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すいません、宜しくないマゴヒキですが・・・一部コピペさせてもらいます。オリジナルは『小田嶋隆のア・ピース・オブ警句』、2011年1月14日(金)、「「善意が」がマスクに隠されなければならないワケ」(http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110113/217919/)。
満腹感と、何とも言えない違和感。「売名」とまでは言いませんが、「愉快犯」の香りは感じてしまいます。テレビを中心としたメディアの「劇場型の善意」というところ、大きくうなずかされます。内閣改造で消費税アップ(昨日のニュースの解説者によると、2025年までに消費税を18%にアップだそう)など、確かに世間は「白いマットのジャングルに・・・今日も嵐が吹き荒れ」てはいるのですが・・・。
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【http://blog.goo.ne.jp/ximegat3231/e/5610fbbf1c79ca5baf3489e8081b6119?fm=rss】
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さよう。愉快犯だ。動機と結果が善であるのだとしても、振る舞い方は電車の側面にグラフィティーを描きこむ連中とそんなに変わらない。伊達直人はニュースを弄んでいる。フィクショナルな自己顕示欲。それだって売名の一種ではないのか?
とはいえ、状況を鑑みるに、21世紀の伊達直人が、あえて自己流の寄付を貫徹した気持ちもわからぬではない。
きちんと実名を伝えて寄付をしつつ、その一方で、寄付をした人間の名前を安易に報道しない形で処理する穏当な枠組みがあれば、伊達直人とて、こんなに芝居がかったことはせずに済んだかもしれない。
が、われわれの社会には、寄付の文化が根づいていない。宗教的な背景も希薄だし、習慣としても税制上も、寄付は軽んじられ、異端視され、日常から「浮いて」いる。
でなければ、スタジオの面々は、一種の愉快犯である伊達直人を思い切りおだてあげることで、模倣犯の出現を促したのかもしれない。
別の見方もできる。伊達直人の善意をスタジオの善意が賞揚して、その善意の連鎖が新たな伊達直人を召喚しているというふうに考えれば、これらの善意の連鎖は、もしかして、あたらしい何かを生むのかもしれない。
でも、私は釈然としない。もっとはっきりいえば、非常に白々しいものを見た気持ちになっている。
ヤラセだとは言わない。インチキだと断ずるつもりもない。でも、薄気味が悪いのだな。どうしても。
理由は、伊達直人の「善意」が「劇場型の善意」で、それを伝えているメディアの温かい口調も、モロにディレクター目線の賞賛だからだ。
この度の「タイガーマスク運動」のニュース原稿には独特のいやらしさがつきまとっている。強いて言うなら、毎年沖縄から送られてくる「荒れる成人式」の取材映像とちょっと似ている。ヤラセではないものの、「実行役と取材側(メディア)の共犯関係」を感じさせるお約束ニュースの気配があるのだ。
全国のタイガーたちの善行は、「荒れる成人式」の蛮行がそうであるように、メディアがカネと太鼓で報じることをやめれば、じきに沈静化すると思う。
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