新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

6年ぶりの鹿児島旅行記 #3-5 (完結編)

2017-09-24 13:02:10 | 旅行記

「6年ぶりの鹿児島旅行記 #3-4」のつづきは、いよいよ鹿児島旅行記完結編です。

帰りの飛行機までの繋ぎとして(いわゆる「時間つぶし」)観覧した維新ふるさと館だったのですが、気がつけばもう12:30近くになっていて、14:30鹿児島空港を出発する飛行機に乗るためには、もうおいとましなければ…

ということで、後ろ髪を引かれる思い維新ふるさと館を後にして、荷物を引き取るべく、ホテルに戻りました。

と、その途中で、、、、

「西郷南州翁宅地跡」がありました。

記念碑はなんとなく墓石っぽい…

説明板を転記しますと、

西郷隆盛が上之園町に移ってきたのは安政2(1855)年29歳の頃です。その前々年に祖父、父、母を相次いで失い、下加治屋町の屋敷を売り借金の返済にあてたといわれています。この屋敷では、弟の吉次郎や従道の結婚式が行われ、妹が嫁ぎ、西郷自身も慶応元(1865)イト夫人と結ばれました。ここに居住していた時期は、西郷の人生も波乱万丈の時代でありました。藩主島津斉彬に才能を認められ、薩摩から日本へと活躍の舞台は広がったものの、その斉彬公が急死、近衛家から保護を依頼されていた僧月照をかくまうことが出来なくなり、共に入水自殺を図り遠島流刑を経験します。その後大久保利通らの助力によって志士として復活した西郷は、抜群の働きで明治維新の英雄と呼ばれるまでになりました。維新後は、参議、陸軍大将として新しい時代の基礎づくりに大きな役割を果たしました。宅地跡の碑は、昭和9(1934)年旧上之園町50番地に建てられましたが、太平洋戦争中に失われたため復元したものです。

西郷隆盛生誕の地は、6年前に拝見しましたなぁ…

生誕の地居宅跡地とは、ホント、目と鼻の先で、地図にプロットするとこんな具合です。

前にも書きましたが、加治屋町周辺は、薩摩藩の下級武士の居住地だったところで(鶴丸城からちょいと離れている)、明治の元勲生誕の地がそこかしこにあります。

ところで、「西郷南州という表記にちょいと引っかかります。

西郷隆盛が、遠島とか政府に出仕していた時期もありますけれど、上之園町を離れて鹿児島中央駅の西側にある武村で暮らし始めたのは明治6(1873)で、その時、隆盛齢45、とても「翁」と呼ばれる年齢とは思えないのですが…
担ぎ上げられるように西南戦争に参戦して亡くなった時でも50歳です。
下野して武屋敷で半ば隠居している最中は、傍から見れば「翁」だったかもしれませんが、50前のまだまだ働き盛りの隆盛を「南州翁」と呼ぶのはいかがなものかと思うしだいです。

   

こうして鹿児島市内観光を終えた私は、リムジンバスに乗って鹿児島空港へ…。

そして、遅い昼食として、今回の旅行で初めて黒豚を食べました。
空港ターミナルビルの中のレストランポークステーキを食べたのですが、正直、どうってことのない感じ
お気に入りの、那覇空港アグー豚のトンカツには、遠く及ばない…。

さて、帰りの飛行機から桜島は見えるのだろうか?ワクワクしていたのです、鹿児島空港を飛び立った飛行機は、桜島の手前からに進路を取り、宮崎をかすめて太平洋上に出ました。

私の座席左側でしたので、結局、桜島は見えませんでした

でも、2泊3日の旅行中、桜島を、遠くから&近くから思う存分拝見して、6年前リベンジを果たしましたので、良しとします。

肝をつぶすできごと もありましたけれど、天候にも恵まれ、良い旅になりました。
肝心の「Misia Candle Night 鹿児島・仙巌園」2 days 最高 でしたし…。

ということで、とっぴんぱらりのぷう

コメント
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