「南東北ドライブ旅行記 #2-7」のつづきです。
上杉神社にお参りして、その社殿をしげしげと鑑賞したあと(素人目には普通の神社でした
)、上杉家由来のお宝
を拝見しようということで、まずは、上杉神社の宝物庫・稽照殿へ。
と、その前に、こんな石碑がありました。
艶のある石に刻まれた碑文は、光線
の関係で激しく読みづらい
のですが、「赤穂事件殉難追悼碑」です。
赤穂事件、世に言う「忠臣蔵」事件は、「#2-6」で書いたように、米沢藩にとって「身内の事件」でした。
なにせ、吉良上野介義央の正室は、米沢藩2代藩主・上杉定勝の娘で、3代藩主・綱勝の妹の富子だし、赤穂事件が起こったときの4代藩主・綱憲は、吉良義央の長男その人だし、吉良家当主・義周は、上杉綱憲の実子という状況だったのですから…。
せっかくですので、「赤穂事件殉難追悼碑」の碑文を採録しておきましょう。
元禄15年(1702)、12月15日黎明、浅野内匠頭家臣数十人、吉良の本所邸を取り囲み狼藉に及ぶ
夜陰と言い、急変不意に依って利を失い、義央公害し給う
上杉家附人吉良の御小姓討死
5代綱憲公病床に在り、異変を聞こし召し驚嘆し給い、7手士隊中3組、御馬廻馬上、其外士卒を以って急ぎ本所へ馳着き、一人も洩らさず討取るべしと御下知あり
己に出勢に及ばんとする処に、高家畠山下総守櫻田邸に馳来り、老中下知の趣を演達抑留せらる
綱憲公孝道を捨て、公聴の下知を承け出勢の士卒を止められ、米沢藩15万石の静謐を保つ
宝永元年6月2日綱憲公ご逝去、同年8月8日義央公室(三姫)没、宝永2年閏4月綱憲公正室没、宝永3年1月20日左兵衛義周配所上諏訪高島城に没す
赤穂浪士事件の為に上杉家の不幸後年に及ぶ
星霜茲に280余年乃ち其の殉難の士を悼惜、藩侯哀史の実正を表白追念し勒して後昆に傳う。
かなり難しい文章ですが(改行位置を調整しました)、要は、赤穂事件の巷間伝えられる「物語」の陰にある上杉家&吉良家受難の歴史も胸に留めてほしい、ということだと解釈します。
米沢藩は、2代藩主・定勝の治政以降、減封やら赤穂事件やらと、悲惨な時代を過ごし、9代藩主・治憲(鷹山)による藩政改革を待つことになったんですなぁ…
そんな事情もあり、上杉家伝来のお宝は、謙信⇒景勝の時代のものと、治憲の時代の書状の類のものに絞り込まれてしまうようです。
で、拝観料400円をお納めして稽照殿に入りますと、例のもの、現物
が、さりげなく展示されていました。
「愛」の前立がどぉ~ん
と目立つ、直江兼続所用の「金小札浅葱糸威二枚胴具足」です。
ご多分にもれず稽照殿の館内は撮影禁止でして、写真はございませんので、あしからず。
上杉景勝の家臣にして、「山城守」の公式な官職を持ち、かの「直江状」で徳川家康に喧嘩を売り、そして、大名の陪臣ながらNHK大河ドラマの主人公に取り上げられた直江兼続、安土桃山時代を語る上で欠くことのできないキャラですなぁ。
去年のNHK大河ドラマ「真田丸」では、渋い声の村上信吾さんが直江兼続を演じていて、その渋い声で直江状の全文の朗読が聞けて、非常に舞い上がった私ですが、内野聖陽さん演じる徳川家康が、直江状を読んで怒り狂い
、直江状を木っ端みじんに破りまくる
シーンを観て、はて、家康が直江状を破り捨てた
とすれば、その文はどうやって後世に伝えられたのだろうか…という疑問を持った次第です。
下書きが残っているのでしょうか…
と、今回もほとんど前に進めませんでしたが、ここまで。
つづき:2017/09/25 南東北ドライブ旅行記 #2-9