銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

19-11-21日に、遂に、渡辺幸子さんの腰の異様な曲がり方について、書く・・・+・・・佐野ぬい、中島三枝子、野口いづみ

2019-11-21 12:07:42 | 政治

副題1、『26時間以上眠気が、訪れない。その原因を今考えている・・・・・・最終的には、36時間も、眠気は、訪れなかった。本章の、副題6に書いている問題を書き表すかどうかに、ついて、迷ったからだと、思う』

 昨日の私は、スーパー歌舞伎IIを見てきて、かつ、それが、昼の部だったので、終わった後で、画廊巡りをしています。前報で、言って居る通り、美術評論家としては、活動しないと決めているわけなので、見てもしょうがないとも言えるのですが、作品を見ることが好きなのです。一年間、もしくは、半年かけて、その人(=美術系作家)が一生懸命作った作品を見ていると、心が洗われてくるからです。

:::::: ここで、ちょっと、画廊様へ向けて、の、個人的お断りを書きます。私が案内状を欲しがるのは、それを美術評論家として、利用する為ではありません。将来、自宅を個人美術館(又は、画廊喫茶)にする夢があるからです。そこに、検索カードボックスを置いて、膨大な数の案内状を、あいうえお順に整理して、置く夢があるからです。部屋はすでに、二部屋(16畳と12畳)準備してあるのですが、それなりに、付帯設備がいるのです。ほとんどお客が来ないであろうに、家族用の台所とか家族用のトイレは、使ってはいけないと、法律(?)で、なっているからです。だから、今、そのリフォームをするお金がないので、開設できないのですね。でもね。食品を扱う資格も取ったし、着々と、準備は進めているのです。そういう私の夢を裏切るために、神奈川県立近代美術館は、葉山に引っ越してしまったわけでしょう。別館も閉鎖だそうです。きっと、これも、酒井忠康氏が、準備してね。我が家って旧本館の、至近距離、真西の水平・垂直・距離30メートルに、あるのです。

 デジタル全盛の時代ですが、紙の資料もいいもので、コーフィーカップ片手に、数多い案内状をお客様にめくっていただくのが夢です。もうかる筈もない仕事なので、人件費も私が出さないといけないので、宝くじが当たったら、其れをやろうと、毎回、宝くじを買って居ます。(苦笑)

・・・・・するとね、早速、石塚雅彦さんが、私をからかうために、宝くじが当たった人の【末路】という本を、日経BP社に作らせました。私って、ありとあらゆるチャンスをつぶされると、言う、いじめを受け続けている人なのです。まあ、深い怒りは持っていますが、泥棒でも、いじめでも、発見したその日に即座に其れを書くわけではありません。だって、考える人、そして、それを文章に落とさないと先へ進めない人としては、常に、明鏡止水の境地にいないといけないので、よほどのことがないと、リアルな形での、喧嘩にはもっていきません::::::::::という挿入を入れて元へ戻ります。

 2005年ごろには既に、気が付いていた激しい弾圧は、この2019年10月13日まで、続いているのですが、その15年間に及ぶ、激しい弾圧下でも、きわめて、元気に生き抜いたのは、一つには、最先端の、美術系作品を見ることで、心身をリフレッシュさせられていたからだと、考えております。今は、毎週は行って居ないわけですが、あの頃、学び取った生きて行く技術的流れは、園芸をしていても、使っているし、お料理をしていても、使っていて、上手に、心身をリフレッシュしつつ、生きています。だから、このブログでは、暗い事ばかり書いているみたいですが、実は、結構明るくて、元気です。

 自分でも、77歳まで、生きるなんて、夢にも思いませんでしたよ。69歳ぐらいで死ぬだろうなあと、予測をしていたのですが、10年余計に寿命をもらったというわけです。しかもは母や叔母たちと同じく、90歳は、優に超すかもしれないし、100歳を超すかもしれないのです。弱そうに見えるのに、105歳まで、生きたという血縁のあるおばなどが、居ますので。

 ここで、このブログを書きつつある、21日の時点に戻りましょう。エネルギーが、充満し過ぎて、眠れないと、言うよりも、或る気がかかりな事があるので、眠られないと、考え始めました。気がかりな事とは、渡辺幸子さんについて、後、二つ、書きたいことがあるのですが、それを書くべきかどうかについて、大きくためらって居るからでしょう。それが、気がかりなことというわけです。でも、これから、書くことは、政治的分析としては、小さいテーマです。前報(直下に置く)の方が、ずっと内容が、大きくて、充実しているはずです。

渡辺幸子(青木繁大賞受賞者)、栗田玲子(ガレリアグラフィカオーナー)、長谷川智恵子(元日動かさま美術館館長)、宇都宮和代(元、佼成学園の先生)   2019-11-20 21:40:20 | 政治

 これから、書くことは、本当は、今の時点では、書きたくないことなのですが、それを書かないと、どうしても、眠りが訪れないみたいだから、書くだけです。

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副題2、『昔、私はある人から・・・・・あなたは、結局は、美術評論家ではなくて、宗教家になりたいんだね・・・・・と、言われたことがある。だから、美術評論をやっても、お金を儲けられなくても、平気なんだね・・・・・とも。私は、思わず「そうかもしれません」と答えた。別に教祖様にまで、なろうとは、思わないけれど、天の采配という事は、深く信じている。これから、書くことは、二重の意味で、天の采配を、感じ取ったエピソードなので、ここに、書いて行くのだ』

 私は、画廊巡りをやめてしまって居るのだけれど、歌舞伎座・昼の部に行った帰りは、画廊が閉まる、時間まで、三時間以上あるので、画廊に寄ることにしている。歌舞伎座の在る、三原橋交差点際から、新橋駅まで、歩く途中に、画廊が何軒か、あるが、もっとも最初に、目に入るのは、ガレリアグラフィカだ。ここ、四年ほどは、オーナーの栗田玲子さんについて、あれこれ書くので、その画廊には、寄らないことにしている。たいていの場合、室内は無人だから、それで、ただ、すっと前を通り過ぎる。、数人

 しかし、その日だけは、画廊内に数人のお客さんが居た。そして、道路側の壁のすべてが透明なガラスでできているので、絵を見ただけで、それが渡辺幸子さんの個展であることはmわかった。なお、夜は、頑丈なシャッターが下りて、盗難予防が、できる様になっているのだけれど、昼間は全開放と、言ってよいほどに道路から、よく見渡せる室内と、なっている。

 で、渡辺さんと、私との関係なのだけど、前報(上に置いてある)以降、覚えているだけで、三回ほど、ひどいことをされているので、絶対にあいたくない相手の一人だった。しかし、偶然の、一致だなあと、思った。

 しかし、ここですが、今、考え直すと、違う、様相も見えてくるのです。歌舞伎座の昼の部を見た帰りに、必ず、画廊に寄ることを、研究されつくしていて、渡辺幸子さんが、鎌倉から、呼び出されていた可能性も感じます。本日などは、そっちの方が、正しい事実だと、思いますよ。でもね。わざわざ、鎌倉から呼び出されたとしたら、気の毒な事です。あんな姿を私に見せることは、彼女自身の、望みではなかったと、思います。

 その日は、月曜日ではなかったので、彼女が来ていなくても、別に構わないと、言う慣習があるのです。普通の場合、ランクが高い画家だと、他者からみなされていれば、初日の月曜日だけ、詰めていれば、許されるものです。その日は、水曜日だったか、木曜日だったでしょう。

 だから、・・・・これは、私にわざわざ、会わせるために、彼女が、鎌倉から、呼び出されたのだな。これは、私に対する一種の罠だ・・・・・と、そういう風に考えて、画廊の前を、ただ、単純に通り過ぎてもよかったのです。

 しかし、その日は、別のかたちの解釈をしました。常に性善説で、考えるので、渡辺幸子さんが、わざわざ、鎌倉から呼び出されたとは、考えず、ここで、出会ったのは、天の采配でしょう。ここは、あって帰るべきでしょうねと、考えたのです。

 個展の主役である画家が、入って来たお客に失礼なことをするわけもないので、私は安心して中へ入りました。ここで、ほかの画廊で、とんでもない、失礼な目に出会った話へ入ります。舞台は、画廊るたんでした。

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副題3、『中島三枝子さんが、ひどいことをしたので、佐野ぬいさん(女子美の学長)が、数多くの謀略的・殺人事件を行った殺人集団の、一味となっていると、ここで、言わないといけなくなった。直近のものは、カリタス小襲撃事件であって、学生服を着て襲ったとされる、引きこもりの、51歳の男は、二人を刺殺していないはずだ。ほかに学生服を着てどさくさ紛れに外交官と、少女を殺し、犯人とされる男も殺した、人間が、数人いたと、思って居る。また、さらに、直近のものは、京都アニメーション放火だけれど、こちらは一人も死んでいないはずだ。

 この手の事件の端緒をなしたのは、周南事件であって、山口県、周南市、金峰という山間の、限界集落で、五人の老人が、殺されたのは、確かだ。しかし、これも保見はやって居ない。一審と、二審で、死刑になっているが、あれ程の、大騒ぎだった事件の判決を、東京のNHK ニュースウォッチでは、一切報道しなかった。そして、事件が起きた当時は、平成の八墓村事件として、大げさに、週刊誌等が、書きたてたのに、今では、その名前は、使われず、周南事件と呼ばれている。カリタス小、通学バス待ち行列襲撃事件も今では、川崎殺傷事件と呼ばれている。

 これは、鎌倉エージェント(=伊藤玄二郎と、いまだ生きている、井上ひさし)が発案した謀略事件に共通する特徴の一つで、事件が起きた時は、大炎上をさせて行くくせに、私が真実を見破って、続報を何篇も書くと、ああ、嘘を貫き通せないのだと、なって、急に事件の呼称を変え、かつ、できるだけ、フェイドアウトするように、もって行って居る。それが、一大特徴なのだ。

 今現在、新潟で起きた、大桃たまきちゃん、死後轢断事件の裁判が進行中だそうだが、一審の初日、の、NHKニュースでは、大桃たまきちゃんという名前が、一切出なかった。これも、小林遥という青年は、やって居ない筈で、白い車に乗っていた殺人集団がやったとみている。ただし、小林遥は、何らかの、ご褒美を裏から、約束されて居る存在なので、死刑になっても控訴せず、服役するはずだ。そして、米軍機、もしくは、自衛隊機で、海外へ逃亡をさせられ、現地で、ひそかに殺されると、推察している、遺体は、絶対に発見をされないレベルで、始末をされるだろう。

 ともかく、佐野ぬいさんは、殺人集団と、連携する鎌倉エージェントの一味となってしまって居る。どうしてかというと、中島三枝子さんの態度で、それが、わかるのだ。

 その前に、何故、佐野ぬいさんが、中島三枝子さんに、私の悪口を告げたか、その裏側を、もう一回語っておかないといけないだろう。佐野ぬいさんはラグノー佐々木という弘前の、お菓子屋さんの、お嬢さんだ。実弟に、くめおちゃんという男の子がいて、その人物が、国際基督教大学、1962年入学組で、私とたった、23人しかいない、一年時の英語のクラス(といっても、一日、四時間は、一緒に英語を勉強する。ほかの教養課程履修時間もほとんどが、一緒のクラスで学ぶので、全部合わせると)一日、六時間以上、一緒にいた仲だったが・・・・・

 このくめおちゃんが、寮、ラグビー部、それから、クラスも一緒にしたのが、古村浩三君である。古村君は、私のパソコンにシステム異常を、50万回以上起こしており、私のパソコンが、25台以上、壊れた、原因者の一人なのだが、その後ろ(というか、上流)にいるのが、石塚雅彦さんだ。石塚雅彦さんとは、堤義明さんと従兄だとも思われる。義明さんの、実母は石塚姓だ。1967年、国際基督教大学卒で、日経新聞論説委員とか、早稲田大学法科大学院教授を務めている。この石塚さんが、直接、伊藤玄二郎と親しい。又は、川名昭宣(元、河出書房新社勤務の編集者)を、通して、伊藤玄二郎と、つながっている。で、伊藤玄二郎をたすけるために、あれこれ動いて、古村浩三君を通じて、又は、ラグビー部の先輩と、後輩の縁を利用して、佐野ぬいさんに、私を弾圧する、センテンスを与え、「あなたが、関係しているところに与えて、彼女を弾圧するのをたすけてください」と、言って居ると、思われる。

 しかし、ここで、言いたいのだが、ラグノー佐々木って、庶民に愛されないと、売り上げが伸びない職業=お菓子屋さんだ。しかし、私を弾圧する人たちは、もしその人間が、もともとの、形で、善人だと、天からおしかりを受ける。それを知っていて、その手の行動をとっているのだろうか?  ・・・・・・ここに、数多くの事例を私がすでに書いていますが、危ないですよ。実家の為に、そんなことをなさっては・・・・・と、私は思うのだけれど、佐野ぬいさんも、おとうとのくめおちゃんも、これを毎日は、読んでいないと思われるので、平気で、いじめ軍団の言う通りの行動をとる人なのだ。

 ところで、私の方だが、月刊ギャラリーの連載をたった、一年で、終了させられるという屈辱を味わわされなかったら、また、山口みつ子さんが、殺されて居なかったら、佐野ぬいさんの名前をここでは、出さなかったと、思う。だけど、美術界の仕事を、全部奪われるという弾圧を受けたので、美術界からは、去っている。で、そうなると、私と佐野ぬいさんの、社会的ランクに上下はなくなるのだ。

 佐野ぬいさんが、女子美の学長であろうが、そうでなかろうが、「ああ、そうですか。ところで、それが、どうしたんですか?」と、いう程度のことに、私にとっては、既に、なっているのだた。

  なお、ここで、やっとだが(というのは、事が起きてから、六年目だが)、中島三枝子さんが、行ったひどい事というのを書く段階に、到達した。彼女が、国画会の、当時、準会員だった、何とかさん(=野口いづみ)に、画廊るたんで、「さっき、あげた名刺を返して、もらいなさい」と、言ったのだった。私の目の前、一メートルも離れていない場所で、そう言ったのだった。あきれ返るほどに、私を軽蔑し、差別していると、言う事を表している。2013年の、一月13日だったと、はっきり覚えている。

 名刺をもらったのは、私が野口いずみさんの作品を見て、口から出した言葉(いわゆる美術評論)が、すべて素敵だったので、名刺を、向こうから、自発的に、くれたのだった。其れを「返してもらいなさい」と、三枝子さんは、言う。

 私は、文章を書くという形での、美術評論は、既に止めている。しかし、画廊内で、いい作品に出遭った時は、製作上の工夫を質問をするという形で、・・・・・その作品を高く評価しているのだ・・・・・と、言う暗喩を放っている。それが、作家には、うれしいはずだ。現代アートって、オリジナリティが大切で、作家は、すべて、自分の作品が、この地球上で、初めて生まれた、オリジナルな作品であることを信じて、かつ、それを、誇りにしている。其れを正鵠を得る形で、導き出してあげるのは、彼等にとっては、非常に、うれしい事の筈だった。

野口いづみの作品は、普通の絵でも、彫刻でもない。布と、接着剤(又は、プラスチック系、粘液)を使った特殊な作品である。

 が、おくから出てきた中島三枝子さんが、意味ありげな目くばせを、その作家に向けて、放ちながら、「この人に名刺を渡しては、だめなのよ」と、言った。

 私は、2010年の、一月17日にギャラリー山口のオーナーみつ子さんが、殺されて以来、美術評論をしないと、決めている。だから、野口いづみの名刺をもらっても役立たないので、「返して、ください」と、彼女に言われたら瞬時に返した。そして、画廊を去りながら、『三枝子さん、わかったわ。だけど、将来必ず、佐野ぬいさんが、殺人集団の一味であると、いう形で、文章を書きますからね』と、内心で決意をした。

 しかし、中島三枝子さんは、私の文章を読んだ事がないらしい。したがって、黙って去る私には、自分の方が勝ったと、感じたらしいのだ。で、手柄がおで、関係者に、「彼女(=私の事)って、すごすごと帰りましたわ。やっつけてやりました。お役に立ちましてよ」とでも、言ったらしい。

 私は、自分側の損失が、その日以来、急に大きくなったので、それはすぐわかったのだが、六年間も、何も語らずにいて、過ごしてきた。というのも私は計画的に文章を書く人ではないからだ。神様が、描かせてくださる作家だからだ。神様は、名刺の件については、本日まで、それを書けとは、おっしゃらなかった・・・・・と、思う。特に佐野ぬいさんと絡めて、書く様には、おっしゃっていなかったと、記憶している。

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 ここで、やっと、渡辺幸子さんが、個展をしていた、非・月曜日に戻ろう。

副題4、『渡辺幸子さんの姿を、数年ぶりに見た、私は、何かが変だと、感じた。彼女は、腰のところで、私側から見て、右斜め方向30度から、60度の角度、で、上半身を曲げていた。其れは、普通の老女には、ありえない角度だった。しかも、その上半身は、15~30度の角度で前がわ に、倒れてもいた。黒い洋服を着ているので、ナナフシ虫みたいな、ある種の昆虫を思わせた。とても、不思議な感じを受けて、どうしたの?と、質問をした。

 彼女のことを一歳上だと、ずっと、今まで、話してきたが、もしかしたら、間違って居て、五才上なのかもしれない。ともかく、首のところが、老人となると、しわしわになる。それで、それを隠す工夫をしたりする。また、猫背が、ひどくなったり、上半身が、前側に、90度曲がったりする。昔の老婆は、そういう形で、杖をついて居たらしい。其れを、童話とか、絵本で、発見することができる。

 しかし、渡辺幸子さんの、様子は、それらのどれとも違って居た。黒くて、おおきな昆虫が、画廊の中で、飛んでいるとか、黒い紙飛行機が、画廊の中に、置いてあるという印象を与えた。彼女は、最初期のスチュワーデスなので、女性としては、背が高い方だ。165cm以上だと、思う。足も長い。その体で、腰の所で、急にぽきんという形で、鋭角に斜め前と、斜め横に向けて、折れているのだった。

で、思わず、質問をした。どうしたの?と。

 すると彼女は、「腰を痛めたの」と、言った。よく腰痛を訴える人がいるが、そういう人とも、100%違って居た。この事を書くかどうかを、20日の段階で、又は、以前にも何度も、迷った。ただし、20日の段階では書かず、それゆえに、合計32時間も寝られなかったの。

 他の弱点も知っている。私は渡辺幸子さんが、ひそかに、秘めて、悩んでいることを、数個知っていた。仲がよかった時期は、私が、彼女の相談相手とか、メンターの役目を引き受けていたのだった。五歳年下でも、私の方が、彼女の相談に乗り、解決策を提示していた。これは、ほかにもあるケースで、私は、苦労をした結果、最強のカウンセラーと、も、すでに、なって居るのだった。しかし、そちらの方は、ここには明かさない。

 お医者さんや、弁護士の様に、他人の秘めた弱みは、相手から、裏切られたとしても、書きたくない。

 しかし、この腰の曲がり方は、『直らない(又は、治らない)のではないか』と、私には、思われた。彼女の家は、鎌倉駅から歩いて、50分は離れている丘の上に在る。で、彼女は、そこから、さっそうと車で降りてきて、実家まで、出てきて、そこに駐車し、実家から、駅まで、歩いてくるという形式で、長年活動をしていた。庭には、以前は、乗り回していたロールスロイスが、置いてあり、画題の一つとなっている。

でも、この曲がり方が、固定化されたものだったら、運転はできないと、思われた。助手席側に、上体が斜めに、倒れ込んでしまうからだ。また、前方向にも、15度ぐらいで、倒れ込んでいるので、ハンドルに体が、ぶつかってしまう。

無論のこと、ご主人が引退しているし、愛情深い人なので、運転手を買って出てくれると、思う。

 でも、『ああ、天の采配って、こういう形で、現れたのか』と思った。実は渡辺幸子さんが、私を苦しめた、現象はまだ、まだ、ほかにある。五個ぐらいある。すさまじいことをやられている。恐ろしいことほど、後回しにするので、まだ、まだ、書いていない。でも、書く気が萎えた。そして、「渡辺さんって、ある程度以上に善人だったのですね」と、思い至った。私に対して、ひどいことをして来た人の内、善人には、災禍が下りるのだった。悪人の方は、何をやっても災禍が下りず、ピンシャンしている。

 あの腰が治らなかったら、バスの出口さえ、通れるかしら?というぐらいだった。特に渡辺さんの住む山に向かうバスは、小型なので、入り口も、出口も狭いだろう。あのままでは、横幅が130㎝は、あるので、入れないだろう。まず、上半身だけ、横向きで入れて、そして、足を、前向きにそろえなおして、今度は、腰から下を入れる。そう言う二段階動作で、入ることができるかもしれないが、入り口から入って、出口まで、通るだけでも、混んでいる時間帯では、遠慮すべき、身体状況になっている。

 ただし、こういうハンデを負ってしまった人のことだから、それを書き表すのは、大いに、ためらわれた。

 それが、36時間も寝付けなかった原因だと、思う。

 しかし、それを、書かないとならないと、いう気持ちもあって、その逡巡とまよいが私を寝かせないと、思って居て、到頭、この件を書いた。 

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