Activated Sludge ブログ ~日々読学~

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●『沈黙のファイル ― 「瀬島龍三」とは何だったのか ―』読了(1/5)

2009年04月08日 07時55分35秒 | Weblog

『沈黙のファイル ― 「瀬島龍三」とは何だったのか ―』、2月に読了。共同通信社社会部 (田中章・魚住昭・保坂渉・光益みゆき)。新潮文庫。19998月刊。

 「第一章 戦後賠償のからくり」、「第二章 参謀本部作戦課」、「第三章 天皇の軍隊」、「第四章 スターリンの虜囚たち」、「第五章 よみがえる参謀たち」。資料編として、崔英沢・井本熊男・イワン=コワレンコのインタビュー、『沈黙のファイル』年表。

 プロローグ (pp.10-11) にて、19956月の自衛隊幹部学校での軍事史学会で瀬島龍三は「・・・大東亜戦争を侵略戦争とする論議には絶対に同意できません」と発言しているが・・・、「瀬島は旧陸軍参謀本部作戦課のエリート参謀・・・三十歳で事実上、対米英戦の作戦主任となり、・・・四百万人の軍隊の生死を左右した。/戦後、・・・中曽根康弘、竹下登ら「歴代首相の指南役」「政界の影のキーマン」と呼ばれるまで出世階段を上り詰めた。/・・・華麗な経歴。・・・大きな謎がつきまとう。無謀で愚かな戦争の核心にかかわった瀬島が、なぜ不死鳥のようによみがえったのか。敗戦、シベリア抑留、対韓賠償防衛庁商戦中曽根政権誕生・・・その軌跡をたどれば、戦後日本の暗部に潜む沈黙の歴史が見えてくる」。
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●『沈黙のファイル ― 「瀬島龍三」とは何だったのか ―』読了(2/5)

2009年04月08日 07時54分33秒 | Weblog
『沈黙のファイル ― 「瀬島龍三」とは何だったのか ―』、
                 
共同通信社社会部 (田中章・魚住昭・保坂渉・光益みゆき)
 「セーさん (瀬島) の下でインドネシア賠償にからむビジネスをやってたんだ」(p.13)。「アジア諸国への謝罪と賠償。それは日本が避けて通れない道だった。・・・/だが、・・・巨額賠償は、日本製品購入が条件の「ひも付き」だった。・・・日本と相手国の政財界を潤す資金源にもなった。/戦争で傷つき苦しんだ人々が置き去りにされた戦後賠償のからくり・・・・・・」(pp.62-63)。「日本企業のアジア進出の契機となり、癒着の温床ともなった戦後賠償ビジネス。その取材を進める過程で私たちに浮かんできたのは「一体、誰があの愚かな戦争を始めたのか」という素朴な疑問だった」(pp.64-65)。「一九四一年・・・参謀本部作戦課。瀬島龍三は書記に新しい筆と硯を用意させ、電報文に暗号文を書いた。・・・/・・・マレー半島に進攻せよという意味だ。/太平洋戦争の始まりだった。筆を持つ瀬島の手が震えた」(p.65)
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●『沈黙のファイル ― 「瀬島龍三」とは何だったのか ―』読了(3/5)

2009年04月08日 07時53分35秒 | Weblog
『沈黙のファイル ― 「瀬島龍三」とは何だったのか ―』、
                 
共同通信社社会部 (田中章・魚住昭・保坂渉・光益みゆき)
 七三一部隊のやっていたこととその証拠の隠滅 (p.135)。「元少年隊員の・・・は戦後、部隊関係者が設立した日本ブラッドバンク (ミドリ十字の前身) に一時務めた・・・。七三一部隊での出来事を他人に語れるようになったのはつい最近のことだ」。その元少年兵が出会ったある被爆者の語り部は集まった子供たちに訴える、「なぜ広島に原爆が投下されたのか、その実態を勉強してください。私も原爆で足をけがしたけれど、実は戦争の加害者だった。・・・私は被害者であるとともに加害者なんです。・・・」(pp.152-153)

 「「・・・ソ連に原爆の不発弾を渡そうとしたのも米ソ対立をあおるためだ。・・・」/・・・がソ連に渡そうとした「不発原子爆弾」も、原爆と一緒に落下傘付きで米軍が投下した高層気象観測装置ラジオゾンデだったことがわかった。・・・誤認されていた。/・・・が描いた米ソ衝突のシナリオはこうして崩れ去った」(pp.174-175)
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●『沈黙のファイル ― 「瀬島龍三」とは何だったのか ―』読了(4/5)

2009年04月08日 07時52分54秒 | Weblog
『沈黙のファイル ― 「瀬島龍三」とは何だったのか ―』、
                
共同通信社社会部 (田中章・魚住昭・保坂渉・光益みゆき)
 「・・・「協定」中に関東軍将兵の帰還や抑留についての記載はない。・・・/・・・原文にない「更に軍将兵、一般日本人の本国送還」の十六文字が・・・加筆されていた。/あってはならない歴史的文章の改竄。全抑協から出版前の原稿点検を頼まれた瀬島の行為だった」(pp.192-193)
 シベリアでは、「・・・将校のつるし上げが横行した」(p.208)撫順との違い。

 「逮捕当初の瀬島の供述は、・・・/だが、この供述は事実と違う。・・・立案にも直接参加した。・・・事実上対米戦の作戦主任として陸軍の中枢を担ってきた」(p.225)ある公害患者の会の事務局長は元関東軍兵士で、シベリア抑留経験を持つ。「僕らは朝、真っ暗なうちから・・・凍った土地の穴掘りの使役に出された。だけどは、・・・見送るだけだった。・・・兵隊とは別のきれいな部屋に住んで、・・・」。公害病の補償制度の改悪反対を陳情した時のこと、三十七年ぶりに、臨調委員の瀬島と再会。「シベリアで何度も死にそうになったけれど、生き延びて帰ってきたんです。それなのに今度は大気汚染で公害病になり、・・・あなたは軍隊で人殺しの作戦ばかり練ってきたでしょう。もう今度はそんなことしないでください」、「収容所では特別待遇され、使役に出る僕らを見送るだけだった瀬島さんが、兵隊たちの死を心から悼んでいるとはどうしても思えなかった」。後の電話では、瀬島の対応はそっけなく、さらに、「・・・これからどういう仕事をなさるんですか」との問いに、「「国家のために奉公します」/「国家のためとはどういう意味ですか」/「・・・・・・」/瀬島は黙ったままだった(pp.297-298)
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●『沈黙のファイル ― 「瀬島龍三」とは何だったのか ―』読了(5/5)

2009年04月08日 07時51分56秒 | Weblog
『沈黙のファイル ― 「瀬島龍三」とは何だったのか ―』、
                
共同通信社社会部 (田中章・魚住昭・保坂渉・光益みゆき)
 ある評論家は、「・・・この連載を読んで賠償はもう一度やり直す必要があると痛感しました/・・・瀬島氏は・・・戦前は国家、戦後は一転伊藤忠に忠誠を誓い、戦後の賠償を商売の機会にした。なぜああ堂々としていられるのか。驚きですね/・・・逆に戦争の方を『正しい戦争』に偽造するんです/・・・彼ら幕僚たちに共通するのは戦争責任の自覚がないことです。中曽根元首相のブレーンになり、天下国家まで論じるまでになった瀬島氏は戦後日本の象徴的存在ですね」(pp.302-304)

 解説 (pp.431-435) は船戸与一さん。「アジア諸国の二千万の死。日本人三百万の死。/これについて瀬島龍三の真摯な発言は聞かれない。要するにこの膨大な死者数については彼の心に触れることがないのだろう。/・・・日本的選良の共通した意識なのだ。そして、日本的土壌は易々と許容する。東京裁判のBC級戦犯は大概世を忍ようにして生きて来たのに岸信介のようなA級戦犯は甦った。・・・」

 城山三郎さんや石田禮助さん、中山素平さん、佐橋滋さん、・・・彼らと瀬島氏や中曽根元首相との違い。
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