明治から昭和期にかけて、川崎紫山という新聞人がいました。
この紫山が矢部定謙(やべ・さだかね)を「幕末三俊」の一人に挙げ、墓所のある淨心寺へ回向に出向いています。遺徳を忍ばんものと私と同じように、浄心寺を目指したのですが……。
「此寺院(淨心寺)の裡に沿ひて、一簇の墓塋有り。而して、累々たる大碑小碑、碁の如く羅列したるが中に、二個の花崗石、石径の一端に立てり。嗚呼、是れ、矢部駿州の碑。
勢州桑名の幽囚中に憤死したる矢部駿州の英魂は、招かれて浄心寺に帰しぬ。余、之を寺僧に尋ね、漸くにして、其碑を発見し、手づから香火を捧げ(後略)」…川崎紫山「幕末三俊・矢部駿州」より。
淨心寺の墓域は、確かに「累々たる大碑小碑、碁の如く羅列したるが」ごとしでした。紫山にして寺僧に尋ねなければわからなかったようですから、訊ねる人もなき私が見つけ得なかったのもむべなる哉、です。
当初私は矢部定謙にはさして興味がありませんでした。八年前、矢部さんの後輩にあたる川路聖謨(かわじ・としあきら)のことを調べていたとき、川路さんが矢部さんを非常に尊敬していたというのを知って、興味を懐くようになったのです。
矢部さんは三百俵取りという下級旗本から三千石の勘定奉行、町奉行に出世します。
そして「妖怪」と嫌われ、恐れられていた鳥居耀蔵に貶められて失職。
そればかりか、罪に落とされることとなって、桑名藩へ預けられ、言い伝えでは鳥居と鳥居を用いた老中・水野忠邦を恨んで、絶食……みずから餓死、という壮絶な自殺を遂げたというのです。
矢部さん自身は罪を問われるようなことは何もしていません。現在の裁判にたとえるなら、罪に問われた人を弁護する発言をしただけです。
まあ、最初から矢部さんを貶めようとしていた人にとっては、罪人に好意を見せることすなわち罪に値するのでしょうが……。
ただ、矢部さんは罪人を弁護することは自分を危うくするということに気づかなかったのでしょうか。三俊の一人として称えられるほどの人ですから、気づかなかったはずはないでしょう。わかっていながら、黙っていられなかったということだと思います。
言い方を換えると、直情径行型の人物。
典型的なのは大塩平八郎の乱に関してのエピソードです。
矢部さんが大坂西町奉行に就任したとき(1833年)、東町奉行所与力だった大塩はすでに隠居していましたが、大塩の見識が高いのを知った矢部さんはしばしば大塩を招いて食事をともにし、歓談したようです。そして当時の幕政に悲憤慷慨する大塩の意見はもっともだと同調した。
奉行を退任するにあたって、後任の跡部良弼が奉行としての心得を訊ねたのに答えて、とくに大塩に関する注意を伝えました。対応を誤ると恐ろしい人物だと忠告したのです。
それを聞いた跡部は、矢部は傑物だと聞いていたが、すでに隠居している与力に心を用いよ、などと心配するとはたいした人物ではない、と周辺に漏らします。
やがて、ノー天気な跡部をよそに、大塩平八郎の乱が起きます。
乱が起きたとき、矢部さんは江戸に戻って勘定奉行になっていましたが、大塩がなにゆえに乱を引き起こすに到ったか、弁護する発言をするのです。
大塩に同情を寄せる、ということは幕府を批判することになります。それも、独り言を呟いたのではない。おおっぴらにいってしまったのです。
矢部さんの性格からして、黙っていられなかったのはわかりますが、理由はどうあろうとも、謀反という重大事に関して勘定奉行が意見を差し挟む、しかも弁護するなど、越権行為もはなはだしい。
当時は水野老中が天保の改革に躍起になっているときです。
水野の施策は評判が悪く、やがて老中の職を解かれ、減封の上、謹慎ということになります。
賢明な矢部さんが水野の施策には無理があると見抜いていたのは、後代の辻褄合わせではない、と思えますが、考え方が違うとはいえ、幕政に関与している者がその長を批判するのはやはりまずい。
かくてせっかく出世街道を上り詰めながら、上手の手から水がこぼれるのです。
近いうちに深川再訪と参りたいと思います。今度こそ矢部さんの碑を捜し当てて、なにゆえに直情怪行でなければならなかったのか、じっくりと訊いてみなければなりません。
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