銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

組織内で、派閥が横行することから来る弊害(国画会の場合)ーI

2011-01-19 01:25:58 | Weblog
 本日の主役指原いく子さんは、国画会会員です。が、これから、彼女の失敗を書くわけですから、国画会が相当よい団体だと言わないと、この文章の効果も上がらず、筋も通りませんので、それを先に述べさせてくださいませ。これは自分が関係していたから言う一種の身びいきではなくて、割と客観的な事実です。特に1980年代まではそうでした。

 みな様は大きな展覧会というと日展を思い浮かべられるでしょうか? ポスターが各駅や電車内に、よく張ってあります。今現在の話題のスターはジュディ・オングさんです。日本の風景を現す木版画を作っておられて、完璧な玄人です。

 だけど、少し事情通に成ると、「あれは、官展から発展した古いタイプの会で、現代風な絵は、二科展にあるのよ」とおっしゃるでしょう。ただし、二科もたしかに有名ですが、その手の現代風の絵ですと、戦後、最も格が高いとみなされていたのは、新制作協会でした。それが新聞や雑誌などの世界の論調だったと思います。

 しかし、こういう公募団体展に出そうと思った時に、私が『最も優れている団体だ』とみなしたのが国画会でした。

 どうしてそういうかというと、新制作協会は、白っぽい絵が多いという意味でマンネリズムに陥っていると感じました。白は美しい色ですし、上品です。でも、会場全体が上品という規制がかかっているように見え、そこに不自由さを感じました。それに名声に胡坐をかいていて、生気がなくなっているとももいってよいか。

 1970年代までは、新制作が突出して上だったのですが、1980年代には、国展、独立展、行動展、春陽展、モダンアート展、二科展、女流展、東京展、毎日コンクール展などが、ほぼ平均して、横並びで活躍していて、その中でも、独立はどぎつい色調の絵が多く、国展はやや上品で、こだわりや偏頗が少ないと感じました。

 ここから、六本木の新国立美術館がかかえる問題点に初稿では触れていますが、字数制限をオーヴァーしたので、削除します。その会館が帰って損失を招き、
 公募団体展は衰退しつつあると思うのですが、・・・・・
 私自身は、1990年から2003年までかかわり、最後の輝きを味わったというわけで、それなりに意義深い経験だったと感じます。

 私はその頃、どの団体展に出しても、どのコンクールに出しても落選する事がなくて、当たるを幸いなぎ倒すではないが、大いなる希望に満ちていました。特に何のコネも引きもなくて、入選していたから、意気軒昂でした。しかし、内部に入ってみると矛盾は一杯です。

 一番の原因は、実質的なトップ(表向きの代表である事務局長は変わるが、組織の影の立役者は、常に、)であった島田章三さんの気質に存在していました。ある人が「島田先生はお金集めの上手な方で、先生が在任中の愛知芸大は、輝いていたが、先生が去ってからは鳴かず飛ばずだ」といっていましたが、
 確かにビジネスライクな方なのです。一見するとあたりがやわらかくて威張らない方です。が、思想の高さや潔癖性が足りない方なのです。
 
 今回下に述べる、指原いく子さんの奇妙にして、失礼極まりない態度とその発生は、究極のところ、島田章三先生に芸術家としての潔癖さが足りない事が原因です。その絵が妻の鮎子さんの発想の、実質的な盗作であるということは、公言している人もいるし、ちょっと絵がわかる人なら、誰でも、すぐ気がつく点です。

 島田先生は、人に接する時の態度は、穏便で洗練がされているが、非主流派が(というか、島田先生が参加しない形で)神奈川県で支部展を開こうとしたら、国展支部の名前を使わせないで「鵠展とせよ」とおっしゃったそうですよ。ひどい専権です。私だけが泣いているだけでもないのです。

 あらゆるポイントで、結局のところ、ご自分が有利になるように図っていらっしゃる方です。それが通用するのは、奥様と義兄弟が芸大出身で、その三人だけでも強力な派閥ができるし、そこにほかの人を糾合するので、誰も逆らえないほどの、勢力を生みます。で、結果として、会の内部がよどみます。やりたい放題が通用することと成ります。まずあまりに、芸大派閥が有利なので、それ以外の美大出身の人は団結しますが、それでも対抗できませんので、忌まわしい手法も横行することと成ります。
 和田義則画伯の贋作事件というのを招いてしまい、国画会の名声を地に落としてしまいました。
 イタリア人の絵とそっくりな絵を描いて発表していて、それがばれた途端にテレビや新聞が大騒ぎで報道して、国画会の名誉を著しく汚した事件です。

 あれは、もし島田先生が芸術的に潔癖な人だったら、和田さんも絶対に手を染めなかったことでしょう。島田先生はおとなしくて自分に従う存在が好きなので、その人物を高く評価してゆくゆくは国画会の土台を背負わせようと期待をされていたのではないですか。しかも相当に若い時期から。となると才能が枯渇する可能性はあるのです。枯渇しながらある程度以上の絵を描かないと期待に添えないから、贋作というか、盗作に走ったと感じます。

 ここで、挿入と成ります。がちっと、それに触れるのは早計というものですが、島田さんの作品の収蔵庫と、みなしてもよい横須賀美術館を作るのに、国画会の実質的にトップであると言う力が、寄与したことは確かなのです。ただ、保存をするだけではなくて、収蔵品を相当なお高い価格で買っていらっしゃると思うので、画家として島田先生だけは、最大に成功なさったわけです。が、それを支える人として一種の利用をされた和田氏は自爆してしまいました。だから、島田先生一人の成功の影で、死屍累々と言ってはなんですが・・・・・大勢の人が涙を飲んだと感じています。

 私が、日本や西欧の天才と呼ばれる人たちをつぶさに観察した結果、よい作品をものした期間は大体18年から20年です。で、西欧の天才はみんな早死にしています。日本でも芥川竜之介、石川啄木、青木繁、中村つねしかり・・・・・

 ですから、ああいう団体も定年制度を作ればよいのです。20年以上会員を続けたら、名誉会員という形にして、小さい絵を発表させる。壁面の場所もとらず、かつ、彼らは有名人になっている可能性も高いので、小さい絵が売れますので、無駄にはなりません。
 で、新人や若手とは競合をしないという制度を作れば、こういう悲劇は防げます。和田さんというのは早熟型で、その才能が、中年時および晩年には、継続しなかった人材だと考えると、わかりやすいです。会員だから審査を受けないでいいのですが、島田先生が潔癖だったら、この事件はおきなかったでしょう。

 過ぎてからあれこれ言うわけではないが、審査が潔癖ではないこととともに、閉鎖性我強いことにも問題があります。ほかのコンクールに応募すると嫌な顔をされ、それが元仁で、さらに出世が遅らされます。私は上野に絵を出し始めて、四年後ぐらいには、『ああ嫌な世界だなあ。ここから出たいなあ』と思いましたが、それが、なかなか出られないのです。一種のタコ部屋的制度というのかな。恐ろしい心理的な縛りがあって、自由ではないのです。

 で、そういう構造的な仕組みの中で生きぬいて行くために、特殊なマナーを身に付ける人が出てきます。そのもっとも特異な存在が山寺重子さんです。この人のいじめのすごさといったら、銀座の画廊のロビーで、ただ、「あの人が」というだけで、誰のことをさしているかがわかるほど、有名です。心理操作を駆使して真綿で首を絞めるような形でいじめてきます。『彼女と、まともにかかわったら、誠実なひとほど、早く、ノイローゼになっちゃうでしょう』というぐらいの人物です。江見絹子先生より、態度は柔軟で知的な美貌に恵まれている人で、初見では悪者には見えませんが、その他者支配の目的が『個人的な優越だけ』ですから、江見先生より小粒な人ですが、いじめ方が圧倒的にしぶとくてかつ陰険なので、影響力が大きい人となっています。
 
 で、これまた、一冊の本を書かないと駄目なほどの人ですが、今日はそれほど、山寺さんに対しての食指が動かないので、先へ進みます。

 私はある程度以上の実力があり、やがて山寺さんを追い越すかもしれないと思われていて、しかもバックも肩書きもないので、彼女ににしてみれば、いじめの好対象です。しかも私をいじめれば、『ああは、成りたくないものだ』と思う数人の同世代のほかの女流画家を簡単に支配できます。

 私は、参って、しまって、逗子のアトリエから同じく逗子在住だった、故藤田吉香(男性で、有名な画家)に、単に住まいが近いという縁だけを頼りに、「どうしたらよいか?」を聞いたら、簡単な答えはない模様でした。だが、気の毒には思ってくださったのか、考えるべき筋道は、教えてくださったのです。つまり、「山寺さんは、10票ぐらい持っているのですよ。そして、島田員子(かずこ)さんという方も面倒見がよくてね。票を持っているのです。で、お互いに、まあ、譲り合ったりして、会員を作って行くのです」と。

 で、私が自分で考えて選択すべき道としては、『山寺さんと合わないのなら、島田員子さんに媚びていけ』ということになると、暗黙のうちに、感じました。

 が、私は鎌倉の人間です。すると、地域的には、横浜在住の山寺さんの配下に成ります。そこを、飛び越えて、東京の島田さんにくっついて行く? それが可能かどうか? 島田さんは、山寺さんほど悪評は高くはありませんが、島田さんに引っ付いて行っても、出世できるかどうかの保障はあリません。しかも山寺さんを飛び越えて島田さんに、こびるとか、その配下につくなんて言うことが、できるはずがありません。山寺さんは自分の勢力圏内の陣座の動きには、目を光らせているでしょうし、島田さんは、もし、私の世話をしたら、山寺さんのシマを荒らしたということに成るから、それを察して、支援を拒否するに決まっています。と成ると、こりゃあ、出世が無理な世界と成ります。出世しないでいいわ』という案もあるでしょう。だが、それだけ出費がかさみますし、心理的にも、『上下関係の厳しい世界で、実力はありながら、干される人間となる』と惨め極まりない立場に成り、さらにいじめられるのは必定です。

 しかし、やめるにやめられない雰囲気もある。これは困りました。1995年ごろからずっと頭上に暗雲がたれ込めていると言う気配です。ここら辺りは新制作は出品している渡辺幸子さんもほとんど同じ状態で、出世というものに関しては、2000年ごろまで、深い悩みを抱えている模様でした。

 今はその国画会からは逃げ出しましたが、今度は別の暗雲に囲まれています。だが、こちらの敵は『そちらの方が、法的にも心理学に的にも悪いのだ』ということが非常にはっきりしていますので、かえって楽なのです。我が家に遊びにおいでになったら、盗まれてしまった土地が明瞭に証拠つきで、説明できますから。ここも本当におかしい場所で、三人か四人釣るんで、力関係的に強い方が他人の土地を勝手に盗んでいいというのですから、これでは日本全国が大混乱になるでしょう。それを、平気で26年間通しているのですから、恐ろしい人が住んでいるものです。が、現物を見せて、不条理なことが、どういう風に行われているかの説明ができます。

 その後、パソコンの破壊がどういう風に行われたかの説明もできます。被害総額が20億円にもなるよと、常に言っていますが、ある程度の部分を説明するだけで、すべての人は、全部をお分かりになるでしょう。

 しかも「それらの被害が、石川和子女子と言う、伊藤玄二郎氏の元愛人だった人の、警官を私的に利用するという大・失敗をきっかけとして、スピードアップしたのですよ」と、言えば、さらにわかりやすくなります。

 だから、戦いが楽であり、敵の悪も大きいからこそ、戦う生きがいもあります。チュニジアで、独裁政権が打倒されたそうですが、それは、国民が秘密警察を嫌ったそうです。私がまだ皆さんに言っていないことで、友人のパソコンが壊れたりしたケースは、個人の力でできることではないから、公安警察か、CIA(=瀬島機関)か、革○等の関与も疑われます。そこが、相当に、怪しいので、それもまた、きちんと戦わないといけないポイントですし、事が大きければ大きいほど、逆転のめども立つのです。正義が負けるばっかりでも、ないのです。

 私は戦略というのを練らない人間です。そして、武器は何もないです。ただ、信仰に依拠しているだけです。天は・み・そ・な・わ・す・と。で、その天のご加護は敵が悪者であればあるほど、強いのです。それと彼らは卑怯極まりない人間たちで、姿を隠そうとしています。それは、弱さの反映です。だから、最後にはどうにかなるでしょう。というか、彼らが負けるというか、この戦いが終わるでしょう。それは、信じています。

 ところが、国画会内部のごたごたは、より小さいくせに、スライム(ゲームドラクエの中に出てくるぶよぶよの物体)みたいな切り取りが困難な問題です。
 で、逃げる一手ですが、いつというタイミングは大切です。それと逃げたことがマイナスとならないような別の目標も必要です。

 だから、私にとっての海外修行は絶対に必要なものでした。国画会での、いじめというか、頭上の暗雲が濃かったゆえに。そして、今の私は、十分に逃げたことへの埋め合わせはできています。国画会で悩む時間とエネルギーを本作りにまわして、六冊の本を作り上げ、まだ、やろうと思えば、それが可能なエネルギーと技術とお金を持っています。
 非常に恵まれた立場にあるといえば言えるでしょう。

 で、ここでやっと前置きを終わり、今日の主人公とそのエピソードへ到達しました。

 指原いく子さんは、私より、15歳ぐらい年下で、東洋英和から女子美へ進学して後、国画会へ絵を出していて、女子美の同窓関係で、山寺先生には、ひいきしてもらっていたのですが、それが、もろに出ていたのが、彼女がギャラリーオカベというところで開いた個展の会場でした。その期日は後で、調べれば調べられますが、すでに、一万本以上のエッセイを書き、かつ、パソコンがその間、4台か、五台敵によって壊されていますので、すぐには、正確な日付を思い出せないのですが、10年以上前であることは確かです。

 彼女は、今では、女流と国画の両方で、会員です。上の方で述べたように、会員とは無審査になる事を示し、最大の特典は、材料費や時間を節約できる人生が開けるという事です。しかもプライドが十分に満足させられて、画廊街で、先生と呼ばれる立場に成ります。また、材料費や時間を節約できることは、その分を個展にまわせますので、さらに、幾何級数的に、得をして行く結果と成ります。

 で、その日画廊へ入ると、ずらっと八号程度の絵が並んでいました。一番最初に感じたことは、『あれ、山寺重子さんとそっくりな絵だ』という事です。『これは、審査で得をしようとしているな。山寺さんにこびていることは確かだけれど、島田員子さんの票も狙っているわけですね。なるほど、だけど、汚いなあ』と思いました。今、皆様は、インターネットで指原さんの絵を見ることができると思います。そこに出ているのは、100号のしかも、現在のものですから、ニュアンスが潤沢ですが、このエピソードが起きた日は8号です。そうなると、インターネットで皆さんが見ることのできる絵の10分の一程度の大きさですから、ぐっと単純に成り、『いわゆる、ご機嫌伺いですね』という傾向は如実でした。

 指原さんの本当の意図はわかりましたが、それを見抜いている事は伏せて、個展の主役とお客としての普通の会話に入りました。つまり、作品に関して製作意図を聞くとか、技法のセールスポイント(それは、画家独自の工夫があるものなのです。それを世に問うために個展をしているわけですから)などについての会話です。

 これは、大切なことです。それを聞くために、アーチストは銀座で個展をしているのです。お客のレベルが高いことを信じて、個展をそこで開くわけです。ただ、知り合いに売るためなら、ジ・アースほか、地方にあっても、オーナーの積極性と社交性によって、特有のお客がついていて、作品が売れるところで個展をすればよいのですから。

 私は銀座で六回、鎌倉で二回、ニューヨークで一回個展をしましたが、すべての画廊で、一番願ったことは勉強です。だから、私にとってはそのときの行動は、まったく自然なものでした。今でこそ、審査の問題に絡めて、上のようにどぎついことを言っていますが、当時は穏やかな人間です。
 
 ところが指原さんは、ぷいと向こう側に行ってしまいました。何も断りの言葉を出さずにです。このときも、その失礼さにひどく驚きました。わたくしは、横浜国立大学付属中学校では、入学式総代で、卒業式も総代です。しかも同級生の中には、東大教授をはじめ、数人の大学教授がいます。高校でも同期に大学教授が大勢いて、大学同級生にも大学教授が大勢います。プライドものすごく高いですし、礼儀を守る存在です。なんの断りもなくて、ぷいと向こうへ行ってしまうとは、後で、東洋英和出身だと聞けばなおさらのこと、驚天動地の行動です。

 でもね、ここは日本です。野蛮な日本人女性が大勢いるニューヨークではない。あそこは「勝気さだけが、勝負の世界だ」という趣があります。が、日本にいる日本人は、もっとしとやかでやさしい国民性を持って生きています。だから、そういう日本人の一人として、私は煮えたぎる思いを抑えて、何事もなかったように、引き続いて作品を見続けます。だって、ぷいと無視した失礼な行動に呼応して、こっちもぷいと外へ出たら、それは、子供の喧嘩の応酬でしょう。私の辞書にはない礼儀・作法です。で、我慢をして作品を見続けていました。この我慢をするということの切なさや、気品というものに気がついてくれた人がいます。

 それは、指原さんのご主人だと思われる男性です。さっと近づいてきて、「どう思われますか?」と質問をしてくれました。

 私はその瞬間、水を得た魚のように生き返りました。彼が大企業のエンジニアータイプだったからです。これこそ、私の生活圏内の人間です。父は石油を勉強して、往年のハヤマ石油(後年丸善石油と成り、後は合併してさらに名前が変わっている)で、人生をはじめているし、夫は化学と機械を勉強して、日産自動車の研究所で人生をはじめているし、妹は薬学を勉強して、鳥居薬品(医者向け)の学芸部で人生を始めているし、弟は、電気関係の勉強をしてNECエンジニアリングで、人生をはじめているし、この手の人間は慣れている方なのです。で、安心して話を始めました。

 もちろんのこと、こちらは失礼なポイントには言及はしません。奥さんのいく子さんの失礼な態度が、山寺さんに媚びたもので、それは、山寺さんから、この個展の開催前に、私に関する何らかの悪口が入っているから出てきた、態度だとわかっていますが、それに対する恨みを口に出すようなバカではないです。

 悪いけれどはっきり言って、中学から東洋英和に入学するのと、お茶大の付属高校に高校から入学するのでは、後者の方が難しいと思いますよ。募集する人数が少ないですもの。だから、頭の働かせ方がまったく違うのです。指原さんより私の方が、もっと複雑です、我慢の方向性や意味や深みが違います。
 
 だけど、指原いく子さんはどうも極端に、単純な頭の人みたいで、ギャラリーオカベ内で、喧嘩を売らない私を、『こいつは、バカだ』と判断したみたいなのです。

 なんと彼女が再び戻ってきて、私とご主人との間に正三角形という形を作りながら、割って入ってきたのです。そして、背中で、左手を、ひらひらさせて、「あなた、この人なんか、相手にしなさんな」というボディラングエッジを送ったのでした。声は出さなかったのです。それに、彼女としては、こちらにはそれが見えず、私には、彼女の汚い心や行動が知られるはずはないと、思ってした事のようですが、みえみえに見えてしまいました。
 温厚を貫いていて、我慢のきわみの人である私も、この二回目の、しかも一個の人間を犬のごとく追い払うという失礼さには、さすがに耐えられず、何も説明せずに、さっとその三人がなす三角形の頂点から降りて、きびすを返して、入り口から道路に出ました。

 さあ、その後で、同席していた方々やら、ご主人が、どう考え、どう反応したかはしりません。が、謝罪の言葉は今もって、指原さんからは来ていません。特にその後何度も出会っていますが、微妙にして失礼な態度が繰り返されています。

 『私が送ったサインの意味を、こいつは把握しちゃったのかなあ』と探る目つきで、ひとえの無表情な目をこちらに向けてきますが、ともかく、私には挨拶をせず、私と一緒に仲良く歩いていた版画部の善意の人(会員)にだけは、挨拶していました。
 その人が会員だから、部門は別で審査も関係がないが、媚びておくが、私の事は知っていても、そして、同じ絵画部の人間であっても(版画も出品していましたが、油絵も出品していました)会員ではないので、自分の役には立たないから無視しておこうという、超がつくほどの省エネです。要領のよさのきわみです。
 『東洋英和というミッションスクールでは何を教えていたのだろう。神の前での人と言うこと、だから、人間は常に弱いものであり、かつ兄弟として神の前では、平等であるということを、彼女は一切知らないのであろうか』と思います。

 さて、ここで、二時間ほどまた中断しました。その間にさらに思考を重ねたのですが、皆様に、『この文章の目的や意義はどこにあるのか?』、とか『実名で書く意義はどこにあるのか?』と質問をされたときにどう答えるかをです。この文章の意義は、大きな流れの中にあると答えさせてくださいませ。国画会を改革しようなどと言う大それた思いはもっていないことはたしかです。

 それから、実名でかくことですが、そう、しないと、私の被害が大きすぎるからです。仮名で書いていても、必ず、誰の事であるかをハッキングで探されて、私が復讐を受けます。それは、ギャラリーオカベの態度に如実に表れています。そこで、岡フクさんという画家が個展をしますが、案内状に「来て下さい」という優しいムードの添え書きがあります。それで、見に行こうとすると定刻前に画廊が閉まっています。私は新橋から歩き始めるので、そこに達するのが、だいたい七時近いのです。その上、例の公安警察か何か知れませんが、持っているモバイルパソコンのGPS機能を使ってどこを歩いているかがわかるらしくて、ギャラリーオカベに連絡を入れ、「彼女(私のこと)を岡フクさんに会わせるな」と連絡を入れるのでしょう。

 つまり、『どんな形でもいいから、彼女に損をさせて、悲しませろ。そうすれば文章を書かなくなる。または、書けなくなるさ』と、思われています。だから、この件もすべて政治と関係があります。政治に対して正しい事を書いているからこそ、弾圧をされますが、それに美術の世界が利用をされています。

 指原さんの一件は最初は彼女の出来心だったでしょう。が、私が文章を書いたことによって類似のケースが頻発してきて、『なるほど、なるほど』とそれも納得をしたことでした。つまり、今の私は心理学とか、哲学の問題を解くために文章を書いているのですが、と、同時にミステリー小説も書いているのです。この大量の被害を案出し、裏で指揮を取って、迫害し弾圧するのは、誰なのか?と、言うことを、解くために、

 2011年1月18日にかき始め、19日午前一時に初稿を完成し、19日午後四時に推敲を終わる。                      雨宮舜      
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