新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

南東北ドライブ旅行記 #2-7

2017-09-15 22:17:40 | 旅行記

「南東北ドライブ旅行記 #2-6」のつづきです。

上杉鷹山を始め、上杉景勝直江兼続細井平洲竹俣当綱莅戸善政を祀る松岬神社の前を通り、

本丸跡にある上杉神社に向かいました。
Google Mapでみると、いかにも城跡なんですが、

実際に歩くと、もともと平城だったし、当時の建物が皆無なこともあって、ただの公園を散策している気分…

それでも、上杉神社に近づくと、「毘」「龍」の旗印がひるがえり、上杉~ぃ って感じ

しかも、拝殿前では、御神輿出陣(?)に向けてお化粧の真っ最中でした。

そして、ダイジェストでも書いたように、明治建築界の巨匠伊東忠太が設計したという、社殿を鑑賞しつつ、お参りしました。

伊東忠太といえば、築地本願寺とか、こちらで書いた伝道院とか、

現在改修中で、素晴らしい収蔵品東京国立博物館避難中大倉集古館とか、なんというかけれん味たっぷりすぎる(ように見える)建築を思い浮かべるところですが、伊東忠太が自分の生まれた地・米沢に残した上杉神社社殿は、オーソドックスなスタイルで、え" 伊東忠太の設計ですと と驚いてしまいます。

もしかすると、自分のふるさとの心臓部のようなところ(伊東忠太が生まれたのは江戸時代最後の年慶応3年)にある建物だからこそ、自分を消したのかもしれません

ところで、上杉神社の由来を、いただいた「しおり」から転記しますと、

御祭神 上杉謙信公
天正6年(1578)3月13日、戦国の名将上杉謙信公が越後の春日山城に49歳で急逝された時、その遺骸を城中不識庵に仏式を以て鎮際されたのであるが、2代景勝公が会津を経て米沢に移封されるに当たり、祠堂を米沢城内に移して仏祭を厳修されて来た。

明治の世を迎え祠堂のまま神祭に改め、米沢藩中興の名君鷹山公を合祀して上杉神社と称し県社に列し、同9年には新たに神殿成り、遷座祭を行う。
明治35年、往時の勤王の功により別格官幣社に列せられる。(鷹山公は新たに摂社として松岬神社を創立して正面壕の外に鎮座)先年の神社制度の改革によって社格を廃して現在に至る。

だそうで、明治に入ってから神社になったんですな。
自ら「毘沙門天の生まれ変わり」と信じていた謙信公ですから、仏式じゃなきゃだと思うのですが、ここでもまた「廃仏毀釈」なんですかな?

「#2-8」では米沢が誇る「お宝の数々を拝見した話を書きます。

コメント
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