新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

南東北ドライブ旅行記 #2-8

2017-09-20 23:15:22 | 旅行記

「南東北ドライブ旅行記 #2-7」のつづきです。

上杉神社にお参りして、その社殿をしげしげと鑑賞したあと(素人目には普通の神社でした)、上杉家由来のお宝を拝見しようということで、まずは、上杉神社の宝物庫稽照殿へ。

と、その前に、こんな石碑がありました。

艶のある石に刻まれた碑文は、光線の関係で激しく読みづらい のですが、「赤穂事件殉難追悼碑」です。

赤穂事件、世に言う「忠臣蔵」事件は、「#2-6」で書いたように、米沢藩にとって「身内の事件」でした。

なにせ、吉良上野介義央正室は、米沢藩2代藩主上杉定勝で、3代藩主綱勝富子だし、赤穂事件が起こったときの4代藩主綱憲は、吉良義央の長男その人だし、吉良家当主義周は、上杉綱憲の実子という状況だったのですから…。

せっかくですので、「赤穂事件殉難追悼碑」の碑文を採録しておきましょう。

元禄15年(1702)、12月15日黎明、浅野内匠頭家臣数十人、吉良の本所邸を取り囲み狼藉に及ぶ
夜陰と言い、急変不意に依って利を失い、義央公害し給う

上杉家附人吉良の御小姓討死
5代綱憲公病床に在り、異変を聞こし召し驚嘆し給い、7手士隊中3組、御馬廻馬上、其外士卒を以って急ぎ本所へ馳着き、一人も洩らさず討取るべしと御下知あり
己に出勢に及ばんとする処に、高家畠山下総守櫻田邸に馳来り、老中下知の趣を演達抑留せらる
綱憲公孝道を捨て、公聴の下知を承け出勢の士卒を止められ、米沢藩15万石の静謐を保つ
宝永元年6月2日綱憲公ご逝去、同年8月8日義央公室(三姫)没、宝永2年閏4月綱憲公正室没、
宝永3年1月20日左兵衛義周配所上諏訪高島城に没す
赤穂浪士事件の為に上杉家の不幸後年に及ぶ
星霜茲に280余年乃ち其の殉難の士を悼惜、藩侯哀史の実正を表白追念し勒して後昆に傳う。

かなり難しい文章ですが(改行位置を調整しました)、要は、赤穂事件の巷間伝えられる「物語」の陰にある上杉家&吉良家受難の歴史も胸に留めてほしい、ということだと解釈します。

米沢藩は、2代藩主・定勝の治政以降、減封やら赤穂事件やらと、悲惨な時代を過ごし、9代藩主治憲(鷹山)による藩政改革を待つことになったんですなぁ…

そんな事情もあり、上杉家伝来のお宝は、謙信⇒景勝の時代のものと、治憲の時代書状の類のものに絞り込まれてしまうようです。

で、拝観料400をお納めして稽照殿に入りますと、例のもの現物が、さりげなく展示されていました。

「愛」前立どぉ~んと目立つ、直江兼続所用の「金小札浅葱糸威二枚胴具足」です。
ご多分にもれず稽照殿の館内は撮影禁止でして、写真はございませんので、あしからず。

上杉景勝の家臣にして、「山城守」公式な官職を持ち、かの「直江状」徳川家康喧嘩を売り、そして、大名の陪臣ながらNHK大河ドラマの主人公に取り上げられた直江兼続安土桃山時代を語る上で欠くことのできないキャラですなぁ。

去年のNHK大河ドラマ「真田丸」では、渋い声村上信吾さんが直江兼続を演じていて、その渋い声直江状の全文の朗読が聞けて、非常に舞い上がった私ですが、内野聖陽さん演じる徳川家康が、直江状を読んで怒り狂い直江状を木っ端みじんに破りまくるシーンを観て、はて、家康が直江状を破り捨てたとすれば、その文はどうやって後世に伝えられたのだろうか…という疑問を持った次第です。
下書きが残っているのでしょうか…

と、今回もほとんど前に進めませんでしたが、ここまで。

つづき:2017/09/25 南東北ドライブ旅行記 #2-9

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