2009年4月1日の記事「『軸』のズレ ~エジプト、パリ、そして東京~」の書き出しは、
通勤の途中、ふと東京駅周辺の案内図が目に止まりました。
東京駅を境にして、丸の内側の行幸通り(青い線)と八重洲側の八重洲通り(赤い線)と、微妙に角度が違うんです。
というものでした。
そして、
江戸時代には現在の東京駅の辺りに江戸城の外堀があって、外堀の内側と外側とで町割に角度のズレが生じていたようです。どうして軸をずらして街を作ったのでしょうねぇ。
「江戸の歴史」系の本は結構持っているはずなんですが、肝心の数冊は実家に置いてあるようで見つかりませんでした。里帰りした時にでも探してみます。
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城下町東京―江戸と東京との対話 価格:¥ 2,243(税込) 発売日:1987-04 |
なんて書いたのですが、そのまま2年近くも放置しておりました
ところが、きょう、実家の書棚から正井泰夫著「城下町東京 江戸と東京との対話」を引っ張り出して読んでいたところ、かなり気になる記述
に出会いました
それは、中央通りが日本橋を境に約45度の角度で折れ曲がっていることについて、
内藤昌氏が指摘しているように(『江戸と江戸城』鹿島出版会)、渦巻型の江戸の濠は、そのまわりの道路網パターンにも大きな影響を与えた。京都式の全体をおおう直行路、つまり方格地割では、この渦巻型としっくりいかなかったのだろう。
とあったのですよ
つまり、私が着目した行幸通りと八重洲通りではなく、行幸通りと直行する大名小路、八重洲通りと直行する日本橋通り(東海道)、そして馬場先濠と外堀に注目するべきであったのではないかということ
さっそく、「城下町東京 江戸と東京との対話」の綴じ込み付録の「大江戸新地図」を見ますと、
行幸通りと直行する大名小路は馬場先濠と平行である一方、八重洲通りと直行する日本橋通り(東海道)(日本橋~京橋)は外堀と平行につくられていることがよく判ります。
なぁ~るほど デス
いやはや、新年早々、目からウロコでございます。
外堀の上に(沿って)造られたと思っていた東京駅が、東京メトロ丸ノ内線の東京駅は馬場先濠に沿って(=大名小路と平行に)、そして、JR(旧国鉄)の東京駅舎は馬場先濠に沿って(=大名小路と平行に)とも、外堀に沿って(=日本橋通り(東海道)と平行)とも言えない微妙な角度で造られていたことが、事情を複雑にしていたことがよく判りました。
個人的には、なかなかな発見をした気分でございます。