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●戦争屋による憲法違反の「集団的自衛権」閣議決定・・・「やめろと言わないのは“許した”のと同意」

2014年07月04日 00時00分33秒 | Weblog


nikkan-gendai.comの記事【「集団的自衛権」1日閣議決定 国民は黙って見過ごすのか?】(http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/151476)。
東京新聞の記事【9条破棄に等しい暴挙 集団的自衛権容認】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2014070202000140.html)と、
コラム【筆洗】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2014070202000102.html)。

 「やめろと言わないのは“許した”のと同意・・・・・・この日程も安倍首相の外遊優先。豪州に出発する前の4日までに決めてしまおうというハラで、こんな乱暴な発想で平和憲法のもとで徹してきた「専守防衛」の看板を外すなんてムチャクチャ。憲法学界の重鎮は「国民は恥辱を受けたままでいいのか」と怒りの声を上げている・・・・・・」。
 「政府がきのう閣議決定した「集団的自衛権の行使」容認は、海外での武力の行使を禁じた憲法九条を破棄するに等しい憲政史上に汚点を残す暴挙だ。再登板後の安倍晋三首相は、安全保障政策の抜本的な転換を進めてきた。政府の憲法解釈を変更する今回の閣議決定は一つの到達点なのだろう。特に、国会の「ねじれ」状態解消後の動きは速かった」。
 アベ様の暴挙。憲法違反が明確なのに、とんでもない自公政権。
 これでも目覚めない国民ならお終い。マスコミも、東京新聞や日刊ゲンダイ以外、「ねじれ」解消と浮かれていたわけで、それに乗せられた自公議員や翼賛野党議員へ投票した人達のあまりに重いツケだ。

   『●他人を「非戦闘地域」や戦場に行かせるのならば・・・、
          平和憲法を放棄し、壊憲するのならば・・・
   『●彼・彼女らに投票した人達は何も感じないのだろうか?



 「▼「明日戦争がはじまる」という詩を人に教えられた。<まいにち満員電車に乗って/人を人とも思わなくなった/インターネットの掲示板のカキコミで/心を心とも思わなくなった/虐待死や自殺のひんぱつに/命を命と思わなくなった/じゅんびはばっちりだ/戦争を戦争と思わなくなるためにいよいよ明日戦争がはじまる>▼宮尾節子さんという詩人が書いた」・・・・・・ニーメラーの「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」を思い出した。

   『●小出裕章さん、核=原子力は「違憲」という視点
   『●『メメント』読了

    「マルティン・ニーメラーの詩
       「First they came for the Communists」。
        「First they came for・・・so I did not speak out. 
         ・・・so I did not speak out. ・・・so I did not speak out.
         And when they came for me,
        there was no one left to speak out for me
.」」

   『●Nuclear:「核」と「原子力」の使い分け
    「講演のなかで、ホロコーストをまぬがれ強制収容所から生還した
       マルチン・ニーメラー牧師の「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき
       という詩を引用をしてます:

       ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、
       共産主義者でなかったから何もしなかった。

        ナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、
        社会主義者ではなかったから何もしなかった。

       学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、
        まだ何もしなかった。

        ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した
        ― しかし、それは遅すぎた。」

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http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/151476

「集団的自衛権」1日閣議決定 国民は黙って見過ごすのか?
2014年6月30日

   (「熱議」とはほど遠い/(C)日刊ゲンダイ)

やめろと言わないのは“許した”のと同意

 安倍政権が1日、集団的自衛権の行使を認める閣議決定を強行する意向を固めた。菅官房長官が会見で明らかにした。この日程も安倍首相の外遊優先。豪州に出発する前の4日までに決めてしまおうというハラで、こんな乱暴な発想で平和憲法のもとで徹してきた「専守防衛の看板を外すなんてムチャクチャ。憲法学界の重鎮は「国民は恥辱を受けたままでいいのか」と怒りの声を上げている――。


戦争屋手品”にはめられ恥辱を受けたままでいいのか

   「メンバーの中では議論が熟してきた」

 27日に行われた与党協議の後、自民党の高村副総裁がヌケヌケとこう言った。これまでに行った与党協議の回数はわずか10回。それも1回が2、3時間程度のもの。しかも、この数週間で論点はあちこちに飛び、収拾がつかない状態だった。

 これには専門家の間からも、「手品を見せられているようだ」と戸惑いの声が出ている。憲法学者・小林節氏(慶大名誉教授)はこう言う。

   「本来は、集団的自衛権の議論だったはずが、いつの間にか、
    『集団的』も『個別的』も区別できていない15事例の検討に移り、
    それが終了していない段階で、自衛権行使の新3要件の議論に
    なった。さらにそれも決着しないうちに、国連軍や多国籍軍の戦争にも
    参加させろという集団安全保障の話にすり替わった。あまりに論点が
    コロコロ変わるので、多くの国民には理解できなかったはず。うっかり
    していると、専門家である我々でさえ、これが憲法議論であったことさえ
    忘れるほどでした」

 論点のすり替えは、与党協議に正義がないためだ。安倍首相は、他国の戦争で母と子が逃げ遅れ、アメリカの艦船に助けられた場合……といった机上の空論を持ち出して議論を混乱させたばかりか、新3要件では、集団的自衛権を否定した1972年の政府見解をねじ曲げた

 公明党も、国民の生命、自由に「明白な危険がある場合」は集団的自衛権を発動、つまり“戦争をしていいと追認したが、何が明白な危険であるかは時の政権の考え方次第だ。逆にどの場合に行使が認められないかについては、何ひとつ具体例を出さない。そもそも国民の生命に「明白な危険」があるなら、現行の個別的自衛権で十分である。

 30日、小林節氏も名を連ねる「国民安保法制懇」が、「集団的自衛権行使は立憲主義の否定である」という緊急声明を発表する。

   「今さら解釈変更に反対しても遅いという人もいますが、追いはぎや
    強盗に遭っているのに声を上げないのは、“許した”のと同意になります。
    黙って見過ごすのと、声を上げたけど、張り倒されてとられちゃった
    というのでは、やっぱり意味が違う。多勢に無勢で、恥辱を受けて
    押し切られたという状況をつくる。そうすることで歯止めにもなるし、
    解釈改憲論者たちは言い訳を始め、ボロを出すのです」(小林節氏)

 1日の閣議決定で「戦争できる国」へ一気に加速する。国民は恥辱を受けても最後まで嫌だと抵抗すべきなのだ。
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2014070202000140.html

【社説】
9条破棄に等しい暴挙 集団的自衛権容認
2014年7月2日

 政府がきのう閣議決定した「集団的自衛権の行使」容認は、海外での武力の行使を禁じた憲法九条を破棄するに等しい憲政史上に汚点を残す暴挙だ。

 再登板後の安倍晋三首相は、安全保障政策の抜本的な転換を進めてきた。政府の憲法解釈を変更する今回の閣議決定は一つの到達点なのだろう。

 特に、国会の「ねじれ」状態解消後の動きは速かった。

 昨年暮れには、外交・安保に関する首相官邸の司令塔機能を強化する国家安全保障会議を設置し、特定秘密保護法も成立させた。外交・安保の基本方針を示す国家安全保障戦略も初めて策定した。


◆軍事的な役割を拡大

 今年に入って、原則禁じてきた武器輸出を一転拡大する新しい三原則を決定。今回の閣議決定を経て、年内には「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)も見直され、自衛隊と米軍の新しい役割分担に合意する段取りだ。

 安倍内閣は安保政策見直しの背景に、中国の海洋進出や北朝鮮の核・ミサイル開発などアジア・太平洋地域の情勢変化を挙げる。

 しかし、それ以上に、憲法改正を目標に掲げ、「強い日本」を目指す首相の意向が強く働いていることは否定できない。

 安保政策見直しは、いずれも自衛隊の軍事的役割と活動領域の拡大につながっている。

 その先にあるのは、憲法九条の下、必要最小限度の実力しか持たず、通常の「軍隊」とは違うとされてきた自衛隊の「国軍」化であり、違憲とされてきた「海外での武力の行使」の拡大だろう。

 一連の動きは、いずれ実現を目指す憲法改正を先取りし、自衛隊活動に厳しい制限を課してきた九条を骨抜きにするものだ。このことが見過ごされてはならない。


◆現実感が乏しい議論

 安保政策見直しが、日本の平和と安全を守り、国民の命や暮らしを守るために必要不可欠なら、国民の「理解」も進んだはずだが、そうなっていないのが現実だ。

 共同通信社が六月下旬に実施した全国電話世論調査では「集団的自衛権の行使」容認への反対は55・4%と半数を超えている。無視し得ない数字である。

 政府・与党内の議論が大詰めになっても国民の胸にすとんと落ちないのは、議論自体に現実感が乏しかったからではないか。

 象徴的なのは、政府が集団的自衛権の行使などが必要な例として挙げた十五事例である。

 首相がきのうの記者会見で重ねて例示した、紛争地から避難する邦人を輸送する米艦艇の防護は、当初から現実離れした極端な例と指摘され、米国に向かう弾道ミサイルは迎撃しようにも、撃ち落とす能力がそもそもない。

 自民、公明両党だけの「密室」協議では、こうした事例の現実性は結局、問われず、「海外での武力の行使」を認める「解釈改憲」の技法だけが話し合われた。

 政府の憲法解釈を変える「結論ありき」であり、与党協議も十五事例も、そのための舞台装置や小道具にすぎなかったのだ。

 政府自身が憲法違反としてきた集団的自衛権の行使や、海外での武力の行使を一転して認めることは、先の大戦の反省に立った専守防衛政策の抜本的な見直しだ。

 正規の改正手続きを経て、国民に判断を委ねるのならまだしも、一内閣の解釈変更で行われたことは、憲法によって権力を縛る立憲主義の否定にほかならない。

 繰り返し指摘してきた通りではあるが、それを阻止できなかったことには、忸怩(じくじ)たる思いがある。

 ただ、安倍内閣による安保政策見直しの動きが、外交・防衛問題をわたしたち国民自身の問題としてとらえる機会になったことは、前向きに受け止めたい。

 終戦から七十年近くがたって、戦争経験世代は少数派になった。戦争の悲惨さや教訓を受け継ぐのは、容易な作業ではない。

 その中で例えば、首相官邸前をはじめ全国で多くの人たちが集団的自衛権の行使容認に抗議し、若い人たちの参加も少なくない。

 抗議活動に直接は参加しなくても、戦争や日本の進むべき道について深く考えることが、政権の暴走を防ぎ、わたしたち自身の命や暮らしを守ることになる。


国会は気概を見せよ

 自衛隊が実際に海外で武力が行使できるようになるには法整備が必要だ。早ければ秋に召集予定の臨時国会に法案が提出される。

 そのときこそ国権の最高機関たる国会の出番である。政府に唯々諾々と従うだけの国会なら存在意義はない。与党、野党にかかわらず、国会無視の「解釈改憲」には抵抗する気概を見せてほしい

 その議員を選ぶのは、わたしたち有権者自身である。閣議決定を機に、あらためて確認したい。
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2014070202000102.html

【コラム】
筆洗
2014年7月2日

 その日、日本はどんな顔をしていたか。国が何を決めたか、誰が批判したか。事実は刻まれる。半面、空気、匂い、「顔つき」は消えていく▼「ぜいたくは素敵(すてき)だ」。第二次世界大戦中、こんな落書きがあった。一九四〇(昭和十五)年、国民精神総動員中央連盟が発表したスローガンの「贅沢(ぜいたく)は敵だ」に「素」を加えた▼「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」の立て札。しばしば誰かが「工」の文字を黒く塗った。「夫が足らぬ」▼上っ面な「歴史」からにゅっとはみ出る心の澱(おり)。叫び。臭み。それもとどめおくべき記憶であろう。一日、集団的自衛権の行使を認めることが閣議決定された。この日の澱を残したい▼「明日戦争がはじまる」という詩を人に教えられた。

  <まいにち満員電車に乗って/
        人を人とも思わなくなった/
    インターネットの掲示板のカキコミで/
        心を心とも思わなくなった/
    虐待死や自殺のひんぱつに/
        命を命と思わなくなった
    じゅんびはばっちりだ/
        戦争を戦争と思わなくなるために/
    いよいよ明日戦争がはじまる>

▼宮尾節子さんという詩人が書いた。最近公開されネットで広まったと聞く市井の詩。戦争のじゅんびなぞ真っ平だが、昨日の気持ちはあの落書きのようにこの市井の詩に残るかもしれぬ。「人、心、命」が軽く扱われる状況への悲しみと怖(おそ)れ。その歪(ゆが)んだ表情こそ昨日の日本の顔である。
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コメント (1)
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