銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

賭け麻雀・・・・・川名昭宣・・金子美都子・・テリー・・CS君・・入江多喜男・・成岡康司・・秋山豊寛・・古村浩三・・秋山祐徳太子・

2020-05-20 22:12:09 | 政治

 この章は、総タイトルを、三時間ほど、【賭け麻雀・・・・・川名昭宣・河出書房新社と金子美都子・聖心女子大教授、又は大原光孝と、酒井忠康氏の間柄は、どうなっているそれは?】としておりました。そこまで行きたいのですよ。しかし、午前五時から、グーブログが、停止するそうですので、そこまでいかれないので、ここに登場する、有名人を、列記して置きたいと、思います。すべて、ひとかどの人物たちです。

副題〇、『・・水に落ちた犬は、たたかないようにしよう・・とか、・・欲張りすぎない事・・と、言うのが、私の方針なのだけれど、そういう意味で、静かにしていたのに、当の主役が賭けマージャンだそうです。笑い転げるしかないですね』

 20日の夜8時ごろコンビニにいました。で、その前に、NHKのニュースで、・・・・・高等検事長が、新聞記者と一緒に、賭けマージャンをしていた・・・・・と、言うのが週刊文春で取り上げられていて、うんぬん、かんぬんというのを小耳にはさんだので、コンビニで、黒い表紙の週刊文春を取り上げました。5月21日号です。もしその記事が出ているのだったら、「買いましょう。このブログにとって、サポートになるから』と、思ったのですが、中身が、見えない様に、セロテープが張ってあって、目次が読めませんでした。頭の中で、『本日は水曜日です。これには出ていないでしょう』と思ったので、買いませんでした。

~~~~~~~~~~~~~~

副題1、『今、思い続けていることとは、・・・・・川名昭宣氏と、金子美都子さんとの関係である』

 この・・・雑誌が、立ち読みできない様になっている・・・と、それだけ出版界に、経済的余裕がなくなっていると、言う事で、それは、感無量でした。出版界を利用して、いじめられた過去が、相当量あるからです。ICU時代の知人で、出版界に入った人たちに、なんと、いじめられたことか? で、出版界が、こうなっていると、言うのが、ああ、そういう事か? 一種の因果は巡るですねと、思います。

 今は、毎日ですが、川名昭宣・河出書房新社勤務だった男性と、氏のフランス留学組、同窓会の友人の使役のされ方を、思い出し、思い続けているところです。金子美都子さんというフランス文学者が、高校が同窓としての友人です。東京大学大学院を出ていて、聖心女子大の教授です。態度は、お上品です。表立った瑕疵はない。しかし、どうも、変です。心に突き刺さる様なとげがある、言葉を、三回ほど、時間を空けてもらって居ます。この10年間にです。結局のところ、・・・・・もう、敵方に使役をされてしまって居る人なのだ・・・・・と、思って居て、誰が、後ろにいて、そうなってしまったのだろうと、思い続けていて、はたと、川名氏の名前を、思い当たり、たぶん、この人か、奥島孝康(元、早大総長にして、高校野球のトップだった、人物)氏の、どちらかが、金子さんを、リクルートをしたのだろうと、思い当たるのでした。

 川名君は、2005年ごろかな? 渋谷駅最寄りのイタリアンレストランを借り切った、国際キリスト教大学1966年卒組の、同期会で、人から見えないテーブルで、むんずと、私の右腕をつかみ、テーブルの上で、手のひらを上向きにさせてちびりちびりと彼の右手の爪で、私の肉を、小さく引きちぎらんばかりに、持ち上げて、痛みを与えたのでした。今から、15年以上前なので、「何をするのよ。川名さん」という声も上げられませんでした。私は、ひときわな、お嬢様育ちなのです。自分で、それを言ってはおしまいですが、そうなのですよ。苦笑・・・・・文章では、ぐさっとくる様な事を平気で書けるのに、面と向かうと、相手のことを思いやるので、何も言えなくなるのです。「あの時、何をするのよ。川名君」って言って、みんなに手のひらに、赤くついた、幅3ミリ、長さ7ミリの傷跡を見せればよかったですが、やりませんでした。

 その日、驚きのあまり、スカーフを忘れて帰り、幹事だった、古村浩三君の、奥様と、初めて、渋谷駅から電話をかけて、声を聴き、『しっかりした奥様だなあ。さすがに、英語塾を経営していると、いうだけある。英語塾ははやって居るのでしょう』と思ったのです。それが、後程に、日大アメフト問題への解析(主役の青年Mは、古村夫人の英語塾の生徒だっただろうと、推察している)へつながっていくのですが、本日は、それは、詳細には、触れません。唯ね、日大アメフト問題もご近所の画家大原光孝氏と、関係があるでしょう。それゆえに、ここで、思い出しているわけですが、あくまでも、川名君にこだわります。

 川名君とは、1942年ごろの生まれとしては、特別に体格の良い青年でした。彼と、同じぐらい、おおきな体格で、同じぐらい、大物として出世した人間に、ソニー損保社長で、終わった川島章由君がいるのですが、そちらなら、18人だけで教わる会話教室で、毎日二回、私と、一緒だったから、まだ、友人とも言え様が、大学時代、二人だけで、話したことなど、一度もないし、50人以下の、クラスでも、一度も一緒になったことのない、川名君から、それほどに、痛い目にあわされて、不思議で、不思議でならず、共通の友人に、「入江多喜男君の死が関係があるかしら?」と、相談をしたものです。

~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『川名君は、1990年代前半に、神田で、行われた、櫻井万里子さんの、講演会を主宰した。それは、出席者200人を数える大講演会となった。櫻井万里子さんは、当時学芸大学教授だった。後程、東大教授になっていく。また、入江多喜男君を主役とする、同期会を、国際キリスト教大学食堂(立食パーティ形式)で2000年から2003年ごろの間に、行った。それも大変盛大なものだった。

 入江多喜男君は、お寺の息子さんで、四年時に至ると、新左翼系学生運動の、指導者となり、難しい語彙を、使ったビラや、チラシを配りまくり、国際基督教大学の、1967年度の入試をぶっ潰して、無くしたので、一種の罪人として、退学処分を受けているのに、それを洗浄化する、同期会であり、非常に大勢の人を集めた。

 そのころ、というのは、1998年から、2002年までの間、私は、海外修行をするために、逗子で、夜も寝ると、いう一人暮らしをしていた。私の夫は、私が海外修行をするのなど、許さないし、家で、長電話をするのをも、ひどく嫌がる人間だが、逗子の一人暮らしで、私は、固定電話を使って、電話をかけまくった。やっと自由になったと思った。行動様式としては、引きこもりなのだが、長電話で、色々な、箏を知ったのだった。その電話が、盗聴をされていて、K子ちゃんという友人が、パソコンのデスクトップ画面を利用して、緩慢な、殺され方をしていくのだが、それは、秋山祐徳太子氏の、晶文社出版の自伝【ブリキ男】をし自信から紹介をされると、言うエピソードで、真相がわかって来る。しかし、まだ、それも、因果関係起承転結は完結していないが・・・・・

 その長電話かけ放題・時代に、テリー(純粋日本人だが、アメリカ留学以来、この名前で、通している女性)から、ひどく驚くエピソードを聞いた。テリーは、留年したので、1966年いっぱい、1967年三月まで、在学していたのだが、秋に、D館(500人収容のホールがある学生会館)の、ホールで、学生集会があり、そこで、つるし上げに出会った、CS君が、自殺未遂事件を起こした。千鳥ヶ淵で、お堀に飛び込んで、それを救われて、ノイローゼなので、強制的に、眠らされて、それで、回復して、復学して、どこそこへお勤めをした・・・・・と言うエピソードだった。

 それで、私は納得をすることがあった。このCS君とは、何の恋愛感情もないのだが、大変清潔な精神の青年であることは、知っていて、卒業後、連絡を取ったのに、忌避され続けたからだった。1966年四月から、私は、東大へ、勤務を始めたのだが、社会の中で、女性の地位が低い事に気が付いて、CS君と話し合いたいなあ、そういう事をと思った。彼もまた留年中だった。国際キリスト教大学って、一年間〇〇、英語学習に使うので、卒業用の、単位を、取るのが大変で、留年はざらな事だったから、恥ではない。しかし、自宅の電話番号を知っているのにもかかわらず、まったく、通じなかった。

 その理由をテリーが教えてくれたのだった。テリーに言わせると、CS君は、国際基督教関係者とは、一切連絡を絶っているとの事で、私も、たった、280人前後しかいなかった1962年の、同期入学者なので、忌避されていたのだった。それを、卒業後、35年ぶりに、知った。まあ、ほっとはした。どうして、すげなく拒否されるのか? 理由が不明だったからだ。

~~~~~~~~~~~~~

副題3、『早稲田の、革〇委員長だった、成岡康司君が、CIAエージェント組織の日本における現在のトップであろうと、言う、私の概念は、このテリーのエピソードから、来ている』

 1961年の事です。横浜国立大学付属中学校、1958年卒業組の同期会が、三渓園・臨春閣で、催されました。その時は、夏で、成岡君たち、横浜国立大学付属中から、日比谷高校へ、進学した男子たちは、白いワイシャツに、グレーのサマーウールのおズボンで、ひどく清潔に、見えました。19歳は、女の子も美しいが、男の子も美しいのです。

 しかし、その一年後の、事でした。成岡君は、ひげもじゃもじゃで、三鷹駅前の、国際基督教大学行のバス停に、おんなの子と、一緒に立っていました。その女の子は、親戚の女の子だと、言う事で、無視してもいいらしくて、バス停で、私と成岡君は、10分程度立ち話をしました。私は、その当時は、まだ、自宅から通学して居て、これから、電車に乗って帰るところ、彼の方は、女の子と一緒に、優雅な、国際キリスト教大学キャンパスを散策するところでした。

 さて、これから先、私は大変なことを語ります。私の人生に、呪いがかかってしまったとしたら、この何気ないエピソードが端緒だったのだと、思うからです。

 私は前歯に、金冠をはめていたので、ICUでは、ポジション的に劣位だったと、述べております。しかし、横浜国立大学付属中学校では、成績という意味では、他に群を抜いて、一位だったので、入学式総代、卒業式総代でした。或る意味で、輝かしい存在でした。ただ、がり勉で、つまらない女の子だと、みなされていたでしょう。しかし、駿台予備校の、学生番号、721番の現在の主人から、722番の私は住所を教えていないのに、彼の方がバイト先の野村證券の、顧客名簿から、見つけて、既に、お手紙をもらって居たので、ひそかに、大切な人だと、思い定めていた時期でした。遠距離恋愛だし、七夕形式恋愛だったけれど、何故か、運命の人だと、思い定めていたのです。しかし、セックスなど披露宴まで、していない間柄ですから、先は、どうなるかわからないので、私は誰にも、そういう男子が、心の中に、いるのだとは、言って居ません。

 唯ね、自分では、全く気が付いていなかったのですが、後程、芸術家にクライアントの多い、日傘雅水さんが、「あなたは芸術家でよかった。もし、普通の専業主婦だったら、事件を起こす女です」と言われた様に、金星帯というのが、両手に、二本ずつあり、いわゆる水も滴る、いい女の類だったのです。フェロモン横溢の女だったのです。しかし、それを聞いたのは、50代も、後半であり、しかも、今は、78歳で、背中も曲がっているおばあちゃんですから、全く宝の持ち腐れで、終わったのですが(苦笑)

 さて、そういうわけで、失礼ながら、私は、成岡君の表情の中に、私に対する、興味というか、憧れみたいなものを感じて、ひそかにうれしかったのです。もし、私の心の中に、今の主人がすでに、住んで居なかったら、成岡君のことを、私の方も刮目をしたかもしれないのです。ひげもじゃで、体格も太っていて、アイヌみたいに変化して居ました。だけど、それは、別の言葉で言えば男性ホルモン横溢で、女の子が群がりよる男性だったともいえるでしょう。その二年後に早稲田で、革〇の委員長になるのです。新左翼系列の、学生運動は、秋山祐徳太子氏が、前述の【ブリキ男】の中でも、言って居る通り、乱交とフリーセックスの世界であり、その中で、オスとして、強い人は、優位に立っていくのです。

 

 しかし、現在の私の苦境は、彼から、お手紙をもらったことにあるのでした。そのことを書くこともさらに自分の苦境を深めると、思いますが、既に、死が近いと思っている私は、すべての事を書いておこうと、思って居ます。そのお手紙の中に、「僕は演劇をやって居て、今度公演があるから、来てください」と書いてあり、大熊講堂の、切符も入って居ました。私は律義に、大熊講堂へ見に行きました。早稲田大学からは、堺雅人、鈴木亮平など、藤木直人の、大俳優を輩出しているのですが、その日はお客がほとんど、いなくて、しかも、成岡君の演技も『あれ、中学の時の【マテオ・ファルコ―ネ】の方が、よかったんじゃあない』と、言う程度のものでした。この【マテオ・ファルコ―ネ】を過去に、時々、マノンレスコーと誤記している章があるかもしれません。それは、ここで、お詫びをして置きます。

 なおこの日、本当なら、花束か、菓子折りをもって楽屋を訪問するべきだったと、思います。それをしなかったのは、失礼だったでしょう。それで、彼との縁は、いったん切れました。ところが、ここで、秋山豊寛という人物が登場をします。

 そして、大竹しのぶという名前が登場したとたんに、激しいシステム異常が起きたので、有名人でも、大竹しのぶは、格別に、使役をされている人物だと、成りますね。あ、は、は。

 それから、真夜中の3時でも、起きていて、私のパソコンと、同時画面を覗いている人間が居るという事も証明します。それは、たぶん、自分を死んだことにして、時間を生み出した、井上ひさしでしょう。女優・大竹しのぶは、金子美都子・聖心女子大教授よりも、圧倒的多数の、日本人にその名前を知れ渡っているので、このブログの、人気が増してしまうと考えた、人間が、システム異常を起こしました。或る種のアイコンを渡されていて、それをワンクリックすると、文章が消えるというシステムをすでに、構築されているはずです。

~~~~~~~~~~~~~~

 

副題4、『秋山豊寛さんに、バスの中で、しつこく絡まれた私は、それを、覆すために、・・・・・自分が、成岡康司君と親しい・・・・・と、言った。それが、地獄の門の、開く、一つのきっかけだった。しかし、秋山豊寛という人物も、また、現代日本の秘密を解く、重要な人物だ。だから、あえて語る』

 

 秋山豊寛という人物は気が弱いのではないかと、思う。伊藤玄二郎が、しかるべき相手には、「自分は、伊藤整と、担当編集者の間の子供です」という伝家の宝刀を抜いて、「おー」っと、驚かす様に、秋山豊寛さんも、まだ、サンヨーと提携してはいない時代の、希少なバーバリーのコートを着ていて、そのブランド名を当てる相手には、自分が、水戸黄門の、印籠まがいの手法で、貴種であると、披露をしたのではないかな?

 新聞部で、夜が遅くなるのにもかかわらず、自宅から通っていた。それは、エール大学から、交換留学生として、来ていたベイカーさんなどと、懇談している姿を、他の学生に見られたくなかったからだろう。ベイカーさんは、この秋山豊寛さんとのバスの中の会話の件でも、CIAスパイだったことが、確実な人物ではある。

 秋山豊寛という人物が、どこで、CIA側にリクルートをされたのかは、私は知らない。だが、東大教授の息子だという事で、リクルートをされたのかもしれない。でも、断ってもいいはずだが、二つの点で、彼は、隠された劣等感を持っていて、そこを刺激をされたのではないかなあ? それは、父親とは、違って、東大へ、入学できなかったという事。それと、もう一つは顔が、よくない。そして、背が低い。彼は、ソ連のスプートニクに乗って宇宙遊泳をした。TBS記者時代だが、それで、日本中に顔が知れ渡っている。

 ところで、大竹しのぶが、どこで、出て来たかだが、秋山豊寛さんが、大学在学中に最も親しくなった人物が、のちに、大竹しのぶが、一種の略奪婚として、奪った男性だった。大竹しのぶの、男の子の父親たる、人だ。今、私は、その氏名を失念している。秋山豊寛さんが、記者として、入社したTBSにその男性は、ドラマ部門の制作者として、入社した。

 この様に、大学紛争当事者でありながら、ノンポリよりも、いいところへ、就職できるのが不思議だ。お給料も高いし、知名度も上がる。

 一方で、本当にまじめな人はつぶされる。CS君しかり、亘理(わたり)嬢しかりだ。そして、私は、1965年ICUの滑走路で、後ろから、首を絞められた。すんでの所で、殺される処だった。で、余りにもびっくりして、究極のノンポリになった。かつ、芸術志向の、普通の主婦となった。しかし、芸術や、心理学をテーマにした紙の本=エッセイ集を出すだけで、余りにも激しい弾圧を受けたので、ブログだけだが、政治評論家と化している。自分を救うためには、そうするしかない。そして、結局のところ、「私ほど、深い真実を書いている人間は、他にいない、筈だ」と、言うほどの所に到達をしている。

 反対に、今の、秋山豊寛氏は、原発反対論者で、農業従事者だそうだ。すばらしい転身だ。もしかすると、宇宙遊泳で、命の危険にまで達して、神の啓示を受けましたか? それで、転身しましたか? いや、そうも言えないでしょう。きっと、その運動の中で、身辺に現れる、まじめな若者を見つけ出し、つぶしていく役目を今も担っているのではないですか?

 1964年か1965年の事だったと、思うのですが、どうしてかバスの中で、秋山豊寛さんと、一メートルの距離にたつ羽目になり、しかも、満員なので、動けないこととなりました。私は色白で小顔で、眼が小さくて、口も小さいので、いかにも弱々しく見えるのです。だけど、お化粧をすると、派手にも見えます。だから、結婚式の写真を下に置きますね。

 で、今の言葉でいうパワハラの一種ですが、動けないバスの中で、からまれることがあって、この1965年のそれは、その五年前の、1960年の松元庸子さんからの、それに引き続いての事でした。これも、ブログで、書いている最中ですが、修学旅行中のバスの中で、最前列だったので、添乗員(JTBの女性社員)が、顔をしかめるほどでした。三日間も続いたのですよ。これが、2014年、東京タワー下の、豆腐屋うかいで、再度、悪利用されるのですが、今般は秋山豊寛さんのケースだけを語ります。

 私も二度目なので、自己防衛のために、「私はね。早稲田の革〇の委員長、成岡康司君と友達なのよ。中学の同級生。たった、百人しかいないので、よく知っている間柄です」と、言ったのです。すると、秋山さんは、黙りこくりました。しかし、何かを考えている顔でした。成岡君との間柄ですが、個人的付き合いは、もう切れているのにもかかわらず、どうして、そういう情報を私が知っていたかというと、週刊朝日に彼の特集記事が載ったからです。それを、自分自身が、新聞の広告で見て知ったのか、友人からの情報で知ったのかは忘れましたが、しっかりと、読んでいます。

 早稲田と、ICUを比べると、佳子様ご入学以前のICUなんて、知る人ぞ知る存在で、全学、大学院を合わせても、1200人ぐらいの学生数でした。圧倒的な差があります。しかし、当時のICUって、J.D.ロックフェラーが留学してくるほどに輝いていたので、

 私の言葉が機縁となって、秋山豊寛 ⇔ ベーカーさん、⇒ CIA本部と伝わって、成岡康司君は、CIAエージェントとして、リクルートをされた様に思います。無論の事、それ以前から、唾をつけられていたのかの知れません。朝日新聞って、CIA御用達のメディアですから。

 なお、ここで、成岡康司君について、過去に書いたことで、これは、間違っているかもしれないと、思う、点は、長嶋一由と、言う元国会議員(鎌倉市長、及び、逗子市長を経験済み)が、成岡康司君の、子息ではないか?というポイントです。・・・・・裏の世界に隠れた、成岡康司君に代わって、表の世界で、勝つ人となりたがっているのではないか。それを使命感としているのではないか?・・・・・と、書いたのは、もしかすると、勇み足だったかもしれません。で、それをここで、お断りをして置きます。唯ね。早稲田を卒業した後で、青山学院の大学院、東大の大学院、そして、芸大(学部か大学院かは、わすれたが)の三つで、学び続けているというのは、ちょっと、上昇志向強すぎでしょう。それで、裏社会で、日本を支配している、父親を見て、「今度は、僕が表で、出世してやる」と、考えたのではないかしらと、ふと思ったのです。

~~~~~~~~~~~~~

副題5、あと、10分で、グーブログをかけなくなります。それで、

 これから先に書く予定の事をメモ書きします。

 横浜国立大学の、付属中学校が、本牧立野から、弘明寺へ転居する。(これは、私の主人が、工学部、応用化学科と、機械科の、二学科を学んだ、校舎なのだけれど、もしかすると、それで、移転となって、私のブログ文をつぶすためですか?・・・・・と思うが。

 その前の、1980年か、1981年に、立野校舎を利用して、クラス会が開かれた。校長室を使ったのだが、午後五時を過ぎると、閉鎖されるという事で、

 私たちは、鍵が、かからないで済む、小学校と、中学校の間の、廊下部分で、引き続いてクラス会を続けた。その時だったと、思うのだけれど、

 その時、飯田隆君(翠嵐高校卒で、早稲田の政経へ進学し、この1980年当時は、朝日新聞記者、もしかすると、既に、週刊朝日の編集長になっていた)が、私に向かって、「成岡は、もう死んでいると、思いますよ」と言ったのだった。これがもし嘘だったとしたら、私は大失敗したこととなる。

 というのも、其の10年後、私はメルマガを初めて、その中で、成岡康司君の、事を、書いて居るのだった。

 彼は、本当は、東大へ行って、官僚となり、すえは大臣になり、もしかすると、総理大臣になるのが、未来の予定だったのではないか? でも、早稲田へ行ったので、反対方向、野党で、トップを狙おうとして、革〇の委員長になった・・・・・と、そう書いた。

 もし、成岡康司君が、飯田君に、嘘を言うように、勧めたと仮定して、その、後日のメルマガ用、エッセイを読んだ、成岡君が激怒した可能性は、高いのだった。参ったですねエ。

 しかし、麻生大臣時代の、財務省、事務次官の、セクハラ問題に見る様に、成岡君が、CIAエージェントトップだと仮定をすると、既に、官僚をぶっ潰す、目的は、達成されたと、おもうのだけれど・・・・・・?????

~~~~~~~~~~~~~~

 と、書いたところで、五時を過ぎた。しかし、停止ではなくて、不安定になると、言って居るので、しかも、7時から再開すると、言って居るので、原稿だけを作って置こう。 

~~~~~~~~~~~~~~~

副題6、『気の毒なCS君と、成岡康司君は、日比谷高校の同窓生だ。で、ある日、CS君が言論リンチに出会って、壊滅的、心情に陥った・・・・・と、テリーは言ったが、その会場にもひそかに、変装して侵入して居て、その様子を見ていて、尾行をしたのではないかと、私は、思って居る。

 でないと、ある一人の学生が、絶望のあまり、千鳥ヶ淵で、夜、ひそかに、入水自殺をしようとしているのに、誰が、気が付きます? 当時は水銀灯などなかったのですよ。誰も、気が付かないでしょう。いや、その当時から、お堀端を走るランナーがいたと、仮定します。でも、携帯もスマホもまだ、無い時代ですよ。コンビニもない時代です。誰が、救急車を呼びます。又はレスキュー隊を呼びます? 成岡君は、電車の中、他で、警察本部(警察庁、又は、警視庁)へ、連絡を取り、複数の人間で、尾行を開始し、CS君が、四谷駅で、降りた時点で、「千鳥ヶ淵へ行くだろう」と、推察したのだと、思います。無論、自宅へ向かったとも考えられますが、四谷で、降りた途端に、ピンと来たのでしょう。それで、レスキュー隊等を、相当前に手配をしたのだと、思います。

 まさか、こんなことで、テリーが嘘をつくとも思わないし、「CS君って、本当に頭の良い人だから、この日本現代社会の現象を分析したいなあ。二人で」と思って、電話で、ご両親と一緒に住んで居るはずの、自宅に、連絡を取るのに、(彼は、まだ、そのころ学生だったわけですが、公衆電話からでも)一切応答がなかったのは、その35年後に教えてもらった、テリーが言って居ることが本当だと、思いました。つまり、余りにもつらい思いをしたので、その加害者ではなくても、ICUの人間だと、誰にも会いたくないのだと、言う事。それが、本当だと、思います。

 しかし、どう考えても、命が助かるためには、入水したとたんに、救出をしないとだめだから、非常に注意深く、観察し、タイミングよく、救済したのだと、思います。それには、やはり、根っこに友情がないとできない事でしょう。特に、CIA要員としての観察だけでは、命は、救済できないと思います。やはり、成岡君が、同期生または、同級生としての友情をもって尾行をしていたはずです。そして、1960年代から、今の、携帯に、近い、機械は、そちら側にはあったと思いますし。まあ、重くて、大型だったとしても、四ツ谷駅以降は、数人で、尾行をしていたと仮定をすると、誰かが、交代で、持ってくれるでしょうし。

 で、私は、2000年ごろから、ひそかに、成岡君の、役割について、気が付いていたのでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~

副題7、『CS君にリンチをかけた人間を、知りたいと思ったが、誰に聞かなくても。大体の、想像は付いた。川名昭宣君が、入江多喜男君を、洗浄化するために、同期会を開くとは、チャンスだった。まず、入江多喜男君は、当時、大学入学試験がつぶれた紛争の、筆頭だし、後、もう一人、朝日新聞の記者として、就職した同期生(男子)がいたので、彼も絶対に、グループの一人だと、考えた。その二人は、二人とも、留年して居た。その上、当時の、ICU内でも、特に、美しくて、才気煥発な、女性と交際し、卒業後、結婚に至っていた。そこが、かれらが、CS君に、自分達の方が、勝っていると考えている、大いなる、理由の一つだった。比較すると、CS君は、外見を言うと、まだ、少年ぽくって、又、ひそかに、男性としては、自信がないみたいで、ガールフレンドもいないし、恋愛のうわさも、聞いたことがなかった。その恋愛の上で、勝って居る背の高い、入江君と、W君のふたりと、彼等に同調して、CS君を、弾圧した人達を、とっちめたいと思ったのだ。それには、前歯に、金冠がはまっていて、劣位の位置にいた、1962~1966年までの、私ではだめである』

 私は30代前半にご近所主婦に頼られきって、数人の未就学児童の面倒を見ていたので、労働が重くのしかかっていて、歯が全部だめになり、前歯は、インプラントへ、変更してありました。それで、唯一無二の劣等ポイントは、消えておりました。その上、国際基督教大学の同期生は、まだ、誰も知らない優越ポイントも、二点、獲得して居たのです。顔は、変わりはないですよ。あの当時の、同期生の中には、非常に美しい人もいたのですが、そういう人に追いつくわけもないです。ただ、二つ、自信を与えてくれるポイントがありました。
 それは、1997年に聞いた、日傘雅水さんのご託宣、「あなたは、・・・・・(フェロモン、横溢な、いわゆる、持てる女なのです)・・・・・金星帯があるので、芸術家でよかった。これが、普通の主婦だったら、事件を起こしていますよ」というもの。これは、芸術家としては、これ以上はない強みです。で、自分が芸術に、ついて、人を感動させ得るという体験は、既に、しばしば経験していることでした。

 芸術って言っても、色々な分野がありますが、同窓会などという、出張する分野では、道具が持っていかれないので、絵とか、文章は駄目ですね。瞬間的に相手のこころに届く、お歌しかないのですが、これについては、既に、経験済でした。オペラ【トスカ】から、【歌に生き恋に生き】を、満員の京急車内で、夜の八時ごろ歌ったことがあるのです。わざと、そうしたいと思ったわけではなくて、天から降ってくるのです。京急、汐入駅から、北久里浜駅までですが、誰も、「うるさいねえ」と、言うしかめっ面で、こちらを見る人はいないのです。また、「変な人だなあ。降りろよ」という人もいないのです。
 また、36歳の時に、PTA会長としての打ち上げ会で、二曲歌ったのです。フランク・シナトラの【マイウェイ】と、春日八郎の、【長崎の女(ひと)】です。前の方は、当時(1970年代)に横須賀にすんているママたちは、まだ知らなかったらしくて、無反応でした。しかし、春日八郎の、曲の方は、1963年発表なので、まだ、皆さんが、覚えていてくれたのです。これは、ハ長調で、高音域がなくて、自分としては、得意な歌ではない方なのですが、それこそ、赤レーベルの、譜面を集めた全音の、楽譜集で、学んだ500曲を超す、歌謡曲畑の中では、自分のムードにあっていると、思った曲です。

 他人の前で、歌を歌う場合、あいてが知っている歌を、しかも歌詞・付きで歌うと、受けます。これは、【琵琶湖周航歌】でも、確認済です。しかし、私は大体において、歌詞は、覚えない方です。奇跡的に覚えられた、この二つの歌は、相手によっては、用いる曲です。

 この【長崎の女】を聞いたママ友たちは、狭い階段を降りるとき、私の体を、なでながら、『ああ、今までは、不思議だったの。何で、川崎さんが、PTA会長をしているのかが? どうして、園長先生が、川崎さんを、会長にしたかが、わからなかった。でも、今日分かった。初めて、わかった。川崎さんって、全く普通の人ではない。全然違う。全く普通の人ではないのだわ」と。うーん、その差は、どこに在るかというと、歌を歌う場合も、文章を書く場合も、すべて、憑依系だからです。成功するかしら? 失敗するかしら? などという心配など、一切しません。ただ、神様が、私の体を道具として、使って、なさることだと、考えています。

~~~~~~~~~~~~~~~~

副題8.『ここにおいて、思い出さないといけないこと葉は、金子美都子さんの、・・・・・ねえ、しろちゃん、学生時代の上下関係って、一生消えないものなのよね・・・・・というものです』

 さて、ここで、金子美都子さんに入ります。彼女からは、分厚い研究書も献呈を受けているし、人気大学の大学教授だし、東大大学院を出ている人だから、尊敬して居ます。

 ところが、彼女から、恐るべき言葉を、三回に分けて聞いているのですが、二番目に聞いたのが、上の二重ガッコ内に書いたものでした。私の文章に対して、冷や水を浴びせかける様なものでした。ここで、金子美都子さんと私は、一回も同じクラスになったことがないと、言わないといけません。

 それからね。なぜ、ここで、急に彼女を思い出したかというと、最近、一週間の内で、大原光孝という人物があれこれ、小細工を弄するという形で、動いているからなのです。彼に対しては、怒り満杯ですが、金子美都子さんからの、最初の嫌な言葉というのが、上の前にあったのです。それは「ねえ、しろちゃん、もう、許しておやりよ」でした。私は最初は誤解をしました。『あれ、金子さんって、ちゃんと、読んでくれているのだわ』と思って、喜んだぐらいです。しかし、段々時間がたってくると、それから、その後の、「学生時代の、成績の上下って、変わらないのよね。一生。(だから、声に出しては言いませんが、・・・・・貴方が、どれ程、頑張っても、世には出られないわよ。あなたの文章が、本として公刊されることは無いわよ・・・・・という冷たい言葉を浴びると、この一回目の「許しておやりよ」の方も、「しろちゃん!」と、言う甘い呼びかけで、始まっているものの、内容は、ひどく冷たいものだと、わかってくるのでした。この許しておやりよの対象が、彼女は名前を言わないし、私もその文章、【ワインが割れて】を、最初期に発表したその時期は、実名を書いて居ませんが、誰の事を指すかというと、大原光孝さんでした。彼の近所に住んで居て、彼が、何をやって居るかを、殆ど正しくわかっている私にとっては、許すことなど、できない人間なのです。しかし、彼のお嬢様がフェリス出身で、私の娘の卒業した日大より人気が上なので、彼を、私の目の前に、出現させると、私が、神経をいらだたせ、又、文章を書かないといけなくなります。それで、消耗させるのに、最大の、目玉だと、成っていて、二日前も、意味ありげに動きました。だから、金子美都子さんの事を思い出したのですよ。

 金子さんに、言っておきたい、「CIAエージェントが絡んでいることに、手をお貸しになると、永久にその現象は、消えないのです」と。

 ここで、皆様は、お判りいただけましたか? 日大アメフト問題は、ひとえに、大原光孝という人物を救うために起こされた謀略です。関西学院のコーチとか、被害者学生の父親などは、事前に、よく調査をされていて、記者会見で、きちんと、話ができる人だと、見込まれて、選ばれているのでした。皆様、ありとあらゆるニュースは、私の指先から、生まれるのですよ。あの事件で、もっとも気の毒だったのは、はめられた内田監督です。

 ただ、古いタイプの指導者だったみたいですね。そこに付け入るスキがあったのでしょう。でも、関西学院のコーチの顔と、内田監督の顔を比べてごらんなさい。どっちが、善人かは明々白々です。

 日大卒業生、全員に言っておきたい。日大アメフト騒動とは、はかりごとであって、敵は、本能寺に在りで、鎌倉市雪ノ下二丁目に住む画家、大原光孝という人物が、

 

 同じ様に、一回もクラスが同じになったことがない女性で、東大を、二学部も出ている高校時代の同期生に、真弓さんがいます。真弓さんも同じ様な事に利用されていますが、まだ、温情があるというか、心が、豊かです。金子さんは、きついですね。ただ、それだけ、重要な人物から頼まれているのを、推察させるので、その人物は、もしかしたら、ドイツ文化クシャでありながら、

 最近、【カフカ】で、当たって居る、池内紀さんかも、しれません。しかし、池内さんの、後ろには、川名昭宣君がいるのも確かです。

~~~~~~~~~~~~~~

副題10、『私は、群よう子さんの、文庫本に、「台湾で、よく麻雀をする。一行は、池内紀先生と、後、二人」と、書いてあります。その二人の内の一人は、川名君ではないかと、想像しているのですよ。で、今般、高等検事長の賭け麻雀の話が出たので、この一文を書きました。途中をものすごい、量で、加筆をしないと、いけません。お待ちください。もう、27時間以上、起きているので、死にそうなので、ここで、いったん離れさせてくださいませ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする