銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

旧里見邸に秘密が隠されている?・・・原節子の死と伊藤玄二郎+伊藤整△△△

2015-12-03 03:31:30 | 政治

 今は、2015年12月4日の午前二時です。完成し、かつ3度目の推敲も果たした印に、恒例の△を、総タイトル右横に3個付けておきます。初稿時(前日)より、3倍に膨ましてあります。加筆部分は、気が付いた限り、アンダーラインを敷いてあります。これは、総タイトルを、初めは、『原節子死す。彼女及び、山内静夫氏を、最大限に利用する、伊藤玄二郎』としていましたが、三日目に、上のものと変更しました。

 本章は、まったくもって、前報(後注1)の続きです。そちらが、字数制限の限度いっぱいになったので、それ以上はそちらでは書けないと判断をして、こちらを後編として新しいブログを立ち上げます。ところで、この章も時間的には、ずっと前である2015-11-28 00:35:32に、一部分をすでに書いてあったものです。しかし、一回も表にさらしていないと思います。 ところで、これを、2015年12月2日に、公開するのは、前報に、書いている最後の部分と関連があるからです。

副題1、『伊藤玄二郎は、有名人の死を最大限に利用をするのだけれど、今回の原節子篇ほど、明瞭にそれが、判ったことも他にないというほどだ』

 原節子さんが、実際に亡くなったのは9月5日だそうです。その際に、甥ごさんは、すぐ、山内静夫さんには、知らせたのでしょう。山内静夫さんは、松竹のプロデューサーとして、【東京物語】他を、制作した人なので、小津監督が亡くなって長い年月が経た今では、原節子にとっては、もっとも、重要な知人です。そして、山内静夫さんからは、すぐ伊藤玄二郎ほかの鎌倉のセレブ様連中には伝わったと思いますよ。それが、特権階級の特権階級足る処であって、庶民の知らない情報を、自分たちがつかんでいるということが、最大の優越ポイントですから。

 最近は、有名人でも、「お葬式を密葬で行い、世間には、すべてが終わって片付いてから、知らせてほしい」とご本人が、思っていて遺族に伝えているケースが多い様に感じます。で、死者の遺志を守って、直後には、その死を公開しない人は多いのですが、11月25日の深夜、このニュースが公開されたのは、原節子の遺志でもなかろうし、甥御さんの意思でもなかろうと思います。

 それが、NHKニュースとして発表をされたのは、25日の夜の11時過ぎでした。私は録画ニュースと、録画ニュースの間の、ライブのNHKBSプレミアム内で、そのテロップを見たという記憶があります。

 この日に、これが、発表をされたというのは、鎌倉エージェントの総力を挙げて、川崎千恵子を脅かしたいと、言うところだったでしょう。と言うのも、その日は、私は、立花隆の恥多い旅行っぷり(または、取材っぷり)の実情をさらすブログを書いていたのです。後注2、

 これは、現在最大の特権階級である、鎌倉エージェントにとっては、とても困ることなのです立花隆自身は、忙しいので、田原総一郎や、ビートたけしと同じく、鎌倉エージェントの一メンバーではないと思いますが、彼の親友がたくさん、そちらへ、入っているのです。秋山豊寛、成岡庸司などです。その夜に、その文章が、いよいよ佳境に入ってきたのですね。立花隆は、「トルコで、唯一感動したのは、セルチュクの博物館だった」と、その著書『エーゲ海・・・・』の中で、書いているのですが、そこへ行く様に勧めたのは、私の夫なのです。どうしてそういうことになったかは、後注2の文章の中で、丁寧に、説明をしています。

 それを描いている最中の、昼間の時間帯、すなわち、原節子の死が公開される7時間前に、山ノ下の鎌倉駅周辺の市街地へ、私が、降りて行った時にも、リアルな世界で、散々に脅かされています。

 が、私は立花隆など、小指の先ほども尊敬をしていないから、脅かされても、脅かされても、しっかりと、最後まで書くことを止めません。で、連中は、大騒ぎで、連絡を取り合ったのだと、推察しています。どうしてかと言うと彼こそ、日本の政治家を撃墜する手法を、編み出した人物であり、彼が、鎌倉エージェントの一員であろうとなかろうと、CIAにとっては役に立つ人物の筆頭だからです。そういう人物の権威が落ちることは避けたいと考えているでしょう。

 で、その文章を、書き止めさせる為の攻撃策の一環として、その日の、真夜中も前田家の、天井灯が煌々と点いていたし、それに連動して西隣の白井・小野寺夫妻の二階の天井灯も、午前三時ごろまで、煌々と点いていたのでした。その日付ですが、ちょっと、不正確な記憶になります。こうなると異常なことが起きたら、必ず、日記に書いておかないといけないですね。この天井灯の問題だけは、アバウトな記憶ですが、それによるとそうなります。

 で、彼ら(=鎌倉エージェント達)は焦ったのでしょう。リアルな生活圏の、方では、立花隆を守ることができなかったので、また、テレビを利用して大花火を打ち上げる必要が出てきたのでした。何か、派手なニュースを打ち上げて、私を脅かし、私が今書いているモノ、特に、旭化成建材の疑惑問題と、そこから長谷川智恵子発言が派生しているというテーマ、から、私、および、このブログの世界の読者を引っ剥がそうと、緊急に対策が練られたのです。

 それが、電話で行われたのか、それともメールの交換で行われたのかは、判りません。伊藤玄二郎が、急きょアメリカ大使館に出向いて、成岡庸司と、立花隆と、会合を持ったのかな? まあ、どういう方法を取ったかは、判りませんが、伊藤玄二郎にしても、この原節子の死の公開をするという件だけは、山内静夫さんの、許可を取らないといけません。また、山内さんは、原節子の甥御さんと、連絡を取らないといけません。そのすべてが終わって、だれかが、NHKに、『これをニュースにしてくれ。特に臨時ニュースとして大々的に流してくれ』と、言う連絡を入れ、その後、NHKのストックから原節子関連の、データを取り出してきて、ニュースを作りあげ、放映をしたと成ります。

 こういう部分は、別にあとで、証明をされる部分ではありません。すべて、例の私固有の、見て来た様な嘘をいいの類ですが、当たらずといえども遠からずでしょう。

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副題2、『何が真の目的として、その日に、原節子の死が、公開されたかと言うと、伊藤玄二郎が、自分の力を私に見せつけたいと、思ったからであろう』

  川喜多記念館とは、事実上、山を隔てて、わが家の真南にある建築物です。公簿上は二つの地所の間に、別の持ち主の土地が、300坪程度挟まっているのですが、わが家の、真南には、その持ち主が、作った建築物は、何もないので、真南に向けて登って下れば、旧川喜多邸になるというわけです。また、川喜多邸を、訪問した回数がとても多いであろう、藤本真澄元東宝の重役は、私の父と、山口中学時代の、親友です。そして、その件について、語り合ったことはないのですが、藤本悌子夫人は、藤本真澄氏の義妹でしょう。なんか、不思議なことで、輪が繋がっているのです。伊藤玄二郎は、バックに瀬島龍三他、CIAがついているので、バカに傲慢で、自分の力を信じているみたいですが、ほんのちょっとさじ加減が変われば、私の方が上だったかもしれないのです。ここらあたりは、不思議極まりない輪廻と言うか、因果関係と言うかなのですが。

 で、パソコンを使い始めて、そういうことをたびたびエッセイに書いています。ただ、父の写真類と、新聞記事   (満鉄の社員時代には、絵描きとして、有名だった。社員としての、仕事=石油開発=があるので、戦争画を描く必要が無くて、中国の遺跡を描いていたので、五族協和のシンボルでもあった。ラストエンペラーの宮殿も飾っていたし、甘粕大尉の部屋も飾っていたし、その他の、高位の人の部屋も飾っていたのだが、終戦と同時に、刃物で、切り裂かれていたと、聞いている。

 そして、そういうもの)   が、全部我が家から盗まれているのに、国会図書館でも、マイクロフィルム化と言うことを利用して、それらの資料がもうないと言われている。こういうところが、超がつくほどあくどいのだけれど、権力者側は、この手の【税金で、運営をされている施設】を利用しまくるのだ。川喜多邸は、かしこ女史も、お嬢様もなくなった後では、鎌倉市が、管理することになっているのだが、

 そういう事実がある一方で、小町通りにその掲示板が設置されている、川喜多記念館の、催しを見ていると、その会館が、伊藤玄二郎に、企画の上で、いい様に牛耳られていることが、よくわかってくるわけです。

 そういう風に普段書いているのに、また、そこが、原節子の死によって、NHKニュースに登場すれば、伊藤玄二郎は、自らの力を私に、また、私に、見せつけることができるわけです。

 で、私は、『ああそうですか』と淡々と、思って、NHKニュースが原節子について、種々の情報を流すのを、みているわけですが、しかしそれらのテレビニュースには、山内静夫氏を登場させ、じぶんは、登場しません。どうしてかと言うと、無論の事、山内静夫氏が、原節子に、自分より近いからでもありますが、彼は、自分がテレビに登場したら、たちまちに、私が彼に関しての、ありとあらゆることを書くという事を知っているからでもあるでしょう。つまり、本当の上位の人間とは、テレビには登場をしないものなのです。石塚雅彦さんも、絶対に登場せず。成岡庸司君に至っては、紙のメディアでさえ、自分を表出していませんね。だけど、現在日本の最高権力者とは、彼でしょう。谷垣禎一氏も、小沢一郎氏も、鳩山由紀夫氏もすべて、彼の手のひらの上で、踊らされているにすぎない・・・・はず・・・・です。

 安倍晋三氏が、どうなのか? それは、ここでは、言わないでおきましょうね。

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副題3、『ここで、山内静夫氏が、鎌倉(ケーブル)ネットの社長であることをさらさないといけない』

 我が家は、大木の下に存在して居るので、衛星放送が始まった時に、あの例のパラボラアンテナが、役に立たないと判った地域です。それで、ケーブルテレビを利用することになりました。ところで、鎌倉のケーブルテレビは、そのオフィスを、私が通っている、パソコン教室である【グローブ】さん内に置いているので、単に月額の使用料を支払うという以上に、情報が手に入るときもあります。
 そのオフィス内で、ケーブルテレビに、出演する人と、出演交渉を行っていたり、取材をしていたりするからです。で、その社長が山内静夫さんであるということもわかってきます。そして、wikipedia を見ないでも、30年以上鎌倉に住んでいるので、山内静夫と言う人がどういう人であるかは、判ってきますね。

 で、ここで、山内静夫さんを知らない人のために、簡略化して言うと、山内静夫さんとは、里見の、四男であって、旧里見邸は、庭も建物も広壮なお屋敷です。と言うのも里見は、旧華族の一族だからです。

 ところで、突然に話がかわりますが、私に最近、ひどい攻撃を計画的に連続して行ってきているご近所連中は、山の外で、食事を共にして会合を持っているみたいです。特に白井・小野寺夫妻を巻き込んでいる策略は複雑ですので、電話やメールで、指示するぐらいでは、追いつかないというほどの内容ですからね。その場所ですが、それが、その旧里見邸ではないかと、私は、思っているのです。非公開のお屋敷ですが、伊藤玄二郎なら、自由自在に使えるはずです。そのカギをもらっているはずです。それほど近い関係を持っているでしょう。

 ものすごく複雑な、策略とだましの連続ですから、絶対に、秘密の漏れない場所で、懇談しないとだめですよね。だから、時々は、そこが使われているのではないかと、考えております。お料理は、運ばせればいいでしょう。どこかから。壱席、1万円近いものを取って、懇談する。そういう気配の中で、自分のセレブ意識が、高揚させられ、平気で、恐ろしい事をする様になる。・・・・・そういう気配が、土曜日の夜になると、空気を震撼させて私にも伝わってきます。

 で、伊藤玄二郎が社長をしている、鎌倉春秋社の看板も、里見氏が書いたのだろうし、石川和子さんの陶芸教室の看板も、里見氏の揮毫だと、推察しています。

 今、2000字ぐらいの部分が、システム上のだまし討ちに引っかかって消えてしまったのですが、そこで、書いていたことは、・・・・・・石川和子さんが、とても偉い人であるかのごとき、鎌倉ネットの記事は、山内静夫さんが、里見の、息子で、かつ、鎌倉ネットの社長なら軽々と、作り上げる事が、できることだという話です。そして、それを最大限に、伊藤玄二郎は、使っているという事です。

 しかも、この2015年11月26日の夕方、鎌倉駅前のロータリーで、【鯉之助】と言う料亭から始まって、スターバックス鎌倉駅西口店まで、恫喝用に、幟旗を立てて、神奈川ネットが、宣伝活動をしていました。が、是ですが、全員が、そのネットの会員であったかどうかは、疑わしいと思います。例のごとく、すぐ駆り出せる共産党員に、たすきだけ、別のものを掛けさせて、宣伝活動を行わせる可能性はあります。それは、映画コーヴが、横浜で、公開されているときに入り口で反対運動をしている右翼と言う形で、ふーらふーらと、旗を振っていた存在をテレビニュースで見て以来、そういう手法があるということに気が付いてきたのでした。

 まあ、鎌倉の住民では、ありましょう。で、本来なら、鎌倉ネットと名乗るべきですが、そうすると、いかにも、伊藤玄二郎ラインで、私を恫喝してきているということが見え見えになるので、一応、もっと、大きな名前である、神奈川ネットと言う旗を使っておりましたけれどね。

 彼らが、やっていることは、表向きには、別に悪い事ではありませんよ。ここが、非常に重要な事なのですが、一見すると、別に恫喝をしている様には、見えない様にして行うのが、彼らの常とう手段なのです。ともかく、道をふさいで、私に、『ああ、これは、・・・・・石川和子さんが、鎌倉ネットに取材をされているが、まあ、内容としては、チャンチャラおかしい記事である・・・・・と書いている私に、嫌な気分を味わわせることが目的でありますねえ』と、私は思いながら通り過ぎますよ。で、それは、かなうと思っているのでしょう。

 鎌倉駅前のロータリーを、北側も、南側も、嫌がらせ集団で、固めて置いたというわけです。そういういじめをして来たのは、何故かと言うと、自分たちが考え出した、長谷川智恵子の、障害児・間引き・推奨発言を、予想に反して、私が、裏側まで、えぐって書いているので、やはり「長谷川智恵子さんには、申し訳ない」と言う気持ちは、あるのでしょう。または、「塩見和子さんには申し訳ない」と言う気持ち。

 こういう部分を描いていた際に、パソコンのシステム上の破壊行為(=システムの騙し)を、経て、消えてしまったのは、この部分がブログとして、世界に公開されるのを、伊藤玄二郎は、恐れたのだと思います。伊藤玄二郎も、さすがに、山内静夫さんには、この私を囲む、悪辣すぎる企みの全貌は、告げていないと思いますよ。都合のいいところだけを告げて、お屋敷を使わせてもらっているでしょう。そのほか、今回のネットのノボリバタを使うとか、そういう事に利用をしているだけでしょう。仕組みに、加わっていただいているけれど、その本当の処を、告げられないのだと、思います。

 だって、山内静夫さんが、納得して、こういう弾圧や、いじめをやっているとしたら、その種の性向と、映画【東京物語】の間には、すさまじい懸隔がありますからね。だから、山内静夫さんに、読ませないがために、そこに、入力した数千字が消えたとなります。で、私はしこしこと、再現をしました。何度も繰り返し、同じことをすると、やがてバグは消えていきます。再起動を掛けるとか、システムの復元も、時には行い、時には、パソコンそのものを買い替えます。

 と言う状況が判ってきた私は、少し、政治について、まっこうから、攻めることを止めて、伊藤玄二郎と、山内静夫氏との関係について、研究することといたしました。で、それを、副題4以降から始めます。

 その間に入るものとして、かまくら春秋窯のサイトが、リニューアルされている問題とか、石川和子さんの、鎌倉ネットの記事が復活している事とかを、語らないといけないのですが、煩雑になるので、抜かします。ただ、私の頭脳内では、そういうものをすべて処理をして、そのうえで、文章を書いているのは確かです。

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副題4、『伊藤整氏のwikipedia を、読んでいるうちに、大きな発見があった』

 里見が亡くなったのが、1983年であって、伊藤玄二郎が、鎌倉春秋社を立ち上げたのが、1970年と言う事で、それは、大切です。

 里見の、四男が、山内静夫氏で、この人が生まれたのが、1925年です。伊藤玄二郎が生まれたのが、1944年です。だから、二人の間には、20歳の年の差があります。で、兄として大いに慕っていると、思います。

 伊藤玄二郎が、会社を設立したのが、1970年だと言うことは、大学卒業後、3年から4年と言う短さです。これは、彼が中央大学へ入学するに際して、浪人をしたかどうかに、よって異なる数値ですが。
 どうして、それが可能だったかですが、私は、伊藤玄二郎の実父が、伊藤整であろうと、推察していて、その伊藤整、担当の、編集者が、実母ではなかったかと、推察しています。その母は、里見氏にも、編集者として、知遇があったと推察しています。

 ところで、今、伊藤整の、wikipediaを読んでいて、大いなる発見がありました。それは、彼が1944年から1945年に、新潮社にいたという事です。その前は、金星堂と言う、出版社の勤務です。となると、どちらかで、その玄二郎の母たる女性編集者と、知り合う可能性はあるわけですね。 金星堂は、教科書的な書物の出版社だと思っていました。が、今、そちらも丁寧に、チェックしてみると、戦時中までは、小説を出版する会社だったそうです。となると、そこに勤務していた女性であっても、伊藤整と里見の、両方に、知り合う可能性は高いですね。

 伊藤整には、26歳の時に、伊藤滋氏が、生まれ、その二年後に、次男が生まれています。この伊藤滋氏が、突然に、おお相撲の、壊滅作戦に登場したので、私は、伊藤玄二郎と、伊藤整の間の父子関係を推察する様になりました。伊藤玄二郎は、伊藤滋氏と、庶子として、異母兄弟になるのだが、結構仲良くしているので、あの時に、ご出馬願ったのだと、推察しています。

 で、1969年に伊藤整氏は、64歳で、亡くなっています。速い死ですが、勲三等、しかも、芸術院会員でありました。芸術院会員になるのには、相当なお金を使わないといけないという噂です。その人が所属している業界での、社交的な付き合いの事です。独立美術家協会の人は、良くそういう会合で、葉山の、日蔭茶屋の、フレンチレストランを使うみたいです。葉山の美術館で、オープニングパーティがあった日の昼とか夜とか? それは、「誰それさんのご招待だ(と言うことは無料で飲食ができる)」とか、聞きました。一人、一万五千円以上で、20人ぐらいだと、一回が、30万円の出費ですね。私は『それこそ、芸術院会員を選抜して行くシステムの一つだろうなあ』と、考えている次第ですが、それは、自分が無関係な場所だからこそ、ミミに入った話であって、自分が出品をしていた国画会の方の、内実については知りません・・・・・・まあ、それは、余談として元へ戻るとしても、伊藤整は、芸術院会員に、なっているのですから、相当な、出費を重ねたはずです。で、死の直前には、多額の資産を形成済みだったでしょう。あまり、いい家の生まれではないみたいなのに、急速に一代で、資産を形成しています。お顔は、きれいな人物ですが、祖先を言うと、それほど、偉い家ではないみたいです。だけど、やり手もやり手で、肉食系だったはずです。そして、それが、そっくり遺伝子として、伊藤玄二郎に引き継がれているとしたら、今の、諸処が、すべて、納得がいくさまになります。

 克、伊藤整に関して、今、情報がとんと、閉鎖されていて、何も出てきません。これも、また、伊藤玄二郎が、抑えていると、私は、推理していて、だからこそ、彼は、伊藤整の実子だろうと、成ります。

 で、その資産形成は、チャタレー裁判で、有名になったことに、原因があるでしょう。名声が出れば、原稿料が高くなります。そして、伊藤整が活躍していた時期こそ、もっとも、書物が売れていた時代でもありましょう。テレビなど、まだ、力が無かった時代です。無論、インターネットはない。で、誰もが、今よりは前向きであり、書物を読んで知識を得、教養を深めたいと、考えていた時代でした。    ともかく、現在の貨幣価値に直して、10億円以上の資産形成があったと仮定をしてみましょう。そうしたら、遺言書相続で、伊藤玄二郎にも、一億円は残すと思います。仮にそれほどの資産が形成されておらず、三億円ぐらいだったとしても、5千万円は、残すでしょう。26歳の青年に、5000万円以上が入ったのです。そうなれば『ここで、起業しても、大丈夫だ』という観点を持ちませんでしょうか? 持つはずです。彼が、鎌倉春秋社を起業したのは、父からの遺産が入ったからだと、見るのが正解ではないかなあ? ほかにいろいろ、かっこいい事を言っているみたいだけれど、私の推察が正解でしょう。

 しかも彼本人は、河出書房に編集者として入社し、河出は、不況でつぶれそうでした。お金があるから、当分生活も大丈夫であり、かつ、編集者として、ベテランである母親の支援があるとしたら、安心して、起業ができますよね。で、彼は鎌倉春秋社を立ち上げました。そして、母親が仲立ちになって、里見氏に取り入ったのだと、思います。単にタウン誌、【鎌倉春秋社】の編集長として、訪問をしたならば、あれほどの、好意は得られなかったはずですよ。

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 副題4、『伊藤玄二郎が、中央大学法学部へ、入学したのは、チャタレー裁判の影響があったたかな?』

  私は、今、チャタレー裁判について初めて、詳細を知ったのです。それの、途中経過は、それほどに、報道をされなかったと、思います。最高裁で、結審をした1957年時に、大いに話題となったらしいのです。それは、私が中三であって、受験勉強に必死ですから、私には関心がありませんでした。その後ですが、私は、高一の時に担任教師に、裏切られます。AFSの受験を、書類を渡してもらえないという形で、秘密裏に、阻害をされていたということを、後で、友達から知らされて、初めて知り、驚いて、ものすごいショックを受け、一種の信仰生活に入るのです。で、ロマンローランが大好きになって、ずっと、【ジャン・クリストフ】を読み続けていたから、【チャタレー夫人の恋人】など、読むはずもない書物であり、無縁でした。

 しかし、伊藤玄二郎が、私と一学年しか違わないということを知ると、彼が、中央大学を目指した理由が、今、はっきりと、判ってきました。

  伊藤整が、1952年に【裁判】と言うドキュメンタリーを刊行していて、「それが、世上の大いなる評価を得た」と、今、知ったからです。遠くに住んでいる父、しかし、尊敬をする父、が、上梓した本を、彼は、働く母の留守中に読んだと、思われます。

 それは、小学校高学年か、中学生のころであって、複雑な感慨を彼にもたらしたと、思いますよ。一方で、父は正しいと、思うでしょう。母はそう言っているから。だが、もし、小学校とか中学校で、単純に、「僕の父は、伊藤整だ」と言ったら、「えっ」と、驚いて逃げ去る早熟な女の子もいたと思います。そういう経験から傷ついたこともあったでしょう。

 彼は、自分が出版した、自分について書いたエッセイの中では、「鎌倉育ちだ」と、言っています。が、不思議なことに、学区外の、平沼高校に進学をしています。この平沼高校に、私の大切な友達が数人進学しているので、私は、そちらの面からも、大被害をこうむっています。人たらしの天才である、伊藤玄二郎が、いつの間にか、その全員を、自分の側に引き込んでいるからです。学年は、彼の方が下ですが、鋭意、努力の上で、すっかり、自分側に、私の旧友たちを、引き込んでいます。私が、よく、「五億円の被害があります」と言うのは、こういう部分もさします。

 今になって思うと、『鎌倉学区の高校に入ると、自分が、伊藤整の庶子であることが、いずれバレる。それよりも、平沼と言う、こども時代からの同級生が、誰もいないところで、リセットをしたい』と、願ったとしたら、あの進学もありですね。だけど、女子高の色彩が濃い、平沼であって、どうして、男子校の色彩が濃い翠嵐とか、緑が丘ではなかったのだろうか? まあ、いろいろ不思議なところはありますが、次の進学先に、中央大学を選んだのは、このチャタレー裁判の記録を、今、2015年11月の末に、丁寧に読んでみて、初めて、「ああ、そうだったのか?」と納得がいきました。

 「立派な裁判官になって、善き裁判を行いたい」という少年期固有の美しい希望があったのではないかな? だが、たまたま、それほど、頭がよくなくて、法学部は、政治学科に入学し、かつ、司法試験に通る見込みがなかったと、仮定しましょう。で、裁判官の次の職種としては、母が、携わっている「編集の仕事が、どうかな?」となって、河出書房へ入社するのですが、一種のコネ入社だった可能性もありますね。

 と言うのも、伊藤整は、1950年代に、作品集五巻、全集14巻を河出書房から出版をしています。で、河出とは、緊密な関係があるから。『これは、自分の子供なのです。いとしい坊やですから、入れてくれませんか? 御社に』と伊藤整が、河出の社長か、担当編集者に頼んで、入社をさせた? となると、彼が、早期に、退社したのは、コネ入社に対する同僚の風当たりがきつかったから?と、推察することもできますね。 そうすると、気が強いというよりは気が弱いと成りますね。なるほど、なるほどと、思います。彼は、対私にやってくる策謀は、内容からすれば、悪辣に過ぎるから、そこから類推すると、気が強い方だと、思われます。しかし、自分がそれをやっているとは、見つからない様に、見つからない様に努力や、工夫はしていますよ。そこが、弱いと言えば、弱いところです。私より、はるかに弱い人間です。

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副題5、『里見氏には、大いに、なついたはずで、その死後は、今度は、山内静夫氏が、伊藤玄二郎にとって、大パトロンに、なったはず』

 彼は、庶子であったとしても、偉大な父親を持ったわけです。勲三等にして、正五位です。これは、一介の庶民(北海道へ、移民をした人間としては、石川啄木なども、ちょっと、時代は古いが同じ、階層だと、みなすことができる)から、筆先一本で、一気に駆け上がったわけで、その父を、母も尊敬していたと、思われます。だから、普通の家で、母親が、父親を貶したり、愚痴を言ったりしている家と、比較すると、はるかに、強く、父親を尊敬していたでしょう。

 しかし、父親はそばにはいません。母親が編集者として働いているとすれば、祖父母は、一緒だったかもしれず、さびしい境遇ではなかったとも思われます。かれは、口八丁、手八丁だし、他人に上手に甘えることできますから。それは、夕方は猫だけを相手に、母の帰りを待っていた中村紘子さんの生活とは、同じ様に母が働いていて不在だったと言っても、ずいぶん違うものだった可能性もあります。
 しかし、繰り返しますが、実体としての父親は、傍にいないわけです。そんな彼にとって、庶子であろうが、どうであろうが、差別をせず、その才能で、かわいがってくれた里見は、得難い存在であって、父のごとく慕ったと、推察できます。里見は、四男であるがゆえに、芸術家気質の一家に生まれても、相当に図太いところもあり、鷹揚だったとも、推察できるからです。

 ここに片親だったこと、しかも、父が有名人だったこと、こういうことが逆転の発想で、最大限に生かされて、伊藤玄二郎は、一種の貴種流る譚を、自ら編み出して、大勢の人を自分側に巻き込んでいったのではないかと、私は、考えるのです。    それから、これは、非常にうがった言い方ですが、伊藤玄二郎の実母は、伊藤滋氏の実母より、学歴上とか、育ち上、上だったという可能性があります。これも彼を、複雑な人間へと育てた可能性があります。・・・・・庶子なのだが、普通の場合とは違うのだ。「私生児」などと言って、さげすまれるいわれはないという・・・・・その種の誇りがあったとも考えられます。    これは、普通の家庭で、普通のレベルで、幸せに育った人間には、得られない性格と、行動力です。また、生きていくテクニックでもあります。そんなことは、思いつきもしないし、実行もしないというのが、普通の家庭で育ち、普通のレベルで、豊かであって、普通のレベルで、賢かった人間でしょう。それゆえに、覚園寺様も、鶴岡八幡宮様も、浄智寺さんも、そして、栗田玲子さんも、柴田悦子さんも、軽々と、心理操作をされ、言うがままに、動かされる様になったと、私は見ています。

 酒井忠康氏とか、石塚雅彦氏、秋山豊寛氏、我がご近所の前田祝一・清子夫妻、および安野忠彦・智紗夫妻、および、白井小野寺夫妻などは、直に、伊藤玄二郎から、リクルートをされたとは、思われず、誰か、別の人間からの教唆で、伊藤玄二郎の支配下に、入った可能性があります。しかし、今では、そのプライベートな、懇談会。特に、里見・旧邸などの、非公開の密室で行われる懇談会では、伊藤玄二郎と同席をしているでしょう。

 ここで、1万9千字に達したので、止めといたします。

尚、このブログの、2010年より数え始めた延べ訪問回数は 3235128です

   2015年12月2日から4日にかけて、これを書く。雨宮舜(本名 川崎 千恵子)

後注1、鎌倉市は早急に全街灯をLED化すべきだ。しないなら、私は自説が正しいと主張できる△△   2015-12-01 22:36:52 | 政治

 

後注2、立花隆の恥を、曝していると、米軍のジェット機が、頭上を威嚇演習して通ったが、なるほどと、納得する△  2015-11-25 12:30:48 | 政治 

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