民族がドラッグ使用のために社会復帰困難者となると社会福祉政策費が増大してしまうことから、社会福祉政策費をできる限り低く抑制するようあらかじめ薬物研究を率先させたためである。第一にも第二にも薬物使用による死者数の増加を憂いたのではなく、安い労働力商品として剰余価値獲得に貢献させようとしたのだと言うほかない。

ところが高度テクノロジーの爆発的発展によるネット社会の世界化は、いったん国家によって吸収され監督下に置かれた様々なドラッグを、今度はドラッグカルチャーへと変え、諸商品の系列へ流出させ資本へと変えた。資本家は往々にして抜け目があるが資本主義にはまったく抜け目がない。すべてのドラッグを(多くはキャッチコピーを通して)ドラッグカルチャーへと変え、すべてのドラッグ依存症者を社会復帰させるために貨幣(入院費、治療費、交通費、等々)をダイナミックに流動させ、復帰した順に再労働力商品化し、さらなる剰余価値の生産と利子を生む資本の再生産過程を絶え間なく稼働させるに至っている。

「この圧倒的な崩壊の背後に隠された何か、曙と夜を等しくしてしまう何かを、外に引っ張りださなければならず、《それは役立ち》、まさに《私の磔刑》を通じて役立たねばならなかった」(アルトー『タラウマラ・P.78』河出文庫)

アルトーは儀式に付きものの全体主義的ダンスを否定する。ダンスが全員で行われる行為であるにせよ、それはあくまで「《私の磔刑》を通じて役立たねばならなかった」と述べる。中南米に本来的な儀式が残っていた時代、ペヨトル抽出物を用いた儀式で出現していたのはペヨトル摂取による「《私》のペヨトル化」ということだったのであり、その儀式(シグリ)は「人間そのもの」だと語られる。ペヨトル摂取がまだ共同体の中で必要不可欠な儀式としての価値を持っていた時代が《かつてあった》(今はもうない。かつての模倣だけがある)ということだ。そして「人間そのもの」はけっして個体として捉えることができない流動性なのであり、したがってドゥルーズとガタリとの対話から生まれた「千のプラトー」で言われている「生成変化」であるということができる。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー145

2020年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム
刑務所に戻ったミニョン。慣れた生活に戻っただけのことでもある。惜しいのは刑務所が古い時代の刑務所ではないことだ。ジュネの夢想する孤絶されたギュイヤーヌ(フランス領南米ギニアにあった終身刑務所)はもはやない。「壁に固定された木製の椅子」の「鎖」だけがその頃の名残だ。あるいは「固定」ということが。ミニョンは現代化された刑務所の中でかつて徒刑囚たちが置かれていた豪壮な獄中生活を「古い秩序の残滓であるこの鎖」の中に見出す。

「壁に固定されたベッド、壁に固定された棚板、鎖によって壁に固定された堅い木製の椅子ーーー刑務所が牢獄や牢屋と呼ばれ、囚人が水夫と同じように徒刑囚であった古い秩序の残滓であるこの鎖は、現代の独房をブレスト風またはツーロン風の小説じみた霧で曇らせ、それを時間のなかに後退させ、ミニョンを自分がバスティーユに投獄されているのではないかという疑いでかすかに戦慄させる(鎖は怪物じみた権力の象徴である。鉄の玉で重くなった、王の徒刑囚たちの麻痺した足は、鎖でつなぎとめられていた)」(ジュネ「花のノートルダム・P.299~300」河出文庫)

現代化にともなう雇用形態の変化もまた同様の過程をたどっている。欧米ではもっと早くに導入されたが日本では三〇年後の今になってようやく一般的になってきた。「新卒一括採用廃止」と「さまよえるフリーランス」とである。前者は日本独特の雇用形態であって必ずしも資本主義の超越論的自己目的に沿ったものとして採用された雇用形態ではない。いずれ崩壊するのは目に見えていた。実際、加速的に崩壊しつつある。後者は新自由主義が定着した一九九〇年代以降、とりわけ今の日本政府の方針に沿って急速に拡大した労働手法だが、「フリー」という名称にもかかわらず実はまったく自由でない。ジュネのいう「鎖」はまだしも目に見える鎖である。しかし「フリーランス」ほど目に見えない鎖に繋がれている職業もまたとない。第一に。

「目に見えない糸でもって人々は最もかたく束縛される」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・七九八・P.464」ちくま学芸文庫)

第二に。

「資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてゆくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは、もはや偶然ではない。一方の人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのものの必至の成り行きである。じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働の市場価格の変動によって媒介されていると同時におおい隠されている」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十一章・P.127」国民文庫)

日本政府はこれら種々の現実的な不安定要素から不安定に見える課題に向き合うことを避け続けてきた。あるいは不安定な部分には極力触れずに騙しだましやって来た。一方市民社会は、いつも何らかの不安定要素に向き合っていなければ日々の暮らしにたちまち支障が出てしまうような危機的状況下に置かれているというのに。逆に政府は主にマスコミを通して「ポジティブ」と言い換えることが可能な曖昧な部分ばかりを強調しつつ、戦後七十年以上も強引に偽善的「ポジティブ路線」を推進してきた結果、今の日本独特の少子化問題が大きく横たわって動かないという事態を発生させるに至った。フリーライターの場合、二種類ある。一方はマスコミ報道の偽善性に加担することで収入を得ている。もう一方はマスコミ報道の偽善性を告発することで収入を得ている。政府が補償すると言い出した金を受け取るのも受け取らないのも自由だ。ただ、受け取った場合、今後一切「フリー」でいることは不可能になることもまた明らかである。贈与は「掟の贈与」という大変暴力的な挙措だからだ。

「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去されねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。そして、こういった二重の命令は、明らかに狂気を引き起こすダブル・バインドであります。私は与えようと欲し、他者が受け取ってくれることを欲します。したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。そうでなければこういったことは意味をもちませんし、贈与は、生起しません。しかしながら、私が与えるということを他者が知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与のこの狂気、これはダブルバインドの状況なのです。そして、あらゆる掟、あらゆる掟についての経験がこうしたタイプのものである、と私は言いたい。一つの掟、それは必ずしも悪いものではありません。われわれはもろもろの掟は必要としますし、掟を与えること、それはまた贈り物でもあります。というのも掟は第一に安心させ、不安を避けさせてくれるからです。ところが、掟の贈与は同時に悪いものでもあります。それはパルマコンであり、毒であります。贈与はどれも毒なのです。こういった観点からすると、記憶、時間ならびに歴史との関連において、贈与と掟の贈与とは、実際、何らかの類似したものである、と言うことができます。人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです。

こういったわけですから、偉大な支配者たち、ないしは偉大な女支配者たち、すなわち最も象徴的に自己固有化をおこなう人々が、最も気前のいい人々である、といった事実を前にしても、それを見て驚くなどということは少しもないのです。贈与と掟の贈与のなかに読み取るのがむずかしいのは、まさにこういったことなのです。

与えるとは、たいへんに暴力的な挙措でありうるのです。想像していただけるでしょうが、真の贈与、すなわち暴力をふるわないような、そして与えられた物やそれが与えられた相手を自己固有化しないような贈与、そういった贈与は、贈与の諸標識までも消去せねばならないでしょう。それは現われない贈与であり、したがって他者にとってのみならず、自分にとってさえも贈与の諸標識を消去するでしょう。真の贈与は、与えているということを知りさえせずに与えることのうちに、その本領をもっているのです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.110~112』法政大学出版局)

今後「フリーライター」という肩書は暴力的にその意味〔価値〕を転倒させられる。生活費維持のために政府から支給される補償金を受け取ったすべてのフリーライターはその瞬間から日本政府の「御用ライター」であるほかなくなる。それにしても「八〇五〇問題」は一体どこへ行ったのだろうか。どこへも行きはしない。市民社会の現場では新型ウイルス報道以前と変わらぬ姿で、むしろ新型ウイルス報道に隠蔽される形で日増しに深刻化しているのが現状だ。さらに高度テクノロジーの加速的採用は少子化を加速させる主要因だというのに。この逆説について日本は世界で最先端に位置している。ウイルス問題が終息すればたちまち日本の少子化問題への対応が再び注目されることはわかりきった問題だ。時々刻々と変化する高度テクノロジーの導入は或る資本が他の資本より常に有利な立場を取らなければならない性質上けっして避けられない事情である。ところがその同じ事情がさらなる核家族化ならびに少子化の温床となっているのは周知の通り。世界が注目しているのはそれに伴う政府の安定収入はどのようにして可能かという難題に、である。というのは、雇用主が変わっても他の様々な条件の相互依存体制によって賃金水準の安定性が保障されている北欧のような社会は別として、労働賃金が安定的な一定水準を保っていないところでは税収が常に不安定な状態にあるため政権維持もまた困難さを増す。格差社会はさらなる格差を生産する方向へ急傾斜していく。したがって日本を除く諸外国では毎日どこかで雇用の安定と雇用の自由を巡る対立的大規模デモが起こってくるのが通例であるにもかかわらずなぜ日本では大規模デモが起こらないのか余りにも不可解に見えるため逆に隅々までじろじろ注視されるのである。例外的に日本で大規模デモが起こらないのは「何をやっても仕方がない」という諦めの広がりによるニヒリズムが大規模化しているからに過ぎない。大規模化したのはデモではなく国家のさらなる殺人的疲弊衰退の予兆としてのニヒリズムなのだ。ニヒリズムの蔓延がどんな事態を招くかはもう何度も引用してきたわけだが。

「《機械文化への反作用》。ーーーそれ自体は最高の思索力の所産であるにもかかわらず、機械は、それを操作する人たちに対しては、ほとんど彼らの低級な、無思想な力しか活動せしめない。その際に機械は、そうでなければ眠ったままであったはずのおよそ大量の力を解放せしめる。そしてこれは確かに真実である。しかし機械は、向上や改善への、また芸術家となることへの刺戟を与えることは《しない》。機械は、《活動的》にし、また《画一的》にする、ーーーしかしこれは長いあいだには、ひとつの反作用を、つまり魂の絶望的な退屈を生む。魂は、機械を通して、変化の多い怠惰を渇望することを学ぶのである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二二〇・P.434」ちくま学芸文庫)

日本の若年層には自分たちの未来が見えてしまっている。日本の子どもたちはニーチェのいう「末人」である。すでに見切ってしまっている。このまま社会が推移して行ってもそこに出現するのはユートピアではなくいつも決まってディストピアだということを悟ってしまっている。さらにマスコミがいつもの調子で偽善的報道を繰り返せば繰り返すほどますます若年層は自分たちの未来に疑いを持ち始める。この傾向がもっと押し進められると自分たちの未来へ疑問を向けるだけでなく、エネルギーの内攻的な逆流が起こり、自分自身が生きていること自体をどんどん疑い始め、次に続く人間に未来を託してとっとと死ぬという自殺的国家が出現する。かつてのナチスドイツがそうだったし今のアメリカ社会がそれに近い。ちなみにアメリカの知識人の中でもトランプ政権を支える急進的右派(アナルコ・キャピタリスト、急進的リバタリアン)といわれる人々は資本主義が持つ自爆性を応用して第二次南北戦争の不可避性を説いて廻っている始末である。

ところで、刑務所に帰ってきたミニョンは独房の安楽に安堵を覚える。しかし彼は最も独房的なものこそ何よりの「慰め」となることを知っている。ミニョンは「独房のなかの白い陶器の便器」に限りない愛しみを感じてこうおもう。

「ヴェールをとってみるがいい。独房のなかの白い陶器の便器だけが、ほとんど乳房に近いリズムで(それは口のように鼓動を打っている)、慰めとなる息をすることを許してくれる。便器は人間的である」(ジュネ「花のノートルダム・P.300」河出文庫)
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さて、アルトー。タラウマラのダンスとは何か。それはペヨトルになることだ。焼肉を食べると性欲が増大するように、植物を食べるとその植物に特有の身体が出現する。

「彼らは私を地面にじかに、あの大きな梁の下に横たわらせた。そこに三人の魔術師が次々踊る合間に座るのだった」(アルトー『タラウマラ・P.77』河出文庫)

魔術師といっても何ら特別な能力を持っているわけではない。オカルト的解釈はつまらないし根拠もない。魔術師というのは今でいう「測量士」、技術者のことだ。シグリの儀式ではペヨトルの抽出物の取り扱いに習熟した薬剤師というほどの意味だ。何も超常現象を巻き起こすわけでは全然ない。そうではなく、いつも不意をついて地層化され固定化されそうになってばかりいる有機的人間の身体という「強制収容所」からの解体体験を司る技術者として、古代の儀式にならって、彼らは司祭とか魔術師と呼ばれている。アルトーがタラウマラの儀式への参加を熱望した理由の一つに、ペヨトルによってもたらされる「癒し」への希求があることを忘れてはいけない。

「地面に横たわっていたのは、私の上に儀式が降りかかり、私の上で、炎、歌、叫び、ダンス、そして夜そのものが、生命を吹き込まれた人間的な穹窿のように生き生きと回転するためである」(アルトー『タラウマラ・P.78』河出文庫)

アルトーは疲弊していた。だからわざわざメキシコくんだりまで旅してきた。ペヨトルの抽出物を食べること。食べた植物の命じるままになってみる試み。ヨーロッパ文化しか知らないアルトーにとって重要なのは欧米国家の「外部」へ出ることであり、アルトーは「外部への意志」として一つの実験なのだ。

「そこには回転する穹窿があり、叫び、抑揚、足音、歌の具体的な編成があった」(アルトー『タラウマラ・P.78』河出文庫)

歌が聴こえているとあるが、その歌は恐らくもう二度と聴くことができない経験だったに違いない。そのような音楽の到来こそ、欧米文化という進歩が疑問視され始めた時代に生きたアルトーにとって長く探し求めていた「癒し」だったのかもしれない。
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なお先日、トランプ大統領の消費税に関するツイートによって株式相場が大きく変動した。消費税調整は《上から》合法的になされる。ということはどういうことを意味しているか。利子は一旦決まれば今度は逆に資本の側、《社会的上層部の側から》生産現場の側へ向けて、無慈悲な暴力的圧力として作用するということにほかならない。単純なことだ。

「剰余価値率の利潤率への転化から剰余価値の利潤への転化が導き出されるべきであって、その逆ではない。そして、実際にも利潤率が歴史的な出発点になるのである。剰余価値と剰余価値率とは、相対的に、目に見えないものであって、探求されなければならない本質的なものであるが、利潤率は、したがってまた利潤としての剰余価値の形態は、現象の表面に現われているものである」(マルクス「資本論・第三部・第一篇・第二章・P.78」国民文庫)
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー144

2020年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
百貨店で獲物を物色中のミニョン。一緒に暮らしていると身振り仕ぐさはしばしば伝染する。もっとも、ミニョンがディヴィーヌの屋根裏部屋にいた期間はそれほど長くはない。不意に気が変わって出ていった。しかし人間は一度目撃したものを忘れることは基本的にできない。とはいえ記憶装置はそれほど精妙にできているということが言いたいわけではなく、否定したいと思う人間の身振り仕ぐささえ時おり演じてしまっているということを忘れ去った後になぜか再演してしまっていることがあるということが大事だろう。

「ついうっかりして、それにまだとても控え目に、ディヴィーヌの身振りや癖が彼から漏れ出ていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.289」河出文庫)

ミニョンが百貨店で試してみるディヴィーヌへの変身過程。泥棒する品定めのために百貨店のショーウィンドーを物色中に試してみるというような不用意な試みをなぜミニョンが行ったのか。変身への意志がなぜそこで露出したのか。ミニョンはその「脱皮」に「気づいてさえいなかった」。

「最初彼はからかうつもりであえてその身振りのいくつかをやってみた。でもそのひそかな身振りは少しずつ堅固な場所を獲得していったが、ミニョンは自分の脱皮に気づいてさえいなかった」(ジュネ「花のノートルダム・P.289」河出文庫)

窃盗に成功し戦利品で衣服のポケットが一杯のミニョン。ポケットが一杯とは言っても見た目にはもちろんわからない。後は玄関を通過して街頭の世間へ溶け込むだけだ。ところで、玄関は二つある。一つは多くは大理石で豪勢に飾られた目に見えるただ単なる玄関。もう一つは目に見えないが必ず配置されている人間の眼差という玄関の二つが。ミニョンを捕らえたのは目に見えないが必ず配置されている人間の眼差という玄関の側だった。

「ひとりの小柄な老婆が静かに言った、『お若いの、あなた、何を盗みました?』ミニョンを魅了したのは『お若いの』だった。さもなければ彼は抵抗していた。最も無垢な言葉は最も有害な言葉であり、警戒しなければならないのはそれである。ほとんどすぐに巨人が彼の上にのしかかって、彼の手首をつかんだ。浜辺でまどろむ海水浴客を襲う最もすさまじい波のように、巨人は突進してきた。老女の言葉と男の身振りによって、新しい宇宙が瞬時にミニョンに現れたのだ。取り返しのつかないものの宇宙が」(ジュネ「花のノートルダム・P.293」河出文庫)

ミニョンは老女が静かに発した「『お若いの』」という言葉に魅了されて我を失う。警備員の堂々たる肉体がミニョンにのしかかりあっけなく捕らえられてしまう。しかし警備員の巨人的行動を促したのは無力な老女のいとも物静かな一言だった。それまでミニョンを支えていた宇宙は瞬く間に転倒する。転倒させたのはどこにでもいそうな老女の眼差から発せられた「『お若いの』」という何気ない一言なのだがそれは、「最も無垢な言葉は最も有害な言葉であり、警戒しなければならないのはそれである」という泥棒の基礎的心得をミニョンに思い出させた。ミニョンは窃盗行為をディヴィーヌ化への変身の過程で中途半端に試みたわけだが、玄関を出るときにもまだ変身を終えていたとはいえない。変身途上の曖昧さが「『お若いの』」という言葉を誘引してしまうのであって、実年齢が若年であろうと高齢であろうと関係ない。たとえミニョンの年齢がもし六十歳であったとしても変身途上の曖昧さは他者の眼差において「『お若いの』」という言葉を喚起させずにはおかなかっただろう。ミニョンが思い込んでいた世界は転倒するが、ただ単に転倒するだけでなくむしろ《転倒される》ということを知らなければならない。世界は自分が超越論的に思い込んでいる条件だけで成り立っているわけではないのである。

「それはわれわれがそのなかにいた宇宙と同じものであるが、特別な点がある、すなわちわれわれが行動し、われわれが働きかけているのを知る代わりに、われわれが働きかけられていることが自分でわかっているという点である。ひとつの眼差にはーーーそれは恐らくわれわれの目に属しているーーー千里眼のもつ、不意の正確な鋭さがあって、ーーー裏返しに見られたーーーこの世界の秩序は、不可避的なものにおいてあまりに完璧なものに見えるので、この世界は消滅するしかないのだ。眼差が瞬きのうちに行うのはこれである。世界は手袋のように裏返される」(ジュネ「花のノートルダム・P.293~294」河出文庫)

それにしてもミニョンは物品を物色中になぜディヴィーヌの身振り仕ぐさを曖昧なまま試みて中途半端に捕まってしまったのだろう。知らず知らずのうちにとあるけれども、「からかうつもりであえてその身振りのいくつかをやってみた」ことも事実である。そして変身の中途半端さはどこかで誰かの眼差によって「取り返しのつかないものの宇宙」への変容という形で「刺し貫かれる」。ミニョンは半ばわかっていてそうしたのだ。「若年者」でなく「『お若いの』」という言葉は実際のナイフ以上に象徴的ナイフの持つ威力を発揮する。象徴化された堂々たる男性器を彷彿させる。なぜミニョンは自分の男性器ではなく理想的に勃起した男性器に祈りを捧げるディヴィーヌの身振り仕ぐさを反復して変身しようとしていたか。ディヴィーヌを反復すること。それは刺し貫かれ去勢される男性同性愛者の女方である「ディヴィーヌへの意志」がミニョンの《身体において》生じたということだ。このとき瞬時に理解がもたらされる。ミニョンはディヴィーヌの屋根裏部屋を出て他の女性のヒモとして暮らしていたがその暮らしにもだんだん飽きがきていた。だから結局のところ、このときのミニョンは刑務所へ帰りたかったのだと言える。

なお、このような眼差はもはや廃止される方向で世界は動いている。代わりにどのレジも自動機械化が促進されている。キャッシュレス化は消費者がレジを通過するたびに通過した消費者の全財産を計測し簡単に差し引きしてデータ化する。買物するたびにすべての個人情報が覗き込まれる。しばらくすれば見知らぬ企業から不動産取引の勧誘がスマートフォンを通じて届くようになる。ほとんど貯金のない消費者の場合は闇金から借金の勧誘メールが届けられる。各世帯でローンがいつまでどれほど残っているか、さらにいつどこで何をローンで購入したか、決済期限はいつか等々、すべてが瞬時に世界中の金融機関あるいは情報機関を駆け巡る。そして高度テクノロジーにもかかわらず再びアナログ時代の悪循環が反復される。

「DDTで害虫駆除を見事に達成した場合、虫に依存していた鳥が飢えて死ぬ。そうすると鳥が食べてくれていた分の虫殺しまでDDTに代行させねばならないことになる。いや、それよりまず第一ラウンドで、毒入りの虫を食べた鳥が死んでしまうことになるだろうか。DDTで犬を死滅させてしまえば、泥棒抑止のためその分だけ警察力に依存しなくてはならなくなる。するとその分だけ泥棒に知恵と武器がついてくる」(ベイトソン「精神の生態学・P.222」新思索社)

キャッシュレス化はキャッシュレス社会を世界化するが、そのぶん、新しい社会に適応した新らしい「泥棒」並びに「警察力」が発生する。この過程には終わりがない。資本主義は自己目的だからなのだが、その貫徹がなされるのは資本主義的運動がいつもすでに「超越論的探究」という推進性を持っていて、したがって「好きなときにやめることができない」からである。ちなみにキャッシュレス化は時代の流れと言われる。けれどもそんなことはとっくの昔にマルクスが「資本論」の中でしばしば示唆していたことであって今さら驚くに当たらない。むしろ資本主義、とりわけ金融機関はマルクスの予言を確実に現実化しつつある点で「マルクスの子どもたち」と呼ばれるべきがふさわしいのかもしれない。

「資本の現実の運動では、復帰は流通過程の一契機である。まず貨幣が生産手段に転化させられる。生産過程はそれを商品に転化させる。商品の販売によってそれは貨幣に再転化させられ、この形態で、資本を最初に貨幣形態で前貸しした資本家の手に帰ってくる。ところが、利子生み資本の場合には、復帰も譲渡も、ただ資本の所有者と第二の人とのあいだの法律上の取引の結果でしかない。われわれに見えるのは、ただ譲渡と返済だけである。その間に起きたことは、すべて消えてしまっている」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.63」国民文庫)
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さて、アルトー。儀式の終わりにぶちまけられる数々の汚物。放尿と放屁、そして繰り返されし反復される嘔吐。

「そのときそれを聞いていると、彼らは真の雷を平らにし、それを《彼らの》汚辱の《必然性》に還元しようとするかに思われるだろう」(アルトー『タラウマラ・P.72』河出文庫)

タラウマラ族にとって放尿、放屁、嘔吐は儀式の最後を飾る締め括りの動作である。タラウマラからすれば先住民の土地は純粋な意味ですでに失われている。そこで儀式においてペヨトルを食べるとともに吐き出しつつ「それを《彼らの》汚辱の《必然性》に還元しようとする」。欧米文化で汚辱とされている行為は何の関係もない。外来種には見向きもしない。タラウマラの伝統にはそもそも人間は汚辱とともにあるほかない生きものだという絶対的観念がある。しかもそれには欧米文化であっても否定しようのない正当性がある。シグリという重要な儀式で彼らはその「《必然性》」を隠そうとしない。

「この儀式における年長者は、あえて私は言わなくてはならないが、もっともよく排尿し、もっとも激しく強く放屁した」(アルトー『タラウマラ・P.73』河出文庫)

そしてこの年長者は特権的な賞賛を浴びる。ダンスを始めとした儀式におけるこれら一連の行為がもし「錯乱」に見えるとしよう。アルトーはいう。

「大地からじかに錯乱を食べる民の方が私ははるかに好きである」(アルトー「神の裁きと訣別するため」『神の裁きと訣別するため・P.12』河出文庫)

アルトーは「錯乱」するわけではない。「錯乱」自身に《なる》。そのときすでにアルトーはペヨトルである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー143

2020年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム
ミニョンの放屁。前にも触れた。彼は屁をするとき、「俺は真珠をひとつ放つ」と、一人で言う。音を立てずにそっと放つわけだがその臭いを消すことはできない。特に獄中では。

「私は、彼の屁(真珠)がミニョンのやわらかいお尻から噴射されるように、ヒモたちの唇から噴射されるあれらの隠語の話題に戻らないわけにはいかない」(ジュネ「花のノートルダム・P.288」河出文庫)

このエピソードは彼らに特有の隠語と隠語の共有による仲間意識に関わる。たとえば「『三十六のタイル』」は「スルシエールの独房のひとつ」を意味する。

「それは、恐らくどんなものよりも私を仰天させーーーあるいはミニョンがいつも言うように、残酷であるが故に、私を悩ませるーーー隠語のうちのひとつが、スルシエールの独房のひとつで発せられたという話なのだが、その独房をわれわれは『三十六のタイル』と呼んでいて、あまりに狭い独房なので船の通路に思えるほどである」(ジュネ「花のノートルダム・P.288」河出文庫)

隠語が巧みに用いられるときジュネたちは仲間意識で一杯になる。だが隠語の使用は巧みさを要求する。隠語はただそれだけでは何もしない。それが巧みに用いられた場合に限り、隠語は隠語本来の効力を隠語自体の力で最大限まで発揮する。言語に力を与えるのはただ単なる道具としての言語ではなく言語の使用法である。だから隠語はいつも巧みに周囲の雰囲気を操作するとは限らない。逆に巧みに用いられる場合のみ出現する隠語という現象があるだけなのだ。

「私は、ひとつの頑丈な看守について、誰かが『カマ掘られ野郎』と、それからすぐ後に『串刺し帆桁野郎』と呟くのを聞いた。ところで、たまたまそれを口にした男は自分は七年間船乗りをしたとわれわれに言ったのである。このような営みーーー帆桁による串刺し刑ーーーの壮麗さは私を頭のてっぺんから足の先まで震えさせた」(ジュネ「花のノートルダム・P.288」河出文庫)

看守について二つの隠語が出現している。「『カマ掘られ野郎』」と「『串刺し帆桁野郎』」との二つ。前者はありがちで余り効果的とは思えないが、後者は実に的を得る機会を携えていることと相まっている点で隠語ならでは力を発揮しているといえる。「それを口にした男は自分は七年間船乗りをしたとわれわれに言った」。ただちに想起される「帆桁による串刺し刑」という「営み」。その「壮麗さは」はジュネの「頭のてっぺんから足の先まで震えさせ」る。ところがその直後、また別の囚人が重層的な詩的表現でなくただ単なる日常会話で用いられる誹謗中傷の言葉を用いて罵る。そのため隠語の乱舞は一気に終息しその場は白けてしまう。仲間意識はたちまち消え失せジュネたちは獄中であるにもかかわらず路頭に迷うことになる。場の状況の変化はほんの一言で一変してしまうことがよくある。だから犯罪者生活を送って生きている彼らの場合、特に言語の使用法には気配り目配りを怠らないのが通例だ。しかしそれを重視するジュネ自身、自分自ら超越論的思考に溺れていることに気づかない場合があり、仲間の一人にからかわれたりしている。

「ふつうその用途が正反対と思われている物同士が、組み合わさることをわたしに申出るので、わたしの会話はユーモアたっぷりなものになるのだった。『お前さん、この頃だいぶいかれているぜ、まったく』『いかれてるだって!』と、わたしは眼を丸くしながら繰返した。『いかれてる』。それで思い出すが、そう言えば、わたしはその頃、今述べたような精神の贅沢(ぜいたく)きわまる超脱の結果、針金に一つだけ棄て置かれてあった洗濯挟(ばさ)みを見たとき、ある絶対的な認識について啓示を受けたと思ったのだった。この誰でも知っている小さな物品の優雅さと奇異さが、《わたしを少しも驚かさずに、わたしに顕われたのだった》」(ジュネ「泥棒日記・P.185」新潮文庫)

このときジュネは何を思っていたのだろう。世俗的感覚に戻っていなくてはならないときにジュネは、「精神の贅沢(ぜいたく)きわまる超脱の結果」、超越論的思考の中を、超越論的思考として生きており、「洗濯挟(ばさ)み」から「啓示を受けた」と思い込み、その場をそのままの状態で受け入れてしまっている。「針金に一つだけ棄て置かれてあった洗濯挟(ばさ)み」でしかないほとんどどうでもよいようなものが「優雅さと奇異さ」を帯びて「《わたしを少しも驚かさずに、わたしに顕われたのだった》」というのはいかにも不用意な態度なのだ。しかし「針金に一つだけ棄て置かれてあった洗濯挟(ばさ)み」が「優雅さと奇異さ」を帯びて「《わたしを少しも驚かさずに、わたしに顕われたのだった》」と形容するに値するものとは何か。この文章の前後から察するにそれは三島由紀夫がいっているようになるほどスティリターノのことかもしれない。ところがジュネの周囲にいる人物で襤褸(ぼろ)を纏いつつ様々なパッチワークを施してお洒落を気取る工夫を身に付けている仲間はたくさんいた。だからこの洗濯挟みはただ単にスティリターノ一人を象徴しているというより、スティリターノをその内に含むジュネたちの身体の各部分からなるモンタージュ(奇妙な合成物)ではないかとおもうのである。いずれにせよ、そのことをすっかり忘れ去ってしまっていつまでも超越論的思考自身として想像の翼に身を委ねているのは危険である。それこそ「イカロスの飛翔」にほかならない。だから超越論的思考に耽るのはたいへん結構なのだが、そればかりでなくジュネは、「絶えず目ざめていなければならず、いろいろな物品の世間的な意味を見失えば直ちに捕まるおそれ」を同時に感覚していなくてはいけないという背反傾向に置かれている。

「わたしは出来事でさえ、その一つ一つを完全に独立したものとして感受した。読者はこのような精神状態が、その頃わたしがしていたような生活、絶えず目ざめていなければならず、いろいろな物品の世間的な意味を見失えば直ちに捕まるおそれのあった生活では、どれほど危険であったかということは容易に想像していただけると思う」(ジュネ「泥棒日記・P.185」新潮文庫)

巧みに発された隠語、時宜を得た隠語、仲間意識を呼び起こす隠語の系列が、ジュネたちのあいだを縫い合わせてたちどころに出現させる一時の快楽は詩的であるがゆえに世俗的「地面」を崩壊させる力を持つ。

「つねに詩は、あなたたちの足の裏の下で地面を崩れさせるのだし、不思議な夜の胸のなかにあなたたちを吸い込んでしまうというのに」(ジュネ「花のノートルダム・P.289」河出文庫)

詩人の多くがこの罠に自らはまって自滅していった。それは世間一般の中に放り込まれると一挙に「夜陰的」なものでしかなくなり社会から拒否され、非凡な詩人を浮浪者の群れの中へ溶け込ませ、流動する流れをぼやけた一般的なもの、凡庸なもの、記号的なもの、平板なもの、群畜社会へと変えてしまうからである。その意味で「非凡な詩人」と「浮浪者の群れ」とは極めて近い類縁性があるといえよう。しかし少し違っているのは、ジュネたちの場合、自ら好き好んで社会から拒否されるのであり、また世俗的観念を否定するのであり、否定者を肯定するのである。このようにしてジュネ的文章は幾らでも延長される可能性を獲得する。
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さて、アルトー。シグリの儀式に参加することができたアルトー。儀式そのものについて書かれた部分はあえて引用しない。それは近現代に強姦される前の儀式ではすでになく、かつて行われていた作法の擬似的反復でしかないからである。キリスト教の側から見ればオカルトに見え、タラウマラ族の伝統から見ればキリスト教の側こそオカルトに見える。どちらが偉い偉くないは問題外だ。ただタラウマラの儀式は奇妙におもえるほど数字に対するこだわりを見せている点には十分注目したいところである。他の無数の少数民族の儀式においても数字に対するこだわりには並々ならぬものが共通に見出される。メキシコのタラウマラの儀式では「二匹の子ヤギ」の「二」。「十字架」の「十」。「六百の釣鐘」の「六百」等々。なお、「十字架」の中の幾つかについてタラウマラ・インディアンは「聖イグナシオ」とか「聖ニコラス」とか呼んでいる。いつ頃からか判然としないが、すでにキリスト教の聖者の名も「ペヨトル神事」の際の<不可視の導者>の中に含まれるようになっていたようだ。だからといってペヨトル儀式の意義までがすっかり変わったとは言えない。「司祭が人間に戻ること」は「汚辱にまみれた有機体」へ戻ることでありただちに「洗浄」されなければならない。それは反復される。人間に戻ることは有機体へと戻ることである。そのとき神事参加者は汚辱にまみれた人間に戻る。そしてただ単なる〔汚辱にまみれた〕有機体へ復帰するやいなやさっそく「洗浄」される。だから「この儀式は洗浄のためのものだ」。

「司祭たちは突然人間に戻り、つまり汚辱にまみれた有機体となり洗浄される。この儀式は洗浄のためのものだ」(アルトー『タラウマラ・P.72』河出文庫)

タラウマラの聖職者たち。その動作は暗黒の儀式を司る動作だ。「《夜の上を歩む夜》」そのものである。強いられた身体という「神の裁き」から逃れるために行われる「《夜の上を歩む夜》」。そこでは、「排尿」、「放屁」、等々の「ぶちまけ」が聖性を証明する。

「彼ら、この聖職者たち、一種の暗黒の働き手たちは、井戸掘り人夫のようにふるまう。彼らの役割は排尿し、ぶちまけることである。彼らは排尿し、放屁し、恐るべき轟きとともにぶちまける」(アルトー『タラウマラ・P.72』河出文庫)

アルトーにとって人間の身体は「神の裁き」として強引に与えられた有機体だった。それは「むずがゆい」。アレルギー症状を引き起こす。アルトーの場合それは統合失調症として出現し身に引き受けることになった。とはいえアルトーはユーモアを失ったのだろうか。けっしてそうではない。むしろ「タラウマラ」はユーモアの勧めなのだ。あらかじめ決定づけられた有機的身体という「強制収容所」から逃走線を引き出すこと。ユーモア的態度を失わないこと。ボードレールがいっているように。

「笑いは悪魔的である。ゆえにこれは深く人間的である。これは人間にあって、自らの優越性の観念の帰結である。そして事実、笑いは本質的に人間的なものであるから、本質的に矛盾したものだ、すなわち、笑いは無限な偉大さの徴(しるし)であると同時に無限な悲惨の徴であって、人間が頭で知っている<絶対存在者>との関連においてみれば無限の悲惨、動物たちとの関連においてみれば無限の偉大さということになる。この二つの無限の絶え間ない衝突からこそ、笑いが発する。滑稽というものは、笑いの原動力は、笑う者の裡に存するのであり、笑いの対象の裡にあるのでは断じてない。ころんだ当人が、自分自身のころんだことを笑ったりは決してしない、もっとも、これが哲人である場合、自分をすみやかに二重化し、自らの《自我》の諸現象に局外の傍観者として立ち会う力を、習慣によって身につけた人間である場合は、話は別だが」(「笑いの本質について、および一般に造型芸術における滑稽について」『ボードレール批評1・P.227』ちくま学芸文庫)
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー142

2020年03月08日 | 日記・エッセイ・コラム
孤独を深めるディヴィーヌ。外出時は好んで一人である。

「彼女はもう一人でしか外出したくなかった。この習慣はひとつの結果を生んだ。黒人と人殺しの親密さを深めることである」(ジュネ「花のノートルダム・P.280」河出文庫)

ディヴィーヌはわかりきった結果を生じさせている。無意識のうちにそうしているように見える。ノートルダムとゴルギとの情愛は日増しになおかつ露骨に深まる。ディヴィーヌの孤独の深まりと同様に。

「次に続く局面は激しい非難のそれだった。ディヴィーヌは自分を抑えるのにへとへとになっていた。憤激は速度と同じように彼女により鋭い明晰さを与えるのだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.280」河出文庫)

嫉妬を発条(ばね)にした憤激の露出は誰もが知るように人によりけりで、限度を知らずありもしない想像力の領域へ踏み込みつつ爆発するケースと、その反対に憤激にもかかわらず非常に「鋭い明晰さ」で事態の構造を見抜くケースに大別される。ディヴィーヌは後者である。孤独になればなるほどより一層「鋭い明晰さ」を発揮する。彼女が彼(キュラフロワ)だった少年時代、その怪物的想像力はあらゆるところで発揮されたが、その際、ほとんどいつも孤独だったことは極めて重要な要素だろう。しかしそれだけでは憤激しながらも事態を明晰に区別する技術を手に入れるに至った根拠にはならない。

「彼女はいたるところで悪意を見抜いていた。それともノートルダムは、そうとは知らずに、彼女が命じていたゲームに従っていたのだろうか、彼女を孤独のほうへ、さらにもっと絶望のほうへ連れていくように命じていたゲームに?彼女は罵詈雑言でノートルダムをまいらせた」(ジュネ「花のノートルダム・P.280」河出文庫)

ジュネはわざとのように「ゲーム」という鍵を与える。当事者自身が「そうとは知らずに」行ってしまう「ゲーム」。ディヴィーヌはあえて孤独を深めることでその返礼として花のノートルダムを責め立て吊し上げたいとおもっているというわけだ。無意識のうちに。実際そうする。とはいえ、ノートルダムは年少の殺人者として、美として、年長のディヴィーヌの上に君臨している。ノートルダムは好き好んで君臨しているわけではない。君臨させているのはほかならぬディヴィーヌの側だ。

「たとえば、この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.111」国民文庫)

しかし貨幣はその位置を獲得するやいなやなぜ貨幣は貨幣として他の諸商品の上に君臨しているのかという全過程を覆い隠してしまう。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

マルクスは「資本論」冒頭で形態1〜形態4にいたる価値形態論を述べているが、その記述は形態4にあたる貨幣形態の出現とともに覆い隠されてしまい消えてしまうかのように見える。だが完全に消えてしまうわけではない。マルクスはごく当たり前の科学的手続きにしたがって完成した貨幣形態の側から研究を始めた。そして貨幣から逆にさかのぼることによって種々の価値形態の推移を発見した。それはそれで一つの研究結果である。なるほどマルクスもまたニーチェのいう「原因と結果の取り違え」を犯している。ところが価値形態論の意義は様々な形で見出すことができる。ニーチェの指摘にしたがって「原因と結果の取り違え」を受け入れ転倒させて改めて検討し直してみても他に有効な価値形態論を見出すことができないという事情は何を現わしているのか。現代経済学が不可避的に含み持つ欠点があらわに見えてくるのもその一例である。剰余価値など存在しないと現代経済学は述べる。ところが主に製造業の過程で剰余価値発生の余地が準備されていなければ、消費の現場で、商品交換の場で、あらかじめ準備されていたのとほぼ同じだけ増大した価値が実現されることがないのはなぜなのか。新しいテクノロジーの導入によってそれまでの労働力合理化が可能になるのはどうしてなのか。資本にとって消費者運動が著しいダメージを与えるのはなぜか。ニーチェはいう。

「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫)

言語と貨幣とを置き換えてみても難解な部分など一つもない。「言語、貨幣、性」に関する研究は今なお、人間とは何かを「解く」というより、人間とは何かという「問い」であり続けている。次の文章は欧米キリスト教文化を知らないとさっぱりわからない箇所。

「彼女の矢はノートルダムをあまり苦しめなくなっていた、そして時おり、もっとやわらかい泣き所を見つけて、尖った切っ先が入り、ディヴィーヌが矢羽根にいたるまで矢を深く差し込んでも、それに彼女は縫合を促進するバルサム剤を塗っていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.281」河出文庫)

バルサム剤は植物由来の粘液状接着剤。だからディヴィーヌがノートルダムに向けて放つ「矢」は傷つけるとともに癒すことを目的とした二重の効果を狙っている。それはそれとして差し当たりディヴィーヌが放つ「矢」は数頁前に出てくる「聖セバスチャンの殉教」の絵画に描かれている「矢」のことを指して述べられている。いろいろな画家が描いていることもあるが、主題の一致という点ではまったく同様であって、だからどれが本物かは問題にならない。欧米ではLGBTでいうゲイの象徴として高い人気を誇っている。日本では山本周五郎の小説「さぶ」のタイトルを参照した男性同性愛者専門誌「さぶ」が有名。一九七〇年代の京都市で少年時代を送った立場から思えば町の小さな書店に行くと必ず並んでいた有名な専門誌である。書店のすぐ近くに祇園の場外馬券売場があった。女性が馬券売場をうろうろできる雰囲気はまだほとんどない時代、週末になるとたくさんの男性がひしめいていた。そんななか馬券が当たっても当たらなくても「さぶ」を買って帰る男性客の姿を何度も見かけた。その書店も今はもうない。また三島由紀夫「仮面の告白」ではグイド・レーニ「聖セバスチャンの殉教」に対する主人公の性欲そのものが描かれている。

「矢は彼の引緊(ひきしま)った・香り高い・青春の肉へと喰(く)い入り、彼の肉体を、無上の苦痛と歓喜の焔(ほのお)で、内部から焼こうとしていた。しかし流血はえがかれず、他のセバスチャン図のような無数の矢もえがかれず、ただ二本の矢が、その物静かな端麗な影を、あたかも石階に落ちている枝影のように、彼の大理石の肌(はだ)の上へ落としていた。ーーーその絵を見た刹那(せつな)、私の全存在は、或る異教的な歓喜に押しゆるがされた。私の血液は奔騰(ほんとう)し、私の器官は憤怒(ふんぬ)の色をたたえた。この巨大な・張り裂けるばかりになった私の一部は、今までになく激しく私の行使を待って、私の無知をなじり、憤(いきどお)ろしく息づいていた。私の手はしらずしらず、誰(だれ)にも教えられぬ動きをはじめた。私の内部から暗い輝かしいものの足早に攻め昇って来る気配が感じられた。と思う間(ま)に、それはめくるめく酩酊(めいてい)を伴って迸(ほとばし)った。ーーーこれが私の最初のejaclatio(射精)であり、また、最初の不手際な・突発的な『悪習』だった」(三島由紀夫「仮面の告白・P.36~37」新潮文庫)

再びバルサム剤がもたらす二重の効果について。傷つけるとともに癒すこと。傷つけることが同時に快感を与えることであること。ディヴィーヌが目指しているのはジュネ的感性における背反傾向がもたらす固有の快感付与である。

ジュネ「葬儀」ではジャン・ドカルナンが対独独立義勇兵の機銃掃射によって射殺される。要するに「穴だらけ」にされる。ジュネは思わずジャンと同一化したかのように語る。

「機銃掃射の奇蹟によって、かくもいたいけなしろものに、一人の若者に変り果てた若者の姿を眺めるために、私は人々の肩ごしに身を乗り出すのだった。布につつまれた若者の貴重な遺骸」(ジュネ「葬儀・P.24~25」河出文庫)

ジュネはそれを「奇蹟」といっている。「機銃掃射の奇蹟」と。ディヴィーヌは「必要とあらば、自分が九つの穴から精液を流し込まれるそんな女であることを誇りにしたかもしれなかった」のだが、この数字が「九つ」である必要性は必ずしもない。数字はいつも手品を含んでいる。論理学の仮説が仮説でしかないにもかかわらずあえて「現実」として取り扱われていなかったとしたら数学も成立してはいなかっただろうとニーチェがいうように。ちなみに穴の数は「九つ」でなければならないわけではまったくない。欲望する人間はむしろもっと多くの穴の獲得を欲望している。事実、今のドラッグカルチャーの世界ではなぜかダウナー系のヘロインよりも逆にアッパー系の覚醒剤(アンフェタミン、メタンフェタミン)の側が圧倒的に人気である。世界的規模での需要上昇があるのだろう。ところで覚醒剤使用経験のある人々のあいだで、男性でなく、特に女性の場合、覚醒剤を断ち切ることはほとんど不可能に近いと言われるのはなぜだろう。日本国内でもアルコール・薬物依存者のための幾つかの自助グループがあることはよく知られている。そこで何度か耳にする機会があった。もっとも、自助グループでの発言以外の場所、会合が終わって時間を持て余しているような場合、近くの飲食店などでの会話でたまたま聞くわけだが、覚醒剤を使用しながらの性行為は女性にとって全身「穴だらけ」になっていて、身体のどこを刺激されてもあたかも女性器そのものに繰り返し男性器を挿入される快感におちいってしまったかのような感覚に変化しているという点が特徴的だと諦観混じりに聞かされることがあった。ディヴィーヌは「九つの穴」といいジュネが「機銃掃射の奇蹟」というのもそのような快感獲得のためのアナロジー(類似、類推)を用いた方便に過ぎない。とはいえしかし、方便であるとしても、それが陰惨過ぎる印象を拭い去ってしまっては逆に無意味になる。ジュネ作品でそれら陰惨なものはことごとく壮麗なものであるほかないからである。ゆえに常に注意深く繊細この上ない身振り仕ぐさが要求される。「泥棒日記」の中で「汚穢復権」のため、とジュネは主張する。身体は身振り仕ぐさにおいて始めてそこに出現する。ということは本来的な人間の身体はほとんど無に帰してしまっているということの反語的表現として受け取る態度こそ妥当なのだ。機械ばかりが幅を利かせる世の中になってきたことが二十世紀の問題だったが、人間の消滅はすでに近いというフーコーの言葉こそ、この際最も適切になったというべきかもしれない。高度テクノロジーによる新しい管理社会の出現(人間のサンプル化、データバンク化、マーケティング)はさらに、人間なしに世界の相続が可能となったことを意味してさえいる。
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さて、アルトー。ペヨトルのダンスはいつ始まるのか。始まればアルトーを苦しめ抜いている身体という名の「強制収容所」から逃れることが可能になるだろう。

「もちろん私は絵になるような思い出を求めて、これらのタラウマラ・インディアンの山奥深くにきたわけではない。少々の現実で報われるには、おそらくあまりにも私は苦しんできた」(アルトー『タラウマラ・P.66』河出文庫)

アルトーがふと目にするヴィジョンは「ヒエロニムス・ボッシュの<キリスト降誕>」である。「東方の三博士にそっくり」でもある。

「けれども日が落ちたとき、あるヴィジョンが私の目を覆ったのである。私はヒエロニムス・ボッシュの<キリスト降誕>の場面を目の前にしていた。それはすべて秩序にしたがって並べられ、配置されていた。ーーーそれはヒエロニムス・ボッシュの東方の三博士にそっくりなのだ」(アルトー『タラウマラ・P.66』河出文庫)

幻視者がアルトーでなくそもそも欧米文化のことを知らない日本人、たとえば中世の後醍醐天皇だったとしたらボッシュの絵画が出現するはずはない。そこでキリスト教会の礼拝堂に置かれた様々な装置の配置と比較して後醍醐天皇の身の周りに置かれた様々な装置に注目してみる。するとそこに見出されるのは数々の密教宝具である。世界には様々な神々が諸民族の頭の上に存在するけれども、どの諸民族においても同様に見られる傾向は、自分たちの頭上の神《のみ》が「真実」であるとする観念の怪物性である。

「ローマ人やエトルリア人は、天空を、固定した数学的な線で以て切断し、このような具合に限界づけられた空間を神殿と見立てて、その中へ神を封じ込めたのだが、それと同じように、すべての民族は、このように数学的に分割された概念の天空を、自分の上にもっているのであって、今や真理の要求ということを、あらゆる概念の神は《その》領域のうちにのみ求められるものだというふうに、理解しているのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.356~357」ちくま学芸文庫)

というふうに。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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