ミニョンが放り込まれた刑務所の中の光景を眺めやりつつ突然ジュネが語り出す。
「この物語のなかでは、看守たちにも彼らなりの役柄がある。全員馬鹿ではないが、全員がもっているのは自分たちの演じているゲームに対する純然たる無関心である。彼らは自分たちの職務の美しさを何も理解していない」(ジュネ「花のノートルダム・P.303」河出文庫)
差し当たりジュネは「若くて美しい看守と若くて美しい囚人との出会い」について述べたがっている。しかしその主題はこれまで取り上げてきたすべてのジュネ作品において十分に語られている。その都度触れてきたので先を急ぎたい。本来ならデビュー作である「花のノートルダム」で触れるべきが妥当なのかもしれない。しかしそうしないのは「泥棒日記」で明らかにされているようにジュネは殺人者の逆説についての理解がまだ不十分な時期だったことに理由がある。殺人は殺人者を神格化してしまうという逆説についての理解。その後少しずつ理解の深まりとともに作品の内容もデビュー作とは異なる指向性を帯びつつ修正されていく。「泥棒日記」で明確化されたのは「泥棒、裏切り者、性倒錯者」としての等身大のジュネ自身である。多くの小説家がそうであるようにジュネもまた書くことによって自分を知る。だからといってジュネの場合、作品ごとに作風が変わっていくという一般的な小説家の変化を現わしているわけではない。ジュネに「泥棒、裏切り者、性倒錯者」としての自覚はあっても「花のノートルダム」では殺人者としての志向性をも「泥棒、裏切り者、性倒錯者」の系列の中で等価関係に置いて謳歌したがっている点が顕著に見られる。その意味でジュネは自分を巧みになおかつ慎重に測定し作者としての自分自身を鮮明に位置づけることができているとは言いがたい地点にいるからである。もっとも、「花のノートルダム」を見れば小説家として未熟でないことは文章内容ともに確実だといえよう。けれども、他のどの小説家でもないほかならぬジュネ《としては》安易に走った行為だったかもしれないという疑念は作者である以上どこまでも付きまとって離れない。ジュネが避けるべきは犯罪者であるなしに関係なくあらゆるものの神格化である。にもかかわらず「花のノートルダム」ではその点で不用意な記述が紛れ込んでいる。読者としても決して並列的に並べ立てることのできない一つの行為を等価関係に置いてしまうのはどこかジュネ的でないのではという違和感を受けなくもない。だが作品「葬儀」、そして「ブレストの乱暴者」以降、作者としての認識は決定的に変化した。それがはっきり自覚的に述べられるのは「泥棒日記」においてである。
「殺人は地下の汚醜の世界に到達するための最も効果のある方法ではない。それどころか、それを遂行した犯罪者は、流された血や、いや何時(なんどき)その首を切り落とされるかわからないという彼の肉体が置かれている不断の危険(殺人者は後退する、しかし彼の後退は上昇的なのだ)、そして彼が人に及ぼす魅力ーーーなぜなら人々は彼がこのようにはっきりと生命の法則に対立する人間であるので、一般に最も容易に想像される、最も強大な力の諸属性を備えているものと推定するからーーーなどによって、人々から蔑(さげす)みを受けることがないのだ。他の罪悪のほうがそれを犯した人間を卑(いや)しめ堕(おと)す。たとえば、盗み、物乞い、裏切り、背信、等であり、これらのことを犯すことをわたしは選んだ」(ジュネ「泥棒日記・P.150」新潮文庫)
その意味で「ジュネは泥棒、裏切り者、性倒錯者《として》書く」というサルトルの有名な言葉が通用するのは、少なくとも「葬儀」以降のジュネ作品の中でであるだろう。市民社会からの否定者あるいは市民社会に対する否定者を逆に大いに肯定することで「汚穢復権」への鉄扉をこじ開けるというジュネ特有の小説作法。その方法では市民社会から真逆の位置を獲得することで逆に神格化されてしまう殺人者を「泥棒、裏切り者、性倒錯者」の系列と等価関係に置くわけにはいかない。実際、ジュネ自身が殺人者としてヨーロッパ全土にその名を轟かせるような有名人ではなかったということもある。その意味でジュネが犯してきた犯罪はどれも冒険的でありながら同時に陳腐なものばかりでしかなかったわけだが、ジュネはその陳腐さの中に自分自身を発見する。それは殺人者のようにマスコミを賑わせて慄(おのの)かせ神格化させてしまうことがなく、逆に世間一般から蔑視され唾棄され無視され放置され、ジュネとその仲間たちを最も「卑(いや)しめ堕(おと)す」高貴な陳腐さだからである。決定的陳腐さ。陳腐以上のものになることができないという悲劇的なまでに動かしがたい高貴さ。それを可能にする技術もまた高貴なものとして重要だろう。しかもそれは連日連夜絶え間なく実行され再生産される。日々記録を更新していく再生産であるにもかかわらず大量生産/大量消費によって量から質への転化を伴わない純然たる汚辱の堆積である。その卑劣ぶりによって誰からも神格化されることがない「泥棒、裏切り者、性倒錯者」《としての》ジュネ特有の「たくらみ」。注意深い言語化の過程でその快感を見出したジュネはようやく自分が刑務所行きを繰り返していた頃から持っていた「詩人《としての》」ジュネ的感性を思う存分発揮することができるようになった。しかしここではまだ繭(まゆ)に包み込まれたジュネが語っている。それでもなおフェチの系列の中に身振り仕ぐさの変種としての「制服」が上げられている点は後のジュネ作品でも反復される重要な要素の一つとして無視できない。
「少し前から、彼らは濃紺の制服を着ているが、それは航空兵の制服の正確なコピーであり、もし彼らが高貴な魂をもっているなら、彼らは英雄のカリカチュアであることを恥じていると思う。彼らは、天井のガラス屋根を突き破って、空から監獄に落ちてきた飛行士たちなのだ。彼らは監獄へ脱走したのである」(ジュネ「花のノートルダム・P.303」河出文庫)
刑務所の看守の制服。それは天上世界の空中戦から名誉の墜落を遂げた脱走兵の「正装」(スーツ)となったのだ。墜落あるいは脱走。その意味でいえば囚人たちの側が「先輩」にあたる。だが囚人たちの中でも最も屈強な犯罪者はともすれば隙をうかがって看守の男性器を口一杯に頬張り絶頂の手前まで膨張させることを夢見る。たくましい看守の眼前に自分の尻を突き出し刺し貫かれる。ところがそのときこそ囚人が密室に燦爛たる音楽を降らせるまたとない瞬間なのだ。なぜなら、たくましい看守の男性器からこらえきれず噴出される奔騰しきった精液は囚人の尻の穴を通じて間違いなく囚人の側に吸い込まれ、看守から囚人への「力の移動」を成功させるからである。囚人はそのぶん看守からありったけの力を吸い込み奪い取り、要するに獄中にありながら行われる窃盗に成功し優位に立つ。
ーーーーー
さて、アルトー。シグリの儀式を終えて。アルトーは認識しようと求める。何か「まだ別のものが、《原理的なもの》が隠れているという印象」を受ける。
「しかし何よりもまず、すべての上方に、彼方に、回帰してくる印象があった。これらすべての背後に、これらすべて以上に、そして彼方に、まだ別のものが、《原理的なもの》が隠れているという印象が」(アルトー『タラウマラ・P.78』河出文庫)
追求していくときりがない。アルトーの時代にはもうほとんどすべての植物は分析されており、人間にとってどの植物がどのような作用を及ぼすか、その作用機序はどのように構成されているか、すでに解明されていた。ゆえにメキシコのタラウマラ族についてはペヨトル栽培の禁止という法律が施行され、アルトーがメキシコを訪れた頃には、ペヨトル自体どんどん姿を消していた。欧米列強は国家にとって危険となり得る可能性を有するありとあらゆる物質をすでに踏破した後だった。タラウマラの場合も例外でなかったというだけのことだ。とはいえ、国家にとって何が危険かという意味は押さえておこう。薬物使用によって錯乱者が出るということが危険なのではない。少数民族であろうとなかろうと一旦自分たちの支配下に置いた人間が労働力商品として売れなくなることが国家にとって危険なのである。社会復帰困難者のための社会福祉政策費の大規模化が危険なのである。労働力商品が上手く回転しないと剰余価値は生まれなくなってしまう。とりわけ大手メーカーは剰余価値発生の余地を創設することで資本として成立している。少数民族が薬物乱用によって絶滅してもしなくても大手メーカーにとっては痛くも痒くもない。だが、目の前にいる安い労働力商品としての少数民族をみすみす取り逃してしまうことには耐えられない。タラウマラの場合、資本ならびに国家がペヨトル畑を焼き払ったのは少数民族の薬物依存症発症を阻止することだが、その目的は二つある。第一に、欧米列強のための労働力商品へと編入された少数民族にとって薬物使用時間は余りにももったいないためペヨトル摂取から「守る」ということ。第二に、欧米列強のための労働力商品へと編入された少数民族がドラッグ使用のために社会復帰困難者となると社会福祉政策費が増大してしまうことから、社会福祉政策費をできる限り低く抑制するようあらかじめ薬物研究を率先させたためである。第一にも第二にも薬物使用による死者数の増加を憂いたのではなく、安い労働力商品として剰余価値獲得に貢献させようとしたのだと言うほかない。
ところが高度テクノロジーの爆発的発展によるネット社会の世界化は、いったん国家によって吸収され監督下に置かれた様々なドラッグを、今度はドラッグカルチャーへと変え、諸商品の系列へ流出させ資本へと変えた。資本家は往々にして抜け目があるが資本主義にはまったく抜け目がない。すべてのドラッグを(多くはキャッチコピーを通して)ドラッグカルチャーへと変え、すべてのドラッグ依存症者を社会復帰させるために貨幣(入院費、治療費、交通費、等々)をダイナミックに流動させ、復帰した順に再労働力商品化し、さらなる剰余価値の生産と利子を生む資本の再生産過程を絶え間なく稼働させるに至っている。
「この圧倒的な崩壊の背後に隠された何か、曙と夜を等しくしてしまう何かを、外に引っ張りださなければならず、《それは役立ち》、まさに《私の磔刑》を通じて役立たねばならなかった」(アルトー『タラウマラ・P.78』河出文庫)
アルトーは儀式に付きものの全体主義的ダンスを否定する。ダンスが全員で行われる行為であるにせよ、それはあくまで「《私の磔刑》を通じて役立たねばならなかった」と述べる。中南米に本来的な儀式が残っていた時代、ペヨトル抽出物を用いた儀式で出現していたのはペヨトル摂取による「《私》のペヨトル化」ということだったのであり、その儀式(シグリ)は「人間そのもの」だと語られる。ペヨトル摂取がまだ共同体の中で必要不可欠な儀式としての価値を持っていた時代が《かつてあった》(今はもうない。かつての模倣だけがある)ということだ。そして「人間そのもの」はけっして個体として捉えることができない流動性なのであり、したがってドゥルーズとガタリとの対話から生まれた「千のプラトー」で言われている「生成変化」であるということができる。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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差し当たりジュネは「若くて美しい看守と若くて美しい囚人との出会い」について述べたがっている。しかしその主題はこれまで取り上げてきたすべてのジュネ作品において十分に語られている。その都度触れてきたので先を急ぎたい。本来ならデビュー作である「花のノートルダム」で触れるべきが妥当なのかもしれない。しかしそうしないのは「泥棒日記」で明らかにされているようにジュネは殺人者の逆説についての理解がまだ不十分な時期だったことに理由がある。殺人は殺人者を神格化してしまうという逆説についての理解。その後少しずつ理解の深まりとともに作品の内容もデビュー作とは異なる指向性を帯びつつ修正されていく。「泥棒日記」で明確化されたのは「泥棒、裏切り者、性倒錯者」としての等身大のジュネ自身である。多くの小説家がそうであるようにジュネもまた書くことによって自分を知る。だからといってジュネの場合、作品ごとに作風が変わっていくという一般的な小説家の変化を現わしているわけではない。ジュネに「泥棒、裏切り者、性倒錯者」としての自覚はあっても「花のノートルダム」では殺人者としての志向性をも「泥棒、裏切り者、性倒錯者」の系列の中で等価関係に置いて謳歌したがっている点が顕著に見られる。その意味でジュネは自分を巧みになおかつ慎重に測定し作者としての自分自身を鮮明に位置づけることができているとは言いがたい地点にいるからである。もっとも、「花のノートルダム」を見れば小説家として未熟でないことは文章内容ともに確実だといえよう。けれども、他のどの小説家でもないほかならぬジュネ《としては》安易に走った行為だったかもしれないという疑念は作者である以上どこまでも付きまとって離れない。ジュネが避けるべきは犯罪者であるなしに関係なくあらゆるものの神格化である。にもかかわらず「花のノートルダム」ではその点で不用意な記述が紛れ込んでいる。読者としても決して並列的に並べ立てることのできない一つの行為を等価関係に置いてしまうのはどこかジュネ的でないのではという違和感を受けなくもない。だが作品「葬儀」、そして「ブレストの乱暴者」以降、作者としての認識は決定的に変化した。それがはっきり自覚的に述べられるのは「泥棒日記」においてである。
「殺人は地下の汚醜の世界に到達するための最も効果のある方法ではない。それどころか、それを遂行した犯罪者は、流された血や、いや何時(なんどき)その首を切り落とされるかわからないという彼の肉体が置かれている不断の危険(殺人者は後退する、しかし彼の後退は上昇的なのだ)、そして彼が人に及ぼす魅力ーーーなぜなら人々は彼がこのようにはっきりと生命の法則に対立する人間であるので、一般に最も容易に想像される、最も強大な力の諸属性を備えているものと推定するからーーーなどによって、人々から蔑(さげす)みを受けることがないのだ。他の罪悪のほうがそれを犯した人間を卑(いや)しめ堕(おと)す。たとえば、盗み、物乞い、裏切り、背信、等であり、これらのことを犯すことをわたしは選んだ」(ジュネ「泥棒日記・P.150」新潮文庫)
その意味で「ジュネは泥棒、裏切り者、性倒錯者《として》書く」というサルトルの有名な言葉が通用するのは、少なくとも「葬儀」以降のジュネ作品の中でであるだろう。市民社会からの否定者あるいは市民社会に対する否定者を逆に大いに肯定することで「汚穢復権」への鉄扉をこじ開けるというジュネ特有の小説作法。その方法では市民社会から真逆の位置を獲得することで逆に神格化されてしまう殺人者を「泥棒、裏切り者、性倒錯者」の系列と等価関係に置くわけにはいかない。実際、ジュネ自身が殺人者としてヨーロッパ全土にその名を轟かせるような有名人ではなかったということもある。その意味でジュネが犯してきた犯罪はどれも冒険的でありながら同時に陳腐なものばかりでしかなかったわけだが、ジュネはその陳腐さの中に自分自身を発見する。それは殺人者のようにマスコミを賑わせて慄(おのの)かせ神格化させてしまうことがなく、逆に世間一般から蔑視され唾棄され無視され放置され、ジュネとその仲間たちを最も「卑(いや)しめ堕(おと)す」高貴な陳腐さだからである。決定的陳腐さ。陳腐以上のものになることができないという悲劇的なまでに動かしがたい高貴さ。それを可能にする技術もまた高貴なものとして重要だろう。しかもそれは連日連夜絶え間なく実行され再生産される。日々記録を更新していく再生産であるにもかかわらず大量生産/大量消費によって量から質への転化を伴わない純然たる汚辱の堆積である。その卑劣ぶりによって誰からも神格化されることがない「泥棒、裏切り者、性倒錯者」《としての》ジュネ特有の「たくらみ」。注意深い言語化の過程でその快感を見出したジュネはようやく自分が刑務所行きを繰り返していた頃から持っていた「詩人《としての》」ジュネ的感性を思う存分発揮することができるようになった。しかしここではまだ繭(まゆ)に包み込まれたジュネが語っている。それでもなおフェチの系列の中に身振り仕ぐさの変種としての「制服」が上げられている点は後のジュネ作品でも反復される重要な要素の一つとして無視できない。
「少し前から、彼らは濃紺の制服を着ているが、それは航空兵の制服の正確なコピーであり、もし彼らが高貴な魂をもっているなら、彼らは英雄のカリカチュアであることを恥じていると思う。彼らは、天井のガラス屋根を突き破って、空から監獄に落ちてきた飛行士たちなのだ。彼らは監獄へ脱走したのである」(ジュネ「花のノートルダム・P.303」河出文庫)
刑務所の看守の制服。それは天上世界の空中戦から名誉の墜落を遂げた脱走兵の「正装」(スーツ)となったのだ。墜落あるいは脱走。その意味でいえば囚人たちの側が「先輩」にあたる。だが囚人たちの中でも最も屈強な犯罪者はともすれば隙をうかがって看守の男性器を口一杯に頬張り絶頂の手前まで膨張させることを夢見る。たくましい看守の眼前に自分の尻を突き出し刺し貫かれる。ところがそのときこそ囚人が密室に燦爛たる音楽を降らせるまたとない瞬間なのだ。なぜなら、たくましい看守の男性器からこらえきれず噴出される奔騰しきった精液は囚人の尻の穴を通じて間違いなく囚人の側に吸い込まれ、看守から囚人への「力の移動」を成功させるからである。囚人はそのぶん看守からありったけの力を吸い込み奪い取り、要するに獄中にありながら行われる窃盗に成功し優位に立つ。
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さて、アルトー。シグリの儀式を終えて。アルトーは認識しようと求める。何か「まだ別のものが、《原理的なもの》が隠れているという印象」を受ける。
「しかし何よりもまず、すべての上方に、彼方に、回帰してくる印象があった。これらすべての背後に、これらすべて以上に、そして彼方に、まだ別のものが、《原理的なもの》が隠れているという印象が」(アルトー『タラウマラ・P.78』河出文庫)
追求していくときりがない。アルトーの時代にはもうほとんどすべての植物は分析されており、人間にとってどの植物がどのような作用を及ぼすか、その作用機序はどのように構成されているか、すでに解明されていた。ゆえにメキシコのタラウマラ族についてはペヨトル栽培の禁止という法律が施行され、アルトーがメキシコを訪れた頃には、ペヨトル自体どんどん姿を消していた。欧米列強は国家にとって危険となり得る可能性を有するありとあらゆる物質をすでに踏破した後だった。タラウマラの場合も例外でなかったというだけのことだ。とはいえ、国家にとって何が危険かという意味は押さえておこう。薬物使用によって錯乱者が出るということが危険なのではない。少数民族であろうとなかろうと一旦自分たちの支配下に置いた人間が労働力商品として売れなくなることが国家にとって危険なのである。社会復帰困難者のための社会福祉政策費の大規模化が危険なのである。労働力商品が上手く回転しないと剰余価値は生まれなくなってしまう。とりわけ大手メーカーは剰余価値発生の余地を創設することで資本として成立している。少数民族が薬物乱用によって絶滅してもしなくても大手メーカーにとっては痛くも痒くもない。だが、目の前にいる安い労働力商品としての少数民族をみすみす取り逃してしまうことには耐えられない。タラウマラの場合、資本ならびに国家がペヨトル畑を焼き払ったのは少数民族の薬物依存症発症を阻止することだが、その目的は二つある。第一に、欧米列強のための労働力商品へと編入された少数民族にとって薬物使用時間は余りにももったいないためペヨトル摂取から「守る」ということ。第二に、欧米列強のための労働力商品へと編入された少数民族がドラッグ使用のために社会復帰困難者となると社会福祉政策費が増大してしまうことから、社会福祉政策費をできる限り低く抑制するようあらかじめ薬物研究を率先させたためである。第一にも第二にも薬物使用による死者数の増加を憂いたのではなく、安い労働力商品として剰余価値獲得に貢献させようとしたのだと言うほかない。
ところが高度テクノロジーの爆発的発展によるネット社会の世界化は、いったん国家によって吸収され監督下に置かれた様々なドラッグを、今度はドラッグカルチャーへと変え、諸商品の系列へ流出させ資本へと変えた。資本家は往々にして抜け目があるが資本主義にはまったく抜け目がない。すべてのドラッグを(多くはキャッチコピーを通して)ドラッグカルチャーへと変え、すべてのドラッグ依存症者を社会復帰させるために貨幣(入院費、治療費、交通費、等々)をダイナミックに流動させ、復帰した順に再労働力商品化し、さらなる剰余価値の生産と利子を生む資本の再生産過程を絶え間なく稼働させるに至っている。
「この圧倒的な崩壊の背後に隠された何か、曙と夜を等しくしてしまう何かを、外に引っ張りださなければならず、《それは役立ち》、まさに《私の磔刑》を通じて役立たねばならなかった」(アルトー『タラウマラ・P.78』河出文庫)
アルトーは儀式に付きものの全体主義的ダンスを否定する。ダンスが全員で行われる行為であるにせよ、それはあくまで「《私の磔刑》を通じて役立たねばならなかった」と述べる。中南米に本来的な儀式が残っていた時代、ペヨトル抽出物を用いた儀式で出現していたのはペヨトル摂取による「《私》のペヨトル化」ということだったのであり、その儀式(シグリ)は「人間そのもの」だと語られる。ペヨトル摂取がまだ共同体の中で必要不可欠な儀式としての価値を持っていた時代が《かつてあった》(今はもうない。かつての模倣だけがある)ということだ。そして「人間そのもの」はけっして個体として捉えることができない流動性なのであり、したがってドゥルーズとガタリとの対話から生まれた「千のプラトー」で言われている「生成変化」であるということができる。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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