
#聖書の言葉 #1人豊か #あーんしんエリクソンの叡智: 社会を見る,1つの視点 インターメッツォ : 人を助けて下さる、神様のひな形 物にするやり方は、こうして学びます 「無理矢理に入る」と......
「発達トラウマ障害」Enpedia
をご参照ください。
生きているのに
死んでいるあなたへ
マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。
やさしい中に
カチッ
と
歯が立つもの
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カチッ
と
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#トラウマ治療 #連想ゲーム平常心を保てない発達トラウマ障害(DTD)の子ども達,大人たち 発達トラウマ障害の子ども達=拷問死 >> 毎日1人、子どもが虐待によって殺されているのが......
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ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。
p.237の,第3パラグラフ,第4パラグラフ。さらに昨日の続きで,第5パラグラフも。
様々なものの名前を学んだおかげで,ヘレン・ケラーは,身の回りの,目には見えず,聞くこともできないまま体感していることに実感が生じただけではなくて,私を発見したんです。6か月後,ヘレン・ケラーは,初めて「私は」という話し言葉を使いだしました。
ヘレン・ケラーの話を聞くと,私どもの居住施設にいる,大事に育てられず,手に負えない,気持ちが通じない子どものことを思い出します。ヘレン・ケラーも言葉を身に着ける前は,手に負えず,自己中心的でしたから,振り返って,自分のことを「お化け」と呼んでいました。私どもの施設も子どもらも,自分が誰で,安心できて,自分が感じたことを言葉にできるようになるまでは,お化けですから。
後に出た,『私が生きている世界』の中で,ヘレン・ケラーは,私を発見して生き始めたことについて触れています。「先生が来るまで,私が生きているとは思えませんでした,生きている実感のない世界に生きていたからです。…当時は,生きる意志も知性もありませんでしたから…私がこういったことを覚えているのは,そういうことがあったと知っているからではなくて,身体が覚えていたからです。身体が覚えてくれたおかげで思い出すのは,考える時に,頭を使わなかった,ということです。
ヘレン・ケラーの「感覚」記憶,触れることに基づく記憶は,人に伝えることはできません。しかし,言葉によって,一心同体になる道が開かれたんです。8歳で,ヘレン・ケラーがアンネと共に,ボストンのパーキンス盲学校(アンネ・サリヴァンも,この学校で訓練を受けました)に行った時,友達と初めて気持ちが通じました。ヘレン・ケラー自身が言っていますから,「なんて幸せなことなんでしょう,他の子たちと気持ちが通じるということは。生きている実感を感じる中でホッとできることは。」と。
ヘレン・ケラーがアンネ・サリヴァンの手助けで,言葉を見つけたおかげで,セラピーになる関わり方の肝心要を手にすることができたんですね。セラピーになる関わり方の肝心要なことは,以前には言葉がなかった所に言葉を見つけることですし,その結果,最深の痛みと最深欲求を他の人と共に味わうことです。これは,私どもが体験してきた最も根源的な体験ですし,このように心響き合って一体になることは,以前言葉で言えなかった体験に言葉を見つけ,言葉を話し,話した言葉を聴いて貰えることですから,バラバラにされたトラウマを癒す原理になります。とくに,他の大人が自分に気を留めず,見て見ぬふりをしている場合は,心響きあって一体感を実感することは,トラウマを癒す原理になります。腹の底からの気持ちを分かち合うことは,トラウマを負わされることの正反対になります。
腹の底からの思い,最深欲求。
自分と人が,目には見えずとも繋がっていたいという願い。
それはスピリットに目覚ると実現します。何故かは分かりません。
そうできている,ということだけは確かです。
ですから,発達トラウマを抱えている人は,何にも言わなくても,一目見ただけで,スピリットに気が付きますね。一目瞭然です。
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Toys and Reasons 『おもちゃ と 賢慮』から, p.173,最後の第2パラグラフ。6年ぶりの改訳の続きです。今日は,p.174の第3パラグラフの下から9行目から。
もしも,ひとりびとりの生涯にわたって,イキイキと子どものキリストが生きることは,陽気で楽しい歓びを生きることですが,生涯に渡って発達する一本道の途中で日々行う,あの毎日礼拝の中で,繰り返し確実に中心軸となる自分が不動にされて自由でい続けることになるのならば,ハッキリさせることがことさら大切なのは,
(訳注:①)過去において,お父さんお母さんたちが,中心軸となる自分が不動にされて自由でい続けることに,どんな塩梅で役立ったのかということですし,
(訳注:➁)いまここで,お父さんお母さんが,子どもの中心軸となる自分が不動にされて復活することに役立つことが,お父さんお母さんが子どもに心響かせることに共に集中することでますます気高くされるあの道を,明らかにすることに集中して自分を空っぽにすることです。
子どもが創造にピッタリ合った不動の善き良心ができるのは,大人たちが毎日礼拝の司祭になる時だけです。毎日礼拝の司祭は,聖書の神様の命が一巡する神の支配に与る心の習慣の中で,我よりも聖書の神様を心底信頼することに,理性的に共に確信を持っているものです。しかし,聖書の神様の命が一巡する神の支配に与る心の習慣は,聖書の神様が創造する道から生まれるやり取りから,繰り返し振り返ることで,初めて,この世に自由自在に打ち勝ち続けることができます。1つのやり取り,それは,人と人の間を聖書の神様の命が一巡して人を不動に自由にしてくれる「光」を運んできてくれますし,聖書の神様の創造にピッタリと一致する,心の習慣と,人生の習慣とを,確立することに役立ちます。あるいは,1つのやり取りは,あの「キリスト」が聖書の神様の命が一巡する場を繰り返し整えてくれることで,心から自由にできるようになります。キリストも,日曜礼拝の犠牲になります。日曜礼拝は,自分と人の目を誤魔化す言い訳をする強情と,ねばならないと思う悪い良心とを代わりばんこでもたらし,お金やモノで子どもの歓心を買ったり,子どもに厳しくしてみたりすることを,代わりばんこにもたらし,居ても立ってもいられず,どこか遠くに飛んでいきたい気持ちと,その気持ちから共依存に陥るカラクリに捕らわれることが,交互に現れます。
子どものころにしてもらった毎日礼拝で体得した,互いに大切にし合う関係の強さと関係の仕方が試練になるのが,若さならば,ぜひともハッキリさせることが大切な事情とは,世の中で生き残ることができるような,心新たにされた陽気で楽しい歓びを編み出す,生みの苦しみを伴う実験を試す情熱です。それから,大人になって,創造に与る方向に手を貸すようになれば,心から自由になることを通して,ますます共に心響かせることに手塩に掛けて子ども等を育てることになるのが,まさに,聖書の神様の創造に与ることになる点で,未来を手で拵えることになります。
日々のお勤めで,相手に寄り添って心から自由になる毎日礼拝によって,世にも珍しい素晴らしい光がピカリと照らす道は,同じ夢(その夢が,信仰,確信,審判,空想,あるいは,幻のいずれでも)を共に見ることが,ひとりびとりが相手と一心同体になる役目になる道になります。というのも,どんな夢でも,同じ夢を見れば,試練を経て体得した気高い関わりを始める勇気をやり取りの中で,相手の心に吹き込みむことになります。さもなければ,互いに分かり合えないないまま育つ場の中で,自分から人に関われず,自分からも人からも,生きている実感を奪い去る心の習慣を,子どもの心に吹き込むことになります。生きている実感が奪われる時に,目に見えてくるのは,人生のとある舞台で,ひとりびとりの人間の中の起きてくることは,その歴史的時間の中で,人間の発達に関する見方で主流になっている人達の人生の習慣が危機に瀕していることに深く関係している,ということです。同じ夢を共に見るのか,それとも,思いが自己愛的でそれぞれバラバラなのか,いずれの場合でも,心が一致するかどうかで,市民生活の現実が決まってしまいます。
ニッポン人が,不満と怒りを募らせている人が巷に溢れているのは,人々がこの世を超越したスピリットを忘れて,バラバラだからです。
子どもがひき殺される事件や親が子どもと日々ほとんど共に居ることができない市民生活の現実は,人の心がバラバラなことの端的に表現にすぎません。
事実は,心の子どもです。唯識ですね。
#日常生活を礼拝にする最初の礼拝 #互いに大切にしあいなさい #キリストの新しい約束を守る現世考: 連休の終わりに,ニッポンの小規模な「大型連休」を想う 発達トラウマ障害の子ども達=拷問死 >> 毎日1人、子どもが虐待によって殺されているのが、ニ......
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The life cycle completed 『聖書の神様の命が一巡することができた』 p.87。 第2パラグラフ,下から7行目途中から,です。今朝は,少し割愛して,その続き,p.88の第2パラグラフ。5訂版です。
生きている実感があまりにも,驚きと感激に満ち溢れたヌミノースなものなんで,「生きている実感」は,結局は,晴れ晴れと生きるのが心の習慣になりますし,さらには,生きている実感がリアルに自分を生きていることの不可欠の条件になります。同時に,2人か3人,心響き合う人間に発達するイメージと言葉を分かち合う者達だけがそれぞれの「生きている実感」から唯一の「共に生きている(共に居る)実感」の中で一心同体になります。…。
「共に生きている(共に居る)実感」に関して,フロイトさんも,もっと言ってますからね。「間違いなく,ひとりびとりの人がキリストと一心同体にする絆が,ひとりびとりの人が互いに一心同体になる絆のはじめです」って。
今日訳したところは,素直に訳しても大丈夫なところです。フロイトさんの言葉だからです。
キリストは人間であると同時に,人間を超越した存在です。換言すれば,スピリットの存在。
ですから,この世を超越したスピリットがあって,初めて,この世でひとりびとりの人は連帯できる。
この世を超越したスピリットを生きなければ,この世のひとりびとりはバラバラ,ということです。
あなたは,どっちかな?
ニッポンは,どっちかな?