新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

名古屋にSOUL JAZZ旅行 #2-2

2017-09-17 21:09:51 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「名古屋にSOUL JAZZ旅行 #2-1」のつづきです。

今年2月、私はガラケーからスマホに乗り換えました(こちらの記事をご参照方)。
ご多分にもれず、私もいろいろなアプリをインストールしたわけですが、その一つに、JAF(日本自動車連盟)デジタル会員証があります。

これまで私、JAFの会員証は、クルマに乗せたカードホルダーに入れっぱなしでした。
これでも、JAFのロードサービスが必要になった場合(私は、2度、自宅駐車場で、バッテリーあがりでお世話になりました。平日ならほぼ毎日クルマを走らせている現在の「カーライフ」ではあり得ないシチュエーションですが…)、クルマのセンターコンソールに入れたカードホルダーから会員証を取りだしてJAFのサービスマンに見せるには、何の問題もありませんでした

ただ、世の中にはJAFの会員証を見せると入場料・料金が割引される施設がけっこうあるもので、窓口でJAFの優待サービスがあることを知って、「JAFの会員証を持ってくるんだった…となったことが何度もありました。
それが、スマホがJAFの会員証代わりになれば、クルマで出かけたとき以外でも、優待を受けられるっつうわけです。

で、トヨタ博物館、施設の性格上、JAFの優待がないはずはないだろう という目論見どおり、JAFの優待がありまして、団体料金(一般:1,000円⇒800円)で入館できました

考えてみれば、JAFの優待を使ったのは、これが初めてなんだなぁ

   

トヨタ博物館に入館して最初に展示されていたのは、

トヨタ2000GTでした。
このモデルは、レース仕様でして、

1967年、トヨタは最大の輸出市場であるアメリカにおける企業イメージの向上と技術成果のフィードバックを目的に、米国トヨタ内にレース部門を新設。レース活動は、シェルビー・アメリカンに委託。SCCA Cプロダクションクラスに向けて、予備車1台を含む計3台の2000GTがレースカーに仕立てられた。
ノーマルからの主な変更点は、エンジン出力が約200HPまで高められ、レース専用のタイヤとホイールやサスペンションなどにより車高が約60mm下げられたことなどで、レースに向けた様々な改良が加えられている。

だそうです。
そして、

本車両は(1968年の13のレースシリーズに参戦し)総合3位の成績を収めた実車両で、6月4日(日)に開催された「TOYOTA 2000GT 生誕50周年祭」に参加するため、アメリカより運び込まれたもの。(現オーナーの) Craig Zinn氏のご厚意により6/25(日)まで当館にて展示の予定。

ということで、今、トヨタ博物館に行っても観られませんので悪しからず…

それはともかく、きれいな曲線です。
しかも、小ぶりなサイズイイ
スポーツカーはこれくらいの大きさじゃないとなぁ… と思います。

   

さて、「お約束」っぽいトヨAA型乗用車[1936] (ただしレプリカ)を眺めて、

エスカレーターで2階に昇り、いよいよトヨタ博物館「本編」が始まります のはずなんですが、ここでまた寄り道…

「トヨタ初の生産型乗用車」だという「トヨダAA型」、「トヨ」ではなく「トヨ」ですのでお間違えなく

この辺の事情(?)について、トヨタのHPの説明を転記しておきましょう。

トヨタ自動車の「トヨタ」は、創業者豊田佐吉の苗字、「豊田(トヨ)」に由来します。じつは、初期の乗用車に添えられたエンブレムは、漢字の読みをそのままローマ字で表記した「TOYODA」でした。しかし、この会社名であり、かつブランド名であった「トヨダ」は、1936年に行われた「トヨダ・マーク」の懸賞募集を経て「トヨタ」へと変わることになります。
この変更の理由は、まず「トヨダ」よりも「トヨタ」のほうが、濁音がなく、さわやかで言葉の調子もいいこと。そして日本語で「トヨタ」と書いた場合、総画数が縁起がいいとされる「8画」になること。さらに創業者の苗字である「トヨダ」から離れることで、個人の会社から社会的企業へと発展するという意味も込められていました。

だそうです。
「トヨかトヨか」については、こちらの記事でも書いておりますので、ご興味がおありでしたらどうぞ

で、「トヨダAA型」運転席周りは、今のクルマと違って極めてシンプル

一方、後部座席は、シンプルなのは前席と一緒なんですが、なんともエレガント です。

アシストグリップの代わりにタッセル付きの紐がぶら下がっているんですから

現在、アシストグリップの代わりにこんなをぶら下げることは認められているのか、車の保安基準とか協定規則とかをザッと見たのですが、あまりにも詳細かつ複雑な規定で、真相究明はあきらめました…
そして、負け惜しみ的に、こんな事細かな規定が、「非関税障壁だと突っ込まれる由縁なのかもしれないな、と思った次第。

例によって、酔っ払った引き手が、左右には動くのだけれど、山車さっぱり前に進まない状況みたいになってしまいましたので、きょうはここまでといたします。

つづき:2017/09/21 名古屋にSOUL JAZZ旅行 #2-3

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南東北ドライブ旅行記 #2-7

2017-09-15 22:17:40 | 旅行記

「南東北ドライブ旅行記 #2-6」のつづきです。

上杉鷹山を始め、上杉景勝直江兼続細井平洲竹俣当綱莅戸善政を祀る松岬神社の前を通り、

本丸跡にある上杉神社に向かいました。
Google Mapでみると、いかにも城跡なんですが、

実際に歩くと、もともと平城だったし、当時の建物が皆無なこともあって、ただの公園を散策している気分…

それでも、上杉神社に近づくと、「毘」「龍」の旗印がひるがえり、上杉~ぃ って感じ

しかも、拝殿前では、御神輿出陣(?)に向けてお化粧の真っ最中でした。

そして、ダイジェストでも書いたように、明治建築界の巨匠伊東忠太が設計したという、社殿を鑑賞しつつ、お参りしました。

伊東忠太といえば、築地本願寺とか、こちらで書いた伝道院とか、

現在改修中で、素晴らしい収蔵品東京国立博物館避難中大倉集古館とか、なんというかけれん味たっぷりすぎる(ように見える)建築を思い浮かべるところですが、伊東忠太が自分の生まれた地・米沢に残した上杉神社社殿は、オーソドックスなスタイルで、え" 伊東忠太の設計ですと と驚いてしまいます。

もしかすると、自分のふるさとの心臓部のようなところ(伊東忠太が生まれたのは江戸時代最後の年慶応3年)にある建物だからこそ、自分を消したのかもしれません

ところで、上杉神社の由来を、いただいた「しおり」から転記しますと、

御祭神 上杉謙信公
天正6年(1578)3月13日、戦国の名将上杉謙信公が越後の春日山城に49歳で急逝された時、その遺骸を城中不識庵に仏式を以て鎮際されたのであるが、2代景勝公が会津を経て米沢に移封されるに当たり、祠堂を米沢城内に移して仏祭を厳修されて来た。

明治の世を迎え祠堂のまま神祭に改め、米沢藩中興の名君鷹山公を合祀して上杉神社と称し県社に列し、同9年には新たに神殿成り、遷座祭を行う。
明治35年、往時の勤王の功により別格官幣社に列せられる。(鷹山公は新たに摂社として松岬神社を創立して正面壕の外に鎮座)先年の神社制度の改革によって社格を廃して現在に至る。

だそうで、明治に入ってから神社になったんですな。
自ら「毘沙門天の生まれ変わり」と信じていた謙信公ですから、仏式じゃなきゃだと思うのですが、ここでもまた「廃仏毀釈」なんですかな?

「#2-8」では米沢が誇る「お宝の数々を拝見した話を書きます。

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ヘ音記号の秘密(?)

2017-09-13 22:09:04 | MISIA/音楽

昨夜のNHK FM「MISIA星空のラジオ」は、久々の生放送でした。

河口湖での「Misia Candle Night」音源披露はもちろんのこと、Twitterでのリスナーのリアルタイムの反応がまた楽しくて、個人的にかなり盛り上がりました

この盛り上がり頂点に達したのは、MISIA「一段譜って何だろ」「二段譜って何だろ」と話したときのこと。
すかさずTwitterには、「一段譜はメロディとコードだけ~の楽譜だよ♬*゜」というのがいくつもアップされ、私もこんな「トゥウィート」をしました。

昨夜の私のTweet

すると、MISIAは、一段譜に関するミカリンnewさんのTweetに続いて、私のも後半部分だけ読んでくれました (二段譜)

二段譜

ひやぁ~ だったんですが、私のHNは、「つ…」で終わってしまい、読まれることはありませんでした

で、私がTweetした「近々、『へ音記号』をネタにブログを書こうと思っていたんだけど」というのは、正真正銘、ホントのことでして、きのうの帰りのクルマの中で構想を練っておりました

こんなタイミングですし、「へ音記号」のことを書くことにします。

   

「へ音記号」は、一般的には知名度は高くないかもしれませんが、「ト音記号」なら、小学生でも知っているはずです。

ト音記号五線譜の冒頭に書かれている(ことの多い)こちらの記号です。

どんなところで使われている記号かは、ほとんどの人が知っているとしても、なぜ「ト音記号」という名前なのか、何の形なのか、何を意味しているのかは知らない人が多いのではなかろうかと思います。

実はこの形、アルファベットの「G」の変形でして、その「G」の中心が、「Gの音」、日本式には「トの音」を示しているのですよ。

ト音記号それを図解すれば、右図のようになります。

ね、「G」の形だし、「G=ト=ソ」の場所を示していますでしょ。

「へ音記号」も同様でして、

へ音記号言われてみれば、アルファベットの「F」に見えないこともない…

そして、この記号が「F=ヘ=ファ」の場所をどうやって示しているのかといいますと、、、これがこのブログの本題でして、私は中学校の音楽の授業で、こんな風に教わりました。

左側の丸みを帯びた「フ」みたいなのが、形のとおり「お尻」で、二つの点で挟まれた部分が「お尻の穴」、そして、そこから出てくるのが「ヘ

なんとも尾籠な話で恐縮してしまいますが、これほど心に響く説明を聞いたら、一生忘れられません

この話をしてくださった音楽の先生、私の中学1年と3年の時の学級担任であり、かつ、部活(ブラバン)顧問の先生でして、いろいろお世話になったわけですが、このネタをご教示いただいただけでも、一生の宝をいただいた気持ちです。

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6年ぶりの鹿児島旅行記 #3-3

2017-09-12 22:07:25 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「6年ぶりの鹿児島旅行記 #3-2」のつづきです。

陸上競技「砲丸投げ」という種目があります。
一般男子なら直径11~13cmで重さが7.26kg、一般女子なら同9.5~11cm4kg鉄の玉を放り投げて、その距離を競うという、村祭り的な風情(?)を持つ競技です。

砲丸 7.26kg 練習用 砲丸投げ
SmartCustom
SmartCustom

その名のとおり、大砲の弾みたいな鉄球を投げるわけで、その鉄球(砲丸)は、見た目はただの球っぽいのですが、造るとなると、重心球の中心に持っていくのが大変なんだそうな(Wikipediaをご参照方)。パチンコ玉ベアリング球との違いみたいなものでしょうかねぇ

   

さて、鹿児島市加治屋町にある「維新ふるさと館」に、薩英戦争で使われた砲弾が展示されていました。

球状(まさしく砲丸投げ鉄球)のものが、薩摩藩が撃ちまくった砲弾で、巨大な銃弾のようなものが、イギリス軍軍艦から撃った砲弾だそうです。

見た目から想像がつくように、その性能の差歴然としておりまして、説明パネルによれば、

イギリス軍「後装式加農砲(アームストロング砲)」薩摩藩「前装式加農砲」を比べると、

:後装式 :前装式 ⇒ 操作性:英>薩
:ライフリング付き :滑腔砲 ⇒ 精度:英>薩
:直線的な弾道 :放物線のような弾道 ⇒ 射程:英>薩

と、いかにも薩摩藩には勝ち目がなさそう

ところが、「大砲は劣るが、扱いじゃ負けない!」と題する説明パネルには、

薩英戦争で、薩摩軍は世界最強のイギリス海軍を相手に善戦しました。大砲の性能と威力は段違い。それでもコテンパンにやられなかったばかりか、イギリス軍を撃退できたのは、砲台の配置がすぐれていたことと、日頃の訓練の成果だったといわれています。

と書かれています。
ほんとかぁ~ なんですが、Wikipediaによれば、確かに人的被害は、一般領民を含めてもイギリス軍の方が大きかったし、イギリス軍を撤退させたというのも、

当時の世界最強のイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退した結果となったのは西洋には驚きであり、当時のニューヨーク・タイムズ紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」とし、さらに、「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう」とも評している。

事実のようです。
結局、薩摩藩イギリス軍賠償金を支払って和睦、という決着をみたわけですけれど、薩摩藩賠償金幕府から借りて支払い、その幕府からの借金を踏み倒すという暴挙に出たことから、金銭的な損害は最少に収め、かつ、攘夷無謀さ体感し、かつ、イギリスとの間で互いに相手に敬意を持ったという後日談を知れば、薩摩藩にとって大きな収穫を得たのだなぁと思います。

ところで、イギリス軍大砲(艦砲)「ライフリング付き」だったわけですが、「ライフリング」とは、Wikipediaから引用しますと、

銃砲の銃砲身内に施された螺旋状の溝を意味し、日本語では施条(しじょう)、あるいは腔綫(腔線)(こうせん、綫は線の別体。常用漢字でないため「線」と書くこともある)、もしくは腔施と呼ぶ。この螺旋状の浅い溝で銃身内で加速される弾丸に旋回運動を与えジャイロ効果により弾軸の安定を図り直進性を高める目的で用いられる。

というもの。
「ライフル銃」「ライフリングが施された銃」という意味なんですな。
もっとも、ライフル銃だけでなく、拳銃でもライフリングがつけられていて、ライフリングの痕として弾丸に残った傷(線条痕)から、それを発射したを特定する重要な手掛かりになっているらしい。

下の写真は、かつて、小倉城趾で見た大砲です。
ライフリングが見えますでしょ。

ちなみに、現代の最新式の戦車や大砲は、ライフリングはなくすっべすべ「滑腔砲」が主流だそうです。

砲身の内部にらせん条の腔線(ライフル)を施さない滑腔砲は、装薬の爆発エネルギーを回転運動に消費せず砲弾が飛行するため、従来型のライフル砲より貫通力が高い

というのが滑腔砲採用の理由だそうですが、これでは精度と射程が犠牲になるのではないかと思いますよね。

そこは、砲弾「進化」で対応しているそうで、現在、戦車など滑腔砲で使われる「砲弾」はこんな格好をしています。

APFSDS(離脱装弾筒付翼安定式徹甲弾)という砲弾で、大砲超強力吹き矢になったって感じ。

こうした「進化」人類に幸福をもたらすものなのか疑問ですが、抑止力としては機能するのでしょう。
実際には使われるようなことがないことを祈りたいものです。 

というところで、平日のきょうはここまで。
物騒な記事になったことはご容赦くださいませ。

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「藝祭」をチラ見

2017-09-10 17:47:29 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

東京藝術大学大学美術館で開催中の「藝『大』コレクション」展第1期を観てきた話はこちらで書いたとおりで、私は「第1期と第2期のいずれかを2回ご覧いただくこともできます」という2回券を購入しておりました。

そして、先週半ば、第2期はいつまでだろうか? と思いついて、調べると、なんとなんと、9月10日(日)で終わりではありませんか

危ない、危ないこの週末しかチャンスがない

というわけで、きのう、「藝『大』コレクション」展第2期を観に行ってきました。

考えてみれば、8月11日から始まった第2期、その8月11日から1週間にわたって(つまり週末から翌週末まで)帰省していましたし、その翌週Misia Candle Night河口湖に出かけたわけで、結構多忙な週末が続いていました。
もっとも、上野に出かけるだけの余裕はありましたけれど…

先週はずっとぱっとしない空模様酷い湿気ウンザリでしたが、きのうは(きょうも)いかにも秋 って感じのきれいな青空乾いた空気で、お出かけ日和

で、上野公園に着くと、かなぁ~りの人出でした。
そして、竹の台広場の噴水池を過ぎ、東京国立博物館(トーハク)東京都美術館の間の林のようなところを通って東京藝大を目指したのですが、いつもなら、怪しげな集会(炊き出し?)の参加者でちょいと近寄りがたいこの「林のようなところ」では、東京藝大の学生によるフリーマーケットが開催されていまして、人でごった返していました。

そして、ここに来て、東京藝大の学園祭「藝祭」の当日であることに気づきました。

いつもなら静か東京藝術大学大学美術館の前もスッゴい賑やか

藝祭といえば、神輿が名物なわけで、美術館前にも2基が展示されていました。

   

藝祭見物したいところではありますが、まずは「藝『大』コレクション」展 第2期を観ました。

1期と第2期とでは、展示作品の半分くらいが入れ替わっている感じで、冒頭は両期とも、

月光菩薩坐像「五体不満足」月光菩薩坐像でした。

両腕とお腹、そして右足首から下が失われていますが、それでもなお素晴らしい仏さんです…

東京藝大のあと、トーハクの本館を一回りしたところ、この月光菩薩相方日光菩薩坐像が展示されていました。

トーハクでは、

もと京都府亀岡市の金輪寺に安置されていた薬師三尊像だったが、のち交流があったとみられる京都市の高山寺に移された。薬師如来像はいまも当寺に残るが、明治22年に両脇侍像が東京美術学校(現東京藝術大学)に収蔵され、うち日光菩薩像は当館に入り、広く親しまれてきた。

という説明と共に、「薬師三尊像-制作当初の構成-」という写真が添えられていました。

もとは一緒に鎮座していた3体の仏像が、3ヵ所に分かれているのは、なんかもの悲しいですな。

話を「藝『大』コレクション」展に戻しまして、第2期の展示作品の中で、妙に惹かれたのは、 

伊東深水「銀河祭り」でした。

七夕の笹飾りの下、水を張ったたらいの前で、若い女性が赤い糸を持って何かしています。
何をしているのか判らないけれど、なんときれいな絵なんでしょ

私、「美人画」というジャンルにはあまり興味は無いし、伊東深水の作品もあちこちで何度も拝見しましたが、この作品のステキさ衝撃といっても良いかも…。

ちなみに、図録の解説によれば、

七夕の宵、盥の水に星を映し、針に糸を通すことで娘たちが裁縫の上達を願うという風習があった。江戸時代からの美人画の好画題である。

だそうです。

「お持ち帰り」できる作品を選ぶとしたら、この「銀河祭り」最有力候補かも…。
山口晃自画像と、原田直次郎「靴屋の親爺」(こちらの記事をご参照方)も魅力的なんだけど…。

こうして、「藝『大』コレクション」展 第2期もたっぷりと楽しませていただきました

   

東京藝大美術学部のキャンパスには、東京藝術大学大学美術館に来ると必然的に足を踏み入れることになりますが、音楽学部のキャンパスには一度も入ったことがありません。
以前から気になっている建物もあることですし、藝祭のタイミングを活用して中に入ってみよう ということで、音楽学部キャンパスへ。

校門の外からチラ見しては気になっていた建物がこちら。

音楽学部キャンパスへの出入りに睨みを利かしている第2守衛所です。

美術学部に入口にある第1守衛所何のへんてつもない建物ですが、こちらはかなぁり魅力的です

大学の守衛所としては、こちらの記事で取り上げた北大植物園門衛所とか、

龍谷大学旧守衛所(重要文化財)とか、

ブログには書いていませんけれど、北大「受付」の建物(この建物にH型の煙突反則的なcute)

といった私お気に入りの守衛所に比類する素晴らしさです。
「有名なお寺の拝観券売場です」と言われても違和感を覚えないかも…

と、守衛所の後ろにレンガ造りの建物が見えます。
せっかくですので、じっくり観させてもらいました。

の当たり方が良かったので、もう1

この建物は、「赤レンガ1号館」という芸の無い名前ながら、「明治13年(1880)に竣工された都内に現存する最古のレンガ建築だとか。
そんな貴重な建物なのですが、レンガの表面がかなり荒れて見えます
こちらのサイトによれば、

この建物は、表面をモルタルで固められていたことから、煉瓦造りと知らず1978年(昭和53年)取り壊される運命にあった。
取り壊しのため、表面のモルタルを一部はがしたところ煉瓦が現れたことから、モルタルを全部はがしたところで解体は中止された。
その後、2005年(平成17年)に耐震補強を行い、将来に伝えていくことのできるように改修された。

だそうです
危ないなぁ~

それにしても、ホント、成り行き良いものを見せていただきました。

   

ここでまた藝祭神輿の登場です。

上に載せたハンバーガーPOPで良いけれど、私のイチオシはこちら

の背に乗った神社古びた感じの表現が見事
なのでもう1枚

それにしても凄いです、藝祭神輿

藝祭神輿は、音楽学部美術学部1年生専攻ごとにペアのチームをつくって制作するもので、上に載せた「亀神社」(というのか?) は、音楽学部の「邦楽」美術学部の「日本画」のチームの作品です。

今はどうなっているか判りませんが、私の高校では、文化祭に全クラスがクラスごとに「デコレーション」と呼ぶオブジェを制作する風習があったのですが、大学1年生高校生とは1~3年しか年次は違わないのに、この藝祭神輿レベルの高さときたら…
さすが「アーティストのヒナ」たち一般人とは全然違う…

藝祭開催中の東京藝大模擬店完全無視 してしまいましたが、それでもいろいろと楽しめました

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名古屋にSOUL JAZZ旅行 #2-1

2017-09-09 21:37:02 | 旅行記

「名古屋にSOUL JAZZ旅行 #1-5」のつづきは、名古屋遠征2日目のスタートです。

天気予報によれば、7月1~2日名古屋地方の天気はイマイチで、

私は長い傘を持ってきたのですが(なんてったって梅雨ですし)、ブログでも書いてきたように、なんとも日差しカンカン湿気ムンムンの天候で、自宅を出発してからホテルにチェックインするまで傘はまったく不要でした。
初日の名古屋市内観光の際は、他の荷物と一緒にホテルに傘を預けて行動したのですが、当然のように長い傘を持たずに出かけた「MISIA SUMMER SOUL JAZZ」の初日がはねて、Zepp Nagoyaの外に出ると、なんとが降っていました

私が常々持ち歩いているトートバッグには、超軽量折りたたみ傘非常用(小さいし、風に弱い)として入れておりまして、これを使うことで、前夜のZepp Nagoyaプチオフ会ホテルは濡れずに歩けたのですが、わざわざ長い傘を持ってきていたというのに、まったく… でした。

ところが、一夜明けると、雨は上がり青空が広がっておりまして、それはそれで良いのですが、長い傘邪魔
ビニール傘なら、「あれま、忘れてきちゃった…意図的に「無くす」手もあったでしょうけれど、名古屋に持っていった傘は、2,000円ほど出して買ったものでして、無くすにはもったいない
かといって、好天の下、一日中長い傘を持ち歩くのはアホっぽいし、ちょっと料金は高くなるけれど、名古屋駅大型コインロッカーに入れてしまおうか、と考えて、この日の行動を開始しました。

   

ダイジェストに書きましたように、私は「MISIA SUMMER SOUL JAZZ」2日目には不参加でして、昼下がり新幹線に乗って帰る予定にしていました。

それまでの約6時間、どうやって過ごすのか、いろいろ考えてきたのですが、その行動に移す前に解決するべきは長い傘

長々と「長い傘問題」で引っ張ってしまいましたが名古屋駅中型コインロッカー (500円) に、長い傘旅行用キャリーバッグを無事に入れることができまして、私としましては、妙な達成感に浸ったのでありました。

実は、今、WOWOWで放送された、7月7日「MISIA SUMMER SOUL JAZZ」(9/19 19:30から再放送があります) ライヴを流しながらこの記事を書いているんですが、思わず、音に聴き入り映像に見入ってしまい、ブログはかどらなくて、、、、

   

それはともかく、この日、訪れたのは、長久手町にあるトヨタ博物館でした。

「長久手」と聞いて連想するのは、羽柴秀吉 VS 織田信雄・徳川家康連合軍激突した「小牧・長久手の戦い」なんですが、トヨタ博物館最寄りの芸大通駅の一つ手前が長久手古戦場駅でして、ほぉ~ って感じ…

私が乗ったリニモ(東部丘陵線)の各駅にはシンボルマークが設定されているようなのですが、その意味がよく判らない

福岡市営地下鉄の各駅のシンボルマークは、その駅のある地域を象徴していて、かなりお気に入りなんですが、リニモの各駅のシンボルマークは、単に他の駅との違いを示すだけみたいで、正直、つまらない

で、私は芸大通駅で降りたわけですが、私以外に電車から降りた人ほとんどいませんでした。

芸大通駅は、その副駅名として「トヨタ博物館前」を名乗るだけあって、からトヨタ博物館至近 でした。

初めての場所に行くとき、「人の流れ」有力な情報になってくれるものですが、ここは、周りに人がほとんどいない状況で、ちょいと心細かったのではありますが、すぐ目の前目的地があるわけで、そこは迷いようがありませんでした。

当然のようにトヨタ博物館に到着しました。

なんとなく低めのテンションでやって来たトヨタ博物館でしたが、、、、、その先の話は「#2-2」で…

つづき:2017/09/17 名古屋にSOUL JAZZ旅行 #2-2

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南東北ドライブ旅行記 #2-6

2017-09-08 23:42:59 | 旅行記

「南東北ドライブ旅行記 #2-5」のつづきです。

もうちょいと近くに駐車できればよかったなぁ… と思いながら歩いて、米沢城趾に到着。
まず目に止まったのはこちらの石碑でした。

「米沢牛の恩人 チャールズ・ヘンリー・ダラス」の碑です。

米沢といえば、国内に数あるブランド牛の中でもかなりの知名度を誇る米沢牛を連想する私でありまして、この夜には「米沢牛を食べるぞと心に決めていたのでありますが、このダラスさんのお名前は初めて見聞きしました。

碑文を転記しますと、

チャールズ・ヘンリー・ダラスは、天保13年(1842)英国ロンドンに生まれる。万延元年(1860)貿易商として中国に渡り、文久3年(1863)来日す。明治3年(1870)5月、東京大学の前身である大学南校に語学教師として奉職、明治4年(1871)10月には、旧藩校興譲館洋学舎に洋学教師として招聘される。
明治8年(1875)3月、興譲館の任期が満了し、横浜の外国人居留地に帰る折り、米沢での滞在中に食した米沢産の牛肉が非常に美味だったことから、居留地の仲間に「米沢のおみやげ」として、生きた牛を連れて帰り御馳走した所、その美味しさが評判となる。これが米沢産の牛肉が世に出た最初の出来事となった。またダラスお抱えのコックである萬吉には、米沢で最初の牛肉店「牛萬」を開店させた。
間もなくダラスの伝手により、添川村(現在の飯豊町添川)の生産者は、横浜の牛肉問屋と契約を取付、米沢産の牛を販売するに至った。そこから「米沢牛」の歴史が始まった。このダラスこそが、米沢の牛肉を文明開化の横浜に紹介してくれた「米沢牛の恩人」なのである。

と、全文になってしまいましたが、ダラスさんが米沢から横浜へ「生きた牛を連れて帰り」とありますけれど、どうやって「連れて帰」ったのでしょうか?
山高帽をかぶった英国人紳士が、を牽いて歩く姿を想像しますが、まさか米沢から横浜まで歩いたとは考えづらい…。
とは言え、福島から上野まで鉄道が通じたのは1887年12月(米沢~福島間の鉄道開通は1899年)ですから、やはり歩いたのかなぁ…
でもでも、を連れて歩いたら、それこそ「牛歩」のスピードで、相当、時間がかかったことでしょうねぇ

もう一つ、不思議に思うのは、まだ肉食が全国的に普及してたとは思えない1870年代前半に、ダラスさんが米沢牛肉を食していたということ。
(下の図は、教科書で見た記憶のある「牛鍋を食するざん切り男」の図)

ダラスさんを始め、外国人にとっては普通のことでも、地元の人たちにしてみれば、を食べるなんて、信じられないことだったのではなかろうか…
そもそも、この時に食べられたって、農耕用の牛だったんじゃないのか?

そんなことを考えながら歩を進めると、こちらもまた「米沢といえば…」の、

米沢藩中興の祖として誉れの高い、米沢藩9代藩主上杉鷹山(治憲)公の像がありました。

米沢藩は、初代藩主・上杉景勝会津から転封されてからずっと財政破綻が懸念される「貧乏藩」だったそうですが、財政面だけでなく、「血統」の点でも、上杉景勝が先代当主の上杉謙信だったことを初めとして、綱渡りだったようです。
景勝⇒定勝⇒綱勝と、直系を継いだものの、Wikipediaから引用すれば、綱勝は、

嗣子なく、世嗣も指名しないまま急死する。享年26。本来ならば上杉氏は無嗣子断絶となるところであったが、綱勝の岳父に当たる保科正之の仲介などもあって、綱勝の妹・富子が嫁いでいた高家・吉良義央(清和源氏の名門であり、扇谷上杉家・八条上杉家の女系子孫でもある)の長男・三之助末期養子として綱勝の跡を継ぐことで家名存続を許された。

と、吉良上野介義央の嫡男(綱勝の甥)である綱憲4代藩主に就き、綱憲⇒吉憲⇒宗憲直系が続いたのち、宗憲嗣子がないまま22歳の若さで急死し、「弟・宗房末期養子として跡を継いだ」ものの、宗房までもが「兄と同じく嗣子無くして米沢にて死去」。そして、「跡を同母弟勝政改め重定が継いだ」となります。

この頃の米沢藩は、

減封が相次ぎ、4代藩主・綱憲の末期養子としての襲封を認める代償に15万石にまで減封されたが、藩士召し放ちを行わなかったこともあり、藩財政は極めて劣悪であった。

に更に輪を掛けた状態だった由。
ここで、重定が、

宝暦9年(1759年)に日向国高鍋藩6代藩主・秋月種美の次男・松三郎を養子とする内約を結び、宝暦10年(1760年)に実子が生まれたのにかかわらず養嗣子として迎えた。

ということで登場したのが9代藩主・上杉鷹山(治憲)公です。

実子が生まれたにもかかわらず、養子治憲後継にしたのは、「先約があった」こともあるでしょうけれど、「流れを変えたい」という重定の思いもあったのかもしれません。
ちなみに、重定⇒秋月松三郎(治憲)意表を突く代継ぎですが、

母方の祖母の豊姫が米沢藩4代藩主・上杉綱憲の娘

という「血縁」があります。
でも、宗家からは結構遠い

ところが、中学・高校の歴史の授業では、上杉景勝よりも上杉鷹山(治憲)の方の扱いが大きいのですから、判らないものです。
そして、地元・米沢でも、上杉鷹山(治憲)公をご祭神とする松岬神社が建てられるという慕われ方です。

上杉景勝会津120万石から米沢30万石転封された際、新しい経済規模に見合うよう家臣団を減員することなく引っ越してきたことに端を発する米沢藩の窮乏を救ったことは、家臣団のみならず、領民にとっても大きな業績だと受け止められたのでしょう。

でも、米沢城趾の中心は、やはり上杉謙信でした。

そのお話は「#2-7」で。

つづき:2017/09/15 南東北ドライブ旅行記 #2-7

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6年ぶりの鹿児島旅行記 #3-2

2017-09-06 22:18:59 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「6年ぶりの鹿児島旅行記 #3-1」のつづきも鹿児島市の維新ふるさと館の見聞録です。

入館券にフィーチャーされているのは、御存知、西郷隆盛

大久保利通のお二人です。

お二人とも「維新の元勲」で、鹿児島市内にはお二人の立派な銅像が立っています。(西郷さんの銅像は6年前に撮ったものです)

「西郷さんの銅像」といえば、鹿児島県民・県人の方々には申しわけないけれど、最も知られているのは、こちらでしょう。

上野公園にある銅像です。

腰に短刀は差しているものの、なぜこんな威厳のなさげな像なのか、論議は尽きていませんが、軍服姿鹿児島市の銅像とは違うこの銅像が、西郷さんに対する日本人の感覚(イメージ)を作り上げたことには間違いはないでしょう。

一方、私が明治政府近代国家の「政府」として造り上げた人物として最大限に評価している大久保利通はといいますと、どうやら東京には銅像なさそう…

せいぜい、暗殺現場となった紀尾井町清水谷公園にひっそりと立つ、

「贈右大臣大久保公哀悼碑」くらいのもの…
(紀尾井町から上野へと巡り、この2枚の写真を撮ったときのお話は約5年前こちらの記事をご参照方)

幕末~明治維新歴史的人物人気投票をすれば、大本命◎坂本龍馬で、西郷隆盛上位に食い込むのは必至でしょうけれど、大久保利通は…期待薄

でも、大久保利通がいなければ、あれほどの短期間明治政府機能し始めることはなかったと、私は感じています。

来年のNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」で、大久保利通(演じるのは瑛太さん)がどのように描かれるのか、関心を高めています。

と、冒頭に「『維新ふるさと館』の見聞録」と謳いながらも、西郷隆盛大久保利通のことしか書いていませんが、きょうはここまで
平日だとやはり時間が足りませぬ…

「#3-3」では「『維新ふるさと館』の見聞録」を中心に据えて書きますのでご勘弁を。

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名古屋にSOUL JAZZ旅行 #1-5

2017-09-05 22:20:40 | 旅行記

「名古屋にSOUL JAZZ旅行 #1-4」のつづきは、熱田神宮からほど近い、宮の渡し公園から始めます。

この公園、「#1-4」でも書いたように小ぎれい整備されているのですが、お土産物屋さんどころか、売店なく(飲み物の自販機はある)、なんとも素っ気ない

ただ、四阿(あずまや)ベンチに、を重しに置かれていた観光マップ出色のデキでした

「#1-3」「#1-4」に載せたマップは、この「熱田ぐるりんマップ」から拝借したものですし、マップだけでなく、解説も充実しています。

ブラタモリでも紹介された、名古屋城熱田神宮のある「熱田台地」ゾウの鼻のような形をしていることとか、

この地が「古来から『蓬莱島』(巨大な亀の背に不老不死の神仙の住む島)があったと言われていた」こととか(あのひつまぶし名店の名前の由来ですな)、源頼朝が、母親熱田大宮司(由良御前)で、生誕の地熱田神宮のすぐ隣の現・誓願時(当時は大宮司の別邸だったらしい by Wikipedia)であることなど、へぇ~連発です。

こんなによくできた観光マップが、ひっそりと四阿のベンチの上に、石を重しに置かれているなんて、いくらなんでももったいない

あの観光客無視しているかのようなJR熱田駅置いとけばちょっとは印象が良いのにと思いました。

さて、七里の渡し跡は、基本的に素っ気ないとは言え、常夜灯とか、

時の鐘が復元されていて、なかなかの風情です。

もうちょいとうまく舟付場跡を整備して、

もっとうまく宣伝すれば、良い観光スポットになるのにね…

「#1-1」でも書いたのですが、名古屋の観光関係者は、「国内主要都市8都市で行きたくない街」なんかを調査したり、名古屋の良さは自分たちで分かっていればよい、という意識がある」なんて人ごとのように分析するんじゃなく、せめて普通名古屋の魅力アピールしても、少なくとも損はないんじゃなかろうか…

この関連で書いてしまえば、この後、名鉄・神宮前駅まで歩く途中、地下鉄伝馬町駅の前(上)を通過したのですが、この地下鉄の路線名(名城線)どこにも表示されていないのも、どうかと思いました。

話を「七里の渡し」に戻せば、江戸時代には「七里の渡し」だった宮~桑名は、埋め立てが進んだ現代では、

「十二里の渡し」になっているそうです。

   

私が「七里の渡し」跡の見物を終えたのは15:30頃のことで、これから名古屋駅近くホテルに戻り、シャワーを浴びて一息つこう と考え、神宮前駅を目指しました。

できれば旧東海道を歩きたかったのですが、道を間違えましてこれを見て、あれ? と思った次第…

神宮前駅の前でミー友さんとバッタリ会い、鹿児島からの帰りはどうだった? といった話をしたあと、電車に乗って名古屋駅に戻りました。

そして、ホテルチェックインし、シャワーを浴びてさっぱりし(たっぷりとをかきましたから)、一服して、Zepp Nagoyaへの出撃体勢を整えたのでありました。

つづき:2017/09/09 名古屋にSOUL JAZZ旅行 #2-1

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銀座で展覧会をハシゴ

2017-09-03 21:51:48 | 美術館・博物館・アート

きょうは好天に誘われるように銀座に出かけてきました。

目的は2つの展覧会でして、まずは、

教文館 9F ウェンライトホールで開催されている(17/7/1~10/12)「藤城清治 光と影の楽園展」
藤城さんは、毎年、この会場で個展を開催されていますが、私が藤城さんの展覧会を観るのは、7年前に秋田県横手市の秋田県立近代美術館で観た「光と影のファンタジー 藤城清治の世界展」(記事はこちら)以来、2度目

そんなわけで、初めて教文館 ウェンライトホールでの藤城さんの展覧会でしたが、広くない会場に迷路のように作品が並べられ、展覧会としては珍しくBGM付き。
更に、展覧会としては珍しく写真撮影OK

この「写真撮影OK」について、藤城さんのコメントが掲示されていました。
その一部を転記しますと、

最近、レストランで料理を食べる前にカメラで撮っている情景をよくみます。食事の思い出や、料理の研究が、すごくステキです。私の影絵も、もっと親しんでもらいたいし、作り方を研究して、みんなにまねをして作ってもらい、光と影の美しさを身近に味わってもらいたいのです。作品の一部分をアップで撮ったりするのも楽しいでしょう。いま、日本各地の美術館で開催している私の光と影の展覧会は大規模な展覧会で、また、公立の美術館でもあり、模写や撮影は当然できません。
それだけに、自宅スタジオ展やこの教文館の展覧会のように、わたし個人の企画の小規模な展覧会では、大きな美術館では出来ないことをしてみたいと思って、撮影や模写をOKするという思い切った試みをしたのです。

だそうで、藤城さんご本人のご発案、っつうか、ご希望です。

そんなわけで、堂々と作品のいくつかを写真撮影してきました。

藤城さんの影絵といえば「ファンタジー」のイメージなのですが、

「戦後70年を迎えた原爆ドーム (2015)」はいうまでもなく広島の原爆ドームを描いたもので、にたなびくや、横笛を吹くコビトとか、美しい川面の表現こそ「ファンタジー」ですが、メイン原爆ドーム佇まいは、私が観た原爆ドームそのものです。

もう1点、

こちらは、藤城さんが東日本大震災約1年半後福島を訪れてスケッチを重ねたという「福島 原発ススキの里 (2012)」
こちらは、15:10を差して止まった時計とか、ヒラメの養殖場の残骸を初めとして「廃墟」そのものという感じですけれど、よく観ると、ヒマワリが咲き、川には遡上するサケが描かれています。
そして、

世界がぜんたい 幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない

という宮沢賢治のことばが…。

作品の説明には、

地球も人もあらゆる命はきっと、この災害をのりこえ、生きつづけ、新しい未来をつくってゆくことだろう。この影絵を見た人たちにこの地球に生きるよろこびを感じとっていただければうれしいと思っている。

とありました。
しっかりと感じとらせていただきましたよ

ただ、

帰りに検問で放射能の線量を計ったら、地面に近い椅子に座って長時間描いていたから、他の人の倍くらい高かった。

とあって、ギクっとしました

このほか、「風の又三郎」とか、

雑誌「家庭画報」のために描いた季節感にあふれた作品たちも良かったぁ

さらに、私が大好き飛鳥仏を描いた作品「法隆寺金堂 琵琶をひく天人 (2016)」もあって、トキメキまくり

法隆寺金堂 琵琶をひく天人

そして、これを見逃す手はありえないLOVE BEBOPしているMISIA

いやはや、ニコニコしっぱなしの展覧会でございました。

 

「藤城清治 光と影の楽園展」を観終えて、私が次に向かったのは、教文館から1ブロックしか離れていないシャネルのお店。

高級ブランドにはトンと縁のない私がシャネルに行ったのは、先週金曜日の通勤時に聴いていたJ-WAVE「JK RADIO TOKYO UNITED」で、気になる情報getしたからです。
蛇足の極み ですが、「JK」とは「女子高生」ではなくこの方のことです

で、この朝の「JK RADIO TOKYO UNITED」「FEATURE FOCUS」のコーナーで「東京五輪を撮影した仏・写真家が今の東京に思うこと」と題して紹介されていたのが、CHANEL NEXUS HALLで開催中の写真展「DEPARDON/TOKYO 1964-2016」でした。

この写真展は、

レイモン・ドゥパルドンさんは、1964年、東京オリンピックの時に報道カメラマンとして東京に訪れ、アジア初のオリンピックの熱気を世界に伝えました。それから半世紀以上経ち、ドゥパルドンさんは再び、カメラを手に東京を捉えました。 (中略)
ドゥパルドンさんが22歳の時に映した1964年の非日常に湧く東京と、昨年東京を訪れて撮影した、サラリーマンやショッピングバッグを抱えた女性など今の東京の日常が並べられています。 

というもので、50年以上の時を経て、フランス人カメラマンの目に写った東京がどう変化したのか、興味がわいた、という次第です。

で、会場のシャネルのお店の前まで行ったのですが、、、、、

高級ブランドのお店には付きもののドアマンがいて、なんとも入りづらい…
お店に入るためのドレスコードがあるんじゃないかろうか…と思ったりして…

それでも意を決してCHANEL GINZAに入店して、会場の4FCHANEL NEXUS HALLにエレベーターで昇りました。
このエレベーターがまた…
フロア側の「昇る/降りる」のボタンも、内部の階数指定のボタンも、、、

シャネルのロゴの形になってる…

シャネルには不本意 かもしれませんが、野口哲哉さんの作品「シャネル侍着甲座像」(こちらの記事をご参照方)を連想した私です

こんな感じで、正直、萎縮したままCHANEL NEXUS HALLに入場 (無料です)

「DEPARDON/TOKYO 1964-2016」(使っているロゴと色が、亀倉雄策さんの傑作東京オリンピックのポスターを連想させて、センスの良さを感じます)、ドゥパルドンさんが1964年東京オリンピックを撮った写真(モノクロ)と、昨年、東京を撮った写真(カラー)だけでなく、その間に来日して撮った写真(モノクロ)の3部構成でした。

この3つの対比が、ホント、面白かった

「JK RADIO TOKYO UNITED」ドゥパルドンさんが、「火星に来たようだった」と語っていた1964年の東京は、現代の日本人が観ても、確かに別世界だったし、「一番変わったのは、現代の東京には色彩が満ちていること」と語っていた2016年の東京は、過剰なほどカラフルでした。

一方、この50年の間に撮られた東京の写真は、モノクロという表現と、今はなき「ナショナル扇風機」という商標を除けば、「現代の東京です」と言われても違和感がありません

戦後の日本において、1964年のオリンピック大転換だったのでしょうけれど、その後ジワジワと変化し、現代につながっているのだと、私は感じました。

この辺りが私にとっては面白かったし、2016年の東京を撮ったドゥパルドンさんの視点が、「この風景のどこがドゥパルドンさんの興味を惹いて写真を撮ったんだ?」という疑問を持たせてくれたこともまた新鮮な感覚でした。

きょう観た2つの展覧会、大規模とはいえないものでしたが、いやぁ~、面白かった
展覧会を観るのに、あれほど自分の身なり思いを馳せた展開も貴重かもしれません

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