*1、
Saul Leiterの【天蓋】は傑作だと、思います。非常に静かな心をもって、しかも熱い集中力を持っていてこそ、捕らえられた一瞬だと、思います。
この作家は、一般的には、あまり、知られていないでしょうが、BUNKAMURA(渋谷)にて、今展覧会が開かれています。
と言うのも本日まで、私も知りませんでしたので。
【天蓋】とは、写真一枚の、タイトルです。ニューヨークの冬の雪の日の情景を切り取った写真です。BUNKAMURA のホーム頁の、トップの頁の、右側の方の写真です。
*2、
高架から見下ろしましたと言う、タイトルの写真群があって、その原題を見たら、on the El と書いてあったのです。つまり、「Eラインの上から見たのですよ」と、書いてあります。で、早速帰宅して、ニューヨークの地下鉄路線図を見てみると、フォレストヒルズ(ケネディ空港方面の住宅街)から、例の9.11の現場方面に、走っている路線で、私も2000年には、使ったはずですが、・・・・・
*3、
鎌倉に、十文字美信さんと言う、写真家が居ます。生き方が、ライターとちょっと似ています。商業主義の写真(美少女タレントの写真集)と、信州他の、自然の情景をとらえた、別のグループに所属する、芸術的な写真の両方を追っている人と言う意味で。
ただ、ライターは、女性誌用の、ファッションの写真を撮る生活から、一度、完璧に、引退して、世の中から消えた様な生活を送ったと、書いてありますので、ずいぶん、意志が、固い人だと、思います。そのお返しで、劇的な再復活が訪れたのでした。
ドイツの出版人が、写真集を出してあげたのです。
*4、ニューヨークの地図を見ているうちに、私が2000年の秋に利用した駅が、46st と言う駅なので、すぐそばを並行して通っているEラインは、その駅には止まらない路線でした。それで、覚えがなかったのです。
ただ、その前の年である1999年に暮らした、スタインウェイ(これは、地域の名前であって、利用する駅名は、ディトマス アストリア)と言うところを通っているNラインは、高架であり、ロバートデニーロの、タクシードライバーのカーチェース用の、ロケ地となっています。ただ、実際には、車がいっぱいで、カーチェースなどできない場所でした。
そのNラインの高架下が、こちらの写真です。ただし、私が撮影したものではありません。これは、バレー公演用のポスターです。しかも、現場で、このバレリーナが踊っているわけではなくて、背景は、フォトショップ等を、利用した、拡大写真(したがって、布に転写されて居るモノ)であろうと、推察しています。
肉体的疲労が激しくて、シンプルな文章しか書けませんが、それは、お許しをいただきたく。
異常が13日に書いた部分です。二日目の14日に加筆をします。
副題2、『日本で、芸術家であることと、ニューヨークで、芸術家であることの最も大きな違いは、貧乏であっても許されるか、許されないかの違いである』
Saul Leiter の人生とは、美術(Fine Art)の世界に、生きるものとしては、理想的なものです。或る程度お金がたまった時点で、心を澄ませて、集中した目で、自分の随意な、そして、自由な感性を生かす仕事をする為に、宮仕えを離れたのです。
宮仕えとは何かというと、彼に取っては、有名ファッション誌・・・・・harpersbazaar・・・・・ ハーパーバザー・・・・・1867年にニューヨークで誕生した。140年以上の歴史を誇る、世界初の女性ファッション誌。に数頁を持つ、カメラマンである事でした。
これは、お金を取れる芸術家(ただし、商業カメラマンと言われて、芸術家ではないと、見做される可能性もあるらしいが?)として、最高ランクの一にあると、思われます。日本で言うと、歌舞伎の舞台写真を撮っている篠山紀信さんランクか? それとも、蜷川由紀さんか? または、サラブレッドを撮影していた内藤律子さんか?
しかし、BUNKAMURA ミュージアムの中に、大きな写真で、再現されている、彼のアトリエの写真を見ると、『もしかしたら、あそこじゃあないかしら?』と、思わせるアパートの、一室だった様な、気がしてくるのです。
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副題3、『彼は、イーストヴィレッジのアパートを、一生動かなかったと、説明をされて居た』
ニューヨークでは、14st.(丁目)と言うのは、ユニオンスクエアと言う駅が有ったり、ニューヨーク大学が有ったりして、ボヘミアン(芸術家。クリエーター)のたむろする一帯です。その南側は、ストリートの名前が、数字ではなかったという記憶がありますが、14丁目から上は、数字が多くて、23丁目と言うのが大きな通りであって、ホテルチェルシーが有ったり、独立系映画の、フェスティヴァルが有ったりする一帯です。
その23丁目と、24~6丁目の、西端が、ウエストチェルシーとかミートマーケットとか呼ばれて居て、大きな、地所が、安く自由に使うことができるので、ソーホーに続いて、画廊街になり、今では、ソーホーよりも、もっと大きな美術の街になっています。
そして、そこで、作品を発表する、クリエーターたちは、最近では、マンハッタン島を離れて、東北に位置する、クィーンズとか、南東に、位置する、ブルックリンに主に居住地を、移したと、聞いています。
私自身は、1999年も2000年もクィーンズにアパートを借りました。それほどに、情報通ではなかったのに、偶然の結果、やや、安全な一帯に住む事ができたというわけです。ギリシャ系の人が多く住む町に、二度とも、アパートを借りています。インドなどの、後発の移民も多い一帯です。いわゆるエスニックな風土でした。でも、心映えが、優しい人が多かったですよ。
ところで、私は、アパートを借りる時に、誰の紹介もなくても、駅前不動産屋に入って、ちゃんとしたアパートを借りることができたのですが、それは、ICUを卒業をしていて、英語に自信があったという事と、その一年前に、パリで、ひとり暮らしをした経験が大きかったという事と、50代であって、まだ、体力があったという事の、三つが原因だったでしょう。今最初の渡航をしたとしたら、すべての条件が違っているので、ああいう事は出来なかったと、思います。
ところで、これを言うと、皆様に、嫌われる可能性が充分にあるのですが、1998年のパリでも、1999年の、ニューヨークでも、2000年のニューヨークでも、三か月間の滞在で、200万円を使い切っています。それは、安全に暮らしながら、良い環境に身を置いて、かつ、旺盛に版画制作をする為に、お金を惜しまなかったからです。パリでは、国費100万円もあったので、合計300万円を使って、ローラー4本(46万円を買ってきたり)シャルボネ(版画インクの名門)本店で、大量に画材を買ったりしました。パリの工房と言うのは、主宰者ご自身が、奥様が医者と言う、中流の上の人であり、かつ、大富豪の、坊ちゃまとか、お嬢様が、通ってきている処だったので、あまり、ねたまれることもなかったのですが、
ニューヨークではねたまれて、意地悪をされました。現地のネイティヴからと言うよりも、日本人からでした。海外で、滞在型暮らしをすると、日本人先住者が後から来た日本人に対して、威張るのです。でもね、私の方は、仕事に夢中ですから、それが、判らないのですね。だから彼女たちを気にして、質素にすると、言う形には、持っていきませんでした。そして、ねたまれていたのだと、言う事が、本当に分かったのは、帰国してから三年後だったのです。
ところで、篠山紀信邸など、非常に豪華なものだと、推察していますが、上の方に出て来る、十文字美信邸も立派なものです。しかもコンセプトがあるお宅で、氏ご自身や、ご家族にとって、理想的なものでしょう。広い敷地内に建っている瀟洒な邸宅に付属してカフェと、画廊が設置されています。画廊は、鉄平石で、床が敷き詰められていて、靴を履いたまま、入室できる様になっていて、・・・・・しかも、何よりも、素晴らしいのは、ご自分の芸術性の高い作品群や、ご自分が認めた写真家の作品を、時々、更新するという形で、展示してあることです。
つまり、貸画廊として、儲けようという意思はみじんもないという形です。私も自宅をそういう形に改装することが望みですが、そうする為には、自宅用とは別のお台所と、トイレとか、が、必要だそうで、悪くすると、山の上なので、改修費が、1000万円はかかる見込みがあって、宝くじでも当たらないと改そうが無理ですね。(苦笑)
画廊用に、一階の、室内だけは、2013年に、改装したのですが、それだけでも、500万円はかかっていますから。水回りを新たに作るとなると、1000万円でも無理かもしれません。
しかし、BUNKMURAミュージアムの壁に、設定されている、アトリエが、Saul Leitaerが、地方から出てきた時以来、まったく同じところに住んでいたアパート内であると、説明をされて居て、そこが、日本と徹底的に違う処だなあと、思い到った次第です。
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副題4、『ニューヨークは、アメリカ全体とは、ずいぶん違う風土と文化があるだろう。だが、アメリカ全体を見回すと、日本以上に建前と本音の差が大きい国であり、差別や軽蔑も実際に、存在する。だから、トランプ大統領が生まれた。
しかし、一歩、外へ出れば、一応オープンマインドで、挨拶と会話をしあい、人間として、の、建前としての、平等主義が貫かれており、また、自宅へ入れば、他人の目や、他人の心性を、顧慮しないで生きていかれる社会ではある。個人主義の確立は、日本とは、くらべもののならないくらい、進んでいる。
ところで、今、私が住んでいる地域は、町内会を、〇〇いす村と、名付けているが、東京圏の、住宅地としては、異様なほどに、他者への干渉が、強い地域であり、50年ぐらい文明のレベルが遅れていると、私は考えている。どうしてそうなるかと言うと、たった、20戸しか家がないという事と、その中で、たこつぼ的社会が、30年前に、出現してしまったからだ。そして、自己存在証明の欲求と言うのが人間にはあるそうで、それを、ご近所様相手に、達成しようとした、人が、ご近所関係を、牛耳ってしまったので、田舎そのものと言うほどに、干渉がひどい地帯であり、猫さえ、断っても断っても、毎日他人宅に、入れ込まれて、返してもらう際に、私は毎晩取りに行かねばならず、かつ、その際に、相手方は、私を、いじめて、自分たち夫婦の夜の営みの快楽亢進に、役立たせていたなどと言う、事案もあって、私などにとっては、相当に生きにくい社会となっていた。
1998年から、2002年まで、海外へ自由に行くために、逗子で一人暮らしをしていたのだが、駅近辺の、古いマンションを借りていたので、ご近所づきあいは、コピーを大量にとっていた、コンビニ以外は、無くて、かつ、毎年秋には、海外へ行っていたので、ある意味で、その両方の地域が、自分にとっては、天国であった。最近、鎌倉エージェントと私が呼んでいる連中からの、弾圧が激しいが、主人には、「お前は、普通の人ができなかったことを、既に、できているのだから、我慢をしなさい。十分過ぎるほど、幸運だったのだよ」と、言われている。その通りかもしれない。
しかし、ここで、もう一度、ニューヨークのアパートに戻ろう。私は、2度ほど、長時間、このイーストヴィレッジを称揚している。一度目は、ある画廊で、個展をするから来てくださいと、言われて、訪問をしている。本当はロングアイランドの、11丁目だったのだけれど、私がマンハッタン島の11丁目だと、勘違いをしたのだった。で、勘違いをしたために、なかなか、見つからないので、この日は、イーストビレッジ内を、散々歩いた。また、別の日には、ブルックリンから、歩いて、自然と、この地域に入ってしまって、この一帯を、歩いた日もある。
その際に、10棟ほど、公営アパートが建っている一帯があって、そこのアパートに、Saul Leiter は、住んでいたのではないかと思うのだ。
ニューヨークとは、日本ほど、土木や建築が盛んではない都市で、スクラップアンドビルドは、行われていない。したがって、ニューヨーク中で、公営アパートは、どれも同じ、外観をしている。茶色のレンガで外装がなされており、窓が、小さい。私はクイーンズで、一か所、ウエストチェルシーで、一か所、そして、このイーストヴィレッジで、一か所、公営住宅を、発見している。
Saul Leiter は、ユダヤ教のラビの息子であるそうだ。ユダヤ教を信奉する、階層は、豊かである可能性が高く、彼本人も大学へ通学中だった。しかし、アートに理解がない家庭から脱出を図って、真夜中バスに乗って、ニューヨーク行きを諮ったそうである。 しかも、今からやろうとしていることは画家になる事だった。それでは、お金が稼げない。そのくらいは誰だって知っているだろう。だから、最初から、大金を出して、高価な住居を借りるはずがない。しかも、彼が、上京してきたころには、まだ、地下鉄、Eラインなどは、できておらず、仕事をやるため、しかも時間が、決まっていない芸術方面の仕事をする為には、マンハッタン島の、南部に住む必要があったのだろうと推察される。
となると、このアパート群に、住んだのかもしれないのだ。うーん。ここで、もう一つの思い出が、からんでくる。それが、日本と、ニューヨークの違いを歴然とさせるところなのだけれど。今から、語らせていただきたい。
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副題5、『フォレストヒルズの、不動産屋(女性)は、私をベンツで、当該物件まで運んだのだけれど、日本で、賃貸アパートへ案内するのに、ベンツで案内する不動産屋があるだろうか? ともかく、サッチャー女史そっくりの女性だった。・・・・・その女性が、見事に、貧乏人を軽蔑したのだった。モノの見事なほどに・・・・・』
私は、1999年には、Nラインと言うのに乗ってクィーンズに、向かったのですが、今度は、地下鉄の路線が多く入っている、フォレストヒルズとか、ルーズベルトアヴェニューなどの駅近辺で探そうとしていたのです。四件目ぐらいの、不動産屋で、自分にぴったりの物件が見つかりました。
その担当者ですが、副題5の二重ガッコに書いた通りの、金髪の美女で、50代だと、推察されます。白のサマーウールの、シャネル型スーツを着ていました。アクセサリーは、無し。しかし、それこそが、彼女がどれほど、おしゃれな女性で、かつ、上等な服を着ているかを、示しています。白のサマーウールと言っても、フランネルとかフリースとかいう風合いではないのですよ。細い糸で、きちんと、織ったウールです。細い糸ほど、木綿でも、ウールでも原料繊維一本が長いものを使うので、上等なのです。
さて、彼女はマンハッタン島に、勤務している大家さんを呼んで、一緒に物件を見に行くという手配をしてくれました。それで、車で、三人が、物件まで、乗って行くことになって、彼女が、裏から持って来た車が、ピカピカの白のベンツでした。アメリカは日本より、自由度が高いので、彼女にとって、それは、社用車でもあり、私的な、自分の車でもあるのでしょう。スーツも、もしかするとシャネル風ではなくて、本当のシャネルの発売の、地味目は方の既製品かもしれません。ともかく、大量消費の国のアメリカには珍しく、ヨーロッパ風な生き方の女性でした。ともかく、素材的に、上質なものを好む女性でした。
さて、三人は、地下鉄の駅にすると、西に向かって、三つぐらい先にある物件まで、ルーズベルトアヴェニューと言うところを通って行くのです。まだ、9月のはじめと言うのは、夏であって、夕方でも明るい通りでした。ここで、アパートの問題が出てくるのです。しかし、そちらに入る前に、スピンの筆はありますが、このルーズベルトアヴェニューを通って、と言うエピソードを、このブログ化、または、第一次フェイスブック時代の、フェイスブックに書いたとたんに、NHKが、とんでもない事を報道をしたのでした。
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副題6、『・・・・・ルーズベルトアヴェニューが、従軍慰安婦通りと、改名をされる・・・・・と、NHKが報道をしたのは、無論のこと、私のブログ発の、アイデアである。しかし、私は、それが、ニュースになった当時には、そんなことは、このブログの世界では、発言をしなかった。
まだ、読者が、それを、信じてくれないと、思って居たからだ。「それ、とは、何か?」というと、ある意味で、「私が、世界のニュースを作り出している」という事だ。世界は、私を中心に回っていると、言っても、よいほどだ。
だけど、それは、実際には、鎌倉エージェントが作り出している事態だった。彼らは、原初の発案として、「決して、ばれないさ」と、信じて、悪い事ばかりやっている。しかし、それをすぐさま、分析して、その裏側にある真実を書き表す、私が、居るので、もう、すでに、追い詰められているからだった。
このルーズベルトアヴェニューの改名こそ、そのもっとも初期のものだった。
私が、この章の、副題2~5までに書いたエピソードと同じものを、書いたことが、昔にも、あって、それを読んだ、2012年当時は、未だ、実際には生きている、井上ひさしが、「ここに出ている地名=ルーズベルトアヴェニューを、使って、あいつを脅かしてやろう。そうすれば、彼女は参るさ。それに、それを、自分が原因だなんて書きだしたら、それこそ、誇大妄想のあほだと、成って、読者が逃げていくさ。だから、ブログには、何も書けない筈だ。だから、その通りを、従軍慰安婦通りと、改名してやろう。そうしたら、彼女(=私の事)は、青くなるさ」と、伊藤玄二郎に言い、伊藤玄二郎は、それを石塚雅彦さん等に、言い、石塚雅彦さんは、それをベイカーさんか、ロックフェラー四世に言い、となって、最終的には、ジュリアーニ・ニューヨーク市長に入り、そういう決定がなされたのでした。
ニューヨークにはもっと、有名な通りは、いくらでもあります。ブロードウェイ(有名な繁華街から、23丁目まで、斜めに走っている珍しい角度の通り、五番街(今は、フィフスアヴェニューと日本人にさえ呼ばれている)などの方が、ルーズヴェルトアヴェニューよりもっと、もっと、有名な名前です。
日本に居て、ニューヨークなど、言ったことがない、井上ひさしだからこそ、字面から考えて、有名な大統領の名前がついているからこそ、有名な通りだろうと、思い込んでいるのです。
今、このパソコンにシステム異常が頻繁に起きたので、この部分の記述が最高の真実だと、言う事を顕しています。
しかし、この通りは、この地方で、一本しかない主要な通りなので、他の通りと、間違えるはずもなくて、したがって、ルーズヴェルトアヴェニューと、正式に呼ばれたことさえなくて、ニューヨークに住んでいる、日本人でさえ、「え、そこって、どこ?」と言うほどの、通りでしょう。
太い道路なのですよ。それに、幹線道路でもあるのです。しかし、代替する道路がないし、間違えるはずもない道路だからこそ、名前を呼ばれることが無いのです。
一方、マンハッタン島の道路ですと、third ave.(三番街)と、fifth ave.(五番街)など、並行して走っているからこそ、区別が必要なので、その通りの名前が、人々の口の端に上ります。
たとえば、52nd (52丁目)を西に向かって歩いて、そして、8th ave.(8番街)の北の角で、待っていて、とかいう風に説明をしないといけません。それほど、そっくりな道路が多いからです。
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副題7、『私はただ、エッセイとして、感動したことを書いて居る。それを、鎌倉エージェントの連中は悪辣な事へすぐ応用する。そして、一億二千万人の日本人の事など、足蹴にしてもかまわないと考えている。そうしないと、自分たちが過去に、同様なことをやって来た事がばれてしまうからだ。ところで、このルーズベルトアヴェニューをベンツで、西に向かっている時、前方に林が見えた。
このあたり(=フラッシング)で、樹木を見ることが珍しくて、私はベンツのオーナーに向かって、・・・・・あれは、何でしょう?・・・・・と質問をした。私としては、あれは、公園ですか?と、言う質問を次に用意している処だった。ところが、運転している、サッチャー女史もどきも、アパートの大家さんも何も発言をしないので、私は、大いに戸惑った。
私は、顧客なのだから、この二人にこれほどに、無視される言われはない。これから、先の、話だが、アパートを見て、私が、問題なしとして、それを、気に入ったら、契約書にサインの段階に入る。その際には、このベンツの持ち主である女性は、再び、礼儀正しく、かつ愛想よくなるはずだった。どうして今だけ、これほどに、不親切なの?と、不思議だった。
やがて、五分もしないうちに、その林に到達をした。横を見てみると、公園ではなくて、古いマンションが四棟ぐらいたっていた。こげ茶色の、外観で、窓がちいさいタイプ。古い事は、私にもわかったが、別に刑務所とも思われず、どうして、これを、話題にしたらいけないのかが、私には皆目わからなかった。
しかし、ウエストチェルシーに、同じ様なものを発見し、イーストヴィレッジに同じものを発見して、やがて、私はこれが、公営アパートであることを知り始める。
でも、監獄とか刑務所と言うわけではない。どうして、ベンツのオーナー女史が、唾棄すべき対象としてあれは、公営アパートですよと、言う説明さえしなかったのかが、依然として、不思議ではあった。
しかし、今では、こう思って居る。それが、彼女が、激しい人種差別意識を持っていることを顕し、と、同時にあのアパートに住んでいる人間が、貧しい底辺の、移民とアフリカンが多く住んでいるという事も表しているのだと言う事を』
さて、午前二時になりました。どうしても寝ないといけません。この続きは、15日か、16日に書きます。お待ちいただきたく。
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