新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2020年最初の関西旅行記 #4-3

2020-02-16 13:03:01 | 旅行記

「2020年最初の関西旅行記 #4-2」のつづきです。

「#4-2」の最後に

この「謎」を解明できないまま、私は京博から退出し、「#4-2」もおしまいです。

と書きましたが、退出直前から始めさせていただきます

   

京都国立博物館(京博)の次はどこに行こうかと考えながら、団体用出入口と一般用出口に使われている正門付近をしばし見物。

方広寺大仏殿石垣は、低めで、ちょっと変わった組み方ですが、巨石です

旧本館の明治古都館ピッタリ正門は、

その両脇に、中世ヨーロッパ風制服&兜を着用し、を携えた衛兵が立ってたら似合いそう…

実際は、紺色の制服&制帽+マスクを着込んだ警備員さんが一人だけいらっしゃいましたけど…

   

さて、ホント、次はどこに行きましょうか?

このときの時刻は11:40で、帰りの新幹線(予約済み)まで2時間半しかない…。
昼食の時間も考慮すれば、あまり離れたところには行けそうもありません

それならば、お隣の三十三間堂(蓮華王院)を拝観しよう ということに決めました。

三十三間堂は、高校の修学旅行のときが初めてで、その後、記録は残っていないのですが、一度だけ拝観したことがありました。

京博には何度も来ていながらも、三十三間堂拝観しなかったのは、千体千手観音立像のうち数体を寄託先の東京国立博物館で、ほぼ360°からしげしげと拝見したからかもしれません。

京博の正門からこちらで書いた大仏前交番の前を左折して、京博の南門前で七条通を渡り、さぁ、三十三間堂

だったんですが、目に入ったのは、三十三間堂前の道の先にある蓮華王院南大門でした。

そういえば、そもそもは方広寺大仏殿南大門として建てられたという蓮華王院南大門を間近に観たことがありません

それじゃ、まず、蓮華王院南大門を拝見してから三十三間堂を拝観しよう ということで、連子窓を通して三十三間堂チラ見しながら蓮華王院南大門に向かいました。

   

ところで、蓮華王院三十三間堂は、当時の後白河上皇が、自らの超広大なお屋敷・法住寺殿の敷地内に1165年に創建したもので、初代のお堂は1249年焼失
こちらの日経の記事によれば、

このとき千体仏のうち124体が救出された。焼失後も堂の再建、うしなわれた観音像877体の復興を急ぎ66年に完成する。

だそうで、1266年に復興されたのが現在のお堂
Wikipediaによると、

洛中にある建物の中では大報恩寺本堂に次いで古く、洛中鎌倉時代にまで遡る建物はこの2棟のみである。

というのはビックリです
8世紀末から19世紀央までだった京都洛中(ここでの「洛中」とは「北大路通、東大路通、九条通および西大路通の内側」と思われ…)には12世紀以前の建物は残っていないとは…

やはり、地元で「先の大戦」といえばこれを指すとの都市伝説があるとかないとかいう応仁の乱のせいなのかなぁ…

そうやって考えると、奈良法隆寺とか唐招提寺とか新薬師寺とか、東大寺の一部建造物(正倉院、転害門、法華堂など)、薬師寺東塔などの貴重さが身に染みます…

ところで、上に超広大なお屋敷」と書いた法住寺殿、現在の地図でその敷地を示すと、こんな感じらしい…。

冗談じゃありませんな

   

さて、蓮華王院南大門に向かって歩いていると、ふとに止まったのが、

桃山御殿 血天井
 俵屋宗達
  杉戸絵(白象・唐獅子)
  襖絵(松図)  当院

というインパクトのある立て札でした。

予習もなにもまったくしていない状態で、天井」「俵屋宗達」と見てしまったら、こりゃ、が引き寄せられるのも無理ありませんって

ということで、「#4-4」は、「当院」こと養源院の見聞録です。

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2020年最初の関西旅行記 #4-2

2020-02-14 22:52:20 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2020年最初の関西旅行記 #4-1」のつづきです。

京都国立博物館(京博)「京博のお正月」を楽しんだあと、ミュージアムショップの裏手にある喫煙所で一服

と、濃いピンクが咲いています。

近づいて見ると、でした

今シーズン初めてです
詰まった鼻がとおるような香りイイですなぁ~

この後の行動が決まっていない状況下、久しぶりに京博「西の庭」を見物しながら、今後の計画を立てることにしました。

紅梅が多い中、

白梅を探すと(私は紅梅より白梅好み) 、、、

ありました
あ~~、好き です

   

京博「西の庭」には、

日本石仏礎石石の橋柱などをそこここに野外展示してあります。

ということで、その「石の橋柱」がこちら

直線的なストーンヘンジみたいですが、説明板を転記しますと、

この三本の柱と二本の石材は、京都の五条大橋の橋脚と橋桁です。中央の柱に「津国御影天正拾七年五月吉日」という文字が刻まれています。(中略)
この五条大橋の石材は摂津国の御影、現在の兵庫県神戸市から運ばれてきた花崗岩です。石の橋桁の切り込みに、桁と直角に木の梁をわたし、その梁の上に踏み板をしきつめました。橋桁の長さは約7m半ありますので、橋の幅はほぼそれくらいあったと推定されます。

だそうです。正真正銘「御影石」
さらにこちら

五条大橋の橋脚石柱(2本)と、「天正拾七年津国御影七月吉日」と刻まれている三条大橋の橋脚石柱です。

五条大橋三条大橋について、ちょいと調べてみると、Wikipedia「三条大橋」の説明によれば、

橋が架けられた時期は明らかではないが天正17年(1589年)豊臣秀吉 の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された。江戸時代においては、五街道のひとつ東海道につながる橋として、幕府直轄の公儀橋に位置付けられ、流出のたびごとに幕府の経費で架け替え・修復が行われた。

だそうで、安土桃山時代から石造りの橋だったんですねぇ

牛若丸と弁慶の対決で知られる五条大橋と、東海道の起点であり終点でもある三条大橋が、安土桃山時代から石造りの橋だったとは…。

と、ここで思い出すのは、歌川広重「東海道五拾三次」の掉尾を飾る「京師 三条大橋」です。

この作品、「広重は京都に行かずにこの絵(原画)を描いた」という見方があるそうで、その理由の第一が、三条大橋木橋として描かれていることなんだそうな
さらに、この角度から見えるはずのない比叡山や清水寺が描かれていたりもします

こちらのサイトによれば、

(東海道五拾三次で)リアルに描かれていたのは「三島」あたりまでで、以降の宿場は想像や他の資料に基づく図が多くなっていることから、広重が八朔御馬進献に同行し京へ上洛したとの説を疑問視するむきもある。

だとか。
「フェイク」の可能性が高いということですか

話題を変えましょ

   

お次、というか、最後はこちら

直方体の石に、深さ15cmほどの溝がU字型に彫られています。

説明板を転記しますと、

東海道車石
京都市東山区九条山付近出土 江戸時代 18~19世紀
車石(くるまいし)」とは江戸時代に「輪石」とも呼ばれ、牛馬車の通行の便をよくするために道に敷かれていた凹状の石材のこと。京都では東から東海道、南からの竹田街道などに敷設されていた。もともとは二列で連なっていたもの。

だそうです
へぇ~~~~~~ です
こんな石造りの「軌道」があれば、道が雨ぬかるんでも楽々ですよねぇ~。上にリンクしたこちらのサイトによれば、

江戸中期には、峠道で四つの足を泥に取られてあえぐ牛の姿や旅人の難渋を見かねた木食正禅上人が、浄財を募り、日ノ岡峠道(亀の水不動尊辺り)の急勾配の緩和や敷石舗装などに取り組んだ(1737年)

のち、いつ、誰の発案か不明ながら、規格化された車石が、東海道竹田街道、そして鳥羽街道に敷設されたのだそうな。
こんな「車石」が、京都だけ(私が知らないだけかもしれないけど)に敷設されたのか(江戸と大坂は海運が便利そう)、また、ゲージ(クルマでいうトレッド)はどうやって「規格化」したのか、など、「謎」が深まってきます

この「謎」を解明できないまま、私は京博から退出し、「#4-2」もおしまいです。

つづき:2020/02/16 2020年最初の関西旅行記 #4-3 

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2020年最初の関西旅行記 #4-1

2020-02-13 18:44:12 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2020年最初の関西旅行記 #3-6」のつづきは、3泊4日の旅行の最終日1月28日(火)のお話の始まりです。

ホテルチェックアウトすると、まずは荷物とビニール傘を京都駅八条口のコインロッカー(新幹線改札に近い) に預けました。
首都圏では、昼以降、まともな雨が降るという予報でしたので、ビニール傘は自宅最寄り駅から自宅まで歩くときに使いたい(持ち帰りたい) と思いつつも、この日の京都曇り空ながらも天気はもつそうで、ずっと使いそうもないビニール傘を持ち歩くのは鬱陶しい
そこで、中型サイズコインロッカーに、斜めに入れて、その隙間にバッグを押し込むと…入りました

身軽になった私は、バスに乗って、いざ、京都国立博物館(京博) へ

そうだ
この日の行程は、当日のダイジェストに載せましたので、こちらでは割愛いたします。

   

前年10月末からの4カ月間で3度目と、けっこうな頻度で訪れる京博ですが、この日のお目当ては、寛政4(1792)年製賢聖障子(けんじょうのしょうじ/そうじ)」でした。

この寛政版に先立つ慶長版(紫宸殿の建物と共に仁和寺に下賜)は、こちらで書いた以降も含めて何度か拝見したことがありますが、現在、紫宸殿に飾られている「昭和の模写」元ネタを拝見するのは初めてでしたから

リーフレット「京都国立博物館だより」から引用しますと、

内裏は、歴史上たび重なる火災に見舞われ、その都度再見されてきました。
現在の京都御所は、幕末の嘉永7年(1854)に焼失したことを受け、翌年の安政2年(1855)に造営されたものです。そのため内部を飾る障壁画はそのほとんどが安政度の再建時に新調されていますが、賢聖障子は焼失を免れ、寛政度の内裏造営時に幕府御用絵師住吉広行(1755~1811)が描いたものが残っています(一部後補あり)。(中略)
現在、紫宸殿には昭和40年代に制作された模写が立てられ、原本は別に保管されているため、通常は目にすることができません。今回の特集展示は、この賢聖障子が9面すべて公開されるたいへん貴重な機会です。

だそうで、ほんと「貴重な機会」です (もっとも、昭和の模写だって拝見することは叶わないけど…)

   

このとき、京博では「京博のお正月」として、前述の「京都御所障壁画 紫宸殿」[終了]ダイジェスト(ちょっとだけ) 書いた「神像と獅子・狛犬」[3月22日まで] の二つの特集展示のほか、新春特集展示「子(ね)づくし -干支を愛でる-」[終了] が行われていました。

東京国立博物館でも「博物館に初もうで」と題して、子・鼠関連の展示を行っていましたが、こちらで書いたように、

「子=鼠」メインになった美術品って、そうそうないみたいで、さすがのトーハクも、その苦労が察せられる展示でした。
「十二支の一つ」的な扱いの作品や、「鼠(色)地」の作品(着物や陶磁器)が多かったですから…

でしたが、京博はいかに

最初に展示されていたのは、

土佐光吉源氏物語画帖『初音』」

え" どうしてこれが「子・鼠」関連なの? と思ったら、「京都国立博物館だより」からその理由を転記しますと、

本の宮廷には、子月(正月)の初子(はつね:最初の子の日)に長寿を願い、小さな松を根ごと引き抜くという年中行事がありました。子(ね)根(ね)をかけた「根引きの松」は吉祥文様ともなりました。「源氏物語」では、子と根にさらに音(ね)の字をかけた「初音(はつね)」の帖が有名です。

だそうです。

年月を松にひかれて経る人に 今日鴬の初音聞かせよ

ですかぁ~
あまりにも奥ゆかし過ぎて、俗人(ぞくじん)の私には判りませ~ん
でも、凄いな、京博

その京博もまた「十二支の一つ」的な扱いの作品が目立つ中、こちらが出色でした

「からくり人形 大黒と鼠」(江戸時代 19世紀)です。(画像はこちらから拝借)
このからくり人形は、

大黒さまの袋からネズミが飛び出して、反対側の箱に入る仕掛け。

だそうですけれど、それよりも、大黒さまが、どう見ても女性っぽい
私は、鈴木春信「見立大黒天」連想してしまいました。

ところで、「京都国立博物館だより」によると、

京博では、明治時代の終わりごろに「新年陳列」として干支にちなんだ作品を並べました。しかし、一度目の子年は皇太子(後の大正天皇)のご成婚にあたり、翌年の丑年からスタートしており、二巡目はどうやら行われず、鼠の出番はついに訪れませんでした。今回が京博で初めての鼠特集となります。

だそうで、「京博の初子を観られたなんて、Lucky でした。

と、京博平成知新館館内のお話はこれでおしまい
「#4-2」は、平成知新館の外から始まります。

つづき:2020/02/14 2020年最初の関西旅行記 #4-2 

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2020年最初の関西旅行記 #3-6

2020-02-12 17:16:09 | 旅行記

「2020年最初の関西旅行記 #3-5」のつづきです。

京都に戻った私は、本格的に降りだしたの中、次なる目的地本願寺伝道院へと歩きました。

先月13日に大倉集古館に出かけたときの記事に書いた、

そうだ 今月末の「Misia Soul Jazz Big Band Orchestra Sweet & Tender」大阪公演への遠征のときに行ってみよう

実行に移したわけです。

本願寺伝道院は、こちらで書いたように、伊東忠太真宗信徒生命保険(株)として設計した建物(竣工:1912年)
施主西本願寺22世門主大谷光瑞伊東忠太との組み合わせで現存するものといえば、築地本願寺(1934年)が有名ですな

インド風築地本願寺に対して、本願寺伝道院一筋縄ではいかないというか…。

まず、建物をいろいろな方向から眺めてみましょう。
まずは西側からの眺め。

北側からの眺め。

東北東側からの眺め。

そして、正面(北西側)からの眺め。

西側には、中庭(?)に入るがあって、それが、

と、「ここはどこ?の世界です。

こちらの日経の記事には、

(伊東忠太は) アジア、欧米を3年かけて行脚し、各地の建造物を研究。日本建築は欧州化でも和洋折衷でもなく、木造の伝統を石や鉄に替えて進化させるべきだ、という「建築進化論」を唱えた。
大谷光瑞は20世紀初め、仏教伝来の道筋を探るべくアジア各地へ探検隊を3回派遣した。世にいう大谷探検隊だ。雄大な視野で日本文化を見つめ直した2人が出会い、建築進化論を初めて形にしたのが、この真宗信徒生命保険本館だった
世界中から集めた建築の美をかみ砕き、再構成した成果は「日本の建築様式を追究した道程を体現した」と評価され2014年、国重要文化財に指定された。

とあって、また、正面入口の傍らに立てられた説明板にも、

重要文化財 本願寺伝道院
※指定名称 旧真宗信徒生命保険株式会社本館(本願寺伝道院)
この建物は、明治28年(1895) 4月に設立された真宗信徒生命保険株式会社の社屋として、明治45年に東京帝国大学教授伊東忠太の設計竹中工務店の施工により建築されたものです。当初は「本館」のほか「付属屋」、「倉庫」2棟、「物置、人力車置場、便所」、「屋根付き伝ひ廊下」が建っていましたが、現在は「本館」のみが残っています。
伊東忠太の提唱した「建築進化論」(石材や鉄に依存しつつも欧化でも和様折衷でもなく、日本建築の木造伝統を進化させること)を明確に表現した建物で、外観は古典様式に基づくものの、開口部まわりや軒まわり、塔屋の形態などにサラセン様式日本の伝統的な様式が用いられています。
現在は本願寺伝道院として浄土真宗本願寺派僧侶の布教・研修の道場として使用しています。

とあるのですが、この建物に「日本的」なもの見つけられない私でございます…。

それよりも、なによりも、霊獣です

当日のダイジェストに、萌え上がりながら何枚も何枚も霊獣の立ち並ぶ様子を載せましたので、ここでは数頭のアップを披露いたします。

まずは、上に説明板と一緒に載せた「歯を食いしばる」霊獣の相方、正面入口の階段の右側親柱の上にいた「ベロ出し」霊獣

どうして彼(?)はベロを出しているのでしょうか?
もしかして、「歯を食いしばる」霊獣吽形で、「ベロ出し」霊獣阿形ということかな?
でも「阿形」ならこちらの方が適切ではなかろうか?
来訪者にベロを出すのは、ちょいと失礼かと…

お次は、目つきの悪い鋭いこちら

そして最後は、2頭まとめて

いやぁ~~、イイ

西本願寺は、この霊獣関連のグッズを販売したらどうでしょ?
私みたいなモノ好きなヤツが買うと思いますぞ

霊獣の写真をしげしげと眺めていると、本願寺伝道院レンガの目地「覆輪目地」になっていることに気づきました

「覆輪目地」というのは、このブログには何度も登場しておりまして(たとえばこちら)、特殊なコテを使って目地をかまぼこ状に盛り上げる手法で、有名どころでは、東京駅丸の内駅舎で使われています。
本願寺伝道院覆輪目地は、あまり丁寧な仕事とは言えません、芸の細かいところを見せていただきました。

こうして、の中、を差して写真を撮りまくりました

折り畳み傘を持ってきているのに、敢えてビニール傘、それも大きめのを購入したのは、このためだったって感じです

この時点で、時刻は15:30

日が短いとはいえ、まだ観光できる 時間でしたが、が降っているし、平等院本願寺伝道院満腹感もありましたので、この日の観光はこれで打ち止めにして、ホテルで「2020年最初の関西旅行 3日目ダイジェスト」を書くべく、下のルートで京都駅方面に戻りました。

そして、ホテルチェックイン

あれまぁ~ 良い部屋じゃございませんか

天井からデスクトップを照らすスポット照明があったり(私は室内の明るいホテルがお好み)、バスとトイレがドアで隔てられていたり、アメニティが充実していたり、定量止水できる風呂とかと、かなりイイ

京都駅から徒歩数分という便利さで、そして、「ひたすら高い」「コスパが低い」というイメージ京都のビジネスホテルとしては手軽なお値段と、こりゃ贔屓にしたくなりますぞ

この日の夕食こそ、551蓬莱シューマイをつまみながらビール、そして駅弁と、ちょいと寂しいものでしたが、かなり充実した旅行3日目となりました。

ということで、旅行記3日目編完結です。

つづき:2020/02/13 2020年最初の関西旅行記 #4-1 

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2020年最初の関西旅行記 #3-5

2020-02-11 17:52:09 | 旅行記

「2020年最初の関西旅行記 #3-4」のつづきです。

平等院拝観は、鳳凰堂中堂内部拝観で〆ようということで、拝観受付に行くと、私の拝観は13:10の回。

鳳凰堂の内部拝観は、40名づつ20分ごとに行われていて、私が拝観を申し込んだのは13:00でしたので、ほぼ待ち時間無しでした。
さすがは平日

このわずかな時間を利用して、観音堂と、一応「藤棚」を見物

寄棟本瓦葺きの観音堂鎌倉前期の建物だそうで、同時期の秋篠寺本堂(探訪記)と似た風情です。

とかなんとかしているうちに、私の拝観時間がやってきました。

私を含み約20名の拝観者一行は、ガイドさんに引き連れられて二つの小さな橋を渡り、北翼廊で靴を脱ぎ、中堂正面から入堂しました。

教科書や参考書、TVで何度見たか判らないご本尊阿弥陀如来坐像に初のご対面

大きい(丈六仏)金箔がしっかりと残ってキラッキラ

阿弥陀様天蓋キラッキラなんですが、中堂の内部は、雲中供養菩薩も含めてほとんど色の無い世界になってしまっているし、修復工事中とのことで足場が組まれているしで、さきほど、鳳翔館(#3-3)で見た創建当初の「極楽浄土ぶり」は感じられませんでした。
九品来迎図はかなり褪色している上に、格子に隠れてよく見えなかったし…

藤原頼通が、父・道長別荘があったこの地に、自らと一族の極楽往生を願って建てた平等院、完成したとき、頼道は上品上生の往生確定 と思ったんじゃなかろうか…
(下の画像は、「平安色彩美への旅」から CG「鳳凰堂落慶式(イメージ)」)

頼通がどんな往生を遂げたのか知るよしもありませんが、すくなくとも俗世的には、道長が詠んだ、

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 
 虧(かけ) たることも なしと思へば

「望月が、頼通の代に確実に欠けていったということ…。
時代はもそっと下りますが、まさしく、

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

でございます

   

写真撮影禁止中堂内部から出ると、中堂側から南翼堂をパシャリ

さらに、北翼堂をパシャリ

そして、平等院から退出しました。
いやぁ~、2時間近く平等院を参観することになろうとは、思いもよりませんでした。満足満足

満足はいいのですが、時刻は13:30を廻っていて、腹減った
風景に馴染んでいる店構えのスタバには目もくれず

料理屋さん宇治川を眺めながら 豪勢昼食をいただきました。

この料理屋さん、私が入店したときは、閑散としていて、のんびり食事を始めたのですが、10人くらいの中国人のグループがやって来ると状況は一変

習性ですから、話し声デカい のは仕方ないとしても、音楽を聴くんだったらスマホスピーカーで流さないで、イヤホンを使え

こうして、途中から「食った気がしない食事になってしまったのは残念でございました

宇治滞在中、なんとか我慢していた空から、ちょぼちょぼとが落ちてくる中、JR宇治駅に戻り、

各停に乗って京都駅へ…。

京都では、本願寺伝道院に行くのは既定路線として、その後はどうしようか…

と、「#3-6」につづきます。

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秋田で美術館をハシゴ

2020-02-10 18:50:23 | 美術館・博物館・アート

帰省5日目にして、今回初めて「街」に出てきました。

目的は、買物美術館に行くことでした。
世の美術館・博物館「月曜休館のところが多いのですが、わがふるさと秋田市「秋田市立千秋美術館」「秋田県立美術館」は、展示替え設備点検等を除いて、ほぼ「いつでも開館」という珍しい美術館です。

秋田市立千秋美術館では「秋田市制130周年・秋田市立千秋美術館開館30周年記念」と銘打った「ベストコレクション展」秋田県立美術館「平野政吉コレクション(藤田嗣治の作品群)」「平野政吉コレクションの西洋画」と、どちらも両館の所蔵作品展で、したがって、観覧料はどちらも310円お手頃で、両館をハシゴすれば合計560円

ということで、両館をハシゴしてきました。

観た順番とはになりますが、まずは秋田県立美術館のことから書きます。

平野政吉コレクションの中核をなしている藤田嗣治の作品群は、もう何度も新旧の秋田県立美術館で拝見していますけど、どれも良い作品です
中でも私のお気に入りは、「客人(糸満)」⇒ (1938)「自画像」(1936)だな…

これに比べると、企画展「平野政吉コレクションの西洋画」の方は、藤田嗣治「魅せられたる河」「小さな職人と商人」を除けば、正直見劣りする感じで、「これはと思ったのは、ラウル・デュフィ「サーカス」くらいでした

   

一方の、秋田市立千秋美術館「ベストコレクション展」面白かったぁ~

一般的に地方の公立美術館は、地元出身 or ゆかりの作家や作品と、目玉になる(人を呼べる) 大家の作品を蒐集するものですが、千秋美術館のコレクションもご多分にもれず、「ベストコレクション展」はこんな構成になっていました。

 ○秋田蘭画と同時代の画家たち
 ○秋田ゆかりの近代日本画家たち
 ○木村伊兵衛と秋田
 ○岡田謙三と秋田の洋画家たち

「秋田蘭画と同時代の画家たち」は、小田野直武佐竹曙山(義敦)佐竹義躬ほか、18~19世紀初の画家たちの作品が集められて、なかなかの見応え

そんな中、佐竹曙山「写生帖」の中から展示されていたのは「龍」

欧州の「ドラゴン」みたい、というか、翼を持ったトカゲみたいです
いったい元ネタは何でしょ

そういえば、曙山公 (久保田藩主ですから) の作品には、妙なスタンプが捺されていて、以前から気になっていました。

説明板によると、あれは曙山公の落款で、「Sergotter vol Beminnen」オランダ語「至高の海神」という意味なんだそうな
外国語の落款とはねぇ~

   

「木村伊兵衛と秋田」良かったのですが、もっともふわぁ っとなったのは、「秋田ゆかりの近代日本画家たち」でした。

とりわけ、平福百穂の作品はどれも素晴らしくて、中でも「鉄線花」は、軽やか清々しくて、この展覧会での「お持ち帰りしたい作品」第一位でした

他には、寺崎廣業「舞妓・芸者」(芸者さんが実に粋でカッコイイ)高橋萬年「野山芝」良かった

う~んん、楽しかった…。

「ベストコレクション展」は、2月16日(日)・17日(月)展示替え(休館)を挟んで、18日から後期展が始まるのだそうで、後期展にも行きたくなってきましたぞ

   

「2020年最初の関西旅行記」さなかに、この記事を割り込ませてしまいましたが、関西旅行記とつながる話がありました。

平福百穂の杉戸絵「るり鳥」(1931)の説明板にはこう書かれていました。

百穂は、京都・養源院で見た俵屋宗達の杉戸絵触発され、一度描いてみたいと思っていた。その念願がかない、近衛文麿の依頼で描いたのが、この杉戸絵である。(以下略)

ほえぇ~
ここで「養源院で見た俵屋宗達の杉戸絵」という文言を目にするとは思いもよりませんでした
「俵屋宗達の杉戸絵」そのものを、2週間前養源院観たばかりですから

というところで、明日からは「2020年最初の関西旅行記」に戻ります。

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2020年最初の関西旅行記 #3-4

2020-02-09 12:43:56 | 旅行記

「2020年最初の関西旅行記 #3-3」のつづきです。

平等院ミュージアム鳳翔館を退出した私は、内部の拝観叶わないこと と知りつつも養林庵書院へ足を運びました。

この「単層入母屋造檜皮葺」の建物、説明板を転記しますと、

養林庵書院慶長6(1601)年、加傳和尚が伏見城より移建したと伝えられる。
広縁中央には寛永の三筆の一人、松花堂昭乗による「養林庵」の篇額がかかり、内部には狩野山雪工房による襖絵「籬に梅図」山楽による床壁絵「雪景楼閣山水図」が描かれている。落ち着いた書院と仏間、茶室という三つの要素を持ち、随所に桃山様式を残す。
細川三斎(忠興)の作といわれる洗練された平庭枯山水と見事に調和する。

なんですが、私が養林庵書院内部を拝観したい理由は書かれておりません。

そりゃ、狩野山楽&山雪にも興味津々ですけど、私の一番の関心事は、何といっても、かの山口晃画伯が筆を奮った襖絵「當卋早来迎、賽の河原、白道」でございます。

この襖絵が奉納された2012年末11~12月初の週末・祝日の11日間だけ一般公開されたそうですが(青い日記帳さんのサイトをご参照方)、私は、このことに気づくのが遅くて、完全に「あとの祭りでした

また養林庵書院の内部を公開してくれないものでしょうかねぇ… と、未練がましく、養林庵書院の外観をカメラに収めて、

鳳凰堂中堂の内部を拝観するべく、坂を下ったのでありました。

そうだそうだ

説明板に、養林庵書院伏見城から移設されたと書かれていましたが、その移設時期(1601年)からすると、この建物は、会津征伐に遠征中だった徳川家康留守を衝いて小早川秀秋&島津義弘攻め落城させた(1600年)、木幡伏見城遺構ということなのでしょう。
この「伏見城の戦い」伏見城の遺構は、この翌日、ひょんなことから「再見」することになる のですが、この時は、そんなことは知るよしもなかった私でした。

と、キリのよいところで、この先は「#3-5」につづきます。

つづき:2020/02/11 「2020年最初の関西旅行記 #3-5」 

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2020年最初の関西旅行記 #3-3

2020-02-08 13:11:03 | 旅行記

「2020年最初の関西旅行記 #3-2」のつづきは、平等院のミュージアム、鳳翔館のお話。

当日のダイジェストでも書いたように、鳳翔館(平等院の拝観料600円だけで観られます)は、ほ~んと、良かった ほ~んと、ほ~んとに良かった

お宝を並べて「凄いだろう えっへんじゃなくて、鳳翔館は、もちろんお宝も展示してあるのだけれど、その見せ方美しいし、約950年前創建当初の姿を復元して見せてくれるのが素晴らしかった

2001年にオープンした鳳翔館は、2015年9月照明設備のリニューアルが行われたそうで、Panasonicのサイトによると、その監修東京国立博物館が誇る照明のプロ木下史青さんなんだとか

その木下さんの、「薄く光っている雲の中から仏様がふっとお出ましになるイメージ」という指示による国宝「雲中供養菩薩像」は、まさしく3D的に菩薩様たちが私の周りを舞っている感じ

全部で52躰菩薩様たちは、その半分が鳳翔館に移され、もう半分は鳳凰堂内部の壁面にいらっしゃるのだそうな。
楽器を演奏している菩薩さま、踊る菩薩さま、合掌(合唱ではない)する菩薩さまとお坊さん、どれ一つ同じお姿のものはありません。

今でこそ素木が変色したような茶色一色ですが、創建当初は、彩色されていたそうで、その復元模刻像が、鳳翔館では「#3-2」で書いた梵鐘の現物の次に展示されていました。

この復元模刻像Impactが大きくて(あとから来たおばちゃんたち「うわぁ~、きれいねぇ~と萌え上がっておりました)、このあと観ることになった「雲中供養菩薩」の群像展示では、たった1躰の復元模刻でもこんななのに、往時はどんなありさまだったのだろうか と想像大きな翼を広げて舞い上がりました

   

それに追い撃ちをかけるように、次の中堂内部を復元した展示室では、、、

ここは当日のダイジェストを再掲するのがよろしいでしょ

その中でも、鳳凰堂内部の彩色再現した展示室は、一歩足を踏み込んだとたんに、を見開き、をほわぁ~~と開けてしまう見事さ
私のちょっと後に入室してきたおばちゃんなんかは、

  あらあら、凄い
  あらあら、凄い
  あらあら、凄い

リフレイン3回で、MISIAのライヴでもこんな聴衆がいたりするなぁ…と思ったりして [再掲ここまで]

私は、ミュージアムショップ「平安色彩美への旅~よみがえる鳳凰堂の美~」「平等院 雲中供養菩薩」2冊の図録を購入しました。
上に載せた画像は「平安色彩美への旅」から拝借したものですが、こんな「極楽浄土」の中に足を踏み入れる感覚って、そうそうあるものじゃありません

   

次の展示室には、鳳凰堂中堂の屋根で踏ん張っていらしゃって、現在は隠居された鳳凰一対現物十一面観音立像ほかが展示されていました。

鳳凰の説明を読んで知ったことがいくつかありまして、まず、鳳凰うなじ宝珠を着けていること、そして、宝珠に付属していた火焔欠損していること。

右に載せたポストカードではよく判りませんが、一万円札の裏を見ると、

? 着けてますでしょ、火焔レス宝珠

ほかの鳳凰はどうなんだろ? と思って、2011年に撮った金閣寺の写真をガサゴソすると、

うん、うん、こちらは火焔付きの宝珠を装着しています(解像度が低くてすまぬ)
また、高御座(こちらの記事をご参照方)は? といいますと、

ありゃま宝珠着けていません

「鳳凰に宝珠」お約束ではなかったんですな…

もう一つ、鳳翔館の説明で知ったのは、鳳凰堂の鳳凰には「毛」植えられていたらしいということ

鳳凰32個「毛穴が開いているそうで、「平安色彩美への旅」には、その復元CGが載っていました。

あれまぁ~ ステキじゃございませんか

平等院「新たな科学的知見や古文書をもとに、鳳凰像の往時の姿を7分の2の大きさの青銅製レプリカ再現した」という2014年7月のこちらの記事によると、

本物の7分の2の大きさである高さ30センチの青銅製レプリカに、金メッキした銅製の針金に五色の絹糸を巻き付けた「毛」が取り付けられた姿は、まさに屋根に降り立たんとする際、風になびいているかのようにみえる。

だそうです。
中堂の屋根の鳳凰にもこの「毛」着けてほしいとは思いますが、「金メッキした銅製の針金に赤・黄・青・白・紫の五色の絹糸を巻き付けた『毛』」だと、あっという間にボロボロになってしまいそう…

   

至極満足のうちに展示室から出てくると、ミュージアムショップがありました。
オンラインストアを見てお判りのとおり、かなり充実した商品ラインナップ
結局は前記の図録2冊だけを購入しましたが、最後まで迷ったのが、「雲中トランプ」(800円)でした。

考えてみれば、「雲中供養菩薩」は全部で52躰あって、13枚×4組=52枚トランプにはピッタリ
しかも「ジョーカー」には、鳳凰一対を と、できすぎの感すらあります。

でも、これを買ってどうする?冷静な私も存在しておりまして、購入の決断には至りませんでした

やはりどうしても欲しい となれば、平等院を再訪したときに購入するか、オンラインストアを使う手もありますし…

結論 平等院ミュージアム鳳翔館は、お薦めです

   

おっと 書き漏らすところでした。

鳳凰堂の鳳凰一万円札とのお話で、こちらの日経の記事が素晴らしいです

裏面に鳳凰の絵が描かれている現行の一万円札が発行された2004年11月の、平等院・神居文彰住職と当時の日本銀行・福井俊彦総裁との会話。

神居:なぜ一万円札の裏の絵柄を鳳凰にしたのですか?
福井人々に幸せや喜びをもたらすという伝説の鳥が、お札になって世界中に流通すれば素敵だと思ったからです

現行の紙幣は、一万円、五千円、千円の3種そろって、2024年「引退」し、一万円札は、表が福澤諭吉から渋沢栄一へ、裏は鳳凰から東京駅丸の内駅舎にバトンタッチされます。

現行一万円札が流通しているこの約15年間をふり返れば、一万円札の鳳凰はあまり「人々に幸せや喜びをもたらす」ことができなかったのが残念です。

つづき:2020/02/09 2020年最初の関西旅行記 #3-4 

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わがふるさとは「白い季節」

2020-02-07 11:20:26 | 旅行記

きのう、秋田別邸(実家)に帰省してきました。

今年の正月帰省Uターンで、急遽、航空会社マイレージ特典を利用した関係で、きょうはその「復路」的な扱い。したがって、飛行機で帰ってきました。

天気予報によれば、一昨日の5日から6日にかけて、今シーズンの暖冬を覆すような寒気が襲来し、冬型の気圧配置とも相まって、北日本の日本海側大雪が降るということでしたので、ちょいと不安でした。

そして、きのうの朝は、さいたまの自宅で、ゴミ出ししようと外に出ると、今シーズン初めてキンとした寒さ
さらに、別邸に送る荷物を近所のクロネコさんまで持っていった帰りには、

これまた今シーズン初めて、クルマ「凍結注意」アラームが出ました。

そんな好ましくない状況 ではありましたが、「2020年最初の関西旅行記 #3-1」で書いた関西旅行からの帰りと同様、「その日のうちに帰宅(帰省)しなければならない理由はない」わけで、その辺は気楽なものでした。

   

今回は、関西旅行と違って、自宅最寄り駅前からリムジンバス羽田空港に向かったのですが、これが、かつてなかったほど渋滞レススムーズさで、時刻表では1時間20分かかるところを約45分で羽田空港に到着しました。
もともと、バスの到着から飛行機の出発まで45分しかないはずだったのに(そのため、昼食はバスの中で冷たいコンビニのミニ弁当&おにぎり)、空港内で追加でソバを食べることもできました

   

機材の到着遅れのため定刻から5分遅れでドアが閉じた飛行機は、快晴の空に離陸

太平洋側は、風が強いものの晴れ渡っていて、筑波山も、

猪苗代湖&郡山市もよく見えました

でも、「冬型の気圧配置」ですから、奥羽山脈を挟んで、東側(太平洋側)西側(日本海側)とではまったく天候が違うわけで、磐梯山上空辺りからが増え、ほとんど地上が見えなくなってしまいました。
山形市と蔵王が見えたのを最後に、

そこからはしか見えない状態
でもでも、山形を過ぎれば、秋田空港まではすぐ

はずだったんですが、きのうは違っていました

Google Mapで飛行機の位置を見ていると、高い高度を保ったまま秋田空港の西を通り過ぎると、左旋回して日本海に出てしまいました

そして、ぐる~~っと旋回して、今度は着陸するのか? と思ったけれど、

まだまだ高度は高いし、フラップも出ていません。
そして、また日本海上空にでて左旋回…。

これもう2回くらいやって、結局、秋田市周辺30分近くウロウロ(?)した後、ようやく着陸しました。

私は、スマホで「MISIA SOUL JAZZ BEST 2020」を聴いていたので機長が機内アナウンス良く聞こえず、「到着は16:40頃…」と言っていた気がしたのですが、ホントに、定刻から30分近く遅れて、周りも滑走路も真っ白秋田空港到着

CAさんのアナウンスによると、滑走路の除雪作業のため、到着が遅れたんですと。

こうして秋田到着は遅れたものの、ここからが早かった

そして、リムジンバスの車内でネックウォーマー毛糸の帽子で体制を整えた私は、「- 3℃」との表示が見えるR13沿いのバス停でバスを降り、新雪の積もった道を別邸へと歩きました。
予想していたとおり、圧雪になっていない雪道キャリーバッグを曳いて歩くのはなかなか大変で、バッグは重いは、ときおりひっくり返りそうになるはで、寒さを感じる余裕もありませんでした。

そしてそして、飛行機から降りてから1時間も経たず別邸に到着しました。

別邸の玄関口には吹きだまりができていて(毎冬のこと)、深いところでは30cmほどが積もっていたのは想定内でしたが、玄関を開けると、、、、わっ階段の灯り点けっぱなしになってるぅ~~
先月の帰省のとき、階段の照明を白熱灯LED電球変更していたのは、ちょっとした救いでしたけど…

去年2月の帰省のとき、蛇口からつららがぶら下がっていた台所の水道(記事はこちら)は、今回はちゃんとが出て一安心

でも、寒いったらありゃしない (気温が低く湿度は高いのがの日本海側の特徴)

結局、きのうのふるさとは一日を通して氷点下真冬日でした

   

久しぶりに、トイレに起きることなく(なぜか実家に帰るとトイレが近い)8時間以上ぐっすりと眠って 気分良く目覚めた今朝冷凍庫に寝かせておいた食パントーストにして、さいたまから持ち帰ったハムゆで卵朝食を食べたあと、雪かき決行しました。

玄関口には、きのうの私の足跡痕跡が無くなるほど新雪が積もっておりました

長靴を履き、こちらで書いたように修理しておいた雪ハネ(スノースコップ)雪かき

新雪ですから、軽くて、スムーズに作業は進み、自室の石油ファンヒーターへの給油用スペース(灯油タンクの下周り)も含めて、15分ほどで除雪作業が完了しました

でも、まだときおりマジ降りしてるんだよな…

このの中、食料仏壇用の花買い出しに行かなくてはなりませぬ

いつUターンするか決めていないという自由気ままな今回の帰省、のんびりと過ごします

それにしても、もう何回、雪かきすることになるのだろうか…

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2020年最初の関西旅行記 #3-2

2020-02-05 07:30:27 | 旅行記

「2020年最初の関西旅行記 #3-1」のつづきです。

平等院の入口で並んでいると、スタバカップを手に入場しようとした中国人観光客受付の係員に止められていました。
確かに平等院「観光スポットではあるけれど、仏様をおまつりする宗教施設(お寺)なんだから、ストローを差した飲み物を手に散策するのは不適切だろ
その辺、旅行会社やガイドさんは事前に説明しないのかな

もっとも、日本語「堂内では静粛に願います」の貼り紙のある教会やお寺もあるわけで、一概に「中国人は…」とは言えませんけど…

さて、平等院鳳凰堂のことは、当日のダイジェストたっぷり写真もまじえて書いていますので、あっさりめにします

しばしば「鳳凰が翼を広げたよう」と表現される鳳凰堂、左右の翼廊も、阿弥陀如来をおまつりする中堂も、朱の柱軽やかで、本当に飛び立ちそうです。
阿字池をはさんだ反対側から鳳凰堂を眺めていると、此岸の我々「つつみ込むように…」佇んでいるようにも見えます。
両翼を広げたシンメトリーな建物って、国会議事堂迎賓館赤坂離宮東大・安田講堂東京駅丸の内駅舎聖徳記念絵画館などなど、重々しく権威主義的で、威圧感が先にくるものですが、この鳳凰堂真逆で、その主旨そのままに、亡くなる人極楽浄土に迎えてくれる優しさに満ちています。

でも、よくよく鳳凰堂を見る「変な建物」です。

翼廊は、普通の建物のような用途持っていなくて、ただただ全体の形を整えるために存在しているのですから

いや、中堂に向かう際の屋根代わりの役目は果たしていますな

ずいぶん昔にTVで観たのですが、翼廊床と屋根裏との間は極めて狭くて、人が立ち入ろうとすると、腹ばいになって進むしかないらしいです。

一方、鳳凰尾羽に相当する尾廓は、

「普通の建物」っぽいのですが、やはり

平等院鳳凰堂・尾廊

どうして火灯窓がついているのでしょうか?
火灯窓は、禅宗建築と共に中国から日本へやって来たと記憶していますけど、鳳凰堂が建てられたのは平安時代の11世紀半ばで、禅宗到来鎌倉時代(12世紀末~)。
後世に改変されたということなのかな?

   

それにしても、鳳凰堂「見た目重視」の建築物だけに、ホントに美しい建物です

NHK Eテレで2015年に放送された「趣味どき! 国宝に会いに行く」の第2回(きのう久しぶりに録画を見直した)で、橋本麻里さんが平等院鳳凰堂について「極楽浄土のテーマパーク」と話されていましたけど、テーマパークなら楽しくなければならない わけで、美しいのには理由がありますな

中堂の上の鳳凰金色に輝いていました

   

予想斜め上を行く素晴らしさ鳳凰堂の外観を拝見した次は、鐘楼を拝見しました。

側に立つ説明板を読むと、

梵鐘 (摸造)
平等院の鐘は、「姿(形)の平等院」として日本三銘鐘の一つにあげられます。
鐘身にほどこされた装飾美しいことで有名です。
昭和47年、寸分違わぬ姿で復原された二代目です。

あれま、レプリカですか

でも、ホンモノと「寸分違わぬ姿」だそうですから梵鐘のレプリカを拝見しましょうか。

あらまぁ~ こんなに浮彫だらけの梵鐘を観たのは初めてです

反対側からクローズアップしてみましょ。

印象的な天女獅子の浮彫だけでなく、梵鐘全体を格子状に仕切るまでビッシリ装飾されています

ここまでくりからもんもん風にするかねぇ

ところで、説明板にあった「日本三名鐘」、この平等院の梵鐘(のオリジナル)の他、2つの梵鐘どこのなんでしょうね?
ググれば すぐにが出てきまして、

三井寺の鐘音色のよさ、平等院の鐘は藤原時代の作で装飾のよさ、神護寺の鐘は875(貞観17)年に記されたで知られる。

だそうです。
また、神護寺の鐘ではなく東大寺の鐘(記事)を挙げる説もあるみたいです。

三井寺(園城寺)は、約10年前に拝見しました (記事はこちら)
残念ながら、売りの「音」聴いておりませんが…

一方、神護寺は、訪問したことすらありません
神護寺所蔵の「伝源頼朝像」を観るために九州国立博物館まで出かけたというのに(記事その1, その2)、ご本家に行ったことがないというのは忸怩たるものがあります。
でも、神護寺って、京都の街から結構遠くて、交通案内をみると、

JR京都駅、地下鉄烏丸線京都駅からJRバス「高雄・京北線」で約50分、「山城高雄」下車、徒歩約20分

とその気にならない限りかなり行きづらい

ところで、神護寺の鐘について、上に引用した説明では「875(貞観17)年に記された銘」とだけ書かれていて、「古い」という意味かと思ったのですが、そうではなく、こちらのサイトによれば、

序詞橘広相(たちばなのひろみ)が、銘文菅原是善(すがわらのこれよし)が、そして揮毫(きごう)は藤原敏行(ふじわらのとしゆき)による銘文が刻まれています。
序・銘・書の技芸にすぐれている人物の手によるものであるため「三絶の鐘」と称されているほか、「銘の神護寺」と呼ばれることもあります。

ですって。
梵鐘はその重量もあって、仏像/仏画のような「出開帳」はほぼあり得ないでしょうから、やはり行ってみなければならなそうです

だんだん話題が平等院から逸れてきたところでひと休みいただき、「#3-3」では、ミュージアム鳳翔館の見聞録を書きます。

つづき:2020/02/08 2020年最初の関西旅行記 #3-3 

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